第十六章 カルロス

第58話 告白

 矢倉はカルロス歩み寄って、少し横になるように勧めたが、カルロスは「いつものことだ、気遣いはいらない」と言って、矢倉の言葉を制し、両目を閉じた。

 矢倉が改めてカルロスを観察すると、その顔や体のいたるところに老いの痕跡が見て取れた。謎の老人カルロスとして接していると、その矍鑠かくしゃくとした風情に年齢を忘れてしまうが、祖父の矢倉邦仁はもう91歳にもなる。衰えがあって当然だ。


 矢倉はカルロスがなぜこの年齢にもなって、明晰な頭脳と判断力、そして何よりも強い精神力を持ち続けられるのかと考えてみた。

 かつて特攻隊員として、常に死を隣に置いた日々を送った記憶が、そうさせているのかもしれない。また伊220の搭乗員の中で、仲間を置き去りに生き延びたことへの悔恨かいこんの情なのかもしれない。

 いずれにしても、カルロスは心はまだ枯れてはいなかった。それどころか、現役の兵士として、何者かと闘い続けているかのように矢倉には思えた。


 じっと見守る矢倉の目の前で、やがてカルロスはゆっくりと目を開いた。

「さて、いよいよ私の話をしようか――」

 話を切り出したカルロスは、しばしの休憩で顔色は先程よりは幾分か良くなってはいたが、まだ不吉な紫色は、その顔に張り付いていた。

 矢倉はもう少し休んだ方が良いと言ったが、カルロスが取り合わなかった。


 矢倉はそれ以上はカルロスを止めなかった。カルロスがこれから話そうとしていることは、矢倉が一番知りたいことでもあったからだ。

 自分は祖父の手紙に導かれて、今ここにいる。オイルダイバーになったのも、祖父の手紙が契機だった。矢倉にとって、祖父の生きざまを知る事は即ち、自分の存在意義を確認することでもあるのだ。

 そして矢倉には、今それを聞いておかなければ、永遠に聞く機会を逸してしまうと言う強い予感があった。

 矢倉はじっとカルロスを見つめ、言葉を待った。


「――紀代美は私の人生の中で、最も大切な女性だった」

 僅かな逡巡の後、カルロスが最初に発したのは、意外にも祖母の名前だった。そしてカルロスは、堰を切ったかのように、これまで心に秘めていた、自分自身の話を始めた。


「あんなに美しい女性はいなかった。今でもあの頃の姿のままで夢に見る。紀代美と私は夫婦になったが、それはたった数日だけのことだった。あの時代には良くあった、死にゆくものへのはなむけの、形式だけの結婚のはずだった。


 回天の搭乗員は出撃前の最後の休暇で故郷に帰らせてもらう。私もそうさせてもらった。死に目に会えなかった母の墓参りをし、それ済ませたらすぐにも帰隊するつもりだった。

 私は紀代美に、『入籍はしない。母が他界した後には実家に帰れ』と告げていた。だから私は故郷に戻っても、家には誰もいないものと思っていた。

 しかし何ということだろう。玄関の扉を開けると、そこでは実家に帰したつもりの紀代美がおり、母の位牌を守っているではないか。私はそこに立ちすくみ、しばらくは何も言葉を発することができなかった。


 特攻隊員は最後の休暇の際も、家族に今生の別れをすることはない。それは禁じられていたからでもあるが、何よりもそれは自分にも、家族にも辛いことだったからだ。私は彼女に、自分は死にゆく身であることを告げるかどうか迷った。だが結局、それを告げる事はなかった。


 私は実家で、紀代美と一緒に5日を過ごした。紀代美はどこに行くにも私について来た。明日は帰隊という日の夜、紀代美は私の寝床に来て、自分を抱けと言った。私は、それはできないと言った。私は彼女と添い遂げる事ができない運命だ。彼女は私ではない誰かと結婚し、幸せになるべき女性だと思っていた。


 彼女はずっと私の事を好いていたと言ってくれた。私も密かに彼女を好いていた。恋愛など許されない時代の事だ。叶う事は無いと思っていた恋心だった。

 私は紀代美の言葉だけで十分だった。散りゆく我が身も心も、全てが報われたと思った。しかし紀代美はそれでも抱けといった。抱いてくれれば、もしも私に万が一の事があった時、心置きなく誰かの元に嫁げるが、そうでなければ私の事を、一生想い続けて一人身のままであると言った。


 翌朝家を出る時に、彼女は私に『必ず誰かに嫁ぎ幸せになるので、後は心配するな』と言った。満面の笑顔で送り出してくれた。

 私は『さようなら』と言って家を後にした。

 紀代美はさようならとは言ってくれず、『行ってらっしゃい』と答えた。

 私が大津島から舞鶴に転属となった経緯は、紀代美に送った手紙に書いた通りだ。君は読んでいるのだったな」


 矢倉はただ黙って頷いた。


「舞鶴で私に与えられた最初の任務は、海龍改の操縦訓練だった。海龍改の原形となる海龍は、2本の酸素魚雷を抱いた特殊潜航艇だ。

 しかし海龍改は、更に自身の先頭にも弾頭を付け、2本の魚雷を発射した後は、自らも魚雷となって敵艦に突っ込む構想で作られたものだった。それを操縦させるには、死ぬための訓練を受けていた回天の搭乗員が適任だったんだ。


 君がここに侵入してきた時、ブンカーで小型の潜水艦を見ただろう。あれが海龍改だ。伊404も伊220と同様、輸送艦に改装された際に魚雷が取り外され、海龍改が装備されていた。ここではその海龍改も、伊404と同じようにモスボールされている。


 海龍改は左右に操舵翼があって、操縦桿を使って、飛行機のように操縦する独創的な艦だ。操舵にクセがあって、乗りこなすのは難しいと悪評の立つ艦だったが、戦闘機の操縦とそれは似ていた。海龍は二人乗りだが、海龍改は特攻を効率的に行えるように、一人乗りに変更されていた。一人で全てをやらなければならないのも、戦闘機と同じだった。海龍改は戦闘機乗りを目指した自分にとっては理想的な艦だったのだ。


 舞鶴を出た後の伊220については、先程話した通りだ。私はオンダアルタで30年暮らし、そして遂にあの日が来た。

 私は世話になった修道士に迷惑を掛けないように、黙って村を出る事にした。あの手紙はその時に送ったものだ。あれは2回目の遺書のつもりだった。


 私は誰にも迷惑を掛けない土地に行って、そこで自らの命を絶つつもりだったのだ。しかし、ドイツ人の使者に連れられて行った先には、30年前に分かれたクサヴァーと、その時まだ子供だったディータがいた。齢をとってからもうけた子で、まるで孫ほども年が離れていた。


 クサヴァーは私に、第四帝国の理想は自分が実現させるのだと言った。そして私に協力して欲しいと言ったんだ。

 私はクサヴァーの求めに応じて、ネオ・トゥーレに加わり、彼を補佐するようになった。クサヴァーはディータが20歳の時に病死した。その後私はクサヴァーの後見人になった。私の話はここまでだ」


「あなたは、愛していた奥さんを、つまり私の祖母をどう考えていますか?」

 矢倉は堪らずカルロスに語りかけた。

「祖母はまだ存命で元気です。ころころと良く笑う、かわいらしいおばあちゃんです。あなたの遺書を大事に持っていて、今でもそれを時々読み返します。母子家庭で、苦労して父を育てました。

 そして父が30歳の時に届いたのが、あなたからの手紙です。その年は私が生まれた年でもありました。祖母はあなたからの手紙を見て、『ああ、生きていてくれた』といって笑顔を見せたそうです」


 カルロスは矢倉の言葉には何も答えなかった。矢倉にはその沈黙がカルロスの返事のように思えた。矢倉は更に言葉を続けた。


「違う空の下であっても、生きていてくれたのならそれで良い。私を置いて勝手に死んでしまったのではなかったと言って、笑いながら涙を流したと父は言っていました。あなたは祖母に会いたくはないですか?」


「それは叶わぬ夢だ」

 カルロスは苦しそうな表情を見せた。「私はもう戻れない道を歩んでしまった。あの手紙も、届くとは思っていなかった。彼女は約束通り、私以外の誰かに嫁いでくれていると思っていた。そう信じていた。まさか子供が生まれたとは思いもしなかった。ましてや孫までも――。あの手紙――、あれは戦後30年も経ってから送ったものだ。住所地番も当時と変わっていることだろう。届くわけがない。あれは自分の心への踏ん切りのつもりで送ったものだった」


「もっと家族の話をしましょう。父はあなたと同じ夢を追って、パイロットを目指しました。一旦は医大に入りましたが、その後に自衛隊の航空学生という、かつての予科練のような制度に選抜されたのです。

 残念ながら父は、入隊後の健康診断で身体に疾患が見つかりました。戦闘機乗りでなければ問題の無い程度だったそうですが、強いGには耐えられないと判断されました。

 やむなく父は、なるべく空に近い職業として整備士に志望を変更し、その後は日本中の航空自衛隊の基地に赴任しました。私も小さい頃は転校ばかりです。


 父はやがて生まれ故郷であり、祖母が一人暮らしをしている米子市の美保基地への配属が叶いました。そこで定年を迎えたのです。そこはあなたの生まれ故郷でもあり、予科練の見習い飛行兵として過ごした場所です。

 今、父は母と二人で農業をやっています。若いころに転勤が多かったので、晴耕雨読の生活を夢見ていたのだそうです。


 私は父とは違う道を選びました。あなたの手紙に同封されたセルロイドの場所に夢を抱き、いつかそこにあるはずの宝物を探しに行こうと考えました。そしてダイバーになりました。空を飛ぶのとは対極に、海底の油田で毎日を送っています。


 私には子供がいます。まだ6歳の女の子です。あなたの曾孫です。娘は医者になりたいのだそうです。あなたが若い日に描いた夢は、父に受け継がれ、私にも、そして更に私の娘にまで繋がっているのです」


「やめてくれ、矢倉邦仁はもうこの世にはいない。ここにいるのは苗字も無い、カルロスという素性の分からぬ男だ!」


 カルロスはその言葉を放った途端に、胸を押さえて苦しそうな仕草を見せた。異常を感じた矢倉はすぐに廊下で待つ男たちを呼んだ。

 男達は部屋に飛び込んでくるなり、カルロスの着ていたシャツのボタンを外し、胸をはだけさせると、カルロスの首から掛かったペンダントの中から錠剤を取り出し、カルロスの口を開けさせて、舌下に入れた。


 しばらくすると、荒くなっていたカルロスの呼吸は次第に正常に戻って行った。しかし額と胸からは、まだ玉のような汗が流れていた。男達は部屋の奥にある扉を開けた。そこは寝室になっていた。

 粗末なベッドにカルロスを寝かせると、男の内の一人が矢倉に向かい「持病の狭心症の発作だ」と言った。

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