第56話 D液の存在

――2018年8月15日、ノルウェー、トロムソ、Uボートブンカー――


 ディータの部屋を出されたカルロスは、車椅子を押されて長い廊下を進んだ。やがてカルロスは、上半身と首だけを振り返らせて、後ろを歩く矢倉に視線を向けた。

「私の部屋に来てくれないか?」

 カルロスは言った。


 カルロスが介添えをしている男達に目で合図を送ると、一人が前に進み出て、ディータの部屋の並びにあるドアを開けた。そこがカルロスの部屋らしかった。

 カルロスの部屋は、ディータのそれとはうって変わって、執務用の机と、質素なテーブル以外には何もない殺風景なものだった。

 カルロスは人払いをすると、部屋の隅にある椅子を指さして「座ってくれ」と言った。


「ディータは本気で使うつもりでしょうか?」

 矢倉は訊ねた。

「分からない。しかしD液の存在がディータを変えたのは確かだ」

「D液がディータを変えた? どういう事でしょうか?」

「我々はザビアにD液が存在することは知っていた。しかしそのD液の実物は持っていなかった。

 毒ガスと言うのは被害の規模が制御できない。使った後も面倒な事になる。それが分かっているから、めったに使われる事は無い。あのヒトラーだって、一度も実戦では使った事がない。

 毒ガスは核兵器と同じで、抑止力として使うのが一番経済的なんだ。ディータもそれは良く理解していた。そんな中、伊220からD液がもたらされた」


「つまり、毒ガスの効果がコントロールできるようになったという事ですね」

「その通り。最後のタガが外れた瞬間だ」

「なぜこれまで、D液が無かったのですか?」

「ザビアを発明したのは、ディータの父親、クサヴァーだ。当然D液に関しても、化学的構造や製造方法まで全てを知っていた。しかしクサヴァーは、ここテレンダールに来て以来、一度もD液の合成はしなかった。

 彼はディータが20歳の時に病死したが、死の間際でさえも、D液の話に触れる事はなかった。墓場まで持っていくつもりだったのだ」


「何故でしょうか?」

「はっきりと口にしたことは無かったが、クサヴァーはザビアが実戦で使われるのを恐れていたのだと思う。D液があれば、すぐにザビアが使われると気付いていたんだ。

 彼は毒ガスを作りはしたが、それは時代背景がそうさせただけの事で、彼が望んだわけではない。クサヴァーの根本は平和主義者だった。他界する前、彼は私に本心を打ち明けたことがある。もしも毒ガスにさえ関わっていなければ、自分はもっと人々の役に立つことができたはずだと」

 カルロスは当時のクサヴァー心境に思いを至らせたのか、寂しそうな表情を浮かべた。


「しかし、伊220から引き揚げたD液は、たかだかラボ缶1個分です。戦略的に使うにはとても足りる量ではないと思います」

「現物さえ手元にあれば、それを分析することで、合成が可能だと彼は思っているのだろう。いつかできるなら、今は無くても大丈夫と考えているのだ。例え今アメリカ全土を汚染したとしても、それを除染するのはすぐでなくても良い」


「本当に合成できるのでしょうか」

「先程ディータの書斎を見ただろう。彼自身も父親の血を引いた優秀な化学者だ。D液はC液の反対の効果をする薬剤。当然技術はC液の延長線上にあるはずだ。そして今や手元にその現物が有る。彼には、何とかなるという自信があるのだ」

「あなたは、ザビアを使うのに反対なのですね」

「その通りだ。ザビアは使ってしまったらおしまいだ。幾ら後でD液を撒いたところで、死んだ人間は生き返らない」


「ディータは使うつもりだと私は思います」

「大丈夫だ、出港まで2日ある。それまでには必ず説得し、思いとどまらせる」

「本当に大丈夫なのですか?」

「ディータは本当のところは分かっているんだ。彼のことは子供の頃から良く知っている。本来なら人を殺すことなど絶対にできないやつだ。

 ディータという男を形成する本性は、理想と潔癖。そして最後まで思いを遂げられなかった父親への愛情だ。今、それらがないまぜとなって、彼の心を縛っているにすぎない」


「それはディータがまだ、ザビアを使う決心を本当にはしていないという事ですか?」

「そうだ。ディータの心は今も大きく揺れている。私にはそれが手に取るように分かる」

 カルロスの口調は、それを確信しているかのようだった。


「もう少し話を聞かせてくれませんか。私には分からないことだらけだ。なぜ平和主義者のクサヴァーが毒ガスに手を染めたのか。なぜネオ・トゥーレの指導者になれたのか。そして、なぜ特攻で散ったはずのあなたがここにいるのか」

「そうだな今の内に君に、全てを話しておいてやろう。何やら、私に残された時間は、そう長く無いように思えてきた――」

 カルロスは一瞬何かを考えたようだったが、すぐに矢倉に向き直った。

「まずは私が日本を出てからの伊220の話からしよう。私個人の話は後程だ」

 そう言って、カルロスは過去を回想し始めた。


「舞鶴を出港した伊220は、まずブレーメンに到着した。当時は艦長にも最終的な行先は知らされていなかった。

 伊220はそこでアルブレヒというソナーの吸収剤を塗布し、水先案内人となるドイツ人士官を乗せて、トロムソ、つまりこの地下にある施設に向けて出発した。

 トロムソには第四帝国に参加するために、ドイツ国内から連れてこられた優秀な若者が大勢待機していた。遺伝学的に選りすぐられたエリート達だった。


 伊220に何を積載するかは、ドイツ側が全ての決定権を持っており、我々は言われるままに軍需物資を積み込んだ。その時点ではザビアのC液、D液が積み荷に含まれていることなど、知る由もなかった。

 極め付きの重要物資という金属ケースが運び込まれたのが、多分そうだったのだろう。荷物の行先はアルゼンチンの南端のブエゴ島だった」


「それが伊220の中で我々が発見したラボ缶ですね?」

 矢倉の問いに、カルロスが頷いた。


「出港間際になり、艦の積載ハッチを閉めようとしている時に、突然ブンカーに幾つもの木箱が届けられた。それは大きさに較べて異様に重い箱だった。

 伊220に積み込もうとする中で、その内の1箱が、積載用のロープが切れて艦内に落下した。そして衝撃で蓋が外れた。

 現場を監督していた親衛隊の大佐が血相を変えて飛んできて、『この荷物は、お前達とは身分が異なる方の大切な私物なので気を付けて扱え』と怒鳴った。

 後で作業員から聞かされた話では、箱の中にはぎっしりと金貨が詰まっていたらしい」

 カルロスはそこで、苦々しい表情になった。


 矢倉は金貨と聞いて閃くものがあった。――あの金貨に違いない。

「それは伊220の艦内で発見しました。金貨だけでなく、金のインゴットも」

「そんなところだろう。その一件から、我々の艦長は第四帝国を疑問視するようになったのだ」

「疑問視? どういう事ですか?」


「その後艦長には、親衛隊大佐から直々に新しい指示がでた。ブエゴ島に着く前にブエノスアイレスに一旦寄港し、最後に積み込んだ木箱を下ろせというのだ。

 1枚のメモが渡され、そこには荷物を受け取る人物の名前と、受け渡しの際に使う合言葉が書かれていた。


 当時の潜水艦の輸送任務というのは、非常に危険なものだった。潜水艦と言うのは、敵の駆逐艦や哨戒機に見つかれば、逃げおおせることなどまずできない。

 連合軍の監視の目もあるブエノスアイレスに寄港するなど、もっての他だ。しかもそれは、素性も分からない誰かの私物だと言うではないか。

 艦長は最終目的地で木箱を下ろすので、陸路で運んで欲しいと掛け合った。しかしその願いは、聞き入れられなかった。


 木箱の総量は何と1.2トンもあったため、艦に残された可積載量は著しく減った。大佐は迷う事なく、『人員の移送は取りやめだ』と言った。伊220に乗るはずだった30人の若者は、そのままトロムソに残された。唯一乗りこむことができたのは、積荷の責任者だと紹介のあったクサヴァーだけだった」


「人の命よりも、誰かの私物の金の方が、ずっと大事だということなのですね?」

「そういうことだ。平時ならまだしも、国の存亡を賭けた作戦中の話だ」

「それでも伊220は、命令を守って出航をしたのですね。その後はどうなったのですか?」


「トロムソを出た伊220は大西洋を南に向かった。燃料に不安のあった伊220は、艦長の判断でイギリスを迂回せずに、既にナチスドイツが制海権を失っていたドーバー海峡を抜ける航路をとった。艦長は大変な度胸と腕の持ち主だった。


 ドーバーを抜けて一安心したのも束の間、ポルトガルの沖合で伊220の艦内では、原因不明の爆発事故が起きた。プロペラシャフトが損傷を受けて、艦は片肺となり、最早目的地への到着は絶望的だった。


 私は艦長に呼び出された。伊220は当初の作戦規約に則って、自沈することになったと言う。私は海龍改で伊220を脱出するように命令を受けた。海龍改については後で説明しよう。今は攻撃能力を持った特攻兵器だと思ってくれ。


 私は一緒にお供したいと申し出たが、聞き入れられなかった。私の役割は身を挺して伊220を守る事だった。守るべき艦が無い以上、目的の無い死こそが命令違反だと諭されたのだ。私は、私に対する艦長の親心を察し、その命令に従う事にした。そして、海龍改に同乗して一緒に脱出したのが、クサヴァーだ。

 艦長は最後に私に、自分達の戦いが本当に正しかったのか、生き延びて見届けてくれと言われた。私は艦長の無念さを思い、涙がこぼれたよ。

 

 ポルトガルの海岸線から10キロほど沖で、我々は海龍改を自沈させて泳いだ。救命具身に付けてはいたが、あの日は波が高くてな。クサヴァーとは岸がようやく見えてきたところで、離れ離れになってしまった。

 そして私はポルトガルの貧しい漁村で修道士に助けられて、記憶喪失を装いながら30年間過ごしたんだ。

 私はずっとそこで艦長たちの慰霊をしながら、静かに余生を過ごす覚悟だった。そこがオンダアルタの村だ。


 ところがその後30年目に、偶然に地元の漁師に、自沈させた海龍改が見つかってしまった。記録に無い特殊潜航艇の発見は騒ぎになり、こういう事にはめっぽう鼻が利くイスラエルのモサドが調査を始めた。

 そしてモサドの動きを察知して、先回りして私に接触してきたのがネオ・トゥーレだ。なんとその指導者こそが、あろう事か30年前に別れたきりのクサヴァーだったのだ」


 それまで淡々と過去を語っていたカルロスであったが、クサヴァーとの再会の件になると急に語気が強まった。それはクサヴァーとの再会が、カルロスにとって余程印象深い出来事だったことを伺わせた。

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