恋の始まりはどこから来るか?
「ああ、いたいた! 相原くん、こんなところで何してるのー?」
放課後。
誰もいない教室の片隅で、本を読んでいた。
静謐なこの空間を乱した女の名は……何と言っただろうか。正直まだ覚えていない。
新学期が始まってもう1か月以上経つが、今も他人のことを覚えるのはどうも苦手だ。
「何をしに来たんだ、君は」
「なにって、私もこのクラスだしー。荷物取りに来たの」
「それは知っている。それなら僕には関係のない用だろう。邪魔をするな」
「邪魔するよー。だっていっつも1人じゃーん」
「小さな親切、余計なお世話という言葉を教えてやろう」
「そんなものは知りませーん」
幾ら拒絶しようが、冷たい視線をぶつけようが、意にも介さずこちらのプライベートゾーンへと入り込んでくる。
じゃれついているつもりなのだろうが、全く不愉快な女だ。
「用が済んだらとっとと出て行け」
「はいはーい」
返事をしておきながら、なぜ僕の隣に座ろうとするんだ。
「目障りなんだが」
「気にしないで」
「視界に入るだけで鬱陶しい。それに用が済んだら出て行けと言ったよな?」
「まだ済んでないもーん」
「嘘をつくな」
「それで、何読んでるの?」
次は無視か。なお腹が立つ。
「君の頭じゃ、理解は無理だろうね」
「何それ、バカにしてるの!? そんなことないし!!」
「そう言うのなら、読んでみろ」
一旦しおりを挟んでから、彼女に渡す。
「……何これ!! カタカナ多すぎない!? というか意味わかんない単語ばっかりなんですけど!!」
「だから言っただろう。専門書はみんなそうだ。まあこの分野は僕も初めてだがね」
……と言っても、初心者エンジニア向けの技術書に過ぎないのだが。
とりあえず疲れたので、本は返してもらおう。
「理解できないことが分かったところで、さあ帰ってもらおうか」
「なんでそんなに追い返そうとするのー? もしかして私のこと、キライ?」
「好きか嫌いかで言えば、興味ないね。とっとと出て行ってくれ」
「どうしようかなー」
「どうしようも何もないだろう」
「というか、どうしてそんなに私と顔合わせないの?」
「必要があればそうする」
「ふーん」
「なんだそれは」
「べっつにー」
「全く……。こうすれば文句はないよな?」
本を置き、怒り半分で彼女と顔を合わせた。
「やればできるじゃない」
そう言った彼女の笑顔は、言葉通りの、太陽のような眩しさだった。
それと同時に、自分の胸が少しだけ疼く。
遠い昔に置いてきてしまったような、そんな感覚。
「これで気は済んだだろう? さぁ出て行け!」
「やっぱやーめた」
「なぜだ」
「相原くんが意地悪ばっかりするから」
「自分が煙たがられているという自覚はないのかね」
「うーん……。それはないね」
「なぜ言い切る」
「こうやってなんだかんだ言いつつ相手してくれてるから、かな?」
「単に構ってほしいだけなら、最初からそう言え」
「そう言ったら、完全に無視するでしょ。相原くんそういうところあるからねー」
痛いと言えないこともないところを突かれた。
ああ、僕はこの女が嫌いだ。
「ねぇ、相原くんってさ。なんでそんなに他の人としゃべったりとかしないの?」
「答える必要があるのか」
「会話のキャッチボールしようよ。壁に向かって投げてるんじゃないんだから」
「君の独り言は、なかなかに目立ちそうだな」
すると彼女は、声のトーンを少し下げた。
「ところで、相原くんは私の名前まだ覚えてないの? ずっとキミキミばっかりじゃん」
「悪かったな」
「じゃあ覚えてよ」
「他人の名前を覚えるのは苦手なんだ。今聞かされたとしても、もって明日か明後日くらいだね」
「なら、ずっと忘れないようにしてあげる」
彼女は立ち上がり、僕の背後へと回った。
胸元のあたりで、彼女の両腕が交差する。
後頭部に、とても柔らかい2つの感触があった。
時折鼻に入る、シャボン玉のような香り。
頭上から、彼女の声が響く。
「初めてでしょ、こういうのは?」
「あまり他人をからかうものではないぞ。特に男子はな」
「そうなんだ、へぇー。相原くんもこういうことされるとドキドキするんだね」
「誰もそんなことは言ってないだろう」
「まぁ、良いんだけど。それに、これなら忘れないでしょう?」
「どうだろうな」
「じゃあ、大丈夫だね」
右耳のあたりをくすぐる、彼女の吐息。
「
*******
ようやく彼女……高崎から解放された僕は、これ以上何かされないうちにと帰り支度を始めた。
そして何故か彼女は、僕を待つかのようにドアの前でじっと佇んでいた。
「ついでだからさ、一緒に帰ろうよ」
「断る。僕は僕でまだやることがあるからな、1人で帰れ」
「え、つまんないじゃんそんなのー」
「つまらなくてもとっとと帰れ」
「別に用事なんて無いでしょ、ずっと本読んでたんだから」
「あっても無くても別に構わん。とにかく帰れ」
「じゃあ一緒に帰ろうよ」
「しつこいな、君は僕の飼い犬か何かかね?」
「わんわん」
すると彼女は、僕の腕を引っ張るとそのまま昇降口まで引きずっていった。
本当に犬みたいじゃないか。
「ご主人様、一緒に帰るわん」
「気持ち悪いからやめてくれ。今すぐにでも吐きそうだ」
「素直になるまでやめないわん」
彼女を振りほどいて、急ぎ足で外へ出る。
それでもしつこくついてきた。
「ねぇ相原くんってばー」
「何だ」
「女の子置いていくのは流石にどうかと思うよー?」
「飼い犬なんてものは置いていっても勝手についてくるだろう、こうやってな」
「ちょっとぉ!?」
ちょっと面白かったので、もう少しからかってやろう。
「真奈、ステイ」
「えっ……!?」
顔を真っ赤にして硬直する彼女。
中々に面白いな。
「よしよし、良い子だ。そのまま僕が見えなくなるまで待っていろ」
「なんでよー! もうやめてよー!」
「分かった分かった、だが元はと言えば君がしつこく構ってくるからだぞ?」
「だからそうやってキミキミって呼ぶのやめてって言ったじゃん!」
「高崎」
「……ねぇ」
「何だ」
「名字で呼ぶの、ちょっと恥ずかしいからさ……みんな名前で呼んでるし……」
「自分はペットだと、認めるわけか」
「違うってば!!」
「……まあ、いいだろう。それはそれとして、ついてくるなよ、真奈」
「それはダーメ」
「真奈、ステイだ」
「聞こえなーい」
しつこく構ってくるし、鬱陶しい。
やはり、この女は嫌いだ。
……だが、それも悪い気は、しないでもなかった。
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