ラバール・ド・シャット
僕が初めてそのお店の存在を知ったのは、寒い冬の夜、バイト帰りの道すがらだった。
小学校に上がる前の頃に空っぽになったはずなのに、その日はなぜか明かりがついていた。
外に掲げられた、コーヒーカップの木製看板。
アルファベットで書かれた名前は、読めなかったが恐らくフランス語。
壁のところどころには、猫があしらわれていた。
窓から中を覗こうとしたが、白いレースのカーテンが掛けられていて見えない。
入ってみようか、としばらくドアの前で立ち尽くす。
するとドラマで聞いたようなベルの音がして、真っ白なコートを着た1人の女性が現れた。
「あら」
全身を包み込むようなふんわりとした声。
まっすぐ下りた肩よりも少し長い黒髪。
ややくりっとした感じの目。
わお、すげえ美人と脳内で叫ぶ。
「あっ……す、すいません」
そそくさと立ち去ろうとする僕を、女性が引き留めた。
「あの、ちょっといいですか」
「ぼ、僕に何か?」
「いいえ、私ではなくマスターです」
「マスター……?」
「ここのオーナーです。『こんな寒い夜に外で立ってるなんて何かあったに違いないから、店に入れてほしい』と。マスターの勘違いだったらごめんなさいね」
少しだけ迷ってから、女性に返事をした。
「あの……実は、ちょっとお店の方が気になって外から覗いてました」
「あら、そうだったんですか。でしたら今、お時間は大丈夫ですか?」
「はい」
女性に手招きされ、僕は足を踏み入れた。
空間の中心で、都会ではほぼ見かけない薪ストーブが弾けた音を立てていた。
映像とは違い、音に暖かみがあるように感じる。
そして視線の先には細長いバーカウンターと、その後ろで還暦を過ぎたくらいに見える、なぜか和装の男性がグラスを磨いていた。
「なんだ、子供じゃあないか」
貫禄のある渋い声で女性に言う。
「入れろと言ったのはマスターでしょう」
「ま、そうだな」
ふきんをどこかに片付け、グラスをカウンター奥の戸棚にしまうと僕に手招きをした。
女性が背後に回り、僕の肩を押す。そのままカウンターに2人で座る。
「コーヒーは飲めるか?」
「飲んだことはないです」
「そうか。見ての通り誰も来ないし、好きなだけいてくれて構わないぞ。話し相手になれるかは分からないが」
「話し相手なら私がいますよ、マスター?」
「君は早く店から出ていきたまえ」
「マスターの意地悪。それに私がいなかったら、この子は外にまだいたかもしれないんですよ」
「俺が行ったさ。その前に立ち去られていたかもしれないがな」
女性とマスターのやり取りを見て、恐る恐る声を上げた。
「あのー、もし迷惑でしたら……」
「おっと、気を使わせてしまってすまない。いま1杯淹れるから、少し待っていて欲しい。それとお代は彼女につけておいてくれ」
「はい」
にこやかに女性が返事をする。
「初対面なのに、いいんですか」
「構いませんよ。マスターも若いお客さんが来るのは嬉しいですから」
「子供にあまり余計なことを吹き込むんじゃないよ」
「でもそうでしょう?」
「君の若い頃はもう少し素直だったのに、どうしてこうなったんだか」
まるで夫婦のようだ。
「あの、マスターと、ええと……」
「名乗るのがまだでしたね。私は
差し出された名刺には、大きな桜の木が左下の隅にあしらわれていた。
「……花里さんは」
「夫婦ではありませんよ。マスターは既婚ですけど、私は未だに独身ですから」
「それ、赤の他人に簡単に言ってよかったのか」
「私、未成年に手は出しませんよ?」
「全くしっかりしてくれよ、もういい年だろう。そうだ、ついでに名乗っておこう。マスターの雪村だ、よろしく」
「神田高校1年の、桐谷祐希です」
「ユウキくん、ね。うん、覚えた」
花里さんはにこやかに話を続ける。
「あと、私のことは名前で呼んで下さい。お知り合いの人はみんなそうなので」
「分かりました。それでさっき言いかけたことなんですけど、マスターと由衣さんはどこで知り合ったんですか?」
見た目の年齢はそれなりに離れてそうだが、親子の会話には明らかに見えない。
僕の疑問にはマスターが答えてくれた。
「彼女、作家をやっていると言っただろう。若い頃に私が教えたんだよ。ちょうど彼女が今の君くらいの頃に、ネットで知り合ったのさ」
「そうなんです、趣味で小説を書いていたんですけど、私の作品を見たマスターがプロを目指してみないか、いやすべきだと口説いて来たんですよ」
由衣さんがいたずらっぽく笑うと、マスターは苦笑いしながら反論した。
「口説いたとは人聞きが悪いぞ。それじゃあ下手したら犯罪に思われるじゃないか」
「マスターが言ってきたのは事実ですよ?『私なら君の弱点の洗い出しができる。君にはプロになれる才能がある』って」
「確かに受け取り方によっては、際どいですね」
面白そうなので乗っかってみる。
予想通りと言うかなんというか、反応は面白かった。
「頼むから、彼女の言うことなんか真に受けないでくれよ。それと、これだ。一応苦味の少ないやつでブレンドしたから、初めてでも大丈夫だと思う。ミルクと砂糖は好きに入れてくれ」
目の前に1杯のコーヒーが差し出され、とりあえずミルクだけ入れて一口飲んでみた。
「ユウキくん、お味はいかがですか?」
「美味しいです。なんというか、体の芯から温まってくるような感じがします」
「良かったですね、マスター」
「そうだな、ブラックが美味いと言えるようになれば褒めてやろうか」
マスターの口調が多少ぶっきらぼうな感じがしたが、たぶん由衣さんがいるせいだろう。
僕がカップを空にしたのを見て、マスターが切り出す。
「さてと、そろそろ店じまいにするつもりなんだが、いいかな」
「ご馳走さまでした。ありがとうございました」
「礼なら奢ってくれた彼女に言いたまえ」
「楽しかったです。ありがとうございました」
向き直り、由衣さんにもお礼を言う。
「もし良かったら、また来てくださいね。私は毎晩いますから」
「君はしばらく来なくていいよ」
「あら、マスターが留守のときは私が代わりにカウンターに立っているんですよ? それに、常連客なんて私くらいじゃないですか」
「君以外にも何人か来てるよ。編集者連れて打ち合わせしていることもあるくらいだ」
マスターは僕に、チラシを1枚差し出した。
「もしここが気に入ったのなら、また来てくれても構わない。それから、店の名前は『猫の舞踏会』という意味だそうだ。名前を付けたのは彼女だから、由来は興味があれば聞いてみてくれ」
「そうなんですか」
「ああ。定年したら自分の店を持ちたくてね、金を一部出してやるから名前は決めさせろと言ってきたんだ」
「師匠思いの方なんですね」
「普段から小生意気なくせに、とは思うんだけどね」
「もしかしてー、私の悪口ですか?」
修羅場が始まりそうな予感がしたのでさっさと出ていってしまおうと、由衣さんが続ける前に割り込んだ。
「本当にありがとうございました。ご馳走さまでした」
「気をつけて帰ってくれよ」
由衣さんは外までお見送りをしてくれた。
「マスターはちょっと気難しいところもありますけど、本当は優しい人なんですよ。本人が聞いているところでは言えませんけど、ね」
そう言って、由衣さんは1歩後ずさりする。
「ユウキくん。また、遊びに来てくださいね」
「はい。ありがとうございました」
深々とお辞儀をして、雪の降り始めた帰り道についた。
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