結末


「喰い殺す」


 千里眼の呪書は宿主ビリーの眼球を使って、ぎろりとヨナを

 ビリーは顎を限界以上に開かせて、化け物めいた咆哮を上げた。

 鉄製の格子をぐにゃりとねじ曲げヨナに襲いかかったビリー・ジンデルの姿は、既に生者のそれではなかった。

 顎が外れて首は反り返り、関節でない部位で折れた両腕は滅茶苦茶に振り回されて少年を薙ぎ払おうとする。予測不能な足運びで、尋常ならざる跳躍力で少年めがけて飛びかかる。


 少年はナイフを体軸前に掲げ、鋭く呼気を吐き出した。落下してくる宿主の下を駆け抜け背中に回り込み、後頭部に張り付いた呪書をめがけて刺突する。

 ぐりんと宿主の首が回った。骨が砕けて肉のねじ切れる音を響かせ、ビリーの首が百八十度回転する。ヨナの刃は呪書ではなく、ビリーの鼻梁に吸い込まれていた。


「ちッ、舐めた動きを」


 素早くナイフを引き抜くと、氷塊の眼差しで動死体を睨めつけた。動死体は飛び退いて、ヨナと大きく距離を取っている。

 “血病”と違って、“千里眼”は奇怪な動きをする。銃を使えばもっと楽だが、こんな狭所では跳弾の危険があった。

 頸椎が破損して、宿主の首が不自然に傾いでいる。神経が傷ついた為だろうか、手足の動きの精度が落ちた。ヨナは執拗に、宿主の首を狙った。風鳴と共に振り回される動死体の四肢は十分な凶器だが、首を離せば四肢は使いものにならないはずだ。掠めるように隙を縫い、何度も首を切りつけた。


 焦る必要はない。死体はすぐに壊れるのだから、如何なる呪書でも長く操り続けることはできない。邪魔さえ入らなければ、自分が呪書に敗れることなど、万が一にもあり得ない。呪書よりむしろ、アメリア・カーソンに警戒すべきだ。視界の端で彼女を監視するが、今のところは動きがない。


 裂帛の気合いとともに、少年は動死体の頚部にナイフを突き立て右に薙いだ。無茶な操られ方をされた為すでに頸椎と筋は損壊しており、首は左三分の一の肉だけ残してずるりと下に垂れ下がった。

 瞬間、宿主を捨てて呪書そのものが飛びかかってきた。脳に刺さっていた神経の根を引き抜いて、蜘蛛の動きでにじり寄る。

 呪書から解き放たれた亡骸は、脳漿を噴き散らして昏倒し、そのまま二度と動かなかった。男を抱きしめ十字を切るアメリアの姿がちらりと見えた。――ちッ、無駄な演技を。ヨナはわずかに苛立った。


 蜘蛛の糸に似た半透明の触手が吹き出し、呪書そのものが跳ね回る。触手を壁に張り付かせ、俊敏に飛び、反跳して迫る。表紙と頁をはためかせて暴れ狂うこれを、果たして「書物」と呼ぶべきか。

 ――いいや。こんなもの、知能の低い化け物だ。

 飛来した呪書を、ヨナは大きく斬り伏せた。ブーツで踏みつけ、動きを奪う。右手で押さえ込み、“エーテル”を喰らい始める動作をして見せた。

 アメリア・カーソンが仕掛けてくるのはここからだ。

 一瞬たりとも、気を抜くものか。翡翠の瞳に敵意をたぎらせ、ヨナはアメリアの姿を捕らえようと――

 ところが。

 アメリアは姿を消していた。


 消えた? いや、違う。

 地下牢から階段へ、血塗れの死体を引きずった痕が残っている。

 階段を昇ってゆく、重たい足音が聞こえる。

 アメリアは男の亡骸を背負って、地上へ戻っていったのだ。

 ――あの女は何をしている?

 ヨナが動揺していた時間は、ほんの数瞬であったはずだ。


 その数瞬が、命取りだった。

 千里眼の呪書から針のように硬い触手が一本吹きだし、ヨナの眼球を突き刺した。

「うっ――」

 鋭い痛みに体がのけぞる。

 この期を狙っていたとばかりに、呪書は再び軟質の触手を噴き上がらせて、しゅるりと絡みついてきた。

 信じられない失態だ。

 ナイフで触手を断ち切って引き剥がそうとする間にも、千里眼の呪書は執拗に這い上がろうとする。海月くらげの触手のように張り付く触手が、肌にビリビリと痛みを走らせた。

 アメリア・カーソンに気を取られるあまり、こんな低級な呪書に襲われるなど。自分の愚かさに嫌気が差した。


 耳もとに一本の触手が這い上がってきた瞬間、ヨナの耳は聞こえないはずの泣き声を聞いた。

 首すじに痺れが襲った瞬間、見えないはずの景色が見えた。


 雨が体温を奪う夜。

 貧民窟の片隅で、ひとりぼっちで泣いている。

 五歳ほどの、痩せた子供。

 あれは自分だ。


 ――入ってくるな。


 呪書が寄生しようとしている。このオレに。

 握ったナイフに力を込めて、呪書を一突きにしようとした。だが、


 ――お母さんは、どうして僕を呪ったの。 


 幻の中の子供じぶんの声を聞いた瞬間、ヨナの手はナイフを取り落としていた。

 幼い自分が、膝を抱えて泣いている。

 左手には、血の色をした醜い呪書が縫い付けられていた。それを見おろし、幼い自分はことさら惨めに泣きじゃくるのだ。

 そして左手とはまた別に、自分には、どうしようもなく耐え難い問題があった。


 ――おなかが減った。


 盗んで食べても、食べても、食べても、飢えが止まらない。手足がしびれて、吐き気がする。息が苦しい。

 それでも、“あれ”を食べるのだけは、嫌だった。

 あんなものを食べるくらいなら、死んだ方がマシだ。

 ……どうして僕は、生きているの。

 なぜ母さんは、僕を生んだの。呪うくらいなら、最初から生まなければいい。

 誰にも望まれない僕は、どうしてそれでも、生きているの。


 ぱさり。


 なにかが僕の前に落ちた。

 カサカサに干からびた老人の皮膚のように、醜い一冊の本だった。

 銀の杭が突き刺さり、本はぶるぶると震えている。


『喰え』


 頭の上から声がした。

 黒ずくめの男が僕を見下ろしている。

 僕はこいつのことが嫌いだ。

『それを喰え。糧がなければ貴様は生きられない』

 僕は力なく首を振った。

 こんなもの。食べたくない。

 僕は化け物なんかじゃない。

『そうさ。貴様は化け物ではない』

 カラスは僕の襟首を掴んで引きずり上げ、唇を無理矢理開かせた。痛くて、涙が滲んでくる。

 呪書が唇に運ばれる。呪書は黒い霧になって、僕の中へと入っていった。

『人間のうつわに閉じこめられた、出来損ないの化け物。それが魔女だ』


        ・

        ・

        ・


「――ヨナ君!!」


 ヨナは現実に引き戻された。

 いつの間にか戻ってきていたアメリアが、ヨナを押し倒し、素手で千里眼の呪書を引き剥がそうとしていた。ヨナから呪書を引き剥がし、全力で壁に投げつける。

 ヨナの目は、涙でびっしょり濡れていた。


 呪書は標的を変え、触手をアメリアへと伸ばした。

「……このっ」

 アメリアは、床に落ちていたナイフで切り防ごうとした。だが無駄だ。只人の刃は呪書を傷つけない。

 ナイフを伝って触手が迫る。アメリアの顔に恐怖が刻まれた。


 ――カッ。


 ヨナはブーツナイフを投擲し、呪書を壁に串刺しにした。

 呪書をアメリアに寄生させてから、まとめて始末する――そんな選択肢もあったはずだ。だがそんなことは忘れていた。呪書が憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎い。だからほかには何もない。

 アメリアからもう一本のナイフも奪い、そのまま壁に突進した。壁に縫いつけられた呪書に、躍り掛かって滅多刺しにする。涙を溢れさせたまま、表紙も頁も、すべて千切って飲み込んだ。

 何もかもが気に入らない。

 醜い呪書も。訳の分からない遺言書も。狂った母も。出来損ないの自分自身も。


 地下牢は、異様な静けさに包まれた。

「……ヨナ君」

 名を呼ばれ、無意識に振り返っていた。

 アメリアの美貌が、痛ましそうに歪んでいる。


 ――何だ、そのツラは。

      

 偽善者め。


「いい加減に、本性を晒したらどうだ」

「え?」

 ずかずかと、ヨナは彼女に迫っていった。

「惨めで未熟な出来損ないを、眺めてどこが楽しいんだ」

 理性などとうに失っていた。 

「解呪を頼むつもりなら、も差し出すのが道理だろう?」

「ヨナ君、何を言って…………きゃあ!」

 アメリアを床に押しつけた。

 シャツの下から、ファウラの呪書の香りがする。

「いやっ……やめて!」


「テメェが呪書をもう一冊隠し持ってることくらい、最初から分かってたんだ!」


 彼女のシャツを力任せに引き裂き。ヨナは、目を剥いた。

 脇腹だ。

 露わになった白い素肌に闇赤色の呪書が食い込み、根を張っている。

 その有り様ありさまは、ヨナの左手と、どこかが似ていた。


 この女も、ファウラの呪書に寄生されている。


 呪書から伸び出す血管は、静かに血液を還流させているだけだ。何かしらの能力を発動しているようには見えない……未発動状態の呪書は、持っているだけでは役に立たない。

 ならこの女は、何を武器にしてオレを殺そうと……?

 

 次の瞬間、腹を蹴られて突き飛ばされた。

「子供だからって、やって良いことと悪いことがあるわよ」

 尻餅をついたヨナを見下ろし、アメリアは声を張り上げた。

「こんなマネしたの、あの変態と、きみだけよ! ……最悪」

 裂かれたシャツを掻き合わせ、頬を赤くして睨んでいる。

 ヨナはただ、思考を止めて凍り付いていた。


 何かの焼ける臭いに気づいたのは、そのときだ。 


 木と布が燃える臭いだ。 

 階段の上から流れ込む空気が、わずかな熱を帯びている。

 ヨナがぴくりと身をこわばらせて階段を睨むと、

「……? なによ、いきなりどうしたの……」

 少年よりも少し遅れて、アメリアもそれに気づいたようだった。

 煙の気配がした。


「…………火事?」


 呟くや、アメリアは顔を青ざめさせた。

「まずいわ! ここ、地下よ」

 なぜ火が上がった? 考えるより先に、ヨナの体は動いていた。

 火が回りきる前に地上に抜けなければ――階段を駆け上がろうとしたが、長い階段の上方には赤い炎が見え始めている。

「今さら昇っても無駄よ! こっちよ、手伝って!」

 アメリアは壁に掛けてあった荷袋を背負い、ランプで奥壁の煉瓦を照らし始めていた。煉瓦の継ぎ目を懸命に照らし、指で触れながら何かを確かめている。

「何をしてるんだ!」

 苛立ちを隠さずヨナが叫ぶが、アメリアは何も答えない。

 灰色の煙がみるみるうちに流れ込んできた。

「見つけた!」

 アメリアが煉瓦の一つを引き抜くと、がこん、と何かの抜ける音が響いた。

「全部抜いて。早く」

 先ほどまで一部の隙なく積み重ねられていたはずの煉瓦が、軽い力で引き抜けるようになっていた。有無を言わさぬ彼女の気迫で、いつの間にやらヨナも手伝わされている。――壁の奥には、木板の扉があった。

 煙が鼻腔を突き刺して、喉は千切れんばかりに痛む。

 扉の先は空洞の闇だ。闇に半身を滑り込ませ、アメリアはヨナに手を差し伸べた。

「ヨナ君、早く」

 ヨナはその手を、躊躇した。

 業を煮やして彼女が叫ぶ。


「早く来なさい!」


 こんな女の手にすがるなんて。どうかしている。

 それでもその手にすがった自分は、本当にどうかしていた。




   ***


 いずこに続くともしれない長い地下道を歩ききる。

 水音を外に聞きながら鉄扉を引いた。漆喰の封を突き破り、泥と枝を掻き崩すと、市外の小川の畔に抜けた。


「……この抜け道を実際に使う日が来るなんて、思わなかったわ」

 泥まみれになったアメリアが、ため息混じりに呟いていた。


 街の西岸に、火の手が上がっているのが見えた。

 夜風に乗って、断片的に騒ぎの声が聞こえてくる。


     焼き殺せ。

  

     赤毛のガキだ。屋敷に隠れた。

  

     アメリアも魔女だ。炙り殺せ。


「もう! あたしは魔女じゃないってのに。ふざけた奴らね、あたしの苦労も知らないで」

 地団駄を踏んで悪態を付くアメリアに、ヨナはぽつりと問いかけた。

「……どういうことだ」

「わからない? 街の連中が火をつけたのよ。保安官の魔女ナサニエルが死んだから、調子に乗ったんでしょ。もともと皆、魔女に治安を握られてるのが不満だったから。で、あたしも一絡げに魔女扱いされて、殺されそうになってるみたいよ」


 まるで他人事のような口振りだ。

「……なんなんだ。お前は」

「アメリアよ」

「頭がおかしいのか? どうして何でもかんでも、飄々として居やがる。結局お前は……オレの左腕を狙っているんじゃ、なかったのか?」

「は? 左腕? いらないわよ。貰っても腐るだけじゃない」

 ……訳が分からない。

「それに、お前は、呪書に寄生されてるんだろう。いつどんな災厄を発するかも分からない、得体の知れない呪書に。なのになぜお前は……」

 オレと違って。

 そんなに、平然と。


 アメリアは、きょとんとしてヨナの言葉を聞いていた。

「災厄って? もしかして……これのこと?」

 破れたシャツをめくり上げ、脇腹を見せてアメリアは尋ねた。ヨナは憮然としたままだ。


「災厄、……ぷっ……。あははははは」

 アメリアは唐突に笑い出した。

「っ! 何がおかしい」

 ヨナの背中をぽんぽん叩いて、アメリアは笑い転げている。

「ごめんごめん。まさか、きみが知らないなんて思わなかったんだもの! だってこの呪書、君の――…………え?」

 アメリアの言葉を遮るように、夜闇が不意に背を伸ばした。彼女は目を見開いてそれを見つめる。


『ずいぶんと騒がしい夜を楽しんでいるようだが。気分はどうだ? ”千里眼”ごときに食われかけた気分は』

「……カラス。てめぇ、覗き見か」

 吐き捨てるようにそう言うと、ヨナはさっさと立ち上がった。

「適当な街で馬を買う。こんな街、二度と近寄るか」

 黒の紳士の脇をすり抜け、ヨナは街道方向に歩き始めていた。

 アメリアは少年と紳士を交互に見つめていたが、


「あたしも行くわ。ヨナ君」


 ヨナは露骨に眉をしかめた。

「なんだと?」

「どうせあの街には居られないもの。いつ追い出されても良いように、最低限の蓄えくらいは持ってるしね」

 地下牢に掛けてあった荷物をずしりと揺らして笑っている。本当に抜け目のない女だ。

「君はとっても可愛いんだもの。一緒にいたいわ。いいでしょ?」

「ふざけるな。テメェなんて願い下げだ」

 ヨナは逃げ出すように駆けだした。

「あ、待ってよ」

 アメリアは数歩追いかけて。それから思い出したように、カラスを振り返った。


「ねぇ。あなたは、父から腎臓を抜いた人でしょう?」

 

 カラスはわずかに、瞳を細めた。

「あたし、覚えてるの。ヨナ君に似た女の人が、父の腎臓で呪書を編んで……だから、あたし、生きてるの。ヨナ君のも同じでしょう?」

 カラスは何も答えない。唇に三日月の笑みを浮かべたままだ。

 アメリアは笑って肩をすくめた。

「わかったわ。もう聞かないし、言わない」

 くるりと背を向け、彼女はヨナを追いかける。

「待ちなさい、ヨナ君!」



『――愉快な夜だ』

 カラスは小さく呟いて、かつり。かつりと二人の後を歩き始めた。

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