第四章  ⅩⅦ


 全てを理解したわけではなかった。それでも、自分が何をするべきなのか、彼女を見れば理解する。カノンはすでに、拳銃を銃用革鞘ホルスターに収めていた。

 振り返ったアディリシアと目が合った。言葉にするには足りない瞬間でしかない。

 彼女は、眼光だけで告げる。その美しき蒼の瞳は言外に告げるのだ。『なんとかしろ、犬』と。カノンは微苦笑を浮かべる時間もないから、胸の中だけで告げる。『任せろ』と。

 身体に染み付いた射撃体勢は極限の脱力。世界は色を失う。臭いを殺す。音を潰す。敵と己、そして拳銃だけで構成される。全てが水飴の海に落ちる運命の分かれ道。カノンは彼女達の想いに応えるために、己が肉体と精神を極限の狭間へと追い込んだ。だが、慣れた場所だった。懐かしささえ覚える。――狙いはミーシャへ。全ての元凶である女を狙う。

 余程の事情があるのだろう。同情するべきかもしれない。だが、それでも、カノンはアディリシアを傷付けようとする者なら、たとえ神だろうが殺すと決めたのだ。


 ――咲き誇るは紅蓮の猛火と白き閃光。そして、蒼き炎の軌跡。


 世界が色を取り戻す。音も、匂いも。そして、人の心も。カノンの右手は拳銃を掴んでいた。肘はほぼ直角になるまで曲げられ、左腕は腹部へと当てられている。

 銃口から漏れ出すのは、密度が濃い白い煙。弾倉は空になっていた。いつの間にか傍に歩み寄っていたアディリシアが、呆れ半分感嘆半分の言葉を贈る。

「六連発――貴方は、本当に人間ですか?」

「あっはっはは。少なくとも、人の心を踏み躙るような化け物じゃないさ――とっ」

 アディリシアがカノンへと体重を預けるように足から力を失う。男は慌てて彼女を支えた。その両肩は微かに震えている。緊張の糸が解けてしまったのだろうか。顔を覗き込もうとすると、ぐいっと顎を右手で押される。首がゴキンと異質な音を立てた。

「私よりも、敵を見なさい」

 戦場でも、アディリシアは銃士だった。カノンは彼女を優しく地面に降ろし、新しく単発式の拳銃を引き抜いた。まだ、戦いが終わったと、確認していない。そして、きっと、綺麗には終わってくれないのだから。歩を進めた先にはまず、リトラが倒れていた。

 リトラは愕然と前だけを見ていた。カノンもまた〝それ〟を見る。地面には、仰向けになって少年が一人、倒れていた。数日前に出会ったヤレイと言う少年だ。服は全て破れ、その身体からは夥しい量の血が流れている。まるで、野犬の群れに襲われたかのように。

 魔物への変貌が強制的に停止される。一体、彼の小さな身体には、どれだけの負担がかかったのだろうか。カノンは、単発式拳銃の撃鉄を起こし、引き金を絞る。狙いは、彼に。

 リトラが悲痛な叫びを上げた。

「カノン、止めて!」

 弟を守るために、姉は剣を杖代わりにして立ち上がる。今すぐにでも、喉元を食い千切らんと跳びかかりそうな殺意を孕んだ瞳に、カノンは苦い笑みを浮かべたのだった。

「安心しろ、俺はコイツを助ける。手前、俺が攻撃だけの男じゃないって、忘れたのか?」

 カノンは上着の内から緑が濃い液体が入った硝子瓶を取り出した。柔木封コルクを外し、中身をヤレイの左胸へとかける。傷口が染みたのか、少年が僅かに呻いた。そして、仕上げに発砲。銃口から溢れるのは、優しい光だった。それは、彼が生み出した術式、治癒能力の増加。みるみるうちに傷口が塞がっていく。魔術だけではない。アネラスから譲り受けた薬は『妖精の森の紡ぎ手』秘伝の治療薬だった。

「本当なら、この治療薬そのものを術式で再現するはずだったんだ。ったく、これで三グリードが〝おじゃん〟だぜ。誰が弁償してくれるんだよ?」

 皮肉を言う間にも、ヤレイの傷が治っていく。カノンは、さらに二発、三発と魔術を繋げた。どうやら、見かけ以上に変貌は大きな負担にはならなかったらしい。か細かった少年の呼吸も、だんだんと安定していく。

 だが、その時だ。怨嗟に歪んだ声がカノンの鼓膜を叩いたのは。

「どうして、私様の邪魔をするのかなぁ?」

 倒れていたミーシャが身体を起こす。その姿は、満身創痍と呼ぶに相応しかった。体中が血に染まっている。まるで、刀剣の嵐に巻き込まれたかのように。だが、驚愕を隠せなかったのは、カノンの方だった。有り得ない。あの術式は『斬光滅却 壱式 月牙シュナイザー・ザインオール』。着弾した対象を見えない刃で切り裂く剣呑極まりない魔術だ。透明な刃の硬度は、魔術が重なるほど、高まり、威力を急上昇させる。六発の相乗術式なら、人間は形さえ保てないはずだというのに。確かに心臓を狙ったはずだ。たった三十メルターで外すはずがない。

「そうか、お前も神様と契約していたんだったな。じゃあ、魔術ぐらいは通用しないか」

「いやいや、これでも随分と痩せ我慢しているんだよ。首とか、心臓を〝少し〟なら、再生するのは難しくない。けど、全身を千以上の断片に切り刻むのは反則でしょう。ったくさぁ、君は面白い男だな。自分よりも幼い娘を表で戦わせて、戦況が不味くなればシャシャリ出る。大人の傲慢だね、それは。……流石は、あのリザイアの弟か。全く、これだから王国の軍人は。そうやって、いつも力でねじ伏せようとする」

 怨嗟の言葉を、カノンは否定出来なかった。だが、代わりに返事をした女がいたのだ。

「王国って言葉だけで、人を定めるな、ミーシャよ」

 戦いに一度も参加しなかった女、ミーシャがカノンの隣に立つ。弟を一瞥し、何か納得するかのように頷いた。そして、黒髪の魔女へと向き直り、淡々とした口調で語り出す。

「私が語ってやろう。王国の真実というものを」

 ミーシャが怪訝そうに眉を顰める。その表情はリザイアの言葉で変化してしまうのだ。つまりは、衝撃へと。あるいは、絶望へと。

「小国『ノワール・メージュ』へと先に戦争を仕掛けたのは、帝国側だ」

 危うく、カノンでさえ『そんな馬鹿な』と言いかけた。一般的な教科書には、先に戦争を仕掛けたのは小国側とされている。そして、裏では王国側だったと推測されている。ならば、リザイアが語った真実はもっと底、廃棄されたはずの歴史、その断片なのだ。

「帝国は『ノワール・メージュ』を占領し、戦争用の戦略地点に変えようとしたのだ。もしも、帝国の好きなようにさせていれば、小国の民は奴隷当然の扱いを受けていただろう。邪魔な赤子や老人は殺され、女共は兵士の慰めものになっていただろう。嘘だと思うか? 知っているだろう十年前の『クリザリア防衛線』を。帝国は偽装が十八番だからな。魔術を持たぬ小さな国を攻め落とすなど、平然とやってのける。だが、帝国の悪事を良しとしなかったのは他でもない王国の女王様。当時は二十四代目のエヒール様だったな。エヒール様は、秘密裏に帝国の侵攻を食い止めた。そして、一つの決断をした。独立していた小国を、王国と統一させようと。そこからは、不幸な偶然の連鎖だったのだ」

「う、嘘だ! 私様は、そんな話しをお父様からも、お母様からも聞いていないぞ! そんな証拠ない話を、誰が信用するか!!」

 ミーシャの激昂は、迷いの色が残っていた。リザイアが、こんな場面で嘘を着く理由がまるでないからだ。そして、黒髪の魔女は悲痛で顔を歪める。とても痛々しくて直視など出来たものじゃない。

「じゃあ、私様の怒りは、憎しみは、悲しみは、全部全部勘違いだったって言うの? 神様と契約して、人間止めて、それでも勘違いの一言で済まされるような話しだったの? あはっはははっはははっははははっははははっははは!! 駄目だよ、それだけは駄目。私様は私様の血に従ってこれまで生きてきたんだ。だから、全員殺す。そう決めた」

 理性なく、暴走しかけるミーシャ。カノンは『レイン』の姉妹銃を抜こうとするも、息を飲む。女が、苦しそうに胸を押さえて片膝を着いたからだ。

「限界か」

 リザイアが感情を込めず、事実だけを告げた。ミーシャが、苦しそうに顔を顰めながらも、気丈に笑う。

「く、ははっはははははは。残念だ。流石に、死に過ぎた。自分の身体を再生する回数が無限なわけがない。ああ、けれど、カノン。君がいなければ、勝てたんだけどな」

「こっちだって、必死だったよ。正直、もう二度と、手前と戦いたくなんてない」

 正直なカノンを、ミーシャは小さく鼻で笑った。

 ミーシャはよろめきながらも、ゆっくりと立ち上がる。そして、ノロノロと踵を返して歩を進めたのだ。二十メルター先にあるのは、世界を繋ぐ海。地上と海上を別ける境界。このまま進めばどうなるか、子供でも容易に理解するだろう。カノンは止めようと駆け出そうとするも、その肩をリザイアが掴んだのだ。

「離してくれよ、姉ちゃん!」

 だが、リザイアは首を横に振ったのだ。その意味を、カノンも理解する。彼に残された道は、ミーシャを撃つか見逃すか、その二つしかない。だが、姉の言葉を聞いた後で撃てるわけがなかった。完全な鬼に成り切れなかった。まさか、小国が被害者側だったなんて。ならば、見逃すのか? それこそ、駄目だ。ここまで街に損害を出した者を、そう易々と助けてはいけない。そんなことをしてしまえば、秩序が乱れる。甘い心根で、これからの戦いを生き残れるわけがない。

 通すべき筋があった。それでも、人として否定したい欲があった。カノンは歯を食い縛り、ミーシャの背中を睨みつける。

「……ミーシャ、逃げるのか?」

 カノンがやっと絞り出した言葉に、ミーシャは足を止めて振り返る。その表情は不思議なほどに穏やかだった。まるで、ずっと背負っていた積み荷を、今、降ろしたかのように。

「逃げるんじゃないよ。ここが、私様の終着点。ただ、それだけの話さ」

 ミーシャの身体に、亀裂が走った。右手の先から肘にかけて。まるで、彫刻に罅が入ったかのように。血の気がない少女の腕は、本当に、精気のない石へと成り果てたのだ。

 彼女が契約した『破滅を選ぶ偽神アルバルト・セーバー』である『茂られる宝杖・パルセルナ』の代価は、魔物への強制的な変貌だったか。魔物は多くの種類がある。石造の巨人だって存在する。一体、今から彼女は、何に変わろうとしているのか。ミーシャが再び、海へと歩を進める。

「イヤー、残念ダッタなぁ。モウチョットだったんだけどなぁ……」

 声が、掠れていく。まるで、声帯が、喉が硬質化していくかのように。脚からポロポロと石の欠片が落ちる。まるで、破滅へと誘われるかのように。何もせずとも、彼女は死ぬだろう。まるで、これまでの罪を強制的に償わされるかのように。

「ミーシャ!」

 その叫びは、カノンでもリザイアでも、リトラでもない。アディリシアが片足を引き摺りながら、ミーシャへと近付く。黒髪の魔女は、後三歩も進めば海に落ちる。潮風が、二人の女の前髪を揺らした。

「一つ、言っておきましょう」

 カノンはきっと、今日、初めてアディリシアの〝弱音〟を聞いた。

「私が生涯勝てなかった相手はきっと、貴女が最初で最後ですわ。ゆえに、誇りなさい」

 傲慢だが、彼女にとっては、最大級の称賛だろう。ミーシャが、クスリと笑う。

「……私様達さぁ。出会いが違えば、友達になれたかな?」

「あら、今からでも遅くはないでしょう。パトリシー・メイスンの歌にもこんな一節があります。『どんなに憎い野郎でも、殴り合って、最後に酒を飲めば〝こともなし〟ってね』」

 こんな時までパトリシーかよ。カノンは頭を抱えたくなった。だが、彼女ら叱った。だから、ミーシャも笑ってくれたのだろうか。そして、黒髪の魔女は歩を進める。

 一歩。

 二歩。

 三歩。


「負けるなよ」


 ――人一人が落ちたには、あまりにも大きな水飛沫が散った。アディリシアは岸のギリギリまで近付き、海面へと顔を近付ける。しかし、そこにはもう気儘に揺れる波が浮かぶだけだ。カノンは拳銃を全て元の場所にしまい、両手を空にした。そして、少女の肩をぽんと軽く叩く。

「帰るぞ。……街が、静かになった。戦いが終わったんだ」

 アディリシアは一度だけ頷き、そのままくるっと踵を返す。先程までは足を引き摺っていたのに、今は早足でカノンから離れる。顔は俯かせたままだった。まるで、彼に絶対に見せたくない表情が、そこにあるかのように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る