第四章  ⅩⅥ


 ――世界が歪む光景を、アディリシアは確かに見た。ミーシャの眼前で、光りが捻じ曲がる。少女の方向からは、敵の姿が水面の煌めきに囚われたかのように歪んだのだ。そして、有り得ない〝人影〟が〝召喚〟されたのだ。他に、なんと説明する? リトラと名も知らぬ少年が石畳みの地面へと落ちたのだ。まるで、遠く離れた空間同士を繋がれたかのように。空間転移など、現代の魔術が可能とする許容範囲を超越している。まさに、古き神話の再現。

 流石は教会が認めた殺人集団、聖導騎士の先鋭か。リトラが瞬時に状況判断し、腰の短剣を引き抜いた。ミーシャを真っ向から睨みつける。だが、彼女は判断を間違えた。ヤレイを今すぐにでも連れて逃げるべきだった。アディリシアは今日、何度目か忘れた驚愕を覚える、見てしまう、出会ってしまう。

「ヤレイちゃーん。だめでしょー、負けちゃあ。地下にいる人達を魔物に変換してるんだから、バレちゃあ駄目でしょう? 持ち場から離れるとか、これはもう、強烈な罰が必要だねえ。いやー、こればっかりは使いたくなかったってわけよ。けど、ごめんねー」

 ミーシャが嗤う。楽しそうに嗤うのだ。状況を飲み込めないヤレイは頭を振って、顔を上げ、やっと黒髪の魔女と目が合った。まるで、乙女のようにか弱い悲鳴を上げる少年。ああ、全てが遅い。もう、間に合わない。

 ミーシャがパチンと指を鳴らす。まるで、何かの合図であるかのように。あるいは、何かの区切りであるかのように。

「ぐ、ぁああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!」

 人間の喉から溢れる声。そのはずだ。なのに、アディリシアの鼓膜は〝それ〟を否定する。熊のように、蒸気機関のように、落雷のように。どれか一つではなく、全てを綯い交ぜにしたかのように。不可思議な重く、低く、鋭く、そして苦悶の叫び。ヤレイの身体が泡立った。それは、文字通りの意味で。皮膚の内側から、何かが盛り上がる。表皮が裂け、骨が飛び出し、血管が乱舞する。遅れて、理解する。あれは肉体の置換。ミーシャは言った。『沈黙した古き神々アルバンス・サーバー』の一柱『茂られる宝杖・パルセルナ』と契約したと。その能力は人を魔物へと変化させることだと。ならば、今、目の前で何が起こっている?

「ミーシャ! 貴女、なんということを」

 肉体を変貌させるヤレイへとアディリシアが銃口を向ける。だが、呆然と立っているリトラが邪魔で狙いが付けられない。

「退きなさい、リトラ!!」

 アディリシアの行動は正解だった。この場面だ。弱い魔物に変化するわけがない。最悪、指定駆逐種以上の凶悪な魔物が誕生する危険性がある。だからこそ、完全な変貌を遂げる前にヤレイを討つべきだった。だが、聖導騎士は子供のように理屈ではない否定を以って首を横に振った。痺れを切らした少女は、目の前の女を押し退けて射線を確保しようとして、眼前に銀光が跳ねた。咄嗟に首を逸らし、前髪を数本、短剣に千切られる。信じられないと大きく見開いた眼が映したのは、悲痛な色で顔を歪ませる修道女の姿。

「弟、なんだ。私の、弟なんだ!」

「だから、どうしたと言うのですか!!」

 アディリシアは退かない。だが、リトラも退かない。互いに守るべきモノがあった。それでも、清い志はこの場では不要だった。嗤うのは、ミーシャだけだったのだから。

「きゃははっはあははっははははははははっはははは!! こいつは愉快だねぇ。騎士が銃士を止めるか。けど、不幸だねぇ。この少年はすでに私様と同じく『破滅を選ぶ偽神アルバルト・セーバー』なのさ。『茂られる宝杖・パルセルナ』と契約した代償は、自分自身の墜落。魔物への変貌。この子は、私様のように完全な〝適合者〟じゃない。だから、契約した反動が大きいのさ。さあ、さあ、さあ! 此処に生まれろ。愚かで愚かで愚かしい怪物よ。いやー、やっぱり保険はかけておくべきだねー。例えるなら、葡萄酒の熟成かな? 良い具合に育ってくれたよ。私様への負担も小さくて済んだし、けどちょいっと失敗だったかな。この子、街の人間は襲わないって変な命令を出すだもん。被害が小さくなって残念だよ」

 だから、魔物は無力な人々を襲わずに、建物や車、生命なき物だけを破壊していたのか。

 アディリシアはリトラの弟に、最大限の敬意を抱く。そして、同時に聖導騎士へ発砲。右膝を大口径の弾丸で穿たれた女が、その場に膝からくずおれた。銃士は、悪以外を撃ってはならない。胸に刻んだ誓いに今、少女自身が泥を塗った。苦渋は、魂を砕くかのよう。

 それでも、必要だった。アディリシアは瞳に涙を浮かべ『レイン』の銃口をミーシャへ向ける。もしも、ヤレイの変貌が彼女の能力によるものなら、先に敵を撃てば変貌は止まるかもしれない。――撃つしか、方法は残されていなかった。迷いはあった。

(私では、届かない。……普通の弾丸じゃない。魔弾での連射。相乗術式の顕現が)

 カノンが作った術式に『甲破掃界式・真槌ザインベル・アルダリオ』という術式がある。それは、多連式結合魔術と呼ばれる二世代魔術の極致の一つ。多数の魔術を複合する技だ。少女は、彼から、もう一つの到達点を聞かされていた。それは面ではなく、点。一点だけに術式を重ねる相乗術式を。まるで、槌とノミで同じ場所を何度も穿つかのように威力を重ねる技。

 刹那の時へ複数の弾丸を重ねる。連射を超えた連射。瞬間の連撃。アディリシアは四発まで弾丸を速射する。――だが、それだけだ。どうしても、着弾点が微妙にずれてしまう。そして、もっとも致命的なのは鉛球と同じように魔石の連射が出来ない点だ。

 それは、心の隙だった。異能者に対し、通常の弾丸は弱い。だから、迷いなく連射する。

 一方で、魔石、つまり魔術を放つ弾丸はどうだ? 掠めただけでも、多少の損傷は期待出来てしまう。鉛よりも格段に威力が高い魔石の輝きが、少女の目を鈍らせるのだ。

 アディリシアは銃を銃用革鞘ホルスターにしまえなかった。速射の絶対条件である身体の脱力が満たされていない。友を撃ってしまった衝撃、そして一度負けた相手への恐怖。二つの感情が少女を苦しめる。

(カノン――私の犬なら、なんとかしなさい!!)

 その願いは神に届かない。


 ――しかし、彼女は確かに〝猟犬〟の咆哮を聞いたのだ。


「伏せろ!!」


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