第四章  Ⅶ


 リトラ・トエンディは孤児だった過去がある。自分の両親がどんな人間だったのか、もう覚えていない。少しでも思い出そうとすると、猛烈な吐き気と目眩が襲うのだ。だから、彼女が持っている一番古い記憶はいつも、十歳になったばかりの寒い冬の夜から始まる。

 湾岸都市・アマンデールの冬は厳しい。屋根もない外で眠るのは、死にも等しいのだ。零下を軽く越し、肌を露出させた手足は簡単に壊死する。貧困窟で、凍った子供の死体が転がっているのは珍しくない。身寄りのない子供や老人を保護する救済院制度はあるも、全ての人間を助けるのは不可能だ。いつの世も、貧しい人間には辛く、厳しい。

 そんな社会的弱者が多く集まった地下街でも、冬の寒さは猛威を振るっていた。皆が建物の中に入り、薪を燃やしている。

『ったく、ヤレイの馬鹿は帰ってこないでどこをほっつき歩いているんだい!』

 狭い家で一人、リトラは暖炉の前で弟の帰りを待っている。当時の彼女にとって、食料を得るために地上に出て泥棒するのは常識だった。ヤレイはまだ六歳足らず。彼女が食料を探さなければ、弟と共に飢え死にしてしまう。なのに、今日ばかりは自分が行くと言って聞かなかった。止める声も聞かず、とうとう他の男連中に隠れるように着いて行ってしまったのだ。そして、現在に至る。連絡などなく、薪が燃える音だけが室内を満たす。

 暖炉の上に古臭い鍋が一つだけ置かれている。元々は地下街建設の作業員が寝泊まりするだけの家に、台所などなく、暖炉が焜炉の役割も担っているからだ。鍋の中身は汁物スープ。限りなく透明に近い茶褐色で、具は屑野菜が少しだけ。こんな物でも、口に出来ない者が地下には大勢いる。リトラはまだ、夕食を取っていない。ヤレイが『こんな小さな鍋に入らないぐらい大きい肉持って来てやるからな!』と豪語したからだ。

 ただ、本当は弟と一緒に夕食を取りたいだけだった。独りは、あまりにも寂しい。

 だから、玄関の扉が開いた時、一瞬だけリトラはぱあっと顔を輝かせ、すぐにきゅっと表情を引き締める。悪い弟を叱るのは、姉の役目だからだ。

「こら、ヤレイ。こんな遅くまで、一体どこにほっつ、き……」

 拳骨の一つでも飛ばそうとしたリトラの右手が顔の高さまで上がって、そのまま虚空を切ってしまう。少女は息を飲んだ。そして、慌てて駆け出す。僅かに開いた扉の隙間から、ずるりとヤレイの上半身だけが見えた。弟が倒れていたのだ。仰向けに倒れ、左腕だけが室内へと伸びている。まるで、最後の力を振り絞って、ようやく扉を開いたかのように。

 ヤレイの身体はボロボロになっていた。ただでさえ粗末な服がボロ雑巾同然になるまで擦り切れている。外気に晒された手足は、赤紫の斑に染まっていた。どれだけ殴られれば、ここまで腫れるのか。小さな顔が二回りも膨らんでいる。

「ちょっと、ヤレイ! どうしたんだい。こんな、ボロボロになって」

 盗みを働いて殴られるのは、そう珍しくない。だが、これはあまりにも酷い。ここまで痛めつけられた姿を、リトラは初めて見た。弟の息はか細く、目蓋は腫れあがり、ろくに物が見えていないのだろう。左手が何かを探すかのように虚空を泳ぐ。少女は、綿さえ潰さない優しさで手を掴んでつもりだった。しかし、まるで熱した鉄針を刺されたかのように、少年は悲鳴を上げる。

「ね、ん、ちゃ、ん」

「喋るんじゃないよ。教会に行こう。あそこなら、頭を下げれば薬を別けてくれるさ」

 だが、姉の声が聞こえていないのか。弟は、何かを必死に語るのだ。よく見れば、その頬に涙のあとが。

「      ご   め、    ん」

 なんとかヤレイを寝具台ベッドに寝かせた時だ。誰かが扉を叩いた。リトラが扉を開けると、外には数名の男連中が立っていた。今日の夕方頃に地上へ向かった連中だ。皆が殴られ、蹴られたようにボロボロだったが、弟よりも酷い傷を負った者は誰もいなかった。一人の青年が、彼女へと申し訳なさそうに、ズタ袋を渡した。中には、子供二人分の夕食を彩るには十分過ぎる量の肉が入っていた。なんの肉かは分からない。それは一個の塊ではなく、切れ端や固い部分を削いだような物が詰まっていたのだ。少女が呆然としていると、青年が先に語った。

 男連中は、とある料理店が廃棄した食材を狙ったらしい。だが、運悪く見付かってしまい、襲われたそうだ。それも、店側が雇った傭兵共に。当時は、地下街の住民が金品を盗む事件が多発していた。どんな理由があろうとも、盗む側は世間一般では悪人とみなされる。盗んだ物が、どうせ捨てられる物だろうと〝関係ない〟のだ。分が悪いと、全員が逃げた。しかし、ヤレイは逃げずに、あろうことか傭兵の一人に殴りかかったらしい。

『ヤレイが言ってたんだ。姉ちゃんと約束したからって。俺達は、途中で逃げたけど、アイツだけは絶対に逃げようとしないで――すまない』

 それだけ告げて、男達は家を去った。リトラには、手渡された肉がヤレイの取り分なのか、それとも罪悪感に駆られた男達が施してくれたのか分からない。それでも、この肉がなければ弟はここまで傷を負わずに済んだことだけはありありと理解した。

 弟がここまで傷付いた悲しさ。助けてやれなかった悔しさ。貴族どころか平民でも遠慮するような〝粗末な食料〟がなければ生きていけない惨めさが幼い少女の心を蝕んだ。

 全ての感情を統合するのは怒りだった。どうして、自分達がここまで苦しまなければいけないのか。ここまで惨めな生活をしなければいけないのか。頭の隅では、それが貧乏人のしみったれた言い訳だと分かっていても、はいそうですかと納得出来ない。


 ――過去の残照は尾を引いて線と化し、閃と成る。銀の軌跡が血生臭い大気を割った。


 剣に神を宿したリトラは上段からの打ち込みの反動を利用して後ろへと跳んだ。まるで、重さを忘れてしまったかのように。あるいは、重力を逆転させたかのように、天井に着地する。地下へと続く一本道、だが、その広さは蒸気機関車用の線路を二つ並べられる程、拡張されている。まるで、巨大な何かを運び出すかのように。

 天井を蹴り、地面へと足を付ける。ゆうらりと音もなく立ち上がったリトラの目には鬼の狂気が渦巻いていた。それは、動揺も悲愴も苦悩も全てを纏めて煮詰めた迷いを腹の底へ押し込んだ焦燥だった。そんな彼女に、声をかけるのは見知った少年。

「止めてくれよ、リトラ。俺達の邪魔をしないでくれ」

 歳はどう上に見積もっても二十代には届かないだろう。弟は今年で十八歳だ。身長はグングンと伸び、今ではリトラとそれほど変わらない。着ているのは、粗末な黒い上衣服ジャケッド下衣服ズボン腰巻ベルトには、数年前から剣や投擲用の小さな斧を提げている。無造作に短く切った髪は磨くのを忘れた銀のようにくすんだ灰色だ。地下街では、陽光が当たらないせいか、その皮膚は不健康に青白い。それでも、元気は有り余っているらしい。まるで、村の作物を荒らす嵐が人の子となったかのように。つい、狐を連想してしまうほど目尻が吊り上がった視線で、遠慮なく姉を上下くまなく観察する。それは、剣を構えた相手の一挙一脚を絶対に見逃さないようにするためだ。

「ふざけたこと言ってんじゃないよ。不肖の弟を止めない姉なんていやしないさ」

「ガキ扱いするんじゃねえよ! 俺達は今、革命を起こすんだ」

 いつ拡張したのか分からない地下通路には、ヤレイ・アーシュとリトラ。そして、数体の魔物が牙を剥いていた。此処で、孤立しているのは聖導騎士だけだ。

 リトラを阻むようにヤレイが、その後ろに魔物が控えている。それは、奇妙な光景だった。凶悪で知られる魔物の群れが飼い慣らされた犬のように、少年の命令を待っている。

 半蜥蜴半人リザーディマンが人間に懐くなど、有り得ない。実戦で腕を磨いたリトラだからこそ、余計に用心深くなっていた。先の一撃はほんの挨拶代わりだ。もしも、彼女が本気を出せば、ヤレイの腕を、その短剣纏めて両断している。『白光八界輝石フロア・ブロアーナ』の硬度は石を石鹸のように切り裂くのだから。

「誰に唆されたんだい? あのミーシャって女にか!?」

「違う。唆されてなんかいない。俺は、俺は、自分の意志で戦ってるんだ!」

 ヤレイの訴えを、リトラは剣狼の咆哮で一蹴する。

「一人で立てないガキが、大口を叩くんじゃないよ!!」

 身を限界まで低くし、地面を滑るようにしてリトラは一気に距離を詰めた。ヤレイを守るように身を固めてきた半蜥蜴半人リザーディマンの群れに、剣撃を放つ。真横に一閃。音を殺した一刃はあまりにも静か。三匹纏めて蜥蜴の首が飛んだ。断面から鮮血が飛び出し、女の服を汚す。鉄錆びの飛沫を受けてなお、聖導騎士は動きを止めない。石斧の反撃など、まるで間に合わない。一秒と同じ場所に留まらず、剣を振るう。精密な機械であり、轟雷が鍛えた殺意の暴力。音を越えなければ魔術に届かず、刃は壊れない。それは、手加減前提の剣技だった。従来の速度がない分、その太刀筋は流水のように軽やかで、容赦がない。木の葉を遠くへ流す川に、人の意志が反映されないように。今の彼女は魔物を討伐する一つの道具だ。

 聖導騎士が歴代最強。『風を纏う刃翼』と謳われたアレイク・デュークナーに師事されたリトラの剣技は小物の群れなど容易に斬り飛ばす。姉の本気を間近で見た弟は、小娘のような悲鳴を上げた。それでも、退かない。そして、騎士は有り得ない言葉を聞いたのだ。

「  ココ    シテ    コロシ   テ   殺シテくれ」

 半蜥蜴半人リザーディマンの口から、蜥蜴の頭部から人間の言葉が漏れた。今にも飛び出しそうな眼球から一筋、透明な涙が流れる。猿よりも多少、知性がある魔物のはずだ。それでも、人の言葉を使った事例などこれまでに一度もない。ましてや、命を捨てるような真似など。

 リトラは大きく後方へ跳んだ。有り得ないと首を横に振る。だが、一度声を通せば全てが届いてしまう。鼓膜へと、不可解極まりない声の群れが押し寄せる。

「殺シテ」「コロシテ」「苦しい」「グルジイ」「イタイ」「痛イ」「たすけて」「ころして」「くるしい」「コロシテ」「痛イ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」「タスケテ」

 ――戦場で悲鳴を上げたのは、何年振りだろうか。リトラは剣を両手で構え直した。

「なんだ、これは一体なんだ!?」

 リトラの言葉に、ヤレイは笑う。その双眸からは涙が大量に溢れていた。それでも、笑っていたのだ。狂ったようにではない。狂い切れないからこその涙だった。

「俺はもう、後戻り出来ないんだよ――姉ちゃん」

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