第四章  Ⅵ


 大都市・アマンデールは前代未聞の大災厄に恐怖を沸騰、飽和させていた。それでも、一定の秩序を保てていたのは、ひとえに学園生徒、自警団の働きが大きかっただろう。四番街の教会周辺に大勢の住民が集まっていた。非常事態の際、住民が集まる場所は自警団支部か教会と決まっている。自警団と聖導騎士が守ってくれるからだ。街の外に逃げるのは愚策だった。魔物が外で暴れれば、守り様がない。一ヶ所に集まる必要があった。

 教会の一階、本来なら礼拝堂である広い部屋に二百から三百人近くの住民が集まっている。大人達は顔を蒼白に変えて息を殺し、子供ばかりが火が着いたように泣いていた。

 魔物の出現は住宅街などを避け、繁華街などの街の中心に集中している。かといって、じゃあ住宅街の皆さんは安全だから家で待ってろと言われて『はいそうですか』と納得してもらえるものではない。非常事態の際、人はまず集まろうとする。孤独よりも、集団の方が安心するからだ。たとえ、自分達では何も出来ないとしても。

 だが、街で生きる人間はけっして、弱いだけではない。恰幅の良い中年女性が夫人と若い娘達を集めて、真っ先に行動した。

「怪我をしている連中がいれば、熱い御湯と清潔な布で傷口を拭くんだ。化膿でもしたら大事だよ。アルス! あんたは泣いてる子供の世話をしな。ミランダは年寄りの体調を聞いて回れ。マルクとトーマスは見張りを手伝いな。残った皆で厨房借りて汁物スープか何か作るよ。戦ってる人達だって、腹空かせちゃ動けないからね」

 酒場で酔っ払いの相手をする女将のように威勢が良い中年女性の名はタバタ・サランサだ。元看護婦で戦場にも従軍した経験がある彼女に、怖いモノなどありはしない。

「……自分の御袋と近い歳の御夫人が働く姿は、見ていてハラハラするな」

 そんな愚痴を漏らしたのは、入り口で待機している自警団員の一人、エイム・サデーナイトだった。二十代後半の男で、燃えるような赤髪である。背が高く、体格はぎっちりしていた。黒い制服の上から、手の動きを阻害しない軽鎧を纏っている。装備は腰の湾曲剣サーベルと輪転式拳銃。そして、両手で銃剣付きの小銃を構えている。教会には学園の生徒が六名と、聖導騎士が二名。自警団員が彼を含め四人集まっていた。

 エイムは自警団の中でも若手である。自警団は、目的が『街の安全』である以上、外での行動は原則的に禁止されている。なので、団員の間には一度も魔物と交戦した経験のない者が多い。彼もその中の一人だった。学園生徒の二年生の方が、まだ多いだろう。

 血気盛んな彼にとっては、魔物が蔓延る繁華街ではなく、魔物の姿が見えない教会で待機するのは苦渋でもあった。分かってはいても、卑屈になってしまう。一方で、学園の生徒も生徒で緊張していた。魔物を見付ければ躊躇なく襲い掛かる五、六年生とは雲泥の差である。

 エイムが落ち着きなく小銃を何度も握り直していた時だ。礼拝堂の奥から、これまでと違う騒がしさが滲み出す。

「爺さん! おい、爺さん! 大変だ、この爺さん、胸押さえて苦しんでるぞ!」

「けど、どうするんだい? こんな時に病院まで運ぶっていうのかい!?」

 いてもたってもいられず、エイムは人混みを掻き分けた。いつもは参例者を座らせる長椅子に、一人の老人が横たわっていた。枯木のような腕で苦しそうに左胸を押さえている。動悸が激しく、呼吸は乱れていた。固く目蓋を閉じた顔には、尋常ではない量の脂汗が滲んでいる。素人目でも、一刻でも早く治療しなければいけないのがありありと理解出来た。

 周りの人間は当然、助けようとするも、困惑した様子で遠巻きに眺めるだけだ。中には、とばっちりはゴメンだとそそくさ離れる者もいる。エイムは、自然と足を止める、いや、硬直させてしまう。自警団なら何とかしてくれるんじゃなかろうかと、周囲の視線が集まっていたからだ。だが、それは本人にとって針のむしろに等しい。

(ここから一番近いのは四番街のガスクトン医院か? どうやって移動する? 背負って行く? 馬鹿、無理だ。なら、車か? くそ、魔物から守りながら移動するなんて無茶だろうが。けど、やるしか――)

「――ああ、ごめんごめん。ちょっと、通してくれないかな?」

 そんな声がエイムと老人の間に割って入った。自警団の男は呆気に取られるも、すぐにソイツの肩を掴んだ。

「お、おい、素人が勝手に」

 だが、首だけを後ろへと曲げて〝彼女〟はエイムの声にも退かず、堂々と言ったのだ。

「僕が〝素人〟だって? 冗談はよしてくれ。少なくとも、そこらの医者よりは良い目を持っていると思うよ」

初夏の森に芽吹く柔らかくも力強い若葉を想わせる真緑の髪は、肩に触れるか触れないかの位置で適当に切り揃えられ、蜂蜜を濃く煮詰めたような褐色の肌がむっちり艶のあると瑞々しい張りを誇っていた。瞳は赤い宝石の王様・深血階総璧玉カーバクル・エステレイと同等の玲瓏な煌めきを秘めており、眠たそうに目蓋が半分以上閉じていた。耳の先端がやや尖っており、魅力的な八重歯がキラリと光る。エイムはばっと手を離す。美女だとは、思いもしなかった。

 歳は十代後半か、二十代前半か。おっとりした雰囲気で、喋り方もゆったりだった。

 汚れを目立たなくするためか。服装な何かの作業衣らしく、灰色の上着に下衣服ズボンを着ている。あまりに色気の欠片も無い格好だと、やや残念。異性なら嘆かざるを得ないだろう。せめて、単一着ワンピース女用下衣スカートか。そんな彼の嘆きを読み取ったかのように、彼女は微笑む。

「残念だったね? 僕は無駄に着飾る趣味はないのさ」

 一瞬、ドキッとするも、そんなエイムに構わずに褐色肌の女性は、苦しむ老人の前で片膝を折った。その瞳が、まるで賢者か学者のように険しくなる。それは診断だった。

「……狭心症だねぇ。激しい運動をしたものだから、心臓に酸素が足りなくなっているのさ。ああ、けれど、症状が軽くて安心した。これなら、手持ちの薬でなんとかなりそうだ」

 少女は腰巻ベルトに吊っている小物入れ《ポーチ》から硝子の小瓶を取り出した。栓を抜き、中に入っていた濃い青紫の粒を三つ取り出す。綺麗な丸で、植物の種のようでもあった。

「誰か、水を持って来てくれないかい?」

 彼女の言葉に、修道女だろう若い娘が一早く木製の杯に水を汲んできた。

「さあ、飲んでくれ」

「あ、おい、勝手なことされても困るんだよ」

 エイムが止めようとした時だ。近くに集まっていた幼い子供達が、褐色肌の彼女を見て、歓声を上げたのだ。

「アネラスおねえちゃんだ。おねえちゃん、おじいちゃんたすけて!」

「おねえちゃんのオクスリ、すっごくにがいけど、すっごくきくんだもんね」

 ようやく、エイムの耳に、周囲の声が届く。『薬屋のアネラスだ』『ああ、どこかで見覚えがあると思ったら』と。どうやら、信頼に値する人物らしい。苦しんでいた老人も、アネラスの顔を見ると躊躇なく薬を飲んだ。そして、一分、二分、三分と経過すると、だんだん呼吸が安定してきた。顔から汗が引き、表情も穏やかになる。わあっと周囲で歓声が上がった。

 アネラスが安堵したように胸を撫で下ろした。すると、二階の方から大慌ての様子で老婆がもどかしくも駆け降り、呼吸を安定させた老人の前で涙ぐみながら跪く。エイムは二人が夫婦なのだと、確信した。それだけの空気が、二人の間に、確かにあった。

 老婆は老人の手を取り、二言三言告げる。老いた夫は小さくも、はっきりと頷いた。そして、次に老婆はアネラスへと何度も頭を下げたのだ。

「急いで逃げたものだから、薬を家に忘れてきたんです。助けてくれて、ありがとうございます。本当にありがとうございます」

「……安心してください。此処までは魔物も来ないでしょう。もう少しの辛抱ですよ」

 まるで、未来が見えるように、随分と軽い口調でアネラスが言った。そして、褐色肌の少女は、少しだけ声を張り上げ、周囲の人々に涼しくも優しげな声を届かせる。

「体調が悪い人がいるなら、隠さずに言ってくれ。後で症状が悪化しても遅いからね。最悪、手持ちだと足りなくて店に戻らないといけないから」

 さらっと、アネラスが言った。彼女は今、薬が足りなければ店に戻ると言った。それはつまり、患者のために命を賭けるということだ。エイムでさえ迷ったことに、少女は微塵の迷いも見せなかったのだ。

 エイム・サデーナイトの驚愕に、アネラスはさも当然そうに微笑みを湛えて言ったのだ。

「僕は薬屋だからね。こんな時に行動するのが、けっこう正しいことなんじゃないかな?」

 そうして、アネラスが小声で『本当に辛い戦いをしているのは、僕じゃないからね』という言葉は、誰の耳にも届かなかったのだ。


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