第四章 Ⅳ
別の場所でも、長く険しい道を走っている者達がいた。カノン・レミントンは人生で最大の〝速度〟を身体全てで感じる。
「いやー、速いねこれは。このまま遠くに行きたい気分だねー」
カノンの腰に両腕を回して後ろに座っているのはリトラだった。あの酒場から、二人は大急ぎで移動する必要があった。この方法しかなかったのだ。それでも、一人の男として色々と不味い状況に、心臓がバックバックンと不整脈を続けている。今の光景がアディリシアに見付かれば、呼吸を断絶する自信があった。
「ところでカノン。リザイアをミーシャと一緒に置いて来てよかったのかい?」
「いいんだよ。姉ちゃんには姉ちゃんの理由があるのさ。……大丈夫だよ」
そうでなければ、部下も連れずに一人で酒場に来るものか。リザイアは特級の武人でもある。いくら相手が強敵だろうと、簡単に遅れはとらない。そして、ミーシャもまた脳なしではない。相手は『ランドブルズの聖槍同盟』でも三指に入る重要人物だ。かの同盟を敵に回すのは、王国を敵に回すのと等しい。ならば、もっと別の方法がすでにあるのだ。
「随分とお姉さんを信頼しているんだね。安心したよ。仲が良くて羨ましいことだね~」
「なーに。お前ん所と比べれば小さいモンさ。ほら、ヤレイだっけ? アイツ、ちゃんと逃げてんだろうな。この分だと、地下街も無事なんて言えないぜ」
屋根なんて高尚なものがない高速移動中。自然と声は叫びに近い物となっていた。カノンの大声に、リトラは首を伸ばして耳元で囁くように言う。何故か、いつも以上にはっきりと聞こえた。
「安心しな。アイツなら、大丈夫だよ」
リトラが微笑んだ時だ。カノンは慌てて
亀裂から顔を覗かせたのは、脈動する赤黒い魔物だった。生皮を剥いだ人間の死体を一度、手・足・頭・胴体、部分ごとに分割。それらの各部位を三倍の大きさ、厚さにするために、豚や牛の内臓や血肉を盛りつけ、再縫合したような大型の魔物、
全長十メルターを越える剥き出し巨人、その数、全部で五体。岩石をテキトーに砕いたかのような形が不揃いな歯を並べる大口からは、粘っこい唾液が大量に溢れている。完全に行く手を阻んでいた。カノンは舌打ちし、
「俺が纏めて撃つ。リトラは離れてろ。お前の剣は、勿体ないぐらいに脆過ぎる」
リトラが使う剣『追葬の刃・レブナハート』には弱点がある。強力無比な魔術は一度使用すれば、たちまち刃は形を失う。一振り一度の使い切りなのだ。こんなところで消費するには、あまりにも惜しい。それを十重に理解しているのだろう。女が忌ま忌ましそうに頷き、柄から手を離す。
「負けるんじゃないよ」
「なーに、安心しろ。俺だって、やる時にはやるさ」
軽口を叩きつつ、カノンは拳銃の撃鉄を起こした。数だけなら、それほど難しくない敵である。
巨人だけなら、問題なかった。そう、敵が巨人だけなら。引き金を絞りかけたカノンは目を疑った。彼から見て、一番右端に立っていた
地震のように足元が揺れる。とてもではないが立っていられず、片膝を突いてしまう。地響きは都市の悲鳴だった。遅れて、カノンは理解した。巨大な魔物を一撃で絶命させた物の正体を。それは、さらに大きな魔物だった。途方もない質量が空から降って来たのだ。
その身を鉄槌とした魔物の姿に、カノンは息を飲んだ。呼吸さえ、途絶した。溶岩が冷えることなく硬質化した鱗は紅蓮の輝きを秘めている。四肢が纏う筋肉は悠久の時を刻んだ大樹のよう。大きく広げた翼は端と端で四十メルターを軽く超える。長く伸びた首の終わりは捩じれた外皮が角と化した王座の主。紅蓮の双眸は炎を流し入れた灼熱。
爪も牙も、勇壮無双の極み。背中には凶悪な棘が無数に生えている。その尻尾が一振りされるだけで、巻き込まれた二十人の民が死ぬ。動くだけでも災厄の一つ。それは世界でも例が少ない〝竜種〟の顕現。かの物の前では
「……リトラ、助けてくれ」
「……ああ、うん。無理だ」
大人二人は『ああ、ここで死ぬのか』と納得した。堅牢な鱗を纏う
カノンの前方、竜の背中を狙って光の刃が飛来する。太陽の欠片を鍛え上げたような半円の剛刃が堅牢な鱗に突き刺さった。完全に両断するとはいかないにしろ、血飛沫に竜の絶し難い咆哮が重なる。リトラが一気に駆けた。その身は砲弾と化し、跳躍。聖導騎士は目線を竜と合わせた。右手が霞み、閃光が真横一文字に走る。
「かっあああああああああああああああああああああああああ!!」
鬼神の咆哮。砕けた『
轟音が大気を叩く。六本束ねられた銃身、その銃口が纏めて火を噴いた。故障ではない。胡椒でもない。それは、一度に六発全てを発砲するように改造された拳銃だった。そして、その全てが臨界速度を超え、魔力の塊である魔石が分解、再構築される。さらに、融合。
多連式結合魔術。疑似的な質量を展開。飛翔半ば、小粒な六発の弾丸は巨大な一個の槌と化す。古い時代、城の壁を破壊した戦争道具〝破城槌〟が君臨する。彼が使う魔導具の中ではもっとも〝遅い〟攻撃だ。質量を空中に生み出す分だけ、発砲から着弾までの時間が彼我の距離五十メルター内で半秒もある。ゆえに、今が
「『
両眼を断たれた竜は動きを鈍らせる。リトラが額を蹴って後方に宙返りしながら着地。
魔神の鉄槌が真正面から
竜の腹部が大きく膨らんだのは、絶望への扉が開きかけた合図だった。
「竜の
カノンは空になった六発銃を地面に捨て、新しく拳銃を引き抜いた。単発式拳銃には防御魔術『
「ふん。なにが竜だ。王国の軍人を舐めるな、この蜥蜴風情が!」
見知った横顔にカノンが『あっ!』と叫ぶ。彼女は、フランカ・D・レイジング。同僚だった。彼女は右手に握っていた短い投擲用の槍に限りなく近い、だが、けっして違う禍々しさを秘めた〝それ〟を遠慮なく
解放されたのは、暴風。それも、砂が混ざった質量ある暴力。魔術を以って、砂漠の国に吹き荒れる嵐が顕現したのだ。高速移動する粒子の群れは、あらゆる物を金鑢のように削り取る。それはカノンが使った多連式結合魔術と同じ原理だった。思い出す。あれは、武器商会『ランドブルズの聖槍同盟』が先月に発表したばかりの最新兵器だ。槍の柄に火薬と雷管、そして魔石を埋め込み、一度に十から二十の発砲を、鳳仙花の種のように重ねて魔術を発動させる、戦争用の魔導具だ。金剛石を研磨するのは金剛石。粒子だろうが竜の鱗に勝る硬度を誇る極小の死神が縦横無尽に暴れ回る。
嵐が終わった時、摩り下ろされた山人参のように首から上を失くした竜が力尽きたように、どうと倒れた。その揺れに、フランカは二本足で立ったまま応える。勇猛な美姫の登場に、カノンは声を詰まらせた。すると、先にあちらが微苦笑を湛えたのだった。ふと、彼は数日前を思い出す。ああ、うん。彼女は綺麗だなーと思った。
「こんなところで、なにをしているんだ、カノン・レミントン教師よ。とてもではないが、か弱い一般市民には見えないな。……自作の魔導具を持って、戦場で遊んでいる最中か?」
「誰がこんな場所で遊ぶかよ! いや、遊んでないっす。え、ってか、今、なんて」
今、フランカは聞き捨てならないことを言った。同僚の女は、さらりと秘密を明かす。
「君が学園に来た本当の目的を私は知っている。アディリシアの母上から聞かされたのさ」
――確かに今、心臓が停止した。カノンは腰から下を失ったと勘違いした。それほどの衝撃だった。彼はアディリシアの母から直々に聞かされた。『手前が手前だけの兵隊創るのはいいけど、他の教師や関係者にバレたら金玉抉るから』と。なのに、何故、フランカはアディリシアの母から聞かされたというのか。それはつまり、そういうことなのか?
「彼女曰く『あの駄犬だけだと不安だから、貴女も生徒選びを手伝って欲しいの』らしい」
つまり、最初から信用されていなかったのだ。カノンは目の前が真っ暗になった。そんな彼を見て、リトラがやれやれとばかりに肩を竦める。
「まあまあ。そんなに落ち込むなよ。……それよりもフランカ。ちょいっと頼みがある。カノンと一緒に、コイツの家まで向かってくれ。そこに、武器があるらしい。生憎と私は野暮用を思い出してしまってね、ここからは別行動だ。そういうわけなんだよ」
「え? おい、待てよ。教会に戻るんじゃなかったのか?
ひき止めようとするカノンの肩をフランカが掴んだ。金髪教師は小さく、首を横に振る。
「行かせてやれ。だがな、リトラ。……無様な真似は許さないからな」
「はん。誰に言ってんだい? アンタこそ、ソイツと上手く踊りなよ」
少しだけ、フランカの頬が朱に染まったことに、カノンは気が付けなかった。
カノンは少しだけ迷うも、その左手に持っている拳銃をリトラに渡す。唖然とする女へ、男は言ってやる。
「ちゃんと返せよ」
リトラは、一瞬だけ、今にも泣き出しそうなほど、顔を歪め、吹っ切れたように微笑む。
「あいよ。次に会う時は、酒場だね」
どこか調子の外れた言葉を残して、リトラは去る。その背中が完全に見えなくなると、入れ違いになるように数名の学園生徒が集まって来た。その中の一人に見覚えがある。先に、向こうから話しかけてくれた。
「カノン先生、大丈夫でしたか? まったく、まーた戦場に出て。危ないんだから、もう」
アリス・R・T・ユーリィー率いる五年四組一個分隊、計十二名。等しく苦笑する。
先程、竜の背中を撃ったのはアリスだったのだろう。彼女の両手は
フランカが生徒一同を一瞥し、続けて、カノンへと容赦のない視線を移す。
「今、学園が保有する魔導具を総動員し、三学年以上は街や学園で魔物の討伐を。一、二年生は住民の避難を補助するように命令している。……不思議なことに、魔物は武器を持たぬ住民は襲わない。まるで、そう調教されたかのように。その分、建造物や武器を持つ自警団、傭兵、我々銃士側は存分に壊そうとするがな。まあ、今の時点で魔物の嗜好など、どうでもいい。現在、最も重要なのは武器が――火力が全く足りていないということだ。さっき倒した
「……その答えを、俺は一つしか知らないな。ああくそ、なんつーか、イライラする。だが、吹っ切れた。悩んでいたんだよ。俺が持っている魔導具を誰に使わせるべきだろうってな。あの、レイジングさん――」
「――フランカだ」
カノンが目を点にする。フランカ・D・レイジングは生徒が見ている前でも、実に堂々としていた。
「私のことは名前で呼べ。いいな? あと、敬語もいらん。媚びる男など軟弱の極みだ」
「い、いや、別に媚びているわけじゃないんですけど」
「敬語使うな! それともあれか? 貴様は私を年上扱いするのか? そうなのか?」
そんなことを言われても本当に年上なのだから困る。カノンは不満を覚えるも、今は一刻の猶予もない。覚悟を決め、目の前の我儘な女傑で言う。生徒達からの『あんたら、こんなところで何やってんすか』という視線を全身に感じつつ、知らないフリをしながら。
「フランカ。君に頼みがある」
満足そうに、女は微笑んだ。
「ああ、なんでも言ってみろ」
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