第四章 Ⅱ
店員、店主、客、全員をリザイアが追い出した。誰も、文句を言わない。一人につき、グリード金貨を五枚、店主には十枚を渡したのだから、文句など喉奥に引っ込んで当然だ。たった一枚だけでも、上等な酒がたらふく飲める。庶民には、眩し過ぎる輝きだろう。
一つの
「へえ。じゃあ、エルアーデ家の派閥争いからカノンを守るために、孤児院へ? あんた、貴族の血筋だったんだ。全然、そうは見えないけど。こんな情けない男が、天下のリザイア局長の弟ねぇ。とてもじゃないが、同じ血が流れているとは思えないね」
「正真正銘に私の弟だ。ちょっと自信がない卑屈な態度が可愛いのだろうが」
二十歳過ぎた男に〝可愛い〟ってどうよ? ミーシャとリトラが冷ややかな目付きでカノンを見詰める。一方で、リザイアは『姉に酌をしろ酌を』と、弟の扱いに容赦がない。
リザイアの酒杯に
「なんで、あなたが此処に居るんですか? まさか、都市に武器を売りに来たわけじゃないでしょう? いつも引き連れている部下はどうしたんですか? ……おい、こっち見ろよ。…………どうか、こっちを見て、俺の言葉を聞いてください〝御姉ちゃん〟」
二十九歳になった女が、やっと〝聞こえないフリ〟を止めて、カノンの方へ首を曲げる。この姉、なにをどう心の琴線を破壊してしまったのか。こちらが〝御姉ちゃん〟と呼ばない限り、絶対に返事をしてくれないのだ。胃の奥がぐらぐらした。酒を飲まずにはいられない。こんな状況、酒以外に何が解決してくれる?
「そこのミーシャと約束してな。そう、約束だな。それを、見定めにきた。そうだろう、ミーシャ・ドランケ。過去に囚われし愚かなる女よ。この私が、たった一日だけ貴様に猶予を与えるのだ。ありがたく思え。そして、貴様もまた、見定めろ。今の王国を」
王国の軍力を支える大人物・リザイアと大都市を恐怖と混乱に陥れたミーシャが知り合いだったというのか。予想にもしなかった事実に、カノンは足元の感覚を忘れてしまう。今、肩を軽く押されただけでも倒れてしまう。それほどまでに、彼は驚愕していた。
ミーシャが酒杯片手に肘を突く。その横顔に浮かぶのは、怒りがほんの少し、そして深すぎる嘆きだった。拭っても拭ってもけっして晴れてくれない。深すぎる不幸だった。
「そういうわけさ。……私様は、色々と約束があるからねー。こうでもしないと、安全に動けないわけ。リザイアちゃんには感謝しているんだよ。本当なら、ここで殺されても文句は言えないのにね。だから、ありがとう。この私の馬鹿な祭りに、つきあってくれて」
大きく喉を鳴らしてミーシャは黄金の酒を飲み干し、酒杯の底を叩きつけるかのように
「――今日一日だけ、この街は地獄と化す。君達で、どうか止めてみろ」
言葉の終わり、ミーシャの首が〝飛んだ〟。それは、文字通りの意味だった。ごろんと、水っぽくて重い音と共に黒髪を靡かせる頭部が
「びっくりしたー。もう、急にこんなことをするの止めてよね。痛くないわけじゃないんだからさ。そこんとこ分かってる?」
椅子を蹴飛ばし、後方に下がったカノンは気付く。首を失ったミーシャの身体は椅子に座ったままで、赤黒い断面を覗かせるも、血が一滴も漏れ出さないのだ。まるで、時が停止しているかのように。首無しの怪物は
手の動きから察するに、横に転がった頭部が命令を下しているらしい。見えない神経で繋がっているというのか。ミーシャが『もう、鏡を見ながら運転するみたーい』とぼやいた。とうとう、両手が首を掴み、そのまま元に位置に戻す。生涯繋がらないはずの断面で、何かが蠢く。細胞が急速に活性化し、傷口同士を連結されているのだ。
喜劇と言うには、あまりにもおぞましい。酒を飲み過ぎた晩に見る、悪い夢だ。
カノンが腰の拳銃を抜くよりも先に、リトラが刃を失った柄を地面に捨てた。ミーシャを斬ったのは、彼女だった。聖導騎士が纏う殺気は、硬質化し、頬へ針のように突き刺さる。口出し出来る雰囲気ではない。邪魔すれば、こちらが逆に斬られる。
「やっぱり『
雄々しき獅子の咆哮にも勝るリトラの姿に、ミーシャは礼儀正しく椅子から腰を上げた。数十秒前に斬られたと言って、誰が信じてくれるだろうか。実際に見たカノンでさえ、何かの錯覚だったのではないかと疑っているのだから。
リザイアだけが、椅子に座ったままで、のんびりと酒を飲んでいた。剣を抜かず、柄に手をかけたままのリトラへと、涼しげな笑みを残す。
「それが聖導騎士の技か。確か『追葬の刃・レブナハート』だったかな。この時代に、己が技量だけで神に挑むとはあっ晴れよ。まさに、一撃の極致よな」
手数ではなく、重さでもなく、リトラが追求したのは極点突破の速度だった。剣に己が激情を宿すための速度なのだ。身体全てを一個の抜刀機械に変える。敵の動きをギリギリまで観察し、反撃不可、防御不可、回避不可の一撃を与える。それこそ、教会が定めた剣の極意だった。同時に、アディリシアが辿り着いた理論と全く同じだった。銃と剣。正反対の武器であっても、武器であることに変わりはない。行き着く先は、同じということか。
鞘の内側に刻まれている術式は『
近代魔術に置き換えるのなら、あの鞘が銃身であり、剣が弾丸なのだ。刃を構成するのは魔石の中でも硬度に優れた『
教会の騎士が使う武器の大半が魔術で強化されている。その中でも、火薬や機械式の外部動力に頼らずに、使い手の鍛練だけで臨界速度に魔石を届けるのは、極めて珍しい。何故なら、音速を超えるなど、並大抵の技量では不可能な領域だからだ。ゆえに、風さえ置き去りにするリトラの一刀は絶技と呼ぶに相応しい。人間の極限を垣間見た力なのだ。
リトラとミーシャの距離は三メルターもない。カノンが知っている聖導騎士の実力なら、一歩一振の距離だ。それはつまり、もう戦いが詰めの段階に入ったことを差す。
だから、ミーシャが喜々として嗤った時、カノンは己の行動に迷い、指を止めてしまう。
「私に構っている暇はあるのかなー? ……街はそろそろ、戦火に包まれるんだよ。私が一体全体、どれだけの魔物を投入したのか、分かる?」
そうして、カノン達は、人々の魂が焦げ付きそうな悲鳴を聞いたのだ。長い、とても長い一日が始まる。後の世で『始まりの日』と名付けられた悪夢の一日が始まったのだ。
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