第三章  Ⅸ


               ○

 


「私の〝友達〟を、見縊らないでくださいな」


 二人きりになった時間を狙ったかのように、アディリシアがカノンへ告げる。まだ、二人は居間の椅子に座っていた。暖炉の傍まで近付き、外の寒さとは無縁の温かさを身体中に染み渡らせていたのだ。彼は、目の前で優雅に微笑む彼女が愛おしくて、ついつい頬を緩めてしまう。こちらの無防備な姿に、女銃士は獲物を射程圏内に捉えたかのように目を光らせる。もはやそれは、一種の病気か呪いに近いだろう。


「ありがとう。……アディリシアが説得してくれたんだろう? そうでなければ、俺が語っただけで、あの学園の生徒が心を動かすはずがない」


「あら、御謙遜ですわね。私が語ったのは、私に貴方が語った言葉です。だから、彼女達の心を動かしたのは、間違いなくカノンですよ。だから、誇りなさい。もっと、胸を張りなさい。……お願いですから、今にも泣き出しそうな顔をしないでください」


 アディリシアが立ち上がる。乙女はカノンの膝に座った。それが当然だと、動揺するなと、貴様はただの椅子だと。冷たい瞳が彼を見下ろす。膝一つ分の高さが、身長差を埋める。見下ろされるのは、穢れた魂だった。高貴な心は、けっして退こうとしないのだ。

 椅子の軋みは、まるで、彼の心を表すかのよう。救い切れない心が、掬い切れない闇が確かにあった。


「俺は、正義の味方にはなれない。もう、なれないんだ。なあ、アディリシア。もしも、勇者になる条件があるとすれば、倒すべき存在が、魔王が居るかどうかだろう。じゃあ、魔王を失った勇者は〝何者〟になればいいんだ? この世に正義があって、相対する何かを悪としよう。一つの正義に、悪は一つと決まっているんだ。俺の戦いは、もう終わったんだ。十年以上前に、終わったんだ。だから、俺は、勇者の剣を握る資格なんてない」


「それは、あなたの〝弱さ〟ですか? それとも〝贖罪〟なのですか?」


 アディリシアが傍にいる。カノンは彼女から伝わる柔らかい熱を感じ、今、自分が此処に居るのだと実感した。本当なら、彼は十年以上前に死ぬはずだったから。亡霊にもなれない男は未来ある若者に、毒を飲ませようとしている。甘い、とても甘い毒だ。必ず死ぬのに、それでも、飲まずにはいられなくなる毒だ。最初に飲んだのは、目の前にいる彼女。


「憶病なんだよ、俺は。自分では戦えない臆病者なんだ」


「あら、エミリー達を守ったのでしょう? それは、戦いに数えないのですか?」


「あの程度なんか、本当の戦いじゃない。……アディリシアが立つような〝舞台〟に俺は立てないよ」


 彼なりの信念があった。あるいは、ただの脅迫概念だろうか。アディリシアは肩を竦め、カノンから降りる。乱れた髪を手櫛で直す少女を見て、ようやく男は自分が教師で、彼女が生徒と思い出した。いつもいつも、彼は手遅れになってから気付くのだ。


「カノン。貴方がどれだけ自分のことを卑下しようとも、これだけは心に刻みなさい」


 アディリシアがカノンの額を右手の人差し指で突いた。それは、この場で跪けの合図である。断り切れるはずもなく、彼は椅子から降りて膝を折った。両膝を折るのは、罪人の証拠。左足の膝を立てるのは、騎士の証明だった。主へと心臓を捧げる忠誠心の証拠だった。誇り高き銃士は、満足そうに頷いた。


「貴方は私の犬であり、剣であり、銃なのです。貴方はとても、値が張る男です。それを、忘れないでください。いいですわね? 自分が何者なのか? そんなのは決まっています」


 真っ直ぐな彼女は、真っ直ぐに言い切った。


「貴方は貴方です。上だろうが、下だろうが、自分自身〝以外〟にはなれないのです」


 当たり前だった。当たり前すぎて、全く見えていなかった。だから、彼は救われた。


「君は、強いな」


 感嘆が込められた嘆息を吐き出すと、アディリシアは極上の笑みを湛える。


「当然です。この私を、誰だと思っているのですか?」

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