第三章  Ⅵ

               ○


「びっくりした。撃たれるかと思ったぜ。あんな怖い男、連れて来るなよなー」

 ヤレイが顔をつるりと撫でながら愚痴を零す。リトラは困ったように鼻を鳴らす。

「何か訳有りの男かと思ってたけど、まさか元孤児だったなんてねー。何がどうなってアディリシアの飼い犬になったのか。まったく、世の中は知らないことが多いもんだ」

 他人事のようにリトラは呟いた。そして、ヤレイへと容赦のない狩人の眼光を向ける。

「ヤレイ。本当に、今回の一軒、何も知らないんだね?」

「……なんだよ。姉ちゃんは俺のことを疑ってんのかよ」

「いいや。ただ、忠告しておこうと思ってね。今回の一件は本気で不味い。最悪、街全体を巻き込んだ争いになり兼ねない。そんな時、疑われるような行動をした奴は、真っ先に糾弾されるだろうさ。こんなこと言いたかないけどね、この地下に住む連中は全員、街では立場が弱い。そのことを、しっかりと肝に銘じておくんだよ」

 ヤレイが不服そうにしながらも、黙って頷いた。血の気が多いように見えて、冷静なのが馬鹿な弟の〝ちょっとだけマシな点〟である。リトラは紅茶を飲み干し、椅子から腰を上げる。

「カノンが油注灯火台オイルランプを持って行ったからね、あんたが松明持ちな」

「人使い荒い姉ちゃんだぜ。はいはい、分かりましたよーっと」

 ヤレイがやれやれと椅子から立ち上がる。そんな様子に、リトラはぼそっと言ったのだ。

「――〝上〟で、生きるつもりはないのかい?」

「ないね」

 即答だった。ヤレイの瞳に、静かな怒りが灯る。それは、忘れられない過去の残滓だ。けっして燃え尽きてくれない怨嗟の炎だ。同じ世界を生きたリトラは、それでも過去を割り切った。どれだけの理由があろうとも、縛られないで生きると決めた。だが、血が繋がらない弟は違う。いつまで経っても、真っ黒な鎖に心を囚われているのだ。

「姉ちゃんがいつも言うように、上の連中だって、全員が悪いわけじゃない。けどよ、俺みたいな〝ろくでなし〟を嗤う連中はこれから何百年経っても消えないよ。だから、この場所が必要なんだ。弱い人間が無事に過ごせる場所がないといけないんだ」


 子供の言い分と、簡単に一蹴出来るものではない。毎日好きなだけ食事がとれる御嬢様が居れば、正反対に腐臭の塊のような塵山から何とか食べられそうな物を探す孤児が居る。

 街には、仕事が溢れている。だが、それ以上に、人が溢れている。力のない子供や、老人では仕事に有りつくのが難しい。地下街を封鎖すれば一体、何百人が路頭に迷うだろうか。だからこそ、リトラは何も言えない。ただ、彼女は彼の味方で有りたかった。


「本当に困った時は、姉ちゃんを頼りな。昔は、何かあったらすぐに跳びついてきたのに、すっかり大人ぶるようになっちまって、つまらないねー」


「い、いつまでも迷惑かけるわけにはいかねーだろうが」


 ぶっきら棒なヤレイの言葉に、リトラは寂しそうに目を細める。弟が姉を頼ることを、迷惑だなんて言葉で片付けてほしくなかったからだ。二人は多くの時間を一緒に過ごした。それでも、今はすでに袂を別けている。どうしようもない溝が、確かにあったのだ。


「……忘れるんじゃないよ。姉ちゃんは、ヤレイの味方だからね」


 リトラの言葉に、ヤレイは喉奥に林檎の欠片でも引っ掻けてしまったかのように顎を引っ込めた。まるで、心底驚いたように。あるいは、大切な〝何か〟を今、思い出したかのように。ややあって『そ、そうかよ』と、掠れるような声を返したのだった。


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