第二章  Ⅶ


               ○


 魔術が発展する以前に、銃だけの時代があったという。戦士達は声も届かぬ遠くから魔術を撃ち合うのではなく、十数メルター程度の距離で勝負した。獲物は拳銃が一丁。弾は一つ。合図の瞬間に銃を抜き、撃つ。どちらが死のうが関係ない。そんな世界があった。

 アディリシア・W・D・レミントンの行為は、近代の銃士にとって異質だった。ただの鉛よりも強力な魔術があるのだから、遠くからさっさと魔石を撃てば正解だった。なのに、彼女はあくまで魔術ではなく、拳銃の領域として勝負を決めた。戦場は泥沼だ。綺麗に戦える人間などいない。誰もが必死だ。命を賭けている。どんなに惨めだろうが生きられればそれで構わない。――なのに、彼女はどうして、こんなにも美しいのだろうか。


「へえ。まさか、この時代に、ここまで洗練された〝銃使い〟がいるなんてね。こりゃあ、驚いたなー。うふふふ。私様はびっくりだよ。すごく、すごく素敵だ。ここまで綺麗な死を見たのは久し振りだ。長生きはするものだねぇ。絶景だねぇ。愉快だねぇ」


 言葉で惑わすつもりか。しかし、今のアディリシアはどんな術中だろうが看破する。そのように、鍛えられているからだ。

 ミーシャはあくまで、武器を構えない。二人の距離は、銃の距離だ。普通に考えれば、圧倒的に有利なのはアディリシアの方だ。それでも、少女は楽な体勢のままだった。

 空気が凍りつく。人の命を啜るのが大好きな悪鬼と、悪を罰するのは同然だと剣を握る戦乙女が相対している。アディリシアはもはや、自分の心音さえ聞こえていなかった。

 戦場にいるのは、二人だけだ。だから、二人が黙れば全てが沈黙する。しかし、確かに変化があった。汎用卓テーブルの上に積まれた大量の金貨が、ズッズッズッと傾き出した。徐々に、徐々に、少しずつ、少しずつ、確実に、確実に、金貨が傾いていく。そして、一枚がとうとう滑り落ちた。机の上を縦に転がり、そのまま虚空へ。クルクルと回り、大理石の床へ、当たる。コツン――、


 ――薄闇を切り裂いたのは、紅蓮と薄い黄色の閃光。その輝き、まるで太陽のように。


 轟音は一つだった。一つの鎖で繋がれた魔狼の咆哮だった。まるで、最初からそうであったかのように、アディリシアは腰だめに拳銃を構えていた。銃口から一発では有り得ない量の真っ白な硝煙が溢れ出す。六発入りの輪転式弾倉に残っている弾丸は二発だけ。つまり、少女は、あの一瞬で四発の弾丸を撃ったのだ。迅雷の速度を以って銃用革鞘ホルスターから引き抜き、右手の親指で撃鉄を起こしつつ、一発目。左手の親指で撃鉄を起こし、二発目。人差し指で撃鉄を起こし、三発目。中指で撃鉄を起こし、四発目。時を操る女神が公平を崩したのではない。彼女は、彼女自身の力で、一つの極致に辿り着いたのだ。

 ミーシャは反応すら許されず、背中から硬い大理石の床に倒れる。一度だけ、背筋を痙攣させた。――だが、跪いたのは、アディリシアの方だった。

 ミーシャに弾丸は当たった。ただ〝それだけ〟の話だった。


「痛い! もの凄く痛い。あっは、ああっははっはははははははは。滅茶苦茶痛い!!」

 

笑っていた。あの女は、笑っていた。まるで、全身をくすぐられているかのように。自分から笑うのではなく、生理的反応として笑っていた。本能として、笑っていたのだ。血の泡を飛ばし、身体中を狂気に包まれながら、なお死んでいない。アディリシアは肩で息をしながら、苦い顔で舌打ちした。少女が撃った〝四発〟の弾丸は、精確にミーシャの心臓を貫いた。四四口径の弾丸だ。一発だけでも致命傷。それを四発もくらえば、大抵は即死だ。ならば、生きているはずがない。笑えるはずがない。悪夢が、目の前にあった。


「私様は、組織の中では、それほど強くない。だからさぁ。色々と力を貰ったっていうか、そんなところ? 普通に戦えば、強いのは君だよ。うんうん。誇っていい。これは誇るべきことだ。ここまで成熟した〝銃使い〟は滅多にいない。…………うん。だから、残念」


 まるで、見えない糸で引っ張られるかのように、ミーシャが不自然な挙動で立ち上がった。その左胸には鮮血の花が咲いていた。口の端から血が零れていた。それでも、動いている。生きているのだ、敵は。アディリシアはついつい、笑ってしまう。拳銃『レイン』にはまだ、弾丸が二つ残っている。まだ、戦える。

 武器はあった。だが、それに見合うだけの身体と精神が足りていなかった。

 アディリシアの両腕は、別の生き物と化したかのように痙攣していた。右手は固く銃を握ったまま、筋肉が石のように硬直している。穴が開いた麻袋に小麦の粒を入れ続けるかのように、何度も踏ん張ろうとしても、足には全く力が入らず、心臓の鼓動は猛烈に早く、馬鹿みたいに不規則。胸郭は暴れたまま悲鳴を上げ、何度も何度も深呼吸を繰り返しても一向に楽にならない。一方で、体中から熱病患者のように汗が噴き出すのに、まるで氷水に浸かっているかのように冷たく、寒いのだ。頭の内側、脳の奥で、凄まじい熱が暴れていた。まるで、火山の奥で煮えたぎる溶岩のように。あるいは、炎を孕む嵐と化したかのように。今すぐ金槌で頭蓋骨を砕ければ、どんなに楽だろう。グラグラと視界が揺れる。ガンガンと耳鳴りが酷い。今にも倒れそうだ。いや、死にそうだった。

 極限の緊張下に置かれた人間は呼吸を乱し、手や足を震えさせるものだ。アディリシアは撃つ瞬間、一気に、全ての歯車を変えた。彼女を構築する感覚器官、脳機能、筋肉、血液の流れさえも、この一瞬を完遂させるために操作されたのだ。右腕は迅雷と化して銃を引き抜く。両足を含めた下半身は発砲の反動に対処するために強く地面を踏む。視覚は敵を見定め、嗅覚や聴覚でさえも不足の事態に対処するために最大限まで感覚を増加させる。一発目、二発目、三発目、四発目。全ての反動を押さえつけるために、手首・肘・肩は硬く固定される。飛燕と化した左手は疾風の時を駆ける。そして、それら全てを制御するのは脳。複雑な命令を僅か、一秒の半分、さらに半分、それよりも半分の間に完遂させる。アディリシアは瞬間に全てを賭けた。その落差が齎す代償こそが、今の彼女の姿だった。

心臓への負荷は呼吸器官を一時的に麻痺させる。アディリシアは何度も咳き込み、敵をじっと見た。ミーシャは、こちらに憐れむような目を向けていた。やはり、武器は持っていない。その分、不気味さが増すかのよう。逃げ切れない死が、目の前にいた。


「何か、言い残すことはある?」


「あら、よろしいのですか。そうですね……」


 アディリシアは目を細め、微笑んだ。優雅に、穏やかに、鮮烈に、彼女らしく微笑んだ。


「そこにいる〝子犬〟に餌を上げてもよろしいですか?」


 今、ミーシャは廊下へと続く扉へ背を向けているような立ち位置だった。一方で、アディリシアは扉の方を向いていた。地獄の底から語りかけるような声は一つ分。遅れて銃声。


「俺の女に、手を出さないで貰おうか」


 鉄錆びと硝煙の臭いで満たされ、異様な熱気に包まれた戦場を駆けたのは青白い帯状の光りだった。幾重にもミーシャへと絡みつき、その両腕を、両足を、腰を、肩を、腹部を、肩を、完膚なきまでに拘束する。粒子の鎖と呼んだ方が正しいかもしれない。黒髪の魔女は声さえ上げられない。頭部まで木乃伊のように束縛されているからだ。アディリシアもまた、声が出せない。だから、その男は一方的に語るのだ。いつものような気苦労の多い表情ではなかった。どこまでも冷酷で、残忍で、激怒に身を任せた殺気を纏っている。


「お前が、元凶らしいな。ったく、面倒臭いことしやがって。俺はな、実験に実験を重ねて全ての安全と性能を確認してから、初めて完成品を作る。試作品を試作品のまま戦場に持ち込むなんて、恥辱の極みだ。なあ、分かるか? 俺の気持ちが。料理人が最後の仕上げを忘れた料理を出すようなものだ。画家が、最後の一筆を忘れた絵画を世に出すようなものだ。なのに、皆が〝凄い〟って思ってる。中途半端なものに感嘆してしまう」


 最後に見た時と服装は変わらない。それでも、アディリシアは、カノンに底知れない恐怖を覚えた。そして、それと同じぐらいに安堵を覚えた。今の彼は、初めて見る彼ではない。過去に、一度だけ見たことがあった。

 右手に三八口径の輪転式拳銃を握っているのは、カノン・レミントン。いつもの気苦労が多そうな、生徒達からは情けないと評される表情はどこにもなかった。戦士と言うには、あまりにも凶暴。悪鬼と呼ぶにはあまりにも精悍。神でも悪魔でも悪霊でもない。それは、一人の人間としての怒りを纏う狩人の姿だった。アディリシアは母から彼を譲り受けた際、こう言われた。『そろそろ、犬の一匹でも飼った方が良いと思ってな』と。

 犬は犬でも、彼は猟犬だったのだ。レミントンの次期当主に与えられる犬が、ただの座敷犬であるはずがない。アディリシアは気合、ど根性、女の意地で立ち上がる。尻尾を振って主の元へ戻って来た犬の前で、無様な前は見せられないからだ。


「大義ですわ、カノン。褒めて差し上げます」


「……ああ、そいつは光栄だな」

 カノンが苦い顔で後頭部をガリガリと掻いた。足音を消したままアディリシアへと近付き、ミーシャを睨みつける。


「この女、どうするんだ?」


「私達の一存でどうにかなる領域を越えています。拘束したまま、自警団の留置所に連行し、市堂共同組合ビステリア・ギルドの判断に任せましょう。まあ、ただでは済まないと思いますけど」


 アディリシアが拘束されているはずのミーシャを横目で眺めた時だ。カノンが彼女に跳び付くように地面を蹴り、そのまま床に押し倒す。

 背中に硬い大理石の衝撃は感じなかった。カノンが咄嗟に身を捻り、その逞しい身体で彼女を守ったのだ。唐突に抱き締められたアディリシアは赤面するよりも先に、表情を驚愕に変化させる。一秒まで自分の首があった位置に、惜し気もなく素肌を晒す足があった。

 拘束を解いたミーシャが音も殺気も前動作もナシに右足、上段蹴りを放ったのだ。どれだけの速度か。大気の破裂音が遅れて爪先に纏わり付く。砕かれた光りの残滓は花見月の散り様か。いつ間合いを詰められたのか、まるで気付けなかった。


「へえ、今のを避けるか。強いねー、お兄さん。私様、ちょっとだけ本気になっちゃった。偉い偉い、すっごく偉い。けど、私とアディちゃんの時間を邪魔するのはいけないなー」


 ミーシャは目以外で笑っていた。カノンは返事とばかりに右腕を伸ばし、拳銃を発砲する。銃口から吐き出された弾丸は瞬時に光りの帯と化して敵を拘束せんと迫った。だが、敵に触れた瞬間に砕け散ってしまう。まるで、飴細工に槌を振り下ろしたかのように。


「名前を、聞いておこうか。俺はカノン・レミントン。手前は?」


「ミーシャ・ドランケ。世界救済連合『レージェ・バザリスタ』の十二席」


 カノンはアディリシアを床に寝かせて立ち上がった。ミーシャがゆっくりと足を下ろす。両者、二メルターの距離で見つめ合い、どちらともなく嘆息した。


「正直、今は戦いたくないな。手前を殺せるような武器を持っていない」


「私様も同感だねぇ。君は面倒だ。猛烈に、猛烈に、猛烈に面倒だ」


 大人二人の会話に、アディリシアは目眩を覚えた。カノンは手の内を見せ、ミーシャは何も攻撃してこない。完全に、戦う空気が消えていた。


「じゃあ、私様は帰るね。また、別の機会でよろしく。ああ、そういえば、この街で何か美味しい食べ物ってある? 私様さー。こんな大きい都会に来るのって初めてなんだよね」


「それなら、四番街にあるシルフィークの、豚肉の腸詰盛り合わせがおススメだ。安くて美味い。酒の質も良い。気軽に飲むにはうってつけだ。それと、今の時期なら氷屋かな。冷たくて美味いぞ」


「本当に? 私様、甘い物には目がないんだよねー。じゃあ、さっそく行きますか~」


 すると、ミーシャは踵を返して扉の方へと歩を進めてしまう。アディリシアは指先に力を入れた。一発だけなら。しかし、カノンが手で制してしまう。


「ここが退きどころだ。君のように誇り高い女には屈辱だろう。それでも、黙って耐えろ」


 素直に言うことを聞くアディリシアではなかった。忌ま忌ましそうに舌打ちし、吐き捨てるように言う。


「……パトリシー・メイスンの歌にもこんな一節があります。『今はどんな屈辱も涙と一緒に飲み込め。そして、いつか、全てを剣の錆びに変えろ』とね」


 それは、雄々しき女王としての言葉だった。真に高貴な者は負けるのではなく、己の敗北を受け止め、さらなる高みを目指すのだ。若き銃士の姿を見て、カノンは安堵する。たった一度の敗北で心が折れるほど、自分の主は軟弱ではない。

 ミーシャが一度だけ足を止めて振り返る。その顔を染める表情は嘲るような笑みだった。

 ただ、そこまで悪意を感じない。まるで、友達を小馬鹿にする、その程度の笑みだった。


「じゃあ、楽しみにしよう。ミリーズの詩文百二十八番が七節『汝が力を信じよ。汝が思うよりその闇は小さい』ってところかな。私様〝程度〟で膝を着いちゃー、いけないぜ?」


 ヒラヒラと手を振って去るミーシャ。礼儀正しく一礼してから扉を閉じた。カノンは額に浮かんだ汗を拭い、大きな嘆息を零す。


「話が分かる相手で良かったな。……歩けるか? アディリシア」


「ええ。何も、問題なんて――あっ」


 少女は右足を地面に浮かした瞬間に体勢を崩してしまう。カノンは慌ててアディリシアの背中を支え、そのままひょいっと抱きかかえる。学園では〝御姫様抱っこ〟と呼ばれる作法だった。服越しとはいえ、彼の胸板に彼女は頬を朱に染めた。反則だと思った。


「きょ、今日だけは、許して差し上げます。私を運ぶ役目を授かったことに感謝しなさい」


「……はいはい。姫様の寛大な許可に、私は大変満足です。あー、俺は今すぐ酒が飲みたい。今日はもう、疲れた」


 投げ槍に言うカノン。アディリシアは彼の顔を覗き込み、唇を可憐に綻ばす。たまになら、こんなことも素敵だろう。犬に褒美を与えるのが、主の役目だからだ。

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