第一章  Ⅳ

 

「で、今度の聖土曜日にフランカ先生と小粋な居酒屋タヴァーンに行く約束をしてしまったと仰るのですね、貴方は。ねえ、カノン。貴方は学園に女を作りに来たのですか? あの冷血漢のフランカ・D・レイジングから酒に誘われた? ……不味いですわね。完全に、カノンの貞操が狙われていますわ。誰に喧嘩を売ったのか、分からせる必要がありますわね」


 アディリシアが親指の爪を噛んで苛立ちを露わにする。カノンは教師と生徒の銃撃を想像し、冷や汗を流した。強者の戦闘ほど、被害の規模は増すというものだ。魔術を使えば、さらに増大するだろう。もしも、そんなことになれば大問題間違いなしである。


「教師同士の軽い親睦会みたいなもんさ。アディリシアが心配するような話しじゃねえよ」


 カノンは嘆息を零し、気分を紛らわせるために、周囲を見回す。ここは、校舎でも寮でもない。学園の外部、港湾都市・アマンデールにある薬屋『ソニー・リング』である。

 壁一面を埋め尽くす棚、棚、棚。並ぶのは瓶や箱、床に鎮座するのは大小の壺。煎じて飲めば風邪に利く尖空青草ラーべナの若芽や、食中りを治す効果がある重石白林檎ホワイトーン・アップルの種子、火傷に利く満月巨熊フルムー・ベグの脂などなど。珍しい物なら、内臓疾患に効能がある深酔暴乱(バカルディ・マグロの肝や、外傷を早く治す黒血啜凶死運鰐ブラッデーデス・ゲーターの骨が乾燥玉葱のように紐に縛られて吊るされていた。統一性がなく、節操なし。薬屋として、王道を歩む店だった。

一〇〇〇年以上前に女神レインが世界に振り撒いた呪いにより、魔力は結晶化した。その際の副産物が〝存在の変質〟である。簡単に言ってしまえば、動物の一部が異常な進化をして魔物へと変化し、植物の一部が元々持っていた効能を格段に倍増させ、変化してしまった現象を差す。世界には溶岩を風呂代わりにする火竜が存在し、鋼の硬度を上回る植物が存在する。これは、鉱石にも該当する言葉であり、同体積の綿よりも軽い羽駆軽柱鉄ウェンズ・アイアンや、衝撃を加えると発火する閃炎報銀フレム・シルベリスなどが生まれてしまった。かくして、一度は凶暴な魔物に生存領域を奪われかけた人間だが、魔術と銃器が発達して現代では、逆に利用している立場である。それはきっと、人間としての〝適応力〟だった。

薬屋は古臭い迷信頼りの愚か者ではなく、薬草学に基づいた一つの道だ。


「ところで、アディリシア。なんで、手前までついて来るんだよ。今は課外授業の真っ最中だろうが。主席がサボるなよ」


 現在の時刻、午後四時過ぎである。そして、今日はまだ聖木曜日であり休日ではない。本来なら、学園で授業するべき立場のアディリシアがどうしてここにいるのか? それは課外授業のためである。三年生になると、週一で午前か午後の半日だけ街に出る。目的は自警団の補助。もっとも、大抵は街を見回り歩くだけで済む。実際に悪人と戦うのではなく、街の地形を把握するという意味合いが強い。また、彼女達が悪事を防ぐのではなく、むしろ彼女達が警備することで悪事を抑制するためでもあった。それだけの肩書きを、彼女達は持っているのだ。ちなみに、服屋や本屋、菓子店などで生徒が〝遊んでいる〟事実が発覚すれば、厳しい罰則が待っている。具体的に言えば、服屋=敵地強襲用重装備で運動場を気絶するまで走る。本屋=ミリーズの詩文でもっとも長い百二十四番の全節〝愚か者の末路〟を百度書き写す。菓子店=一週間教会清貧食事視差表メニュー(一日二食で肉、魚、卵厳禁)である。諸事情で午後からの仕事は免除して貰ったとはいえ、カノンは教師で生徒の怠慢を罰則する側である。なのに、右隣りに立つ少女は全く臆さないのだ。

 二日前の夜と同じ装備の銃士は、胸元に手を当てて優雅に微笑む。それは、絶対の自信。

「飼い犬がよそ様の犬と〝粗相〟するようなら、叱る。当然でしょうが」


「お前、教師を犬に例えるなよ。あのな、フランカさんは良い人だぞ。教師になってから酒の席に誘われたなんて、今日が初めてだったんだぞ。正直、ちょっとだけ感動した」


 カノンが率直な感想を述べるとアディリシアが『それは、若い教師同士が互いを牽制し合っていたからですわ』と呟いた。残念だが、彼には届かない。ちょうど、くしゃみをしてしまったからだ。その時だ。商売卓カウンターの奥から店主が戻って来たのは、


「やあ、待たせてしまって済まないね。今、調合が終わったところだよ。まったく、カノンが持ってくるリストはいつも調合が難しくて遣り甲斐があるね」


 店主である彼女の言葉に、カノンは申し訳なさそうに頬を掻いた。


「済まないな、アネラス。いつも、迷惑をかけてしまって。けど、君しか頼れないんだ。午後から休みだったはずなのに、裏口を叩いて悪かったよ」


「ふふふ。頼られるのは嫌いじゃないよ。それに、こっちの方が僕らしいからね。これからも遠慮しないでどんどん注文しておくれよ。勿論、料金はしっかりもらうけどね」


初夏に芽吹く柔らかくも力強い若葉を想わせる真緑の髪は、肩に触れるか触れないかの位置で適当に切り揃えられ、蜂蜜を濃く煮詰めたような褐色の肌がむっちりと瑞々しい張りを誇っていた。瞳は赤い宝石と同等の煌めきを秘めており、いつも眠たげに目蓋が半分以上閉じていた。耳の先端がやや尖っており、魅力的な八重歯がキラリと光る。

 歳は十代後半か、二十代前半か。おっとりした雰囲気で、喋り方もゆったりだった。

 薬を調合する際の作業衣らしく、灰色の上着に下衣服ズボンを着ている。色気の欠片も無い格好だと、異性なら嘆かざるを得ないだろう。せめて、単一着ワンピース女用下衣スカートか。彼女の容姿なら、貴族の令嬢御用達の貴衣服ドレスだって着こなすに違いない。非常に勿体ないのだ。

 カノンは口を閉じたままアネラスを見詰めていた。言葉がないのを見抜かれたのか、褐色肌の女性がくすぐったそうに微笑む。


「僕の顔に、何か付いているかい?」


「いや、別に、いあたったたたたったた!?」


 嫉妬深い少女・アディリシア。無言の無表情でカノンの脛を蹴った。下衣服(ズボン)越しに革靴の硬い感触が突き刺さり、思わず悶絶してしまう。鍛え上げた銃士の足は速く、鋭く、そして重い。そんな二人を見て、アネラスが感心したように頷いたのだった。


「君達二人は仲が良くて羨ましい限りだよ。『妖精森の紡ぎ手『では、夫婦は喧嘩するほど仲が良いとされている。君達のような光景は、契りを交わしたばかりの男女に多かったかな。アディリシアが満足する男はきっと、カノン。君のような男だろうね」


 すると、アディリシアは金色の縦螺環ロールを揺らしながら眉根を八の字にしたのだった。


「まあ。これは正当な飼い主から飼い犬への懲罰です。パトリシー・メイスンの歌にもこんな一節があります。『言っても分からねえ豚は殴っとけ。痛みが引かないうちは利口になるだろうさ』とね。痛みがあるからこそ、人は教訓として覚える。それが、真理ですわ」


「いや、何一つ面白いこと言えてないからな痛い!? てめ、蹴るなよ。この襟折上着スーツ高いんだぞ。破ったら給料から差っ引くって手前の母親から脅されてんだよ!」


 カノンが文句を言うも、アディリシアは澄まし顔で視線を明後日の方向に向けるだけだった。アネラスは口元を押さえながらニヤニヤしている。ややあって、薬屋の店主はパチンと両手を打ち鳴らしたのだった。まるで、漫才は終わりだ場を切り替えるかのように。


「さあ、調合した薬の確認をして貰おうか。君から頼まれたメモと全く同じ分量、製法、調合にしたつもりだけど、誤りがあるといけないからね」


 アネラスが商売人の顔で汎用卓テーブルに置いていた小瓶をカノンに進める。彼は咳払いを一つしてから小瓶を受け取った。硝子製で、大きさは男の両手で包めば隠せる程度。中身はドロドロと水飴のように粘度が高い黄緑色の液体だ。柔木封コルクの蓋越しに、ツンと辛いような酸っぱいような香りがする。無理に例えるなら、香草と酢で漬けた白身魚に近いだろうか。アディリシアが彼に一歩近づき、三歩引いた。鼻が良いのか、若干顔を顰めている。


「他の薬草と混ざり難い爆裂九頭人参キャトルー・ルルルがここまで見事に溶けているなんて、やっぱりアネラスは凄いな。俺も調合には人並みの自信があったが、やはり専門家は違うな」


「そう、難しくないよ。あの人参は擂り潰してから油を混ぜるのさ。その後、酒成分アルコールを加えながら気化させる。そうすると、必要な成分だけが分離する仕組みだよ」


 簡単に言うものの、火を通していない爆裂九頭人参キャトルー・ルルルには猛毒が含まれている。それも、火を完全に通してしまえば、今度は欲しい成分が抽出出来ない。まさに、極限の精度が必須の作業なのだ。恐らく、ここまで薬の調合に長けた人物は王国『アークライラ『では王族専属の薬師程度だろう。まさに、神技だった。あるいは、妖精の御技か。

 カノンは柔木封コルクを外し、手で扇ぐようにして臭いを嗅いだ。そして、柔木封コルクに付いていた薬を右手の小指、爪の先端に付けて恐る恐る舐める。舌先に鋭い苦味と酸味を感じ、ついつい眉間に皺を寄せてしまう。目頭に少量の涙が滲んでいた。


「完璧だ。流石は『妖精森の紡ぎ手『か。その名に、偽りはないな」


 カノンが口にした『妖精森の紡ぎ手『とは、王国『アークライラ『が統治するクルスタッロ大陸から北東へ、最新の船を使い、二十日以上かけてようやく到着する、縦に長い大陸・メイディムのさらに北へ早馬で三カ月以上かけて辿り着く『妖精森『に住まう一族のことである。歌と踊りを愛し、半精霊とまで謳われるほど魔術の腕に秀でている者達だ。

 だが、二百年近く前に近隣諸国から酷い迫害を受け、一族は滅亡の半歩手前まで追い込まれた。悠久独立魔導都市国家『マギア・アムネートゥルム『が保護しなければ確実に滅んでいただろう。無論、かの都市国家も完全な良心では無く、色々と思惑はあるのだが。

 アネラスは数少ない『妖精森の紡ぎ手『の生き残りであり、薬草の知識に秀で、その才能を活かして薬屋を商っている。その人気は王都や帝国からも依頼が来る程だった。学園で必要とする治療薬なども、彼女が作っている。弟子は取らない主義で、全て一から自分で調合しているらしい。


「そう言われると僕も嬉しいよ。そうだねぇ、値段はちょっと張ってグリード金貨三枚かな。端数の七レイドはオマケしておこう」


「三グリードか。それだけあれば、特級の葡萄酒が買えちゃうな」


 王国『アークライラ『で使用される主な通貨は、三種類である。

グリード金貨。レイド銀貨二十枚分。これ一枚あれば楽に一ヶ月は暮らせる。

レイド銀貨。アリー銅貨十枚分。酒場で泡麦酒(ビール)が五杯から六杯軽く飲める。

アリー銅貨。複数形でアリス。パン店で小麦のパンが一つ買える値段。

 他にもミレード金貨やベリル銀貨、四分の一アリー銅貨など、何種類とあるが、基本的にこの三枚の比率だけ知っていれば、店での買い物でもたつくことはない。カノンは財布である革袋を取り出し、名残惜しそうにしながら金貨三枚をアネラスに手渡した。褐色肌の少女は恭しく受け取り、さっそく帳簿であろう紙に万年筆を走らせていた。なかなか、いや相当に商売上手な森の妖精である。


「君のような〝お得意様〟がいると、僕も商売が捗って嬉しいよ。いつ来てもいいからね」


「それは案に、どんどん金を落としてくれってことか? たく、アネラスは商売上手だな」


「おやおや、僕は君が会いに来てくれるだけでも嬉しいんだけどね? ……駄目かな?」


 アネラスが上品に微笑む。微かに瞳を曇らせるのは憐憫の色か。カノンは、彼女の姿に極上の貴衣服ドレスを幻視した。それは正しく、悠久の時を重ねた真緑の女王だった。人の上に立つ者にしか許されない王としての風格。圧倒されてしまう。それでいて、納得してしまうのだ。この者の前なら、膝を折っても構わないと。強制ではない。それは、肯定なのだ。

 だが、突如、尻に衝撃が駆ける。アディリシアが回し蹴りの要領でカノンの尻へ踵を捩じり込んだのだ。金玉の裏で爆発する激痛に、思考が数割持っていかれ、呼吸が断絶してしまう。顔面に大量の脂汗を流す彼を見下ろし、少女が冷ややかな口調で言ったのだ。


「ところ構わず発情する駄犬には、正当な罰が必要ですわよね? 私、最近は鞭の使い方も勉強しているのですよ?」


 恐ろしい言葉に、顔を蒼白に変えるカノン。今度は汗が全部引っ込んだ。代わりに、背筋が震えてたまらない。そんな二人を見て、アネラスは、ほっこりと頬を緩めたのだった。

「ああ。やっぱり、仲が良いんだね、二人とも。僕は嬉しいなー。ふふふふふ」

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