第21話 セルロイド板

 祖父の手紙には、セルロイドの一枚の小さな板が同封されていた。そしてその表面には、針先で削るようにして、2つの数字が書かれていた。

 矢倉は父からその手紙を見せられた時、その数字は緯度と経度であるとすぐに気がついた。


 海図で確認すると、そのポイントはポルトガル沖、海岸線から西に150キロの地点で、水深は70mほどの場所だった。

 瞬時に矢倉は「いつか必ずそこに行こう」と決心した。


 つくづく血は争えないものだと矢倉は思う。矢倉の父、雅仁は、祖父の果たせなかった夢を叶えようとした男だった。雅仁は子供の頃から、医師かパイロットになると心に誓っていた。そして家庭の経済状況を斟酌して選んだのが、パイロットへの道だった。


 雅仁は国立鳥取大学の医学部に合格していたが、入学してすぐに、自衛隊が公募している航空学生を受験した。当時それは極めて狭き門であったが、一次、二次、三次と試験をパスし、遂に全国で20名の枠を勝ち取った。

 邦仁はすぐに大学に退学届を出した。周囲は勿体ない事をするなと言ったが、このまま医学部で7年も勉強することは、母親に過大な負担を掛ける事が明らかだった。


 航空学生としての雅仁は優秀だったが、飛行訓練課程に入る直前に受けた健康診断で問題が生じた。蓄膿症であることが判明したのだ。一般社会では何ということも無い病気だが、軍用機――特に雅仁が希望する戦闘機――のパイロットとしては致命的だった。

 症状が特殊だったために、当時の医療技術では手術をしても完治が望めないらしく、雅仁はパイロットを断念せざるを得なかった。


 医師への道に戻るにしても、家計に掛かる負担は大きい。結局、雅仁が選んだ選択肢は、自衛隊内で方向転換し、すこしでも空に近い職業である整備士になることだった。

 整備士は特殊技能者であることから、自衛官としては転勤が少ない。雅仁は若い頃は日本各地を転々と異動したが、40歳近くになって希望が叶い、生まれ故郷、米子市の美保基地に移ってからはずっと異動せず、そこで定年を迎えることになった。

 祖父と同じくパイロットへの道は、志半ばで絶たれてしまったが、幸いにも母親の側で親孝行をしてやりたいという願いだけは実現できた。


 血が争えないのは、矢倉も同じだった。矢倉は高校卒業後、父親と同じく鳥取大学の医学部に入学したが、3年次に上がる前に休学届を出して、カナダの潜水学校に留学した。

 祖父の手紙を読んだ事で矢倉の気持ちが大きく動いたのだった。そしてそのまま各国の海底油田を渡り歩きながら、今に至っている。


 母は矢倉がオイルダイバーになることに猛反対だったが、父が説得をしてくれた。母は今になっても矢倉と父の二人に、二代に渡って医者への道を踏み外した馬鹿親子だと言っている。

 矢倉の妹の望美も母の味方だ。望美は大学を卒業してすぐに、地元の開業医と結婚したが、それは多分に母の影響が大きかったはずだ。


 矢倉も父も、女性との口げんかにめっぽう弱いため、母や妹の前では馬鹿親子のそしりを甘んじて受け、小さくなっている。しかし内心ではどこ吹く風だ。女二人の目が届かない場所では、矢倉家は祖父を含めた親子三代で、医者への道を自分から捨てたサムライの家系なのだと胸を張っていた。


 矢倉は実家を離れて現場を転々とする身のため、祖父や父のように、母親孝行をしていない。しかしそれはいつか実現できる事だと思っていた。オイルダイバーの旬の時期は短い。そう遠くなく矢倉も陸に上がる。それからでも十分に間に合うと楽観していた。


 矢倉が目的地のポルトガル、ポルテラ空港に着いたのは、既に冬の陽が落ちた時間だった。矢倉はスーツケース一つをターンテーブルから取り上げると、タクシーでリスボン中心部のホテルに向かった。ダイビングの用具類は、日本から直接ホテルに送ってあった。


 矢倉がポルトガルに来た目的は2つあった。最も重要な目的は、祖父の残した緯度、経度の地点に潜って、そこにあるものが何かを確認する事。もう1つは、祖父が日本に手紙を送った村に行き、祖父がそこに存在した証を得ることだった。


 矢倉はホテルにチェックインすると、すぐにバーに行き、ポルトガル産のドライシェリーを一本空けた。時差ボケを解消するには、酒を飲んで寝てしまうのが一番だからだ。



――2018年1月20日、11時00分、ホワイトハウス――


「チェイス、モサドから情報が得られたそうね?」

 ブレイクが会議の口火を切った。

「はい、わざわざ皆さんにお集まりいただいたのは、それをお伝えするためです」 チェイス・グラハムCIA長官が答えた。


「先に概要から教えて」

「はい、殺されたモサドの諜報員、モーシェ・ペレスがワシントンDCで誰に会おうとしていたかが判明しました。そしてペレスがアルゼンチンで負っていた任務の正体もです。

 ペレスの任務こそが、彼とナチス、彼とザビアを結びつけるものでした。ただし、現状ではモサドから一方的に得た情報なので、裏が取れている訳ではありません」


「構わないわ、今はそれを信用するしかないでしょう。それで、ペレスは誰に会おうとしていたの?」

「なんと我々の近くにいる人物でした。ペレスの面会先は、ザルマン・シュメル博士だったようです」

「シュメル博士?」

 ブレイクは意外な表情を見せた。先日の会議で話題に上ったばかりの人物――、管理金準備制度のシミュレーションを担当し、更にギリシャのデフォルトを放置した場合の、被害波及の予測を行った人物だ。


「ペレスの動きは、我々の管理金準備制度に何か関係しているの?」

「直接の関係はありません。博士は現在イスラエル政府の経済アドバイザーも務めており、ペレスはその政府筋から、金融関連の用件で博士に面会を求めています」

「イスラエルの政府筋?」

 ブレイクの発言を受け、グラハムは手元にあるファイルをめくった。


「シュメル博士はイスラエル人で、コンピュータサイエンティストであり経済学者。現在は我が国の永住権を取得しています。

 博士はヴァイツマン研究所在籍中に人工知能を応用した超並列コンピュータの研究によって、ノーベル賞と同クラスと言われるACMチューリング賞を受賞。


 12年前に我が国のマサチューセッツ工科大学に招聘され、現在は同校の経済学部、学部長。グローバル経済のコンピュータ解析を研究テーマとしており、過去に2度、ノーベル経済学賞の候補にも選ばれました。IMF副専務理事は現職と兼務で、イスラエル政府の強力な後押しによって着任した経緯があります」


「イスラエルは政治的、歴史的な理由で、国連内で主導権を握る事ができない国。せめて彼らの影響力が強い金融の分野で、国連のトップ人事に発言力を行使したという事よ。博士とイスラエル政府との間に、何らかの協力関係あるとしても不思議ではないわ」

「深読みですね」

 グラハムは感心したように言った。


「本題に戻りましょう。なぜペレスは、シュメル博士に会おうとしたの?」

「アルゼンチン国内で、ナチスシンパの一部に不審な経済活動が観測され、ペレスがその金融取引について、博士に解析を依頼しに行ったというのが経緯のようです。ここから先の話を理解していただくためには、予備知識として、まずはアルゼンチン国内で活動する、ナチスシンパについて知っていただかなければなりません」


「アルゼンチンのナチスシンパ?」

「はい。アルゼンチンは第二次大戦時、中立国ながら枢軸国寄りの政策をとっていたため、ナチスドイツが無条件降伏をした際、多くのナチ党幹部があの国に逃亡しました。ご存知でしょうか?」

「もちろん、知っているわ。戦後すぐに親ナチスのペロン政権が誕生したことも、あの国を逃亡先に選んだ理由だったのでしょう」


「その通りです。ドイツを脱出したのは党幹部だけではありません。資産家、企業家、科学者、エンジニアなども国の行く末を案じて国外に出ています。南米全体では何と、4万人から5万人ものドイツ人を迎え入れたと言われています。

 ナチ党幹部たちは、ナチハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタールや、彼から情報を得たモサドによって、ほとんどの者は戦犯として逮捕されました。しかしナチスを支持していた民間人にまでは、追及の手は及んでいません。

 その者達の一部が、今でもナチスを信奉し、現在のナチスシンパを構成しているのです」


「ナチスシンパとネオナチは、同じものだと考えて良いの?」

「ある意味ではそうとも言えますが、正確ではありません。ナチスシンパという括りは、曖昧な定義であり、イデオロギー全般を指しています。ヒトラーの記した『わが闘争』をまるで教義のように信奉する人々も、ファッションとしてナチスのデザイン様式を愛好する人達も、等しくナチスシンパなのです。

 そしてネオナチとは、ナチスシンパの中でも先鋭的かつ原理主義的に、政治活動や反社会活動を行うグループだと言えます」


「今回その不審な経済活動をしたというのは、ネオナチと言う事?」

「いえ、ネオナチのような攻撃的な活動家たちではありません。モサドが注目しているのは、というグループで、一見健全な銀行家、投資家、企業経営者たちの親睦団体のようなもののようです。警戒レベルの低い人々が動いたことが、逆にモサドの関心を引いたのです」


「ネオ・トゥーレ? そんな組織名は聞いたことが無いわ」

「ナチスシンパには数多くのグループが存在しています。元々ナチズム自体には無政府主義的な傾向が強いため、強力な指導者が組織をまとめて牽引するのではなく、小さなグループが乱立しているのです。ネオ・トゥーレはその内の一つと思われます」

 グラハムもまだ入手たばかりの情報を、消化し切ってはいなかった。

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