第3話 独占(前)



「私の部屋に来ませんか」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔の晶子に、阪口は唇の端をわずかにつり上げて、猫のするように目を細めた。


 事の発端は、ここ数日の寒波による。晶子は、大学卒業を機に一人暮らしを始めた。しかし、何分、一人娘で甘やかされてきた身である。うまく家事ができる筈もない。加えて、晶子は手抜きが下手で、アイロンをかけていないブラウスを着ていく勇気も、アイロンの必要のないカットソーを買ってくる機転もなかった。教職という重責を負いかねたのは、家に帰っても心身を休めることができないことも、大いに影響していた。

 晶子の暮らすマンションは、父が仕事場にしていた部屋である。もう父は引退し、マンションも処分を検討していたが、如何せん、資料が堆く積まれた書斎に手を着けかねたと言うところ、晶子が入居したのだ。

 晶子が入ることもない書斎と、居間だけの間取りだ。台所と居間はつながっていて、上から見れば、長方形にちょこんと正方形がくっついた部屋は、広くはないが狭すぎるということもない。

 装飾の少ない部屋。テレビを見る習慣もなかったので、部屋は基本、音がない。これと言った趣味も晶子にはない。味気ないが、不満は感じていなかった。晶子は毎日とはこんなものだと思っていた。

 しかし、それが突如として乱された。寒さで水道管が破裂したのである。しかも、老朽化していたマンションの配管は、何カ所も断裂し、大きな水漏れとなった。晶子の住む部屋もその犠牲となり、晶子は寒空に放り出されることになったのである。

 実家はさほど遠くはない。電車に乗れば二時間かからないから、ひとまず実家に身を寄せようと思っている。これが憂鬱だった。晶子の両親は大袈裟に心配するだろう。一人暮らしも許してもらえなくなるかも知れない。

 放課後、研究授業について阪口から指導を受けているときに、晶子はぽろりとこの不安をこぼしてしまった。

 晶子にすれば、阪口にこんな自分の有様を話すのはみっともなくて仕方がない。「今日はやけに大荷物できましたね」と、職員室の自分の席の足下に突っ込んだボストンバックのことを問われた時の、返事の曖昧さを阪口に追及されれば、誤魔化すことはできなかった。

「君の家からここに通うのは骨が折れるでしょう」

 君、と言われて晶子の胸が駆ける。阪口はいつもの銀縁の眼鏡と隙のないスーツ姿だが、「あなた」でなく「君」と晶子を呼ぶのは、放課後に限られる。仕事中はほかの教師とひとからげにされているが、指導のためであっても、こうして阪口を独り占めしていることがひしひしと感じられる。

「阪口先生にご迷惑ですから」

 やっとのことで晶子は断ったのだが、阪口は広げていた資料を手早く纏めて立ち上がった。折角申し出てくれたのに、気を悪くしてしまっただろうか。

「行きましょう」

「…………はい」

 晶子は、もう放課後が終わってしまうことが寂しさに落胆する。自分でも動作がのろのろとしているのがわかってしまうが、机一つ挟んだ距離で座っていたことの喜びが胸に溢れているのも事実だ。

 戻った職員室は教頭しかいなかった。おっとりした校長とは真逆で、せかせかとしたところが蜂みたいと生徒にからかわれている。定年間際の彼女は特に尻のあたりがどっしりとしていて、余計に蜂を連想させた。

 教頭は阪口に愛想良く話しかけた。晶子はちらりと一瞥しただけで、「お疲れさま」とも言わなかった。晶子は自分の机の上を片づけ、足下からボストンバックを引きずり出してそれを肩に担いだ。

「お先に失礼します」

 金銭面でゆとりがあるこの学校は、設備が充実していて、校内にいる限りは真冬でも凍えることはない。それでも、玄関あたりはさすがに冷気が漂っていた。

 職員玄関でバッグを下ろし、低いヒールの靴を履く。くるぶしのあたりからつま先までは、暖房の入っていても冷え切っていて、なかなか足が収まらない。

 すると、横から晶子のボストンバッグが浚われる。視線を上げると、阪口だった。

「早くしなさい」

 いつの間に追いつかれたのか、晶子は急いで靴を履いた。その腕を阪口に取られる。

「行きましょう」

 ろくに返事もできないまま、晶子は阪口に引きずられるように駐車場へと向かった。



「はい、と言ったでしょう」

 車内という狭い空間では、阪口の声もやけに近い。机一つ分よりも更に近い。

「あの、そんなつもりではなくて」

「遠慮は無用です。私たちは遠くとも親戚なんだし」

 晶子は阪口が滑らせる車がどこに向かっているか知らなかった。

 阪口が晶子の家庭教師をしていた時分、すでに阪口の両親は他界していて、彼は祖父母とともに住んでいた。晶子の家と同じ町にあったが、晶子の家は海際に、阪口の家は山際にあったので、行き来は無かった。

 一度だけ、こっそりと見に行った阪口の家は、細い石段を登った木戸の向こうにあった。古い日本家屋はぐるりと塀に囲まれていて、塀の上には木々が鬱蒼と葉を茂らせていた。

 その祖父母も阪口が大学生の時に亡くなった。

「もうあの家は売って、今はマンション住まいです。古い家は手がかかるから」

 阪口のマンションは車で三十分ほどのところにあった。様々な施設が近くにあり、暮らしよいに違いない。

 阪口の家はもうあの町にはないのだ。

 追いかけても追いかけても、阪口は遠くへ行ってしまう。切なさと、だから追いかけ続けてもいいという仄かな許し。ぶるりと晶子が肩を震わせると、阪口は暖房の設定温度を上げた。


 管理人が常駐するマンションはセキュリティも高いようだ。ロビーの調度品も、モダンで品がある。黒い石が敷かれた床に、大きな花瓶が光に照らされて浮かんでいる。

 エレベーターの中でもボストンバッグは阪口に奪われたままだ。

 手を伸ばす晶子を視線だけでいなす阪口にとって、バッグはいかにも軽そうだ。

「あの、私、やっぱり実家に」

「今からでは遅いでしょう」

「じゃあ、駅前のホテルに」

 また腕を取られ、エレベーターから降ろされる。最上階だ。奥まで一息に進み、急に立ち止まった阪口の背中に晶子は突っ込んでしまう。

「もう着きましたから」

 ドアが開いて、晶子の背中が押される。ドアは静かに閉まった。

 思わず振り返ると、おおいかぶさるように阪口がいた。

 割に広い玄関だったが、それこそ息がかかるほどの距離に。

「あ、の…………」

 のどが張り付いたように声が詰まる。

 その時、部屋の奥から、電話の鳴る音が聞こえた。

 びくっと飛び上がった晶子の横をすり抜けて、阪口が部屋に入っていく。晶子は置いて行かれないように、急いで脱いだ靴を揃えて、阪口に続いた。

 居間のドアを空けた瞬間晶子は立ち尽くした。阪口の匂いを感じたからだ。

 動けなくなった晶子の前で、阪口は電話を取って、話し始めた。

 どうやら相手は女性で、そして、女性は阪口の交際相手らしいということが聞こえてきて、更に晶子の体は凍りついた。阪口は晶子に構わず、話を続ける。

「ええ、この前伝えたとおりです。もう連絡はこれきりにして下さい」

 受話器は無慈悲に置かれ、阪口はため息をついた。

「何を突っ立ってるんです。早く入りなさい」

 阪口はわざわざ晶子の手を引いて、室内に引き入れるとソファに座らせる。

 黙ったままの晶子の前に、阪口は膝をついて、晶子の顔をのぞき込んだ。

「…………泣いているんですか?」

 晶子ははっとして頬に手をやった。濡れた感触はない。泣いてなどいないではないか、反論しようとして唇が震えた。

 膝の上に阪口の手が置かれる。重くて熱い。

「全く君は手がかかりますね」

 骨ばってごつごつとしているのに、阪口の手は優美だ。その手がじわと膝を撫で、晶子は鋭く息を吸い込んだ。

 と、緊張した空気を裂くように、晶子の腹が小さく鳴った。阪口にしては珍しく破顔して、立ち上がり、「まずは夕食にしましょう」と言った。


 阪口は端から晶子の手伝いは期待していないと言い、手早く夕食を準備した。晶子はその間、ソファに座らされて、ボストンバッグから荷物を出しておくようにと言われた。

 晶子が並べたのは、通帳などの貴重品と、最低限の着替えだ。替えのスーツとブラウスなどの衣類。化粧品は殆どない。装飾品の類は全くない。後は仕事道具と、手帳。スマートフォンは使いこなせる自信もなく、晶子は古い携帯電話を使っている。連絡はほぼ親としか取らない。

 荷物を出し終えて、ぐるりと居間を見渡す。居間は独立していて、キッチンに立つ阪口の姿は見えない。廊下の両脇にあったドアは寝室や洗面所につながっているのだろう。居間からはベランダに出られるようになっていて、晶子はふらりと立ち上がる。

 カーテンの隙間から、下を覗くのは恐ろしく、晶子は空を見た。星空だった。冬の冷たい空にオリオン座が浮かんでいる。追いかけても逃げ続ける冬の星座。

 ふと、脇にあるチェストの上に、写真立てが伏せてあることに気づいた。いけないと思う前に手が伸びて、写真立てを返す。そこには、阪口によく似た面差しの女性と、厳めしい風貌の男性が並んで写っていた。二人は水と火ほども、見た目の印象は離れている。ほっそりとしてにこやかな女性と、どっしりとした大きな体としかめ面の男性。それでも肩は寄せ合って、仲睦まじい仲であることが伝わってきた。

「準備できましたよ」

 晶子ははっと振り返った。居間から続く磨り硝子のドアにもたれて、阪口が立っていた。

 晶子は震える指で写真立てを戻した。


 食事はおいしいはずだったが、晶子には味がよくわからなかった。阪口は機嫌が良さそうに見えた。

「食が進みませんね」

 小さめのダイニングテーブルはガラスで、借り物のスリッパを履いた足が透けて見えた。やはり、くるぶしのあたりが寒くて、足をこすり合わせる。

「気になりますか」

 阪口はワインのグラスを手にしていた。勧められたが晶子は断る。赤いワインが阪口の唇を濡らす。

「君が知りたいのは、電話の相手? それとも写真?」

 晶子は手を膝の上に置く。おそるおそる口を開いた。

「あれは、阪口先生の、ご両親ですよね」

 阪口は苦笑した。「誰に聞いたの? 君のお母さん?」

 晶子も、顔を真っ赤にした。

「私の両親は、私が君と出会う随分前に事故で亡くなりました」

 二人を乗せた車は、事故で大破、炎上した。乗っていた二人は即死。更に、遺体は焼け焦げて、身元確認にはDNA鑑定を必要とした。

「最後まで、私は二人の遺体を見せてもらえなかったんです。だからかな、あの棺の中には本当に父と母が入っているのか、私にはわからなかった。無理にでも棺を開けようとする私に、祖母は泣きすがりました」

 幼い阪口を置いて、二人は永遠の旅路に出た。

「君に教えたように、蝶がひとの魂であれば、生きたままの姿で、手元に留めておけますね」

 阪口が、昆虫標本に傾倒していったのはそんな理由からなのだろうか。晶子は幼い阪口を思った。もし、晶子が同じ目にあったらと考える。

 晶子を存分に甘えて育てた父母の繭、それが、焼け落ちてしまったら。

「なんて、理由があれば、君は満足しますか?」

「……え?」

 晶子は、阪口の喉仏がワインを飲み下し、太く動くのを見た。ゴクリという音が空気を伝い、晶子の肌を撫でたようにすら感じた。

 あの秋の日の放課後、阪口は晶子に、彼女が阪口を追い続けていたことをとうとう認めさせた。晶子が彼を追い続けることを許容すらした。晶子は、今まで密やかに育ててきた花が、急に日陰に出されたように、その熱さに怯え、また快さを感じつつあった。

 同時に、あれ程まで強かった虫への恐怖が薄れていった。

 思い返すのは、幼い日のことである。阪口が取り出した色とりどりの昆虫標本。美しい死骸達。晶子は万華鏡の中を覗くように、顔を寄せた。秀麗な面差しの青年が、晶子に微笑む。

 阪口は、ワインのグラスの中にスプーンを入れ、赤い液体をすくった。

 そして、それを晶子の口元に差し出す。

「口を開けなさい」

 阪口は、ネクタイを取り、胸元のボタンも上から二つ開いていた。腕まくりをしているから、彼の腕の筋肉がよく発達しているのが見える。太く筋になった筋肉。つけたままの腕時計。引き締まった腰と、組んだ長い足。晶子を見据える阪口の唇が、ワインに濡れている。

 意志の強さを表した眉と、清潔に整えられた襟足、すっと削げた頬から繊細なのに確固とした力を感じささせる顎へのライン。何よりも、凪いだ冬の海のような瞳。

 阪口の唇がうっすらと開き、また「開けなさい」と言った。

 晶子は、ゆっくりと、唇を開けた。

 先に冷たさが触れ、その後に喉を熱いものが滑り落ち、胃でぽっと灯る。

「君はいつも私の前をひらひら飛んで、捕まえて欲しいと誘う。私に捕まる理由を欲しがっている。でもね、それは違うと私は思う」

 阪口は返すスプーンで、もう一度ワインをすくい、今度はそれを自分の唇へ運んだ。

 また、喉仏が大きく動く。

「私が君を捕まえるのではない。君が、私に、捕まるんだ」


 阪口は、玄関から入ってすぐの部屋を晶子に与えた。

 玄関の廊下から、突き当たって居間。廊下の両脇にある部屋を阪口は説明した。バスルームの使い方などもざっと教え、最後に、

「ここは私の寝室です。君に昔見せた標本もここにあります。見たかったらいらっしゃい」

と言って、ドアの向こうに消えた。


 阪口ひとりで住むには広すぎるマンション。与えられた部屋にはユニットバスが設えてあった。晶子はぼんやりしたまま、シャワーを浴びた。

 借りたタオルは真新しく、阪口の匂いがしないのが救いだった。

 晶子の荷物は、シーツを掛けられたばかりのベッドの上に置かれていた。バッグは阪口が持って行ってしまった。

 晶子は自分の荷物を確認する。寝間着になりそうなひとそろいを身につけて、床に座り込んだ。

 低い視界には、木目の美しい床と、白い壁。縋るように、ベッドの上に手を伸ばす。飾り気のない下着、最低限のことしか書き込んでいない手帳、携帯電話の充電器。何もない。晶子に、何かを与えてくれるものは何も。

 晶子には何もないのだ。突きつけられた事実に愕然とした。

 何かあるはずだと必死で考える。そうすると、やはり浮かんでくるのは、初めて出会った日の阪口の面影だった。

『晶子ちゃん』

 あの声に名前を呼ばれたくて、何度も先生、先生とじゃれついた。見慣れない詰め襟の学生服は、大人のようで、それでも一番近いところにいて、友達でもなく、親でもなく、晶子の世界をその存在で満たした。

 あまりにもその引力が強くて、晶子は阪口を恐れた。阪口に捕らわれた虫を恐れる気持ちは、捕らわれる恐怖からだ。

 けれども、阪口が恋しくてならなくて、その姿を追った。両親に尋ね、手がかりを得ては、阪口が現れそうなところを訪れ、まるでストーカーだ。

 滑稽すぎて、涙が溢れてきた。

 涙を拭うために上げた手が、携帯電話に触れる。晶子はおぼつかない手つきで、画面を開いた。

 一度だけ撮ってしまった。撮ったけれども、見ることはできなかった。古い携帯電話のデータに、たった一枚だけ、阪口の写真があった。

 今よりも幾分若い阪口。ピントはぼけていて、晶子以外の人間が見ても、阪口だとはわからないだろう。それくらい遠くから撮った写真だった。

 こちらを見てもいない。隠し撮りなのだから当たり前だ。浅ましい。晶子は携帯電話を胸に抱きしめた。

 初めて出会った日から、阪口だけが、晶子の世界を占めていたのだ。

 言葉にできないくらい。



 決心は、夜更けまでかかった。

 暗い廊下を歩いて、阪口の寝室をノックする。

「どうぞ」

と声がして、晶子は自分でドアを開ける。

 阪口は灯りを落とした部屋の中、机に向かっていた。椅子がくるりと回って、阪口が振り返る。先ほどとは変わって、黒っぽいパジャマを着ていた。

「晶子ちゃん」

 少し首を傾げて、阪口は晶子に問う。

 暗闇と、彼にしては幼い仕草が、晶子をまた、あの頃に連れ戻す。

 あの時、晶子は言うべき言葉を飲み込んで、胸の内に育ててきた。

 それを口に出そうとして、またためらう。阪口は黙って晶子を見ていた。視線に晒されているうち、晶子の胸に、強い衝動が突き上げた。 

「私を、先生のものにして下さい」

 言った瞬間、晶子の両眼から涙が溢れ出た。言ってしまった、もう戻れない、後悔とはまた違う、今までの自分に決別してしまったという衝撃。

 涙にぼやけた視界で、阪口が手招きする。晶子は阪口の腕の中に飛び込んだ。

 阪口の匂いに包まれる。

「長い蛹の時期が終わったというところかな」

 顔を上げた晶子の額に、阪口が唇を寄せる。本当に、子供の頃に戻ったような、それでいて、全く違うこそばゆさが、晶子の背中を撫でた。

「よくできました。昔から君は、私の優秀な生徒です」

 晶子は再び阪口の胸に顔を伏せた。これでいい、全てのピースがはまった、晶子のパズル。ずっと放り出されていた、美しい世界。

 晶子はうっとりと嘆息する。

 そのあえかな吐息に押されるように、阪口の寝室のドアが、ゆっくりと閉まった。




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