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 不気味な静寂と、白い霞に紛れた幽玄の景色が広がる。鉄の門扉の向こうで、広い庭は眠ったように静まりかえり、低木や花壇の影に漆黒の闇を滲ませている。その奥にあるまばらな林にはより深い黒が横たわっていた。さらに奥、石垣に鎮座する大きな洋館だけが灯りを燈して周囲を見下ろしている。

 漂い流れる甘い蜜の香りは、昼の命の残滓だ。月に照らされた蒼い世界の中で無残にしおれた花弁が青白く褪せていた。人の背丈を優に超える黒い檻の向こう側は死の国に見えた。庭は広く、鉄格子の向こうにも道が連なり、木々に囲まれた古い邸宅を遠く映している。死者の行き交う時刻に相応しく、その屋敷は門扉の向こうの林の中で、厳かに佇んでいた。


 明治期あたりの壮麗な家屋は、一見でホテルかと見紛うほどに大きく、どこか異様な空気を湛えてしんと静まり返っていた。窓の多くに灯りが燈っているにも関わらず人の影を映すこともなく、見つめる青年の胸を騒がせた。明りは燈っているのに、誰も居ないのか。

 庭先の外灯が煌々と夜を追い払い、居丈高な舘の土台を照らしている。なるほどその石垣は年代を感じさせる古いもので、黒くぬめった色をしている。さきほど出会った不思議な少女の言葉通り、緩い坂となった部分と、屋敷を支える土台の部分とは、石垣の状態が違っていた。海賊の砦を潰して屋敷を建てたのだ、少女が淡々と語った言葉が思い出された。呪われた舘は不気味な影絵となって、人工的な林の上に浮かび上がっていた。


 門扉には他に、近年の施工らしい新型のインターホンが据え付けられている。古代史から明治大正期を経て現代へと地滑りしてきた風景に、ベージュ色の四角いプラスチックの箱が平成という安い艶を添えている。小さなモニター画面付きで、上部の隠れるような位置には防犯カメラのレンズも光っていた。ここは時代に取り残された亡霊の島などではないと、古めかしい屋敷に代わって教えている。カメラに映り込むことを避けて、彼は煉瓦塀の作り出す影に潜んで屋敷をもう一度窺った。

 門の向こう側は遠い。鉄の檻を見上げると、空には満天に星が溢れている。舘の灯と星の煌めきとを交互に見つめ、散々迷った末に、結局彼はインターホンの呼び出しボタンを押した。指が離れてすぐのタイミングで、隣の小さな通用門に人の顔が覗く。

「はい、どちら様でしょう?」

 陰気な声が即答で返ってきた。事務的で抑揚のない声だ。声の主が、小さな通用門の格子から顔だけを覗かせていた。まるで待ち構えていたかのような、不自然な登場だった。


 青いツナギの作業服を着た初老の男だ。いや、若々しいと言ってよく、落ち着いた所作と、白いものが混じる頭髪がそれ相応の年代と知らせた。体格も良く、腰もまっすぐに伸びている。どこか威厳を感じさせるその顔が、青年を真っ直ぐに見つめた。

 男はすぐに鍵を開けて外へ出てきた。来客自体が珍しいのだろうか、インターホンは無用の長物と化している。即座に出てきたその男は、来訪者をしげしげと見つめると、取って返し、再び通用門の門扉を開けた。話す間もない。呼び止めようかと動いた青年をじろりと一瞥した。不躾な態度を咎める目だった。

「少々お待ちください、」

 言い置いて、男は引っ込んだ。門の向こうの死の国へ、男の歩む後ろ姿はやがて闇に呑まれた。しばらくしてもう一度現れた時には二人に増えていた。今度出てきた男はこれも年寄りで、仕立ての良い黒のスーツを身に纏っていた。

 二人目の男は痩せぎすで、老いている。だが、しっかりとした足取りでヨボついたところは見えない。腰も曲がってなどおらず、立ち姿勢はこの場の誰より良さそうだった。けれど好人物との印象は受けない。物腰は柔らかだが眼つきは鋭く、落ち窪んだ眼窩の底で細い目が光っている。陰気な人物だ。先ほどの男よりも、こちらの男の方が年上だろう。表情のほうは二人ともに無愛想だ。無表情といってもいい。二人は無言のまま、何か発するものとでも思っているのか、じっと彼を見ている。これが来客に対する態度だろうか。なにかおかしな感覚を受けて、青年は密かに警戒を増した。


 だし抜けに、背の高い老人が腰を折った。

「お待ち申し上げておりました、なにか行き違いがあったかと案じておりました。」

 唐突な一言の後にはまた黙りこくり、彼の返事を待っている。一刻、彼は安堵の息を吐いた。どうやら知り合いだったらしい。そしてすぐに、別の事実に思い至る。抑揚のない発音、丁寧な言葉遣い。彼は驚愕した。思ってもみない事だった。聳える屋敷と二人の男を交互に見比べた。

 この屋敷はよほどの金持ちが住んでいる、深々とお辞儀をするこの男は執事なのだ。この平成の世に、貴族の如くに執事を召し使っている金持ちというものには、まったく想像が及ばなかった。黒スーツの男の後ろには先ほどの初老の男が控えており、ひとつ遅れてこちらも当然のように頭を下げた。突然の事に、青年の方ではたじろいだ。

 この男は門番か、あるいは下男か。何人くらいの人間が集まっているのかと考えるだけで、胃の辺りが冷たくなる。のこのこと出てきた事を少しばかり後悔した。人に見られる事の不安が、懸念と共にふたたび頭をもたげた。


 浜辺で目覚めたこの日の朝を思い返して、彼はごくりと唾を呑んだ。隣に横たわる男を、最初は生きていると思ったものだ。開ききった瞳孔には鉛色の光が重く沈んでおり、一瞬で、死んでいると理解するに足りた。

 目の前に立つ執事の瞳の色と、死体の瞳から放たれる濁った反射光は同種のものだ。どこか、似ている。どんよりとして生気のない眼つき。山の野中の一軒家に住まうのだろう二人の老人は、死者と同じ類の眼差しをしていると思った。

 執事の瞳の中には、鈍色の死の影と、あの極寒の海とが横たわっていた。風雪に耐えた人生の潮流を湛えている。なんの符合なのだろうか、ここが舞台だと告げた少女の言葉が甦った。いや増す不安に耐えながら、彼は二人の老人を交互に見つめた。陰気に押し黙る二人は、青年を見ているようでもあり、何も見ていない木偶人形のようでもあった。

 たっぷりと時間が開いた。彼はまたごくりと喉を鳴らした。言葉選びに苦慮する間も、二人の老人は動きすら止めて彼をじっと見つめている。その様子はどうとも喩えようのない薄気味悪さで、まるで亡者と接しているような気がした。咄嗟には良い方策も浮かばない。あの浜での事を聞かれればおしまいだ。打開策に繋がる可能性も同時に考えた。もし、この屋敷の関係者であるなら、何らか情報が聞けるのではないか。

 彼の前には冷ややかに見つめる二対の目がある。彼の出方を観察し、様子を窺うのか、黙って反応を待っているかのようにも見える。彼は深呼吸を一つ、そして単刀直入に切り出した。

「俺のことを知ってるんですか? 俺は、ここの関係者なんですか?」

 僅かな希望を踏みにじられませんように。彼は天に祈る気持ちで二人を見た。彼自身は自分を知らないが、この二人は彼を知っているかのような口ぶりだった。二人の老人にも見覚えはなかったが、記憶喪失ではそういうものかも知れない。二人は自身を知っているかも知れないと、一縷の望みを賭けた。


 しばらくの間、また沈黙が降りた。執事はぴくりとも表情を崩さず、下男は驚いた様子だったが口にしては何も答えなかった。執事の、およそ笑い皺など作ったこともなさそうな能面顔が、首が曲がるに合わせてゆっくりと傾く。その様は止まり木で首を回す梟を思わせた。探るような言葉が低く零れる。

「申し訳ありません、意味を測りかねますが?」

「俺は、その、……記憶が無いんです。なぜここに居るのかも覚えていなくて、ようやくこの屋敷に辿り着いたんです。」

 どうにもおかしな具合だ。なんとか事情を説明しようと言葉を連ねるたびに、二人の反応は芳しくなくなっていくように思えた。記憶が消えていて名前も思い出せない、何度目か、言葉を変えて彼がそう告げた時に、執事は遮るように姿勢を正した。

「貴方は藤沢隼人様のはずで御座います。」

 まるで宣告するような口調でそう言った。改まり、執事と思しき老人は続ける。

「ご招待したお客様のうち、男性ゲストは貴方が最後のはず。他の方はすでに全員揃っておいでです。とにかく、ここで立ち話を続けることも御座いますまい。どうぞ、こちらへ。屋敷へご案内いたしましょう。」

 彼を通す為に、執事は門扉を塞ぐ自身の体をずらし、低姿勢に腰を屈めた。それより一歩下がった位置で下男らしき男もぎこちなく頭を下げた。そのまま微動だにしない執事に、彼は戸惑った。状況が呑み込めない。正体も確かめないうちから中へ招き入れようとする態度は、逆に気味が悪かった。

 この二人、来客の顔を知らないのだろうかと思うほど、二人の言葉の端々に違和感が感じられた。記憶がないと告げる相手に対して、この執事の頑なな態度は正しいだろうか。記憶のない自身の感覚が狂っているのだろうか。だが、確かめようにも二人の持つ雰囲気がそれを静かに拒絶している。仕方なしに彼は鉄の門扉を潜った。


 門を抜けた先にも、小さな林が広がっている。森の中の屋敷の庭に、わざわざ小さな森が配されているらしい。人口の森林は適度に間引かれ、根元は明るい。小道が通っており、両側に整形された木々が行儀よく植わっている。和洋折衷の趣きなのか、庭は山水風にも西洋の庭園風にも見えた。林を抜けると芝生の丘があり、カントリーを意識したテーブルセットが東屋風の建物の傍に置かれている。植え込みには色とりどりの花が咲くのだろう、萎れた残骸をこの夜にも残していた。

 いったい敷地面積はどのくらいあるのだろう、観た覚えもないほどの大豪邸の庭先だ。けれど嫌でも視線は石垣に向かう。黒く異様に目を引くその土台はところどころと苔むして、この敷地の多くの部分にちらりちらりと姿を垣間見せていた。大きな砦だったはずだ。それに見合うだけの海賊たちが生活し、そして、海の藻屑と消えたのか。

 執事を前に、後ろに下男を従えて彼は小路を進んでいく。砦の遺構に呑まれていく気がした。庭を抜け、スロープを折れ曲がりながら登り、ほどなく、城のごとく大きな屋敷の正面玄関へと案内された。


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