孤島の西洋屋敷

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 その島は、呪われた伝説を持っていた。

 今、かの青年は藪を掻き分け、道なき道を訳も解からず進んでいた。浜から続いた舗装路は、いつしか砂利道となり、獣道と成り果て、最終的には消えてなくなった。どれだけの大きさの島だというのか、半日歩き通しても山林を抜けない。彼は遭難者となっていた。小さな傷を手足にこしらえ、枝のしなりに顔を叩かれ、果ても見えない山中で半ば自棄になって彼は進んでいた。

 嘲笑う声は、幻聴には違いない。好奇心と嘲りの視線も、浜に居た者たちとはまた違う者たちである気もしたし、同じ者かも知れなかった。浜の者とは違う好戦的な気配を感じて、彼は警戒を強めていた。不気味な鳥の声が聞こえれば、それを脅しと看破する。誘導しているのか、近付けまいとしているのか、彼らの意図は測れなかった。

 絡み合う枝や葉の合間から誰かが窺い見ているようで、彼は気配を気に掛けずにはいられなかった。風の渡る音ですら、不気味な獣の呻きに聞こえる。獣と見せかけた威嚇の念か。色濃い作為には悪意が篭もっている。見えない者たちは、依然、姿を見せようとも思っていないようだった。周囲を見遣りながら、青年は歩き続けた。


 鬱蒼と繁る木々はここ最近の手入れが放棄されたか、雑多な植物が無造作に生い茂る。その様はいかにも化け物の巣に相応しく、なおさら彼を焦らせた。もうじき、夜となる事を恐れた。

 杉の木立は立ち枯れて、死人のように腐れかけている。新たに芽吹いた椚や椎の、若木の無造作に伸びる枝葉どもが、せめてと忌まわしきものを押し退けようとしている。ほとんど原生林に戻りかけたその山林も、夕日が急速に沈む中ではそぞろ薄い闇が漂い、いずれ何者とも判別付かぬ漆黒に包まれるだろう。木々の合間のけぶった闇は、人ならざる者の棲家にも思えた。山が恐ろしい場所である事を彼は知っている。


 追いかけてくる気配は夕闇と共に濃度を増した。暗い森、空を覆う木の枝ぶり、葉擦れの不気味なうねり。光と影の交差。風の揺らした葉はサラサラと音を立て、青年を追っている。密かな読経の旋律が呻き声のように耳朶に響いていた。怨念を払うはずの言葉は恨みごとで、呟きは抑揚なく続く。仏法者を嘲笑するその声はしかし、諦めきれない何者かの遠回しな作為だった。じわじわと、ほんの僅かずつ近寄ってくる、途切れ途切れの低い男の声は、ふいと隣にやってきて彼を通り越した。誰かの吐息か、生温かな風が頬を撫でていく。複数の思念が、それぞれバラバラの意図をもって彼に近付いては離れていく。耳の奥に籠もった風の音は、どこからも聞こえるはずのない人の囁きに替わった。シャラン、シャラン、と山中に響き渡る法具の鐘の音がさらに彼を追い立てた。

 彼は突然、我に返って立ち止まった。息を飲んで立ち竦む。青年の前には断崖がある。吹き抜けた一陣の風は落ちろと嗤って通り過ぎた。


 亡者に突き落とされる――


 背中にずしりと何かが圧し掛かる。浜の死人が、流血の顔がにたりと嗤った。振りほどくように腕を上げる。幻覚か、初めから人などなく、肩には何者も居るはずはなかった。じっとりと重い、熱く膨張した夏の空気の其処かしこに、密やかな冷たい気配が潜んでいる。錫杖の音も、読経の声も、静寂の中へ一瞬にして消えた。ただ、ねっとりと陰気な眼差しだけが、ぐるぐると回りながら彼を見下ろしていた。昼間の浜辺で波に揺られていた者たちではないのか、はっきりとした悪意が彼を追い立てていた。


 不気味な夜の森が広がっている。彼を追いかけてきた何者かだけは、じっと彼を見つめていた。背後からひたひたと微かな足音が感じられた。ありもしない誰かと、ありもしない足音。小枝を踏む確かな音は青年がたてたもので、並んでひたひたと進む足音は姿がなかった。打ち寄せる波の音がいつのまにか追従し、彼の足元へ潮の冷たさを被せた。ざざ、と鳴る。

 幻聴だ。山の中に潮騒が聞こえるはずはない。脅しを含む気配、手の込んだ悪戯とするには性質の悪い数々の怪奇現象に、彼は憤りを覚えていた。何がしたいのかと尋ねた答えは、また嘲笑だった。一つだけはっきりとしている事があり、突きつけられようとしている何かの記憶が、彼にとっては不愉快極まりない想い出と察知した。あの浜で聞いたものとは違うこの波の音は、心をささくれ立たせる。


 彼は静かに瞼を閉ざし、息を整えた。耳を研ぎ澄ませ、波の音が虫の鳴き声へとすり替わる瞬間を捉えた。足元に這い登ろうとする気配がある。不定形の魔物が、憑りつく隙を見つけてゆっくりと触手を伸ばすイメージが浮かぶ。彼はかぶりを振り、きつく閉ざした瞼を押し上げた。すぐ間近にまで狭められた気配の輪が、一刻にこじ開けられた。

 霧散して散り散りになる何かの影が、薄闇の中に揺らめく。月明かりに浮かびあがる青い夜の森、真夏の生ぬるい空気、穏やかに鳴く虫たちの声が戻ってきた。無明の世界は去り際に、青年の周囲をぐるぐると回り、やがて魂魄の群れと化して一つ、二つと、木立の奥へ消えていった。

 じっと立ち止まった彼は気配を探り、詰めていた息を吐く。付きまとう何者かの足音が消え去ると、彼は再び歩き始めた。忌々しい連中が、ようやく去ったと思っていた。


 自身の足音が、羊歯を踏みつける枯れた音が、いつしか波の音に紛れる。性懲りもなくまたやってきた亡者の群れに、彼は苛立ちの深い息を吐いた。奇怪な夜に仕上げる事で、彼等は何を教えようとしているのか。相変わらず、問いかけても答えはない。かわりに――彼の耳の奥底で、遠い昔に聞いた波濤が徐々に近付き、怒号のように唸りを上げた。

 遠い昔、足摺岬へ向かう途中に立ち寄った、名も知らぬどこかの浜辺で聞いた音だ。彼にとっては心を締め付けるような物悲しい旋律として響き、心を折りにくる。死出の旅、きっとあれはそういう意味だったと、彼は記憶の中の女の微笑みを思い出す。朧に浮かぶばかりでどんな顔をしていたのかも解からない女だ。とても近しい、とても懐かしい。

 なぜ今になってこんなものを呼び起こすのかと、彼は腹立ち紛れに靴裏に触れた枝を踏み折った。重たい雪が斜めに降り落ちていた冬の海が、吹きすさぶ風の音と轟きわたる波の音とが、脳裏に蘇える。逆巻く潮は激しい風のうねりを引き連れていた。

 真冬の冷たい風がみぞれ交じりに吹きつけていたあの海は、彼が幼い頃に訪れた場所だ。幼心に植え付けられた自然への畏怖、悲しい気持ちは今も鮮明に覚えている。気持ちだけは。

 苛々と、彼は進むことを阻まれて冷たい波濤に晒された。朧な記憶に刻まれた映像は、低く垂れこめる灰色の空と澱んだ墨色のべたりとした波の飛沫ばかりで、前後に物語はなかった。

 モノクロの記憶の中で、幼い彼を引いていく白く細い手は急いでいた。幼な子の着る小さなコートと、寂しく笑う女の口紅の赤が鮮やかだった。当時の彼はひどく怯えていて、怯えた自身が、大人となった彼には胸を塞ぐほどに苦しく、居た堪れなかった。


 蒸し暑い夜の森、棲む気配は笑っている。思い出せぬ記憶を嘲笑っている。彼の周囲は恐ろしい冬の海となり、吹雪と波のうねりが咆哮となって頭蓋の中でこだましている。安楽の眠りに誘う囁きが混じる。

 幻聴だ。言下に切り捨てる。完全に落ち着きを取り戻した彼は鉄の意思で、身にまとわりつこうとする気配どもを遮断した。見えない世界に対峙すべく彼は、静かに目を閉じ、おもむろに開いた。黒く染まった木々の闇に群れを成す、渦を巻いて浮遊する魂魄の灯火が見えた。森の中、彼を中央にしてもの凄まじい数の死者たちが魂の尾を引いて群れ飛んでいた。見せつけたかったものとはこれだったのか、ここは何かの戦場跡なのか、そうと思う間に、寄る辺を無くした気配たちは、するすると引き揚げていった。


 夜の森を見廻して、青年は何の気配もないことを確認した。ずっと尾行けてくるかのように感じた気配も居なくなっていた。浜に落ちていたあの死人だったのかは解からないままだ。亡霊の足音で靴の種類まで特定が出来るかと吐き捨てて、彼は再び歩き出した。

 それから小一時間も経ったろうか、丸々半日ほども歩き続けて、彼はようやくひと心地着けた。眼下に一つの家屋が見える。まだ遠く、けれど確かに人の住む窓には人工の灯りが無数と燈っていた。疲労はピークで、足はそろそろ棒のように感じられ始めている。ほっと息を吐いた途端、またしても今朝の情景が脳裏をよぎった。死者の眼差しは忘れ難いものだった。

 途端に憂鬱さがもたげた。暖かな家の灯りは確かに彼を誘っているように見えたが、あの場所へは行けない事に彼はすぐ気付いてしまった。それでもまだ未練が思考を促している。あそこへ行けば楽になれるのだろう、洗いざらいと話してしまえば……頭を振って否定した。犯人にされるだけだ。彼には警察に対する、根深い不信のごときがあり、まるで信用する気にはなれない。

 遠目にも解かる大きな屋敷は、彼が探し求めた『人のいる場所』ではあったが、あまりに危険すぎた。住民の少ない土地、住民同士が顔見知りばかりである可能性、それを考えれば誰にも見られない方が安全には違いなかった。

 眼下の明りを見つめたまま、彼は一歩も動かなかった。やがて躊躇の末に諦めた。あんな賑やかな場所へ出てゆけるはずはない。人を、殺しているかも知れないのだから。逡巡の後、最後に彼は決断して眼下の景色に背を向けた。


 振り返ったとたんに、彼はぎくりと動きを止めた。いつの間に現れたのか、少女がすぐ傍に蹲っている。さっきまで、周囲には人の気配などなかったはずだ、すぐ後ろにしゃがみ込む子供に気付かぬわけはない。また怪異なのかと、彼は、忽然と現れた少女の頭頂部を睨んだ。

 少女は俯いたまま、一心不乱に土の上で指を動かし続けている。月明かりに蒼く照らされた土壌にはデタラメな絵画が刻まれていく。何かの呪文かまじないのような文字が砂の上に霞んでいた。おかっぱ頭に切りそろえられた黒髪が、月の光を受けて蒼く輝いている。不気味な夜の鳥が一度きり低く呻いて飛び去った。静まり返った森で、一条の月明かりが少女だけをほの白く浮かび上がらせ、周囲を黒く塗りつぶす。やがてすべての音が掻き消された。


「あんた、何処行くの。あそこに行かないと駄目だよ。」

 顔も上げずに掛けられた言葉に、彼は怯んで後ずさった。まるで冷や水を浴びせられたように、手足が冷たくかじかんだ。警戒が、本能的に緊張を呼び込んでいた。

 少女は顔を上げた。月光を浴びたその肌は青白く、薄墨の景色に浮かび上がっている。普通の子供にしか見えなかった。気配は抑えられているのだろう、感じられない事が逆に恐ろしい。

 両の頬だけはほんのりと赤く、大きな黒い瞳は闇の中の猫のように光る。少女が、普通の子供などでない事は、彼には嫌というほどに感じ取れた。何か恐ろしいものと対峙している、ここへ来て彼は初めて、それと解かるほどの恐怖を感じていた。

 少女は、祭りで着る白い浴衣に赤い帯を兵児へこに結び、鈴のついた草履を素足に引っかけている。五歳くらいだろうか、その割に彼をじっと見上げる口元はへの字に結ばれて愛嬌を持たなかった。指先はずっと地面を滑っている。彼が無言で呑まれていると、再び顔を伏せた。幼い声音は歳に似合わぬ威圧感を滲ませて、言葉遣いも横柄だった。

「ここは四国沖に浮かぶ小さな離島の一つ。一番大きい島はずっと向う。あそこに見えてるのは笹塚の建てた別荘で、母屋と使用人たちの使う別棟とに分かれているよ。お前はあそこへ向かうんだ、あそこが用意された舞台なんだから。」

 青年は気付いた。少女の書いた文字が滲み、浮き出し、ゆらりとたゆたい、消えた。ここまではっきりと目に映る怪異など、彼には滅多と出会わないクラスだった。


 ようやくの事で彼は打ち付ける心臓を宥めた。嫌な緊張が身体中を縛っている。呼吸を整える間にも、幼い少女の言葉は知らぬ調子でその小さな口から紡がれている。

「笹塚ってのは、ここの集落に居たんだよ。本土に渡って大成功して金持ちになったんだ。それで別荘を建てたんだよ。古いふるい時代の海賊の隠れ家を潰したんだ。怨霊が昇ってくるようになったから、祭りを絶やしてはいけなかったんだ。」

「そうか……。」

 用心深く彼は答えた。神経を尖らせ、視線を少女から外した。曰くありげに眼下に映る、大きな洋館を見つめながら、不思議な少女と舘の両方に意識を分散する。島に満ちるあの気配たちが何だったのかが解かった気がした。だが、古い時代の海賊といったら、瀬戸内ではないのだろうか。彼は、四国沖と聞いた言葉に違和感を持った。太平洋側を勝手に思っていたが、島だというなら、ここは瀬戸内海の外れに近いのかも知れない。それよりなぜ、自分に聞かせるのか。子供故の気紛れだろうか、と。

 あれこれと思考を巡らせながら、次の少女の言葉を待っていた。無言の時が過ぎ、そこでようやく彼は振り向いた。少女が居た場所には何もない。おかっぱ頭の幼い少女も、彼女が描いていたラクガキの痕跡さえも。捉えていたはずの少女の気配も、初めから捉えてなどなかった事を知らされた。

 木の傍を離れ、周囲を確認したが誰の姿もない。木々の梢がざわりと鳴ると、それきり辺りは静まり返った。たった今の事、それなのに確証が持てなくなっていた。幻でも見たのだろうか、目を瞬いた。虫たちの声が、今まで遠慮をしていたように突然に鳴りはじめる。そこで彼は勘違いなどではないと思い直した。静寂は不思議な少女と共に消え去り、周囲は元の通りに夏の夜の森に返った。

 あの少女はどこへ消えたのか。不穏な考えが頭をよぎったが、すぐに彼は打ち消した。何か得体の知れない存在がコンタクトを図ったと、そんなバカな事があるはずはない。そんな大それた力など持ってはいない、彼は足を急がせた。


 青年は斜面を降りた。すぐに石垣が2mばかりの崖を作り、彼を足止めした。迂回して家屋の明りを横手に見ながら、木々の合間をさらに下った。あれほどしつこかった怪異はぴたりと止んでいて、逆に彼を不安に落とす。導かれるまま、足は勝手に舘を目指している。やがて波の音が大きくなる頃、海岸沿いの道へ出た。ようやく二台の車がすれ違えるほどしかない細い道だ。

 すり減ったアスファルトの道路は緩やかに下降し、二股に分かれている。片方は山の手に、片方は海沿いの堤防に向かっていた。確か、屋敷は木々の合間に見えていたはずだ。そちらを向けば、舗装路はコンクリートの打ちっぱなしに変わり、急こう配の坂道となって先へと伸びている。心持ち、道路の幅は広がった。

 有刺鉄線がこけおどしのように付近の木々に巻かれ、外界に境界線を張っている。錆びついて、ところどころと切り取られて役に立ちそうにもなかったが、私有地らしい体裁は辛うじて保たれている。立ち入り禁止とでも書かれていたものか、墨の消えかけた立札は黒く腐りかけていた。

 雑木林の合間に見えていた屋敷は近付くごとに、古めかしい趣きを露わにする。明治期の洋風建築を思わせる白い大きな建物だ。夕闇が迫る中ではぼんやりとして全体を正確に測ることは難しかった。道行きの途中、突然に進路が塞がれた。敷地全体を囲う煉瓦塀と、鉄の格子で出来た大きな門が行く手を阻む。道は先へと続き、林の奥へ向かっていた。

 正門の手前には古いガス燈がそのままで残り、過ぎた年月に錆を浮かせている。灯は入っておらず、黒い影法師は月の明りに照らされて、暗い森の影から切り離された白い道の中央にのっそりと立っている。近くに寄ってみれば、存外、大きなものだ。錆びついた土台部分には何かの文字がうっすらと刻み残ってはいるが、読むことは叶わなかった。結界の要だろう、彼は見当を付けて通り過ぎた。

 正門の先にも道は続いている。その真ん前で立ち塞がるように鎮座する大きなガス燈は、曰くありげに聳え、飛鳥の古刹を思わせた。


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