Episode 10 Another Side -明久- 2
どうして俺は日向 風香に手を差し伸べてしまったのだろうか。
誘拐や行方不明が多発している誰も近寄らない地域に入り込んでしまったアイツ。そして、運悪くも誘拐犯に見つかってしまっていた。
見て見ぬ振りだってできた。むしろ、リスクの方が大きかった。相手だって武器を持ち、俺よりよっぽど腕力があった。できることならば、そのまま立ち去るべきだったのだ。
なのに、あの時ばかりは手を差し伸べてしまっていた。
俺でさえ、その理由がわかっていない。
いや、アイツの姿が似ていたんだ。容姿や顔じゃない。雰囲気が。
どこか、玲に似ていたんだ。
いざ話を聞いてみれば、わざわざ神奈川から渋谷まで歩いてきたと言うじゃないか。電車もバスも動いていないのだから、徒歩なのはまあ理解できる。
でも、帰ってこない両親を探すために単身歩いてきたのであれば、愚かもいいところだ。
今まで無事だったのが奇跡と言っても差し支えはないだろう。
無駄に前向きで、明るさを振りまいて、どんなにつらい状況であっても笑顔を見せる。そして、そこに潜む危うさ。
玲に似ているばかりに手を差し伸べてしまった。
こんな優しさ、身を滅ぼすかも知れないのに、だ。
随分と俺は甘くなってしまったのだろうか、それとも元々か。
まあ、自身に問いても仕方ないだろう。
そんな俺、本田 明久はアイツを配給の受け取りに使い、部屋から追い出した。
バカみたいに俺を信用していたみたいで、あっさりと頷き曖昧に教えた方向へ向かっていった。
建物の倒壊で、通行できる道が複雑になっているのだが、あえて教えなかった。迷って時間がかかるはずだ。俺も最初ここに来た時はそうだった。
そこまでして時間を稼ぎたかったのは、俺にもやるべきことがあったからだ。
この地域に蔓延っている誘拐犯を排除するには今しかなかった。
二人のグループであることはわかっていた。だが、俺一人で手練れであるだろう二人を相手にするのはさすがに無理がある。
今ならどうだ。一人は片腕が吹き飛び、銃を失っている。絶好の機会だろう。
奴らの根城はだいたい予想がついている。
配給の場所である中学校に避難している人数があまりにも多かった。そして、近所にあるはずの小学校へ避難しようとした人がみなその中学校へと避難しているんだ。
小学校は奴らが占拠していて、人が寄り付くことが出来ない場所になってしまっているからだ。事実、小学校を中心にして、誘拐や行方不明が多発して危険な地域になっているんだ。
誘拐犯である奴らを排除してしまえば、この辺りは少し暗い安全になるはずで、人口密度が過剰になっている中学校から人を分散させることができる。
……お人好しに見えるだろうが、俺自身が安全になりたいだけだ。
そんなわけで、アパートから出てその小学校に向かって進んでいく。
倒壊した建物や、崩れた塀を踏みしめて歩みを進める。
人の気配はまるでなく、住宅街であるにも関わらずあまりにも静かだった。
大きな災害が発生した後のような光景が広がっている。
いや、【獣化病】も震災の一つか。
人間が別の動物へと姿を変える現象。
一人や二人が姿を変える程度であれば、それと言って大きな被害にはならなかったんだ。
だが、渋谷の駅前を中心に【獣化病の始まり】が発生した。それから、徐々に範囲を広げながら、サカナだけでなく巨大な動物に姿を変え、建物を破壊、事故の多発、インフラの麻痺を起こすまでになってしまった。
それを震災と言わずなんという。
そして俺は【獣化病の始まり】の中心にいながら唯一生き残った人間になってしまった。誰にも気が付かれず、生き残ったことさえも知られずにその場から逃げ出したのだ。
その時、玲は人の姿を失った。【獣化病】がなければ、俺と玲は――誰も彼も平穏な日々を送れたはずなのだ。風香、アイツだってこんな場所まで来ることは無く、出会うこともなかったんだ。
しか起きてしまったことを振り返ったところでなかったことになるなんてことは決してないんだ。
だから俺はこれ以上の平穏を壊さないために、誘拐犯を殺してでも排除する。
ポケットに突っ込んだ銃を、ズボンの上から触れる。
【獣化病】さえなければこんなもの、一生触れることさえなかったはずなのに。
この銃を見るたびに、ある男の顔が浮かぶ。
【獣化病】が発生する以前に通っていた大学で、同じ研究室に所属していた男。
友人……と呼ぶには虫酸が走る、知り合い程度のヤツだ。
所属していた人間の中ではずば抜けて研究に熱心で、教授にも気に入られていた。
ただ難点を上げるとすれば、手段を選ばないということだった。何度、教授に止められ、止めきれなかった時にはそれだけ学校内で問題になったか。
それでも、研究は素晴らしいと教授は絶賛していたっけか。
そんな男は俺によく声をかけてきた。
俺のどこが気に入ったのか知らないが、まるで友人かのように声をかけてきた。
俺はウザいやつだと思っていたが、そいつは俺のことをそんなことも微塵に思ってはなかったと思う。むしろお気に入りだったのではなかろうか。
【獣化病の始まり】の前、研究室にしばらく姿を見せなかったのだが、【獣化病の始まり】の後、渋谷の住宅街を走っていた俺の目の前に現れた。そうして、アパートの一室を提供してきた。
しかもまるで全てを知っているかのような口ぶりで、そしてこの銃を手渡してきたのだ。
用意されたアパートに入ってみれば、押し入れには銃弾が大量に用意してあった。
アイツは何のために俺にここまでしてきたのかはわからない。だが、それ以降姿を表さなくなった。その理由もわからない。
どのような手段でそれらを手に入れたかは分からないが、まっとうな手段でないことは予想がついてしまう。
それでも、こうしてなんとかなっているのは認めざるを得ない。
そんな事を考えながら小学校へと向かっていくのだが、やたらと小汚いヒツジとすれ違う。
どこに向かうかも分からないが、一頭や二頭ではすまない数だ。
すれ違う度に、見た目以上の悪臭が鼻を突く。
どこからこんな湧いて出てくるのだろうか。
ただ、気のせいだろうか小学校に近づけば近づくほどに、その不快な臭いが近くなっているような気がするのだ。
なんだこの空気は。
開かれた校門を通り、校舎に足を踏み入れた俺は、昇降口で足を止める。
空気が淀んでいるとかそういう程度ではなかった。
見た目こそ、停電の発生したコンクリートの建物で、不気味な雰囲気でしかなかったが、空気はそうでない。
先程すれ違ったヒツジどもを凝縮したような悪臭が周囲に漂っている。
動物園のような獣臭さと、長い間清掃がされていないトイレの臭いが混ざり合っているとでも言ったところか。
入り口に近いこの場所でも長く居たいと思わないのだから、この空間に平気な顔をして住んでいたとしたら、人間として終わっている。
それでも銃をすぐに取り出せるように構えているが、何かがいるという気配はまったくない。
下駄箱のアスファルトの床から段差を上がって、リノリウムの床を土足のまま踏む。
一歩進めば足音が校舎の遠くまで響いていくだけで、こちらに向かってくる音は一切ない。
不気味なまでに静かだ。
つい一週間前までたくさんの子どもや教師が過ごしていた空間とはとても思えなかった。
床は年月の汚れで白から灰色に変わっているが、最近できたであろう汚れも目立つ。絶対に指で触れたくないような色の汚れや、人間のものではない毛が散らかっている。
その汚れはこの昇降口から入った少し広い空間から校舎の奥の方、それと階段の二つに別れている。
特に目立つのは階段の方だ。まずは、上の階から見てみるか。
床に付着している汚れを踏んだらうっかり足を滑らせてしまいそうだ。
壁の付近は全くといいほど汚れがないためそこを進んでいく。
にしても、酷い臭いだ。階段を上がると臭いが強くなる。
あまり考えたくないのだが、一つの予想が浮かぶ。
すれ違ったヒツジはここから出ていったのではないだろうか。
鼻につくその臭いはここのそれそのものだった。
ならどうしてここにヒツジがたくさんいたのか。連れ去られた人はどこに消えたのか。
そんな考えつくのは一つ。
ここに連れ去られた人間は皆【獣化病】でヒツジにされて、ここに閉じ込められていたのではないか。
が、疑問として残るのは、今までここに拘束されていたとして、どうして今になって逃げ出すことができたのだろうか。
それと、ヒツジ以外の生物を見かけていないのだが、そんな変化する動物を選ぶことができるのだろうか。できるとして、その方法は何なのだろうか。
……もっとも【獣化病の始まり】で、渋谷の交差点にいた人間はもれなくサカナに変わっているため、必ず法則はあるはずなのだ。
それを考えると、どうしてその後に発生した【獣化病】はサカナ以外の動物に変化するのか。という疑問が浮かんでくる訳だ。
【獣化病】とはいったい何なのだろうか。
突然、自分の身体が人間ではない別の生き物になってしまう。人間ならばできたことができなくなってしまう。
それを考えただけでも、恐ろしい事象なのだ。
どうして渋谷のスクランブル交差点で発生したのか。
その後も爆発的に発生範囲が広がっているのか。
……まあ、ここで考えても答えは出ないものだ。
どのようにして今日という日を生き抜くかを考えたほうがいいだろう。明日には人間として生きていないのかもしれないからな。
さて、二階だ。
階段を上がりきると、道が二手に分かれる。
教室が連なる長い廊下と、校舎の反対側へと向かう通路だ。
まずは教室を覗いてみるか。
拘束するならば、教室に閉じ込めてしまうのが手っ取り早いだろうからな。
教室の続く廊下の方へと足を向ける。
周囲の警戒だけは緩めず、いつでも銃を向けられるようにする。
しかし、人の気配はまったくない。
静寂な廊下を進んで、手前の教室がすぐに現れる。
だがしかし、そこで違和感を持った。
ここから見える教室のドアが全て開け放たれているではないか。
それにその教室から何者かが這い出たように、汚れの筋ができている。さらわれた者はみんな教室に閉じ込められていたということが予想できたし、間違いないだろう。
ドアから教室を覗きこんで見る。が。
一層強い獣の臭いと湿気、不快な空気が顔をなでた。
思わずむせてしまった。
床も著しく汚物で汚れている。
なんとか教室の端で、と考えられていたようだが汚れは教室全面に広がってしまっている。
エサ箱と思われる容器が部屋の中央でひっくり返っており、食べ物と思われる物体はひとかけらとして存在しなかった。
環境としては最悪だった。
死者が出てもおかしくない環境だろう。しかし、死体は一つとして存在していない。
そして、ドアの付近は机が散乱している。
形を保っている部分を見れば、机を積み上げられていたのだろう。逃げ出さないようにバリケードでも張っていたのか。しかし、そのバリケードが崩され、ドアが開け放たれている。
この程度のバリケードで内側から簡単に脱出できないが、自由に動き回れている状況だっただろう。となると、やはりここに連れられた者は一人残らず【獣化病】によって、別の姿に――ヒツジに変えられていたということか。
一つ奥の教室も、さらに奥の教室も同じ状況だった。
一部屋だけであれば、たまたま内部から脱出を試みて成功したのだろうと考えられるが、どの教室も同じ状況となれば話が変わってくる。
俺みたいな物好きが、脱出させたか、犯人が逃したか。
しかし、犯人がわざわざ逃がすなんてことをするだろうか。いやあるまい。
なら、先客がいたのか。
静かなのはその先客が解決してしまったのだろうか。犯人は外出中なのかもしれない。人さらいに積極的だったからな。この学校を開けて誘拐に勤しんでいる可能性の方が高い。
別の階もきっと同じ状況だろう。ただ、この目で見ておいた方がいいだろう。
結果として、他の階も全て開け放たれており、もぬけの殻だった。
上の階ほど、汚れが目立っていなかった。それにしても、最悪の環境であったことには変わりないが。
一階に戻ってきた俺は、校舎の奥へと目を向ける。
このヒツジの群れによる汚れの筋が、校舎の奥に続いている。
この階段からまっすぐ続いているため、向こう側から階段を登ったなんて馬鹿なことはなかろう。
じゃあ、何のためだ。
俺は導かれるように進んでいく。
一階は職員室や給食室といった児童よりも教員や大人が使用する部屋が多いイメージがある。
上の階であれだけのヒツジを収容していたのなら、犯人の居住スペースとして確保するのは一階になるのだろう。侵入者にもいち早く気づくことができるのかもしれない。
何のためにヒツジはその方向へと向かっていったのか。
俺はそのまま奥へと向かっていく。
さっき使った昇降口横の階段を通り過ぎると、幅の広い廊下――ロビーに当たる場所なのか――が続き、曲がると細い廊下になる。
この角には昇降口に比べると随分と小柄なドアがあるが、職員用の玄関か。
細い廊下に入ると、また別の不快な臭いが鼻に入ってくる。
鉄臭いような生臭いようなそんな嫌な空気だ。それに、風が入ってきているようで、向こう側から空気が流れてくる。窓か扉が開いているのか?
何が潜んでいるのだろうか。
銃を取り出して、前に突きつける。壁に背を当てて、廊下の分かれ道で止まる。
真っ直ぐ進むと、すぐ外に出るドアだ。
俺が接している壁の方向にまた通路がある。そっと顔を出して覗く。
誰もいない。
先にある部屋は職員室と視聴覚室、か。ドアの上部に設置してある札が間違いなければこの二つの部屋がある。
背中を壁につけたまま二つの部屋に接する廊下に入る。
職員室はドアが閉められているが。視聴覚室は開けっ放しのようだ。風と嫌な空気はそこから流れてきているようだ。
一歩ずつ、確かに進んで空いている視聴覚室の横で息を整える。
できれば呼吸をしたくないほどにあらゆる不快な気体を含んだ空気が今までで一番濃い。まさか、こんな所に人間がいるとは思えないが、人間性を捨てたなら、あるいは。
三度、肺の空気を入れ替えてからゆっくりと部屋を覗き込む……が。
俺は思わず手に持っていた銃を取り落としてしまい、慌てて拾う。武器を落としても問題はなかった。
なぜなら、誰一人生存者はいなかったからだ。
鉄の臭いや、生臭さがあって当然だった。視聴覚室の床にぐちゃぐちゃになったヒツジの死体が転がり、血の池が出来上がっていたからである。
視聴覚室と校庭をつなぐドアが開け放たれているため、空気が流れ込んできていたのだ。ドアにも血の足跡が残っていたため、ヒツジのいくらかはここから外に出たみたいだ。
部屋の壁際には学校中に音声を届けるための設備が整っているが、汚れている様子はない。
部屋の中央にはパイプ椅子が設置してあって、ロープが血で赤く染まっている。ヘッドホンの耳あて転がっているが、ヘッドホンの全身が見当たらない。どれだけ踏みつけられたのだろうか、粉々になっているんだ。
このヘッドホンはどこに接続していたのかわからないが、肝心な再生機器が見当たらない。黒板には何かが書いてあったようだが、乱暴に消されていて読み取れる情報はなかった。
床で転がっている死体はこれまたヒツジだ。頭を数える限り二頭か。
身体はヘッドホンと同じく、原型がほとんどわからない。臓器はなんとか無事なようだが、これで生きていられるヒツジは知らない。
その近くには衣服が二人分血を吸っている。
一着は水分を吸うことを知らなさそうなバイク乗りが身につけているような全身スーツだ。内側に着込まれていたであろう下着は水分を吸いきっている。女性物なので、一頭は女なのか。
もう一着は、見覚えのある服だった。高級感のあったジャケットに、ジャラジャラとしたアクセサリーの類。昨日、風香を襲った男のものだ。血に沈んでいるせいで、高級そうなそれらが泣いている。
ズボンのポケットから布が飛び出しているが、何だ。小さいリボン状の物がついているようだが。
よくよく死体を見れば、その服の横の死体の足は三本が完全だが、一本は短く足先がなかった。
どうやら犯人は【獣化病】でヒツジになり、ここで拘束されていたヒツジらの恨みを買って、殺されたと言ったところか。
どうしてこうなったかまでは俺に知る由もないが、犯人は二人とも死んでいる。
俺の出る幕は元々なかったということか。ただ、この辺りで脅威になっていた存在はもういないという確認はできた。
おや。
血で汚れていない部屋の端に何か小さい金属が落ちていることに気がつく。
池を乗り越えてそれに手を伸ばす。
ひもが随分と長いドッグタグだった。
【獣化病】で姿が変わっても首にかけておけば誰だかわかると言うことで、首からかけている者も多いらしいが。実物をこうして間近で見るのは初めてだ。
板を裏返すと、羽生 希という名前が記載されていた。
羽生……最近出会ったヤツに羽生の名字のやつがいたが、小学生じゃなかったな。
もしかしたら、関係があるのかも知れない。俺はドッグタグをポケットにしまいこんで、そのまま視聴覚室から屋外に出る。
梅雨のジメジメとした空気だが、今まで吸っていた空気に比べるのもバカバカしいくらいに新鮮な空気だった。
ここまで汚れてしまった室内を綺麗にしてから使う……のは難しいかもしれないが、避難所に行くようなことがあれば、そこの人間に伝えておいたほうがいいだろう。
さて、長居をしてしまったら風香が帰ってきてしまう。
……俺はなんでそこまで風香を気にしているのか。
アイツはもう俺に用事はないはずなのだから、さっさと追い出してしまってもいいのに。
まあ、いいだろう。
脅威は去った。この事実だけが残る。
浮かぶ疑問は時間が解決してくれるであろう。
だからひとまず、俺はあのアパートへと戻るのだ。
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