Episode 08 Other Side -倖-


「……天井が明るい」


 昔、学校でそんな台詞から始まる小説があったっけな。

 それで今ここはどこだっけ?

 今、意識が戻りゆっくりと目を開ける。

 意識がなくなる前のことはまだ思い出せない。

 目を開けると、真っ白な壁……いや、天井が視界に入る。

 その直後、


「……倖(ゆき)!」


 一人の男性の顔がその視界に割り込んでくる。

 白髪が目立つ白と黒のまだらなオールバックで、シワが目立ついわゆる初老の男性。

 落ち着いた色の和服を着ていて、あたしのよく知っている人物だった。

 心配そうな表情を浮かべてあたしの名前を呼んでいた。


「……お父……様」


 時に厳しく、時に優しい父だった。

 起き上がり、手を伸ばそうとしたが痛みが走り動けなかった。


「倖! まだ安静にしていないと」

「……はい」


 身体をよく見れば全身に包帯が巻かれていて、身体の右側には点滴がある。そこから伸びる管はあたしの右腕まで続いていた。

 天井も木目調の壁も、すぐ足元にある大きな窓も、あたしには見覚えがなかった。

 ここはどこなのだろうか。

 そして、あたしはどうしてこうなっているのだろうか。


「お父様、ここは?」

「奥多摩の別荘だ。倖が眠っている間に、人が少なく安静にできるところまで移ってきたんだ」


 別荘?

 確かに奥多摩に別荘はあった。しかし、あたしが最後に覚えているのは都内の病院だったはずだ。


「どうして、あたしは手術をすることになったんでしたっけ」

「ああ、それは【獣化病】――」

「【獣化――」

「倖! 無理をしてはダメだ」


 【獣化病】。

 その言葉に反射的に身体を起こそうとしたが、全身に痛みが走り動けなかった。

 父も苦痛の表情に気づいたようで、すぐに止められる。

 そうだ、思い出した。ぼんやりしていた意識が一気に覚醒を始める。


「思い出しました」


 なんで手術を受けねばならなくなったのか、なんで別荘まで移ってきたのか。


「そう、お前は【獣化病】が原因で肌から羽毛が生え始めてしまったんだ」

「ええ」


 そうして、進行がゆっくりであったから肌を移植することで【獣化病】が治癒するだろうと父が手術を勧めてくれたのだった。


「私はどうしてもお前を失いたくなかったんだ。どれだけの出費になろうとも、腕に覚えのある医者をすぐに手配して手術をしてもらった」

「その後はあたしが意識を取り戻す前にここまで移してもらったんですね」

「ああ、そうだ。それに、何かあった時のために先生にもここまで来てもらっている」

「そう、ですか……そして、あたしはどれだけ眠っていたのでしょうか」


 手術の直前は朝で、今は外を見る限り昼すぎだろうか。

 手術も全身に及んでいるため数時間で目覚めた、なんてことはあるまい。


「一晩だ。術後一晩、倖は眠っていた」

「そうですか」


 となると、【獣化病の始まり】が発生してから四日ほど経過しているということか。

 渋谷で発生した【獣化病の始まり】。すぐさまテレビのニュースで取り上げられ始め、【獣化病】という名前がついていた。

 東京に住みながら、直接【獣化病の始まり】に巻き込まれることはなかった。

 しかし、【獣化病】についてよく知りたいがためにずっとテレビに釘付けだった。渋谷のスクランブル交差点に散らばったサカナ達。行方不明になった人々。麻痺した交通網。そして、【獣化病の始まり】の発生直前に流れたという音。

 そればかり見ている内に、いつの間にか、人間のものとは思えない毛が生え始めたのだった。

 最初は腕に細くて、腕の毛にしては長い毛だった。何処かで付着してしまった毛なのかと思ったら、しっかりあたしの腕から生えていた。簡単に抜くことは出来たし、その時は全く気にすることはなかった。

 だがしかし、翌日には腕だけでなく全身から細い毛が生え始めていたのだ。これが【獣化病】なのだろう。そう確信した。

 テレビでは進行は人によって違うと言っていた。一瞬で別の姿になってしまう人がいれば、ゆっくり変わっていく人もいる。あたしは後者だった。


「でも、倖。安心しなさい。どうせ病だ。しっかりと肌の移植を行って元を断ったのだ。原因さえ取り除いてしまえば、問題はなかろう」

「……」


 あたしははっきりと答えられなかった。

 【獣化病】……確かに、病という文字こそあれど、これは本当に病気なのだろうか。手術をする前、テレビは検証中であるとは言っていたし、感染するものでもなさそうだという見解も示されていた。

 人の姿を別の動物の姿に変えてしまうという【獣化病】は、あたしには病気であるとは思えなかった。病気というにはあまりにも恐ろしい。別の動物に姿を変えた人が人間に戻るということは確認されてなく、不可逆であろうと言うのがテレビでの意見だったことは覚えている。

 さらに、気になるのは父だった。本来、ここにいてはいけない程の存在なのだ。


「お父様」

「なんだ?」

「会社に戻られなくて、いいんですか?」

「何を言っている! 倖を放ってなんていられるものか!」

「……そう、ですか」


 父は東京で構える、大きな会社の社長だった。【獣化病の始まり】か発生してからは家にロクに戻ることはなく、忙しそうにしていた。そうだろう、社員の生死がわからず、あらゆる部分で混乱が生じてしまっているのは容易に想像がつく。

 そんな中、ようやく家に帰ってきた父にあたしが【獣化病】になった事を伝えたら、今度はすぐにお医者様を見つけてくださった。その間はあたしに付きっきりだったし、会社の方がどうなっているのか、あたしにはわからない。

 父のことだ。きっと、会社のことは放っている。今頃、収集がつかない程の大混乱になっているだろう。そんな混乱に巻き込まれている社員の人たちが気の毒でならない。

 あたし一人のために、それだけの事になっていると考えると、そう思う。

 そして、あたしを包んでいる包帯の下では【獣化病】が進んでいる感覚があるのだ。まだまだ人の形は保っているだろうが、肌の移植程度では【獣化病】は止まらず、進行している。

 父はわかってない。


「お父様」

「どうした?」

「もし、もしですが、この包帯を取った時、症状がよくなっておらず、手術の前より進んでいたとしたら、お父様はどうしますか?」

「そんなことはあるまい! 知らない者はいない程の名医を呼んだんだ……もしも、そうなっていたのであれば、別の医者に頼むまでだ。知り合いである腕利きの名医はまだいくらでもいる」


 過信だった。

 社長というだけあり、お金は確かに腐るほどという表現が間違いない程度にはある。そのお金に物を言わせて、有名なお医者様をこんな僻地まで呼んでいるのだ。きっとそのお医者様にも診たい患者はたくさんいたであろう。

 でも、今はあたし一人のために、この別荘まで呼ばれている。

 お父様はわかっていない。お金を用意しても、どれだけの犠牲を払っているのか。あたしは考えるだけで怖かった。

 延命でしかないこの手術だって繰り返せば、どれだけの金額になるんだろう。腐るほどあっても尽きてしまう。それに、他の人の命があたし一人のために犠牲になるのが、嫌だった。

 だがしかし、父もそれだけの事をしてあたしを救いたい理由があるということも知っている。だから、あたしの口から「もうやめて」なんて言えないのだ。

 あたしは母が遺した唯一の存在なのだから。

 そう、母はあたしが幼いころに死んでしまった。理由は未だに父から教えてもらっていない。でも、だからそこ、母の分と、父はあたしに愛情を注いでくれている。それでどんな形であれ、父の愛情なのだ。

 父の全てがあたしなのだ。社長という立場を捨ててでも、あたしを守ろうとするに違いない。もしあたしに何かあれば、父はどうなってしまうのだろうか、考えるだけで怖い。


「……」

「どうした? 倖」


 声のないため息ですら、父は敏感に気がつく。


「仮に、ですが……もしも【獣化病】で別の動物に――」

「そんなことはない……あってはいけないんだ! これは病気であって、医者に見せれば必ず治る。完全に別の生物になる前だったら、こうしてすぐに治せる。だから――!」


 いつもならば優しい父。しかし、あたしの【獣化病】への質問の連続に対して、激しく怒鳴った。

 この屋敷中に響いたのではないかという程の声の大きさだった。どんなに声を上げようとも、ここにいる人間は限られており、気にする者もいまい。

 父も激高したことにすぐ気がついたようで、途中で声を止めた。


「……すまない、倖。だが、私の娘は人間の容姿をした少女だ。来年には高校へ通い、大学へ進学し、いずれは誰かと結ばれるような人生を歩む人間だ」


 人間の容姿であることを父は強調をしたように聞こえた。

 あたしが、あたしという存在ではない何かに変化することを父は許せないのだろう。

 父は優しいが強引で、決めたことを曲げることはしないのだ。


「……良くなると、良いですね」


 父の決定と、あたしの身体の中で起きている事を考えると、どうしても他人事のような返答になってしまった。


「絶対に良くなる。絶対に。だから【獣化病】で変わってしまうなんてことは冗談でも言わないでくれ」


 そんな父がいるから、あたしの中の【獣化病】はゆっくりなのだと思う。けど、いずれは父の願いも虚しくも、あたしは人間ではない他の動物へと姿を変えることになるけれども。

 父はあたしの顔から視線を外し、


「では、ちょっと医者を呼んでくる。倖はそのまま待っていなさい」

「はい」


 身体を反転させた。

 その一瞬、父の表情がどこか寂しそうに見えた。

 それは、あたしが諦めるような事を言ったからか、それとも別のことなのだろうか。

 父はこの部屋を出て、ドアを閉めた。

 部屋の外の音はこの部屋まで入ってこない。しばらく、あたしはこの部屋で一人となる。


「……はぁ」


 広い部屋で一度、大きなため息をつく。

 大きな窓からは大空が見える。この別荘はちょうど崖の端っこに建てられていて、周囲に遮るものもなく、見晴らしは良いはずだ。窓から見下ろせば森が広がっていた記憶がある。小さい頃に、それこそ母がいた頃以来だったはずだ。

 母がいなくなってから、あたしを大切にしてくれていた。それが父の生きがいなんだろう。そうであれば、あたしがいついなくなってもいいように、別の生きがいを持ってほしかった。

 あたし――羽水(うすい)倖が人間である間に。もしその前に別の動物になってしまったら……いや、もしかすると、いっそのこともう姿を変えて、父の目の前からいなくなってしまったほうが良いのではないか?

 少なくとも、あたしのためだけに人生を費やすようなことはして欲しくなかった。


「へぇ、じゃあ、もう人間をやめても良いんだ?」

「――ッ!?」


 一人だったはずの部屋に、突然誰かの声が聞こえた。よく聞いたことがある気がする声で、その声の主を目で探す。

 枕元から少し離れた所に置いてあった椅子に腰掛けている存在が、そこにいた。

 黒くてきれいな長いストレートの髪で、肩が見える白いワンピースを身にまとい、肌はワンピースに負けない程に白い。顔は中学生の割に幼く見える、毎日鏡で見ているそれだった。

 そう、


「あたし?」

「そう、あたし。羽水倖」


 あたしの姿をした存在がそこにいて、立ち上がった。ワンピースの丈は膝が見えない程度なのがあたしらしかった。でも、性格はよっぽど積極的そう。


「いやぁ、本当は出てくるのあたしじゃないんだけど、世界が違うから……っていうのはもう関係ないからいいや」


 そう言いながらベッドの側までやってきて、腰を低くしてしゃがむ。


「人間、やめるの?」

「その前に、あなたは誰?」


 あたしの問いかけに、ニコニコするもう一人のあたし。


「まあ、幻覚だよね。アンタにしか見えない。お父さんにもお医者さんにも見えない。アンタが呼び出した幻覚」

「……」

「それだけ自分の中で整理したことがあんじゃないの? 相談くらい乗るよ」

「あたしが呼んだ幻覚に?」

「そう、そのためにいるのがあたし」


 目の前の幻覚は自らを指差して、ケラケラ笑う。あたしって、そんな顔もできるんだと感心してしまうほどだ。


「なんて悠長なことしてたらお父さん来ちゃうしさ、聞くけど」


 スッと、彼女から表情が消える。

 影がかかったかのような無表情で、ゆっくり口が開く。



 ――アンタは何をしたいの?



 そうつぶやいた。

 あたしが何をしたいって?


「あたしは……」


 答えようとしたが、その先の言葉が全く思い浮かばなかった。

 あしたは何をしたいのか。父のため【獣化病】に対抗して、高校に進学して、大学に入って……いや、そうじゃない。【獣化病の始まり】以前だったらそれで良かった。でも今はそんな状況じゃないんだ。


「実はさ、アンタ。もう人間でいるだけの未練ってないんじゃないの?」

「未練って」


 まるで死んでしまうみたいな言い方ではある。それも間違いではないだろうか。


「人間やめるか聞いても答えられない。やりたいことも答えられない。じゃあ、人としてやりたいことはないんじゃないの? 何を悩んでるの?」


 意地悪を言っているといわんばかりの笑みを浮かべる彼女。

 あたしはすぐに言葉を返さずに考える。

 人間の姿でなくなれば出来ることは極端に少なくなる。きっと、学校に行くこともその先の人生も全く違った物になる。本当ならそんなことを考えるでもなく動物の姿になってしまっていたかも知れない。ただ幸い、あたしはこうして考えるだけの時間は与えられていた。


「もう人間やめても良いんじゃない? あたしはそう思うんだけどさ、アンタは?」


 随分とズバズバと言い方だ。まるで誘導するかのようで。

 でも、あたしの思っていたことを代弁されてしまったようで悔しさが少しあった。


「あたしは確かに、もうこんな身体になってしまった以上、人間をやめてしまってもいいとは思ってる。だけど、そうしたら残されたお父様はどうなるの?」

「そんな、知ったこっちゃないさ。アンタはアンタ。お父さんはお父さん。アンタが起こした行動で、お父さんがどうなろうとも気にしちゃいけない。アンタもそう思ってるんだろ?」

「それは……」


 違うとは言い返せない。


「それに今までよくイイ子ちゃんやってきたよね。お父さんに言われたことは全部正しくて、言われたことに全部したがって、逆らったことなんていっちどもない。挙句の果てには、そろそろストレスも感じてきている。あたしだって、やりたことがいくらでもあるんだ。お父さんが勝手に決めないでって。なんで分かるかって? アンタの生み出した幻覚だからだよ。アンタの思ってることがあたしの思っていること。自分はイイ子でいたいからあたしを生み出して、守ろうとしてる。もう限界なんだよ――」

「やめて!」


 止めないと、今まで胸の内に秘めていたことを全てを聞かされそうな気がして言葉を遮る。これ以上のことを聞きたくなかった。自分でもわかっていることだからこそ、改めて言われるのが嫌だった。


「確かにずっとお父様の言いつけは守ってきたし、今回の手術もそうだった。あたしが嫌と言いそうになったら言葉を遮って、半ば強引にこの手術を行ってくれた……それは、あたしが大切だからっていうのはわかってる。でも、やっぱり」

「自分でも決めることができるんだって、言えてないもんな」

「……」


 それでいて彼女が言っていることは全て正しい。それはそうか。だって、あたしが生み出した幻なんだもの。あたしが思っていることなんて全部知っている。今まで胸の内に隠そうとしていたことを突きつけてくるんだ。


「なら、人としてやりたいことを言ったら、あなたはあたしを【獣化病】から救ってくれるの?」

 そう尋ねると、彼女は目を閉じて満面の笑みを浮かべて、

「いやー無理」


 当たり前だけど、言われたくなかった言葉であたしに突きつける現実。


「そんな『人間やめたくありません!』の一言で【獣化病】がなかったと事になったら、どれだけの人が今人間のままだと思う? そういうことだよ、現実は甘くない」

「じゃあ、お父様と同じようにお医者様を目指すのは嫌だ。教師になって、様々な事を未来の子どもたちに教えたいだなんて貴方に言っても無駄じゃない!」


 声を荒げて叫ぶ。この声がお父様まで聞こえてないことを祈るばかりだが、かけつけてくる様子がないため心配するほどではなかっただろう。


「そうだよ。もう【獣化病の始まり】以前とは違う。しかもアンタは【獣化病】でもうすぐ動物になる。そうなったら、皮膚の移植程度で完治することはない。そうしたら? 今回の手術だって無駄だよ。次も人の姿を保って手術をしたって意味がない。ただただ、お父さんは無駄遣いをするだけ。さて、そうしたらお父さんの言いつけだからとこのままベッドで寝ていていいのかい?」


 そんなことわかっている。


「だよね。だからって、面と向かって『もういい』って言ってもお父さんは引き下がらない」


 なら、あたしは。


「なら、あたしは?」


 そっと、点滴の管をもう片方の手で握り込み、それを引き抜いた。


「くッ――!?」


 点滴の針が腕から抜け少し痛み、包帯が赤く滲む。が、そんな事、もういいのだ。

 あたしを縛り付けるのはこの点滴と全身に巻かれた包帯だけだ。 

 ゆっくりと身体をベッドから起こす。全身の皮膚という皮膚が引っ張られるような不快感と痛みが走るが、どうせこの痛みも長く続くことはないだろう。


「あーあ、悪い子だね。安静にしてなきゃ」

「うるさい」


 楽しそうに見世物を見るかのように口だけ笑っている彼女を睨む。


「教えて、どうすれば【獣化病】で人間をやめられるの? あたしは――」



 ――もう覚悟を決めたから。



「へぇ。その後どうすんの? 【獣化病】で人間やめたら」

「きっとトリになる。だったら」


 ベッドから降りて、両足で床を踏む。

 手を伸ばしてゆっくり歩く。

 この部屋にある唯一の窓に向かって。

 その窓を両手で開けると、一気に風が部屋の中に入って身体をなでていく。


「翼で飛んでたくさんの景色を見たい。まずは渋谷……【獣化病の始まり】の発生した場所を見てみたい」


 この窓から見える景色は一面の森。遠くには山があり、真下はずっと先に木々が見える。ここから落ちたら助からない。

 あたしは窓のフチに乗って、立ち上がる。風を強く身体で感じて、そのまま落下してしまいそうだった。


「だから――」


 振り返って、もう一人のあたしの方へ身体を向けるとそこには誰もいなかった。

 そして、この部屋のドアが開けられていて、そこには父の姿があった。


「あッ……」


 あたしは思わず声が漏れてしまう。

 父の表情は驚きを通り越して顔面蒼白という表現が間違っていないほど、顔が青くなっていた。


「倖ッ!? 何をしている!!」

「来ないで!」


 父が駆け寄ってきそうだったので、叫ぶ。

 流石に父も動きを止める。

 異変に気がついたお医者様がドアの向こう側に見えるが、部屋に入ってく様子もなくただただ困惑していた。


「倖……馬鹿な真似はしないでベッドに戻りなさい」

「嫌です!」


 ここで止められるわけにはいかないのだ。

 このまま父の言う通りにしたら、ベッドの上で治ることのない【獣化病】と無駄に戦うことになる。あたしが父を縛り付けているのではない、あたしが父を縛り付けてしまっている。

 その呪縛を解かないといけない。 


「どうしてそんな事を……倖!」

「いいんです、お父様」


 あたしは首を振って、うつむく。


「あたしは【獣化病】で身体の内側から人間ではない、別の存在に変わろうとしているんです。表面の肌だけを変えたところで、いつまでも人でいることは出来ないんです」

「そんなことはない。もうそれで完治をした。お医者様だってそう言っている」


 諭すように優しくゆっくり父は言う。一歩ずつゆっくりと近づきながら。


「していません。あたしの身体がそう訴えています。包帯をとっても、羽は再び生えています。きっと」

「だからといって、諦めて命を投げ捨てるというのか! アイツ――お前の母のように」

「えッ……」


 母が命を投げ捨てた?

 それはどういうことだ。確かに、父から母はここで亡くなったということを教えてもらった。しかし、死因までは教えてもらっていない。そうだ、一度たりとも亡くなった理由を教えてもらっていない。


「黙っているつもりだったんだが、アイツはその、倖が立っている窓から身を投げて死んだ。私といることで、どこか思い詰めていたそうだ。遺書にそう書いてあった。今までずっと大切にしていたつもりだったのに、どこを間違えたのかもわからなかった」


 父がまた一歩近づく。


「だからその分、お前に愛情を注いできたつもりだ。何も困ることがないように、全てを用意して、アイツと同じ思いをさせないように、大切にしてきたつもりだった――」

「だからです!」


 あたしは父の言葉を遮る。


「お父様の愛はあまりにも重かった……それこそ、あたしの考えを無視するほどの」


 父はその言葉でハッとした表情になった。きっとどこか思い当たる部分があるのだろう。


「でも、あたしはお父様が父親で良かったと思っています。だからこれ以上、無駄なことはしないで欲しいんです。財産だって無限ではない。あたしの【獣化病】は治らない。お父様だって、お医者様だって薄々は気がついているんでしょう?」

「駄目だ。お前は、倖は私の唯一の生き甲斐なんだ。それを失ったら何も残らない」

「そんな事ありません。お父様には守るべき会社があるでしょう。社員の方々が、場所が。生き甲斐が他にないのであれば探してください」

「倖……そんな事を言わないでくれ。おいて行かないでくれ。さあ、降りてくるんだ」


 あたしは首を振って父の顔を見据える。


「あたしはどこにも行きません。ただ、人間のあたししか見えていないというのなら……お父様の前から姿を消すつもりです」

「人でない倖……そんなものは認めない」

「そう、ですか。わかりました。あたしは、トリになって色々なところを見て回りたい。それがあたしがやりたいことなんです」


 ニッコリと父に微笑みかける。父は逃さないとばかりにあたしに飛び込んできたが遅い。

 あたしは窓のフチを蹴って部屋の外に飛び出した。そこは当然、床なんてない。そのまま重力に逆らえず落ちていくだけだ。


「今まで、お世話になりました」

「倖いいいいいいィィィィィィ!!」


 ギリギリのところで父の手はあたしに届くことはなかった。

 身体を天に向けて身体が落ちていく。

 窓から身を乗り出して叫ぶ父の姿が遠くに見える。

 手を伸ばすと包帯の巻かれている手がそこにある。

 さあ【獣化病】よ。もう我慢することはない。


「……くッ」


 全身に熱さが巡っていくとともに息苦しさで声が漏れ出した。

 身体の中の【獣化病】が、動物が目覚めようとしている。

 するすると包帯が身体から離れて宙を舞っている。身体が縮んでいる。

 天に伸ばしていた手はすでに人の形からは離れていた。

 トリの羽が肌から確かに生えていて、指は徐々に短くなっている。

 視界にはクチバシに近づきつつある口が見える。


「あぁ……ああ……」


 空を飛ぶことに特化した身体に変化しようとしている。

 人の声はもう出ない。

 羽は真っ白でとても美しい。

 身体中から内部から変化する音と痛み。

 【獣化病】で生まれ変わっていくという期待と恐怖があたしにはあった。

 望んで【獣化病】で変化するというのはこういうことなのだろう。恐怖に包まれるだけの変化とは違い、新しい人生を歩むための変化なのだ。

 父にずっと守られるだけの羽水 倖ではない。これからは自分自身で道を決めていくのだ。

 動物になって身体や脳は小さくなっているはずなのに、あたしはあたしでいられている。どうしてかは分からないが【獣化病】というのはそういうものということは知っていた。

 人としての意識を持ちながら動物へと姿を変える。望まないのであればこれほど恐ろしいものはそう無い。そう無いのだ。

 周囲に木々の先端が見える。何もしなければもう、すぐに地面と激突してしまう。

 でもあたしはもう大丈夫なのだ。身体の熱はどこにも無く、全ての変化が終わった事を教えてくれる。

 身体を地面の方に向けて、両腕――いや、それが変化した翼を広げる。

 バサッという音が、もう両腕でないということを告げる。

 両翼を勢い良く振る。すると、ふわりと浮遊感を身体で感じた。落下速度が少しゆっくりになったみたいで、地面に近づく速さが遅くなった。

 もう一度降るとまたゆっくりになる。もう一度、もう一回、繰り返す。

 何度も羽ばたく内に今度は地面からの距離が遠くなって、身体が浮き上がった。

 いつの間にか飛べるようになっていたんだ。

 翼を振るのは疲れるけどそれでも空を飛べるということが楽しくて、気がつけば森よりも高く飛べるようになっていた。

空は広くて青く広がっていて、森も大きく向こう側まで続いている。

 今のあたしであればこの景色の行きたいところのどこにだって行けるのだ。

 その景色の中に小さくなったあたしがここにいる。

 父のことが少しばかり気がかりだけど、きっと大丈夫だろう。あたしに一生懸命だったけど、すごく面倒見のいい社長だということは聞いていた。今度は父が支えてもらう番なのだ。

 この景色の向こう側にある渋谷まで飛んで、それからいつか家に帰ろう。父は人間で無くなったあたしは舞っていないのかもしれない。それでも姿を見せたらどう思うかな。

 認めてくれるだろうか、それとも気が付いてもくれないだろうか。それはその時考えよう。

 翼を羽ばたかせている内に疲れてきてしまった。

 森より高く飛んでいたがゆっくりと降下して、地面に近い木の枝に着地した。

 細くなった足で確かに枝を掴んでとまる。思った以上に難なくとまることができたのは本能だからそれとも別の要因なのだろうか。

 少なくともこの身体なら問題なさそうだ。


「……思ったよりも可愛いじゃない」


 いつの間にやら隣に彼女が枝に腰をかけていた。

 白いワンピースの長い黒髪のあたしの幻影。


「随分と楽しそうだったじゃない」

「……」


 人間としての言葉を返せないため、ジッと彼女の顔を見つめて答える。


「お父さん、アンタの事を諦めて元気にしてくれといいね」


 もしも、諦めなかったのだとしたら……。

 何もかもを投げ捨ててあたしを探すのだろうか。

 そして、この姿のあたしを捕まえて、どうするのか。あまりそんなことは考えたくはない。


「まあ、そんときはそんときで、まずは見たいところを見るといいんじゃない。今のアンタがやりたいことなんでしょ? それをやる前から他の事を考えちゃいけないよ」


 それも、そうか。そうだ。


「しばらくあたしは静かにしてるけど、また必要になったら現れてやるから。いつでも一緒の景色を見てるからね。もう一人のあたし」


 彼女はそう言って、あたしのクチバシをそっと触ると、光が弾けるように消えてあたしに重なって消えていく。

 【獣化病】で姿を変えるための覚悟、父にわかってもらうための覚悟、それを決めるために生み出してしまった幻影はやっぱりあたし自身なのだ。

 できればもう彼女の世話にはならないように、自分で決めることができるように。

 この選択には後悔はない。

 だから進もう、まずは渋谷へ。

 翼を広げて飛び立つ。

 小さなトリになったあたしは、広い広い景色の中へと消えていく。

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