Episode 07 めざめ
――コポコポ。
まるで湖の底で呼吸をしているかのような、音が聞こえる。
わたしは今まで、何をしていたんだっけ?
ああ、そうだ。
【獣化病】でイヌになってしまったお兄ちゃんと一緒に渋谷を目指していたんだっけ。
ずっと歩き通しで渋谷駅前のビルが見えたところで誰もいない住宅街に迷い込んで、危ないおじさんの連れ去られそうになったんだっけ。
それで、お兄ちゃんが助けてくれようとしたけど、おじさんに反撃されて、わたしは……どうなったんだっけ?
そうだ、他の男の人がおじさんを銃で……銃で撃って、それで?
ああ、そうだ、その後の記憶がないんだっけ。
……。
……。
……。
ここでわたしは目を覚ました。
目を開けることで今まで真っ暗だった景色が、明るく目に入ってくる。
「ワンッ!!」
視線の向こう側には木製の天井が広がっていて、端っこの方にイヌの姿のお兄ちゃんが映る。
「お兄ちゃん!?」
わたしは思わず起き上がる。
そうだ、男の人がおじさんを追い払ってくれて、そのまま気を失ってしまったんだった。
お兄ちゃんの姿を見て、すぐに意識が覚醒した。
ここは何処なのかを確認するべく辺りを見渡す。
すぐ側にお兄ちゃんがいて、膝の上にはバスタオル。寝ているわたしにかけてくれていたのだろう。
床は畳だ。部屋自体は畳六枚ほどの部屋のようで、中心にはちゃぶ台程度の木でできたテーブルが一脚ある。
テーブルの上には片耳が外れたヘッドホンと一部が赤黒く染まっている銃があった。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。わたしは、大丈夫」
その声にお兄ちゃんは移動を始める。どこに行くのだろうと目で追うと、大きな窓がありそのフチに座る男の人がそこにはいた。
窓のレールに足全体を乗せていて、外をずっと眺めているかのようだった。
その窓からは心地よい風が入ってくる。窓から見える景色は屋根や空が大半を占めているため、地上の階でないことがわかる。
「ワンッ……ワン!!」
「ったく、うるさいヤツだ……気配でわかる」
お兄ちゃんはわたしが目覚めたことを男の人に知らせるべく吠えていた。
しかし、男性はと言うとそれをあしらうかのような返答をしていた。
男性が立ち上がり、わたしの側までやってきてから腰を下ろす。
「やれやれ」と言いたげなため息を一つ吐いて頭をかいている。
短く切り揃っている髪の毛は黒色で、いじっている様子は見えない。目つきは鋭く冷たそう。髭はなく、顔はほっそりしている。
服装はよれよれの白いTシャツに長いジーパンという随分とラフな格好をしている。
「あ……」
こういう時はなんていえばいいんだろう。
口を開いてからそのことに気が付き、言葉が詰まる。
「目を覚ましたか」
言葉に困っていると、男の人が冷たく低い声でわたしに言った。
【獣化病の始まり】の前だったら思わず逃げ出していただろう。そんな声にわたしは身構えてしまう。
そういって、迫ってくるような人は好きではない。
「あ、あの。ありがとうございました。連れ去られそうになったところ、助けてもらっただけでなくここまで連れてきてもらって」
外はまだ青空だ。何時間も時間は経っていまい。
「全くだ。今回は俺がいたから良かったものの……どうして、お前はあんな所にいた」
「……」
あんなところ。
ということはこの人はわたしがいた場所が危険であったということを知っていたのだろうか。
じゃあ、なんで危ない場所を知っているとが通りがかったのだろうか。
「まるで急に人が消えたみたいな場所、治安が悪くなる一方だというのに……」
そういえば、外がとても静かだ。
ということは、ここのその危険な場所、なのだろうか?
わたしは本能的にゆっくり玄関があるだろう方向に身体をずらす。
しかしながら、この人がいなければあのおじさんに連れ去られていたのは紛れもない事実だ。
もしグルだとしたら、男の人は銃でおじさんの腕を撃ったりはしないだろう。
「そんな場所に足を踏み入れておきながらお前、武器の一つも持っていなかったろう」
まるで責めるかのように、男の人が迫る。
そうやって怒られることには慣れていないから、とても怖い。
そんな失敗を送るような人生は【獣化病の始まり】の前には送っていない。
「ワンッ!!」
わたしの様子を察してくれたのか、お兄ちゃんが吠える。
威嚇するかのように「グルル……」と、喉も鳴らしている。
「……黙れ。俺はコイツに聞いているんだ」
「キュウン……」
しかしその抗議の声も虚しく、男性に睨まれただけで黙ってしまった。お兄ちゃんであっても、この人には勝てないらしい。
「それはわたしが危険な場所というのを知らなかっただけです。急に人気がなくなったので、警戒するべきでした」
「……随分と冷静なんだな。しかし、そんなやつがどうして危険な場所を選んだ」
「それは、一秒でも早く【獣化病の始まり】の発生場所――渋谷の駅前まで行きたかったからです」
「発生場所、だと?」
【獣化病の始まり】という単語を聞いた途端、男性の眉間に皺が寄るのがわかった。
何か思うところがあるのだろうか。
「はい。【獣化病の始まり】の日に両親がそこに行ったきり戻ってないんです。だから、自分の目でそこで何が起きたのかを見てみたくて横浜から歩いてきたんです」
「横浜? ……電車は動いていないしな。長旅だっただろう」
「ええ、でもお兄ちゃんがいたから、わたしは渋谷の近くまでたどり着くことが出来ました」
わたしはお兄ちゃんに視線を送る。
男性も一瞬視線を向けようとしたが、すぐに止めた。そして、立ち上がって再び窓に腰をかける。
ポケットから小さな水色の四角い物体を取り出した。
大きさからするにタバコだろうか。
数秒それを見つめてから、中身を取り出すわけでもなくテーブルの上に投げてしまった。その拍子に中からタバコが飛び出したため、空っぽだから投げたというわけではなさそうだ。
「その"イヌ"が、兄だというのか?」
イヌであることを強調するかのように男性は尋ねてきた。
「はい。わたしの兄です。【獣化病の始まり】の日に家で」
「そうか」
そう短く発してから、
「あのな、お前。俺が危険な人間だと思わないのか? よくもまあ、ベラベラと身の上話をするもんだ」
「ええ、そんな話をするくらいには信用してますし」
「自分と俺も信用されたもんだな。もう感づいているとは思うが、ここもこの辺りの人間からは危険と思われてる場所だぞ」
と脅かすように言うが場所は確かにそうなのだろう。
だがもしも、わたしやお兄ちゃんに危害を加えるつもりなのであれば、わざわざそんな警告はしないだろう。
それに気を失ったわたしたちをここまで運んでくれるわけもないのだ。
悪意があればとっくにわたしはひどい目にあっていることだ。
「少なくとも、あなたは悪い人ではないと思います」
「……チッ」
どういう意味合いの舌打ちなのかは分からないが、苦虫を噛み潰すような表情を一瞬だけ浮かべていた。
「さて、と」
すぐそばにおいてあったリュックを背負ってわたしは立ち上がる。
休憩になってしまったが、もう渋谷の駅前も近いのだ。
目的地はすぐだ。今にでもたどり着きたい。
いつまでもここにいるわけにはいかない。
お兄ちゃんに目配せすると、玄関の方へ向かって歩いていった。
この部屋と廊下の敷居まで進み、身体を反転させる。
「今日は本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」
深々と男性に向かって、お辞儀をする。
男性はいつまでも返答することが無く、わたしは頭を上げてから踵を返そうとした時。
「待て」
いざ歩き出そうとしたところ、男性に呼び止められる。
男性の方に視線を向けると、腕を窓の外に伸ばしていて、手には黒い銃が握られていた。
テーブルの上にはもう一つ銃があるため、男性が手に持っている銃は男性のそれであろう。
銃の先に目を向けると対面のアパートの同じ階、その部屋の窓に金属でできた板がぶら下がっていることに気がつく。白く何重にも円が描かれていてところどころ凹んでいる。
なんだろうという疑問を考えている間に、
――バァン!!
部屋中に爆音が響いて揺れる。
耳が痛むような爆音に、お兄ちゃんが慌てて飛んできた。
何が起きたか。なんて尋ねるまでもなかった。
男性の持っている銃の先端から煙が立ち上っていた。そしてこの建物の対面のアパートに設置された金属板が揺れている。
男性は銃を発砲して金属板に命中させたのだ。
窓の外に視線を向けていた男性が、こちらに顔を向ける。その冷たく鋭い眼光でわたしの事を見つめていた。
「外を出歩くのに武器はあるのか?」
そうわたしに尋ねるのだ。
当然、わたしはそのような武器は持っていない。持っていたとしたら、おじさんに連れて行かれそうになった時に使用している。
「……」
「なら、そのテーブルの上のヤツを使え」
わたしが返答できずにいると、男性はテーブルの上にある銃を指をさした。
それはおじさんが使っていたものであろう銃だ。
人に向けて撃てば血が出てし、命も奪うことが可能になる。
そんな獲物をわたしに使えと言うのだろうか。
「お前を連れ去ろうとしたヤツが落としたものだが、故障している部分はなかった……血液は拭き取りきれなかったがまあ使えるだろう」
「わたしが、これを……?」
なかなか歩み出すことが出来ない。
そんな物騒なものを今まで手に取る機会なんてあるわけがなかった。
「治安が悪くなって危険な場所にさえ行かなければ問題はないだろう。が、護身用に持っているに越したことはないだろう? 大体の輩はそれを見せただけで逃げ出すだろう」
護身用、という言葉の響きは良い。
しかし、これを手に取ってしまったらもう二度と戻れないような気がする。
どこに? と聞かれれば【獣化病の始まり】以前? おじさんに声をかけられる前? いつだろう、わたしの日常が壊れてしまったのは。
手に取ってしまったら、わたしは人を傷つけることをためらわない。そんな宣言をしてしまうようで、怖かった。
わたしという人間が、別の存在に……別の人間になってしまいそうで怖かった。
胸の鼓動が激しくなるような違和感。呼吸が荒くなって、拳を胸に当てる。
変わってしまう? 変わってしまっていいのか?
「どうした、怖いのか? なら、自分の家に帰るんだな」
帰る? どこに?
お母さんもお父さんも、ましてやマンションも崩れてしまって帰る家がないのだ。
もう戻ることは出来ない。
それにお母さんやお父さんがどうなったのかを見るためにここまで、渋谷の周辺までやってきたんだ。
今更諦めて帰るわけにはいかないんだ。
そのためにわたしが変わらなければいけないんなら、それを受け入れよう。
住んでいた場所から旅に出ると決めた時、【獣化病】でクジラになってしまった人を踏んだ時、もうその時から変わっているんだ。
「わたしは……」
一歩、二歩と進んで、
「これを使います」
テーブルの上の黒い銃を手に取る。
ずっしりとする人を傷つける道具。【獣化病】さえなければ、こんなことにはならなかったモノ。
重量的な重さだけでなく、覚悟やそういったモノの重さもあるに違いない。
口をグッと結んで、男性に双眸を向ける。
「ふッ……」
すると、男性が初めて笑みを浮かべた。そんな吐息が確かに漏れていた。
その瞬間に男性は何かを思い出したかのように、冷たい表情に戻る。
「なら一晩だ。一晩でソイツの使い方を仕込んでやろう」
「えッ……?」
いち早く渋谷の駅前まで行きたいのにここにとどまれというのだろうか。
「もっとも、俺が信用出来ないのであれば無理にとは言わない。その銃を持って出てってもらって構わない」
男性はじっとわたしの顔を見つめて言葉を口にしている。
「だが一晩ここにいるというのなら、しっかりと教えてやる」
徐々に男性の口元が緩み、どこか楽しげで、それでいて懐かしい誰かに語りかけているようで、口調が柔らかくなっているようにも思えた。
この人なら、信用してもいいのかしれない。
今日始めて出会ったのに、どうしてそう思えるのはわからない。でも、きっと、この人なら信じていいと思った。
そして、わたしが答えを返す前に男性が窓際から立ち上がり、わたしの横を素通りした。玄関の方へ向かっていくのだ。
「え?」
「だが、その前にしばらく待っていろ」
男性はそう言った。わたしに背を向けて、つぶやくように。
「俺を信用するんだったら、ここで待っていろ。しばらく外に出る。信用出来ないんだったら、本当にここから消えてもいい」
靴をはくためにかがむ男性、玄関には男性がはこうとしている靴、わたしの靴、そしてもう一つ女性のものであろう靴があった。ちゃんと並べてあって、丁寧に扱われているようだった。
「あ、あの……」
「なんだ?」
「あなたの、名前は……?」
どうしてそんな事を聞いてしまったのだろう。
尋ねるべきこと、答えるべき言葉はいくらでもあった。
それでも、一番聞きたかったのはそれだ。
「俺か……俺は、本田明久だ。お前は?」
「わたしは風香。日向風香です。それと、兄の春斗です」
「そうか」
男性は靴をはき終えたようで、本当に短く一言だけの返答を口にして、ドアから出ていってしまった。
行き先も言わず、バタリとドアが閉まる。
取り残されたのはわたしとお兄ちゃんだけだ。
ポコポコという水の中に泡が生まれているような音が静かに、そして確かに耳に届き、外からは風の音が入ってくる。
思い出したかのようにお兄ちゃんの方を見ると、不機嫌そうにジッとドアを見つめて、眺めているだけだった。
さて、どうしたものか。
壁に背を預けるように座る。
手に持っているのは、わたしを連れ去ろうとしたおじさんの使っていた銃。
下手にいじれば暴発してしまいそうで怖いのだが、グリップの部分を握ったり指でつついたりしてみる。
男性――明久さんには待っているように言われた。
やはり悪い人には見えなかった。
どこに行ったかわからないし、帰ってくる確証もない。それに、万が一悪い人だったら仲間を連れてここまで戻ってくるのかもしれない。
様々な考えが頭をめぐるが、もしわたしに危害を加えるつもりなら、わたしに銃を持たせてここを離れるわけがない。というのがわたしの中の結論に至る。
お兄ちゃんもわたしに視線を送りさえするが、ここから離れようという合図を送ってこないため、同じく迷っているのだろう。
わたしは畳の床から立ち上がって、明久さんのいた窓際に腰を下ろす。
心地よい風が身体を撫でる。思えば、ずっと歩き通しで宿泊も野宿が多かったため、こうして休まる場所というのは久しぶりだった。
……休まる場所、なのだろうか。
少なくとも、わたしはここにいるだけで気持ちが休まっている、そういう気がするのだ。
窓から向かいの建物の金属板までは細い道路を挟んで向こう側、見下ろせばここが二階であることがわかった。
壁はコンクリートで出来ていて、中の見た目より古くはなさそうだ。
しかし、向かいの建物やその周辺の建物は全体的に崩れそうなひび割れや一部が壊れているものが多く見受けられた。
もしかすると【獣化病の始まり】の時に【獣化病】で姿を変えてしまう人が多かったのだろうか。だからこの辺に住んでる人は近くに避難してしまい、人がいないのだろう。
「ねぇ、お兄ちゃん」
わたしは部屋の中に身体を向けて、お兄ちゃんに声をかける。
玄関の方を見つめているものの、身体を伏せていてどちらかといえばリラックスしているように見える。
わたしの方に顔を向けることは無く、返事の代わりに尻尾を振った。
「ここにいてもいいのかな?」
尻尾の動きが止まり、だらしなく床に垂れる。
返事はそれだけだった。
やっぱりお兄ちゃんも迷っているのだろうか。
わたしは小さなため息をついて、再び外に視線を向ける。
ここはあまりにも静かだった。遠くからは確かに誰かがいるだろう声や動物の鳴き声は聞こえてくる。だが、近所に誰かがいるという気配はまったくないのだ。
「……」
何気なく、銃を金属板の方に向けて片目を閉じる。
引き金には指を付けずに、雰囲気だけを。
「……あれ」
なんてことをやっていると、目下の道路で誰か歩いているのが目に入った。
だらしなく伸びて、白の混じった灰色の髪のおじいさんだろうか。暗い色の和服はわたしの目でも値段が高そうでどこかの偉い人なのだろうか。
でも、その歩みはあまりにも健康的には見えない。よろよろと今にも倒れそうに右往左往して、顔は一つの方向を見ておらず、何かを探しているようにありとあらゆる方向を見ている。
耳には届かないが、何かをブツブツとつぶやいているようだ。
わたしはすぐさま身を引っ込めた。
あれは誰だろうか。あまりにも怪しすぎる、が心配でもあった。
ただ、明久さんは人払いがされて危険な場所とさえ言っているこの場所に足を踏み入れてしまっているんだ。ここから飛び出して声をかけたら何をされるかわかったものではない。
次に外を見た時はあのおじいさんが何処かに行っていることを願いながら窓の下に座り込む。
その様子に、心配してお兄ちゃんがやってくるが、わたしは首を振って「大丈夫」と答える。
その時だ。
バサバサと音を立てて、白いものが部屋に飛び込んできた。
「……ッ!?」
手のひらに乗るサイズの飛行する生物。そんな生物がちゃぶ台の上に着地したのだ。
驚きのあまり、声が漏れないように両手で口を抑えた。
その生物をよく見ると、真っ白なハトだった。
ハトはわたしの姿を見つけるやジッと視線を外さない。真っ白で他に模様がない美しいハトだった。
わたしが手を伸ばしても逃げるような素振りがない。そして、どこかシャンプーのような人間が出すようないい匂いがするのだ。
動物としてはあまりにも不自然なハト。手の動きに緩急をつけても全く動かない。
まるでわたしに何かを訴えかけるかのように。
「……あの」
だからわたしは言葉をその白いハトに投げかけてみる。
返答があったとしても、わたしに動物の声を理解する能力なんてものはない。
でも、もしわたしの予感が間違ってなければ何かしらの反応はできるはずだ。
それだけの知能があるのだから。
「あなたって」
だからこそ、声が震える。怖がる必要はないのに、唇が震えて身体の体温が上がる感覚がある。
間違っていなくても、わたしにはどうすることが出来ないのに。
それでも振り絞って、言葉を紡ぐ。
――あなたって、人間だった?
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