[5] 波状反撃

 第2装甲集団が東方のエリニャとドゴロブジに装甲部隊を送ったことにより、スモレンスクとヤルツェヴォの間には幅50キロの「回廊」が開いていた。ティモシェンコはこの「回廊」から包囲されつつある3個軍を救出しようと考えた。

 7月17日、ティモシェンコは西部正面軍の後方に展開する6個軍(第24軍・第28軍・第29軍・第30軍・第31軍・第32軍)に対し、スモレンスク周辺で突出部を形成する中央軍集団への反撃を命じた。各軍司令官たちは混乱した戦況の中、数個師団で応急編成した機動集団を任され、中央軍集団の前線のほぼ全周で反撃を行った。

 この時、南西部正面軍から西部正面軍へ転属したロコソフスキーは「回廊」を保持するために、ヤルツェヴォ付近の第3装甲集団を攻撃するよう命じられた。ロコソフスキーは与えられた第38狙撃師団(キリロフ大佐)と第101戦車師団(ミハイロフ大佐)の支援に、敗れた各部隊の残兵をかき集めて即席の機動集団を編成した。 

 7月20日、ドイツ空軍からの間断ない空爆を受けながら、ロコソフスキー機動集団はヤルツェヴォの奪還を開始した。同月24日まで第7装甲師団の攻撃を食い止めると、翌25日に反撃に転じた。思わぬ反撃に遭遇した第39装甲軍団はヤルツェヴォを放棄して、北方へ撤退せざるを得なくなった。

 7月24日、ゴロドヴィコフ機動集団は第2装甲集団に対し、ロガチェフの南方からボブルイスクに向けて反撃を行った。この反撃はある程度まで成功し、第2装甲集団と第2軍の重要な後方連絡線を脅かす位置まで進出した。

 大急ぎで行われた西部正面軍の反撃は、広がりすぎた中央軍集団の装甲部隊に絶え間なく圧迫を与えたことにより、大きな損害を生じさせることになった。スモレンスク周辺に展開していた部隊はドニエプル河沿岸に残された狭い「回廊」を通って、10万人以上の兵力が脱出することに成功した。

 だが西部正面軍の反撃は敵の意表を衝いて一時的に戦術的優位こそ確保したものの、協同作戦と支援砲撃の失敗、資材不足などにより失敗に終わった。防戦に転じて地歩を守り続けた中央軍集団は第3装甲集団と第2装甲集団がようやく、スモレンスク東方で合流を果たそうとしていた。

 7月29日、第39装甲軍団の第20自動車化歩兵師団(ツォーン少将)と第47装甲軍団の第17装甲師団(トーマ中将)が、スモレンスクとドロゴブジのほぼ中間地点でようやく連結した。ティモシェンコは包囲された10個師団に東方への脱出を命じたが、8月4日までに多くの部隊は壊滅した。

 7月31日、第24装甲軍団は第21軍(クズネツォーフ大将)の反撃を撃退し、数日以内にこれを壊滅させた。こうして中央軍集団に、東方もしくはキエフ防衛中の南西部正面軍北翼への作戦の道が開けたのである。

 8月5日、ドイツは「スモレンスク会戦」の終結を公式に発表した。第4軍司令部は2個装甲集団を統轄する役目を終え、それまで第2軍に配属されていた4個軍団は第2軍と第4軍に再分配された。

 スモレンスクを巡る戦いで、西部正面軍は再び参加兵力の半数を超える約34万人を喪失した。1348両の戦車と自走砲、9290門の火砲を破壊または鹵獲された。

 結果的には失敗に終わってしまった西部正面軍の反撃はヒトラーに思わぬ憶測を抱かせることには成功した。特に、第2装甲集団の南翼に対して行われた一連の反撃を重大な脅威とみなしたヒトラーは「バルバロッサ作戦」の第2段階において、攻撃の主軸をモスクワ街道周辺から外すことを考え始めたのである。

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巨人たちの戦争 第1部:崩壊編 伊藤 薫 @tayki

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