第23話 大槻・一宮の合戦

 この時代の戦争の方法は一般的には両軍向かい合ったら、弓を撃ちじりじりと距離をつめ、突撃可能な位置まで近づくと槍で戦い勝負を決する・・・時代が進み鉄砲が出てきた後は弓が鉄砲に差し代わるだけで基本的にはこの構図で戦いを進めることになる。戦術らしい戦術といえば軍隊の最前線の部隊に最強の部隊を置くということくらいだろうか。



当時、最前線の軍隊に最強の部隊を置く事はほぼ常識になっていた。これはどういう事なのだろうか?実例で見ていくと分かりやすい。


姉川の合戦や大阪夏の陣を見てみよう、まずは姉川の合戦、これは浅井・朝倉連合軍と徳川・織田連合軍の対決であったわけだが、浅井の先鋒「磯野員昌」と織田の先鋒「坂井政尚」が激突した、そしてこの先鋒対決に坂井は負けた、勝った磯野は次々と織田の軍勢を破り13段で構えた織田の軍勢の11段まで破るといった事がおきた。その後徳川が横から浅井を攻撃したおかげで浅井は負けるのであるがとにかく最初のぶつかり合いで負けた方がその後大きく負けていることが分かる。大阪夏の陣では最前線の毛利勝永と真田幸村の突撃に徳川方がちりぢりになり本陣さえ失った程だった。


つまりこの時代は最初の部隊がやられると後はドミノ倒しのように軍隊が瓦解する事が多いのである、想像するにこれはある種本当にドミノ倒しのようになっていたのではないだろうか?綱引きの逆のイメージをしてもらえると分かりやすい、両方の軍隊がお互いに向かって一気に押し合う、押し負けた方は後ろも次々と倒れるだろう。この時代の武士はこのような先陣の部隊が戦を決定する瞬間をしょっちゅう見ていたので「先陣を引き受けるのは最強の部隊」という認識が浸透したのではないかと推測する。


能登には笠松新介という武者がいた。彼は畠山家臣の一土豪にすぎないが畠山義続・義綱のお気に入りでもある飯川家と仲がよかったこともあり、飯川家が戦をするときはこれについて戦をするのが笠松家では普通になっていた。そして畠山駿河の乱、1度目の遊佐続光の乱でめざましい働きをし、大名である畠山義綱自らが感謝状を発給するくらいになっていた。家単位でいうと笠松家はかなり小さい家だが、複数の乱を通じ「能登で最強の武者」と家中で思われるようになっていた。温井紹春率いるこの5000人の軍団で栄誉ある先陣を務めたのはこの“笠松新介”であった。


対する遊佐軍5000人の先陣は遊佐秀頼であった。続光の前の守護代で続光の従兄にあたる人物である。

秀頼は実はこの戦が初陣であった。

この事からしても遊佐続光はいかに軍事に疎い男なのかが分かる。






遊佐軍は田鶴浜より南下し北上してきた畠山軍と大槻と言われるところで接触した。そこで【大槻・一宮の合戦】と後に言われる戦は始まった。西暦1553年12月27日の事である。



戦の序盤は同数とあって一進一退の攻防であったが畠山軍先陣「笠松新介」の猛攻により遊佐軍先陣「遊佐秀頼」の部隊が戦線を維持できずに崩壊、これに引きずられるように次々と遊佐軍の各戦線が崩壊する。この状況を見て続光は一時撤退を決意、羽咋一宮という所まで後退した。しかし遊佐軍の立て直しを恐れた畠山軍がこれを追撃、翌28日、遊佐軍と畠山軍は再度交戦、畠山軍の執拗な攻撃により遊佐軍は壊滅することになる。



この時畠山軍があげた首級は2000にも及ぶという遊佐側の大敗北であった。



遊佐秀頼 生け捕り

伊丹総堅 戦死

伊丹続堅 戦死

加治中務丞 生け捕り

後藤備前 戦死

丸山出雲守 戦死

河野続秀 戦死

平左衛門六郎 戦死



遊佐側についたそうそうたる面子がこの一戦でこの世を去ったのである、この一戦で遊佐続光の勢力は能登国内で完全に駆逐されたと見てよいだろう。



この後、温井紹春は家中においてますます専制的な振る舞いを見せる様になり、誰も紹春を止められないようになる。




続光はというと、崩壊する遊佐軍において煙のように消えてしまったのである。

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