愚痴酒は魔に狙われる(4)


 八月もあとわずかという頃、九時過ぎに職場を出ようとした私は四角顔のおじさんに呼び止められた。


「今から帰り? 夕飯まだなら、帰り道にちょっと何か食っていかない?」


 私は返事に詰まった。カニ料理の時の「朝まで」発言が気になっていたからだ。

 一瞬の間が空いた後、おじさんは少し暗い顔になり「差し支えなかったら、聞いてほしいことがあって」と言った。


 何があったのだろう。今度は私が愚痴の聞き役になって、おじさんに恩を返さなければならない。



 今回は、帰り道の途中にある繁華街のダイニングバーに入った。食事もできるがカクテル類も豊富に揃えてある店だった。音楽より人の話し声のほうが大きいが、それなりに夜景は見える。


 窓際の席に座ったおじさんは、メニューを広げながら急に思い出し笑いをした。


「前に行ったバー、覚えてる? あそこ、雰囲気良かったんだけど、レシートに『男性一名 女性一名』ってしっかり書かれててさ」

「?」

「それをうちの奥サマが見ちゃって、怒られちゃった」


 何だって! 我々はただの愚痴仲間だ。怒られるような関係じゃない。

 しかし、よくよく考えれば、おじさんの奥サマがそういう説明に納得するとは思えない。おじさん、すぐに解散しよう。私は人様の家庭不和の原因にはなりたくない。


 立ち上がろうとする私を、おじさんは「でもね」と言って引き留めた。


「一緒に働いている人とコミュニケーションを図るのも仕事の一つだし、仕事仲間には男も女もいるわけだし、そこのトコは奥サマにも分かってほしいんだよねえ」


 確かに、ビジネスパートナ―同士で性別が違うことなど普通にあり得る昨今、男女二人で飲み食いするのをすべて色眼鏡で見られたら、仕事がやりにくいことこの上ない。後輩君を食事に誘って面倒なことになったアラサー知人女性がいい例だ。

 しかし、周囲の誤解を招くような言動は極力避けるべきだ。例えば、片方が高額の飲食代をすべて負担するとか……。


 そういう点では、カニ料理は非常に不適切だった。「萬寿」もマズイ。

 今回のダイニングバーは?


 私は「今日は割り勘で」と言ったが、おじさんは「僕に恥をかかせる気?」と言って譲らなかった。


 イタリア料理風の食事をいただき、一、二杯のカクテルも飲んで、二時間ほど取り留めのない話をしたが、おじさんの「悩み」らしき話題はさっぱり出なかった。

 やがて十一時を回り、よく分からない会合はお開きとなった。


 ダイニングバーを出て、同じ電車に乗った。十分足らずでおじさんの家の最寄り駅に着いた。

 しかし、おじさんは降りなかった。


「あなたの降りる駅、次だよね? 僕の家、ここと次の駅のちょうど真ん中にあるから、今日はあなたをお家に送りがてら帰るよ」


 ん? それだと、自宅の場所をおじさんに教えることになるのでは?


 ……と思ったが、彼の申し出を当たり障りなく断る言葉が見つからない。焦っているうちに、電車は私の降りる駅に着いてしまった。


 二人してホームに降り、改札を出る。


 このまま自宅に向かってしまっていいのか。


 でも、おじさんは素朴ないい人だし、普通に働いてる人だし、家族持ちだし、だから、私の住む場所を知ったからといって、何かあるはずないし――。


 動揺を押し隠すように世間話をしながら、駅前の大通りを歩き、住宅街へ一歩入った途端、人気は全くなくなった。

 異様な緊張感を覚える。おじさんの口数が徐々に少なくなっていくように感じる。静けさが満ちる細い道路に、二人の足音だけが響く。


 ほどなくして、私が一人で暮らすワンルームマンションの前まで来た。今すぐにも中に逃げ込みたい衝動を抑えながらごちそうになった礼を言うと、おじさんはにこっと笑って右手を上げた。

 私はもう一度会釈して建物の中に入った。


 おじさん、本当にただ送ってくれただけなんだ。疑って悪いことをしてしまった。


 心の中で詫びつつエレベーターの乗り場ボタンを押した時、何か大きなものがガラスに激しくぶつかるような物音がした。

 音のした方を見ると、建物入り口の自動ドアに四角い顔をしたおじさんがへばりついていた。


 私が住んでいたマンションの入り口はオートロックになっていた。自動ドアの外側に感圧マットの類はなく、一端ドアが閉まると、外側からは専用キーがないとドアが開かない仕組みになっている。おじさんは、それを知らずに中に入ろうとして、一瞬早く閉まった自動ドアに阻まれたらしい。


 彼はマンションの中に入って何をしようとしたのだろう。

 もし、マンションの入り口がオートロック式でなかったら、私はどうなっていたのだろう……。




 翌朝、職場で会った四角い顔のおじさんは、私と目を合わせようとしなかった。



 愚痴仲間だったはずのおじさん。彼はいつから私を目で見るようになっていたのだろう。


 カニの時から?

 私が「萬寿」をおねだりした時から?

 奥さんに怒られたというバーに行った時から?

 それとも、初めてサシで飲みに行った時から?


 冷静に考えれば、「愚痴仲間」の関係など初めからあり得なかったのだろう。当時、四角顔のおじさんは勤続十五年。対する私はわずか五年。三倍のキャリアの差では、こちらが凡人の三倍デキる人間でもない限り、対等な関係はあり得ない。

 そんなことも分からなかった不遜な私は、バカで不用心な女でしかなかったのだ。


 彼に裏切られた、というよりは、自己嫌悪が深すぎて、やけ酒を飲む気持ちにもなれない……。



 次の定期異動は年度末。その時、私はおそらく飛ばされる。しかし、もはやそんなことなど些細な問題になってしまった。翌年三月末までの半年余りを四角顔のおじさんと同じ職場で過ごさなければならないことに比べれば……。

 最悪の暗黒生活だ。




 すっかり打ちひしがれていると、突然クソ上司に呼ばれた。


「あなた、来月一日から〇〇部に異動になったから」


 へ? 来月一日って……、もうすぐ今月が終わるんですけど?


 クソ上司の提示した異動先は同じ組織内の別部署だったので引越しは不要だが、「来月一日」まであと数日という時期に突然の通告をしてくるとは、かなり非常識だ。

 しかも、九月一日という中途半端な日付。これはいわゆる「不定期異動」というもので、上位組織への引き抜きという場合を除き、「あからさまな左遷」を意味する。


 完全に意表を突かれた。クソ上司め、そういうテで来たか。

 同一組織内の人事異動なら、根回しも楽で書類を回す相手も少ない。クソ上司はおそらく、私のバックにいると彼が思いこんでいる「敵対勢力」の面々が盆休みで不在の時を狙って、行動を起こしたに違いない。

 勤続二十年超の古ダヌキが、勤続五年の人間相手に本気を出したというわけだ。


 しかし、古ダヌキの悪巧みのおかげで、四角顔のおじさんとは早々に離れることができる。ありがとう、ありがとう、クソ上司! まさかアンタが救いの神になるとは思わなかった。成敗してやりたかったが、今は心より御礼申し上げる!




 異動先は、クソ上司が好む「オイシイ話」とは無縁の部署だった。ヒト・モノ・カネ絡みの発言権は全くなさそうな地味な所だが、童顔おチビにはお似合いだろう。

 唯一の心配は、制裁人事をくらって妙な時期に転入する人間がどのように受け入れられるか、ということだが……。


 恐る恐る新しい職場に行くと、顔見知りが何人もいた。新しい管理者も、以前に一緒に勤務したことのある人間だった。

 彼らは、細かいことは何も聞かず、「久しぶり~」と迎えてくれた。


 私が席に座ると、隣の席の同年代らしい男性職員がぽろっと呟いた。


「ああ、怖そうな人じゃなくて良かったあ。すごいウワバミの女の人が来るって聞いてたから……」


 あのう、どういう噂が流れてたんで? 私が新しい上司のほうをちらりと見やると、彼はニヤリと笑った。


「今日、歓迎会やろうと思ってんだけど、都合どう? アンタにどんだけ飲まれても大丈夫なように飲み放題のトコ予約するから」


 ……着任早々至れり尽くせりのご配慮に、深く感謝いたします。






(次は、「アルコールで異文化交流」の第2弾になる予定です)

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酔迷人(よまいびと) 弦巻耀 @TsurumakiYou

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