愚痴酒は魔に狙われる(3)


 四角顔のおじさんとソルティ・ドッグを飲んでひと月ほど経った夏のある日、私は昼休みに自席でくつろいでいたおじさんを訪ねた。


「少し相談したいことが……」


 深刻な気配を察してくれたおじさんは、「仕事の後に時間を取るから」と言ってきた。


 

 すっかり「行きつけ」となった居酒屋で、我々は四度目の会合をした。「何があったの?」と問うおじさんに、私は数日前に得た情報を話した。


 クソ上司は、私を飛ばそうと決意して秘密裡に後任者を探しているようだった。なぜそれが分かったかと言うと、人を介して彼から打診を受けた人間の一人が私と繋がっていたからである。

 勤続五年の人間には勤続五年なりのネットワークがあるのだ。


 クソ上司が目を付けたのは私より一歳年上の女性だった。彼女は、打診された異動先に私がいるのを知っていたので、話を受ければ私と共に勤務することになると解釈していた。

 しかし、私の知る限り、私と同レベルの職員が増員される予定はない。クソ上司が何を考えているかは明白だ。現場の実質的な人事権を握るのは課長だったが、この課長こそ最強の派閥主義者で、クソ上司はまさに彼の「飼い犬」だった。

 二人まとめて成敗したいが、私に全く勝ち目はない。


 さらに不吉なことには、私の側には異動の話が何も入っていなかった。クソ上司はおそらく、僻地だの畑違いの閑職だのといういわくつきのポストに私を追いやって嫌がらせの一つもかまそうと企んでいるに違いない。

 過去に聞いた事例では、意地悪上司が気に入らない部下を排除しようとして、「後任者は決まったが、アンタの引き取り先がない。で、アンタどうする?」と依願退職を迫ったというケースまである。


 そんなことを怒涛の勢いで喋ると、四角顔のおじさんは腕組みをして冷静な分析を始めた。


 の人事異動は主に年度末と八月一日付で行われる。ゆえに、クソ上司は現在、八月一日を「Xデー」として動いているのではないか。Xデーまではあと半月、本来なら打診ではなく内示が出ている時期だ。そして、引っ越しを伴う異動の場合は、異動予定先の厚生係から「宿舎手配の必要があるか」という問い合わせが入る時期でもある――。


「中には、内示より先に宿舎の話がきて自分の異動を知った、なんて例もあるしね」


 それは初耳だ。私自身はした異動しか経験がなかったが、本来は全国転勤が普通にある職場なので、どの地域にもある程度は単身用及び世帯用の宿舎がある。それを管理する部署からの「情報漏洩」があるとは。

 さすが、経験豊かなおじさんは目の付けどころが違う。


「だから、いきなり僻地に、という線はないと思うね」

「で、では、いきなりクビ……?」

「管理者が本当にそれをやったら裁判沙汰だよ。もし退職を促されても絶対に応じちゃダメだ」


 おじさんは、冷や汗をたらす私をじっと見た。そして急に、四角い素朴な顔立ちに似合わぬ狡猾そうな笑みを浮かべた。


を利用するのはどうかな」

「我々?」

「あなたの上司は、僕や僕の周囲の人間を『敵派閥』と思ってるんだよね? だから、あなたが我々『敵派閥』と太いパイプを持っているフリをして、その上司をけん制するんだ。『アタシのバックにはお前の敵が付いている。極悪な真似すると全員で仕返しするぞ』って、無言の脅しをかけるんだよ。相手が警戒心の強い人間なら察するはずだ」


 うお! おじさん意外と策士だ!


「それでも、引っ越ししないで済むような小さな異動じゃ、騒ぎ立てる余地ないしなあ。……でも、異動先が近ければ、馴染みの人間とこうして会って話もできるし、そこから再浮上のチャンスを掴めるかもしれない」


 確かに、近くに相談相手がいれば心強いし、将来にわずかながらの希望も持てる。


「取りあえず、八月一日が過ぎるまで夏季休暇は取らないほうがいい。誰かがあなたの上司の陰謀に気付いた時、本人に確認しようにも当のあなたがいなかったら、対処のしようがないから」


 なるほど! あのクソ上司なら、ターゲットである私の不在時を狙って、関係各所と強引に話を付けようとするかもしれない。

 さすがはおじさん。洞察力が深すぎる。参謀閣下と呼ばせていただきます。


 

 運命の八月一日を、私は平穏無事に迎えた。私の「生存」を確認した四角顔のおじさんは、「近々お祝いをしよう」と耳打ちしてきた。


 祝いの会合の場所は、庶民派居酒屋ではなく、職場にやや近い大きな繁華街にある落ち着いた和料理店だった。寿司屋のようなカウンター席があり、カウンターの向こうでは、バーテンダーならぬ板前さんが美しい料理を作っている。


 二人で祝杯を挙げ、庶民派居酒屋では絶対に見かけないような、上品なお通しをいただいた。続いて出されたお造りを口に運びながら、おじさんはしんみりと語り出した。


「僕も昔、変な上司にことがあってね……」


 彼が出会った「変な上司」は、派閥主義ではなかったが、恐ろしく身勝手な人間だったらしい。おじさんが昇任の時期を迎えた時、その上司は「良い後任者が見つからない」という理由でおじさんの転属を阻止し、彼の昇任を一年半以上遅らせてしまったのだという。


「人をいいように使っておいてこの仕打ちはないよな、って思ったら、もうバカバカしくなっちゃって。やっと昇任ポストに異動したら、次の上司がものすごく立派な人でね。その人のおかげで立ち直れたんだ」


 おじさんもいろいろ苦労しているんだなあ。一人ぎいぎい怒っていた己がちょっと恥かしい。


 目の前に並ぶ料理を前に、私が言葉もなくじーんと感じ入っていると、おじさんは「明るい未来を祈って、もう一回、乾杯しよう」と言い出した。


「ここはいい日本酒が置いてあるんだよ。せっかくだから、好きな銘柄を選んで」


 板前さんの背後にある棚には、渋いラベルの張られた一升瓶がずらりと並んでいた。

 その中に、新潟の有名な日本酒「久保田くぼた」の中でも最上級の「萬寿まんじゅ」が鎮座ましているのが見えた。


 「萬寿」は四合瓶ですら一本四千円前後はする。下のグレードの「百寿ひゃくじゅ」と「千寿せんじゅ」は飲んだことがあったが、「萬寿」にはこれまでお目にかかったこともなかった。

 「千」ですら気が遠くなるほど清らかな味なのに、「萬」なんてどんだけスゴイのだろう。私の理性と遠慮は完全に吹き飛んでしまった。


「あのう、『萬寿』というお酒を、一度でいいから飲んでみたいです」


 おじさんはギクっとした顔になり、板前さんに声をかけた。


「『萬寿』はいくらで出してる?」

「一合二千円でお出ししております」

「……こ、今度にしよう」


 おじさんはにへらっと苦笑いした。私もにへらっと返した。いかんいかん、つい我を忘れてたかってしまうところだった。



 盆休みに入ると、職場は開店休業状態となった。旅行に行く予定もなかった私は、後日ちまちまと休みをもらうことにして、お盆期間は出勤して留守番役に徹した。

 クソ上司は職場には来ていたものの、仕事もなくて暇なのか、ほとんど自席にいなかった。



 盆週間が終わり慌ただしい日常が戻ってくると、休暇を満喫したらしい四角顔のおじさんが「暑気払いをしよう」と声をかけて来た。私は「ぜひ」と応えた。

 別に、前回の「今度にしよう」という言葉を真に受けて、彼に「萬寿」をたかろうとしたわけではない。念のため。



 残業を終えた私を、おじさんはカニ料理の専門店へ連れて行った。店の人の案内で奥の半個室に入った。定番のカニ酢に始まり、カニの刺身、カニのから揚げ、カニ寿司……、と見たことのないカニ料理が続く。

 これ、「萬寿」どころの値段ではないのでは……。若干うろたえながら乾杯する。


 おじさんは、ビールをおいしそうに飲むと、過去語りを始めた。

 東京では役職なしのおじさんも、地方勤務では部下を抱える管理職だ。管理者として若者と接していると意思疎通に困難を感じることが多く、派閥争いに明け暮れる今の職場とはまた違った気苦労があったという。


 クソ上司も、私との意思疎通に困っているのかなあ。


 そんなことを言ったら、おじさんは「あいつと意思疎通できる人間は少ないんじゃないか?」といって陽気に笑った。


 管理職の裏話をいろいろと聞いているうちに、十一時近くになってしまった。おじさんは、最後の一杯を飲み、「朝までこうして話していられるといいのにねえ」とぽつりと呟いた。


 朝まで? 朝まで飲んだくれていようってこと?



 帰り道、四角顔のおじさんが最寄り駅で降りた後、私は一人電車に揺られながら、彼の発した言葉の意味をぼんやりと考えた。

 ふと、いつか旧友が言っていたセリフが思い出された。



 高い店に連れて行かれるようになったら、気を付けたほうがいいよ――



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