愚痴酒は魔に狙われる(2)


 四角顔のおじさんと「愚痴仲間」になった翌月の三月末、クソ上司は私の残業申請のほとんどを却下した。申請してもたいして出ない残業代だが、「却下」とは何事か。

 理由を尋ねると、残業と称して他部署で酒を飲んでいる、と指摘された。


 部内で酒を飲んだことは認める。しかし、例の四角顔のおじさんがいる部署で三十分ほど過ごした後は、再び自席に戻り十時頃まで仕事をしている。問題の三十分は「休み時間」のようなものだ。無論、その分は差っ引いて申請している。しかも、「酒付きの休み時間」を取るのは週に一、二度だ。


 そう説明したが、職場の風紀を乱したという理由で「却下」の決定は覆らず、クソ上司には「注意処分にならないだけ有難く思え」と言われた。


 ちょっと待て。事務所宴会は職場の「慣例」だし、だいたいクソ上司のアンタだってよその部署に顔を出しては手広く事務所宴会をやってるじゃないか。管理職のアンタは残業代が出ないからひがんでるのか。


 いや、もっと別の理由だろう。


 クソ上司は、私の飲み相手が気に入らないのだ。四角顔のおじさんもおじさんの部署にいる面々も皆、クソ上司が敵視する勢力に属している。彼らと懇意にしていた私は「敵視すべき存在」となったのに違いない。

 こっちは敵味方関係なく、平穏に仕事をしたいだけなのに……。


 その後、私は「クソ上司の手駒」から雑用係に降格となり、クソ上司の下にいる三人の部下の補佐役をやることになった。

 しかし、この三人にとって、私はつい最近まで「クソ上司の息のかかった曲者」も同然だった。信頼関係などないどころかマイナスである。そうなった原因を作ったのもクソ上司。いつか絶対に成敗してやる。



 ふてくされて働いていると、桜並木がすっかり葉桜になった頃、四角顔のおじさんが声をかけてきた。このところ顔を出さないがどうしたのか、と聞いてくる。コトの次第をかいつまんで話すと、おじさんは心配げに眉をひそめた。


「それはやっかいだね。話を詳しく聞きたいけど、事務所内じゃそれもマズイんだろうねえ。場所を外に変えてみようか」


 私は、おじさんの気遣いに、「ご迷惑でなかったらお願いします」と答えた。



 四角顔のおじさんは私より十五歳ほど年上の家庭持ちだった。彼の自宅は、偶然にも私が一人で暮らすワンルームマンションからかなり近く、互いの最寄駅も一つしか違わなかった。

 そこで、職場に近い所より双方の自宅に近い場所で飲んだほうが便利だろう、ということになった。


 おじさんは、通勤経路に位置する街の庶民派居酒屋に私を連れて行った。お洒落なバーもそこそこあるエリアだったが、愚痴会合にシックなバーはもったいない。やけ酒を飲んでグダグダ言っても目立たない店のほうがありがたい。


 騒々しく盛り上がる客たちに囲まれて、我々二人はどんよりと酒を酌み交わした。おじさんは相変わらず疲れた顔で、「当分はクソ上司や先輩陣の言うことを無我の境地で聞くしかない」と語った。

 古ダヌキとまともに戦えば、向こうは人脈を総動員して封じ込めにかかってくる。依願退職の方向へ誘導されたら大変だ。今は大人しく鳴りを潜め、静かに対抗策を練る時期だ、と。


 普段なら「クソの言うことなんか聞けるかあ!」と暴れ出すところだが、ぽつぽつと語るおじさんの言葉はすんなりと心に入った。

 私は彼の教えに従い、暗黒生活に甘んじる決意をした。



 四角顔のおじさんは、その後も私のことを気にかけてくれた。廊下や給湯室で顔を合わせると、周囲を見回してを確認してから、「最近はどう?」と聞いてきた。職場では安心して話せないので、「何とかやってます」ぐらいの返事しかしなかったが、私はよほどしょぼくれた顔をしていたのだろう。初めて愚痴飲み会合をしてからひと月ほど経った頃、彼は第二回会合を提案してきた。


 二回目の会合場所は前回と同じ居酒屋だった。騒がしい店内で、私は暗黒の日々の愚痴をこぼした。おじさんは私と一緒になって怒ったり悲しそうな顔になったりした。そして、ぽつんと言った。


「前にここで飲んだ時、『黙って耐えろ』みたいなことを言っちゃって、それでよかったのかとずっと気になってて」


 おじさん、いい人だなあ。おじさんのアドバイスはきっと間違っていない。私、頑張るよ。


 不運な目に遭っても、自分を気にかけてくれる人がいると思うだけで、ずいぶんと気は楽になる。気持ちにわずかでもゆとりが生まれると、物事に寛容になれる。

 職場環境は相変わらずだったが、クソ上司のクソっぷりは以前ほど気にならなくなった。私をクソ上司の「飼い犬」と思っていたであろう三人の先輩たちも、徐々に警戒心を解いてくれたのか、互いにわだかまりなく話せるようになってきた。



 しばらくして、四角顔のおじさんは「最近、元気?」と声をかけてきた。そして、その後の状況を聞かせてほしいと言った。


 またもや同じ居酒屋で行われた三回目の会合は、やや明るい近況報告になった。

 おじさんは、仕事中に見聞きした騒動を面白おかしく話す私を楽しそうに見ていた。そして、ひとしきり食べて飲んだ後、「今日はお祝いしたい気分だねえ。そうだ、場所を変えて乾杯しようか」と言ってきた。


「前に事務所で飲んでた時、バーに行きたいとか言ってたでしょう。この近くにちょっと気になる店があるんだけど、付き合ってくれないかな」


 バーなんて久しぶりだ。ずっと残業代の出ない残業ばかりやっていたし。


 おじさんに連れられて行ったバーは、二十階ほどのビルの最上階にあった。

 照明を落とした店内。控えめに流れる音楽は、ピアノが旋律を奏でる静かなジャズ。窓際の席に座ると、眼下に大都会の街灯りが美しく輝いていた。


 四角顔のおじさんは、メニューをひととおり見て「全然分からないなあ……」と呟いた。あれ、おじさん、まさかバーは初めて?


「若い頃に二、三回行ったっきりだからねえ」


 素朴な見かけのおじさんは、本当に素朴だった。おじさんは、私と同じものにすると言った。

 私の好物といったら第4話に登場のマティーニだが、この強い酒はよほど気心知れた人間といる時だけに飲むと決めている。マティーニ以外で私の良く知るカクテルというと、ジュースっぽいものになりますが、いいですかね?


 結局、バー初心者のおじさんは、私と一緒にソルティ・ドッグを飲むことになった。グラスの縁についた塩を、彼は面白そうに眺めていた。



 バー会合の後ほどなくして、高校時代からの旧友と会う機会があった。

 彼女は、同じく第4話に登場する「ボージョレ・ヌーボーの仲」の人であり、「薄めのマティーニ」を注文した私をずっと笑いものにする奴である。その彼女に、四角顔のおじさんとの愚痴飲み会の話をすると、怪訝そうな言葉が返ってきた。


「それ、二人で行ってんでしょ? 大丈夫なの?」


 男女が二人で飲みに行ったら、世間一般には変な目で見られるのだろうか。


 そういえば、知人のアラサー独身女性が、「独身の男性後輩と二人で食事に行ったら翌日の職場が不快な噂で持ち切りになっていた」と話していたことがあった。

 普段から二人で組んで仕事をしていて、とある大きなプロジェクトを終えた時に打ち上げがてらその後輩君を食事に連れて行っただけのことらしいのだが、彼女は「性別が違うという理由で、残業も厭わず頑張ってくれた後輩を労うこともできないのか」とひどく嘆いていた。


 知人女性の場合、当事者二人は共に結婚適齢期の独身だったが、私のほうは事情が違う。殿方のほうは家庭もちのおっさんだ。童顔おチビとおっさん。誰がどう見てもロマンスの欠片もない。


 私の説明に、それでも旧友は顔をしかめた。周囲の目も問題だが、当事者同士が後々揉める危険はないのか、などと言う。

 それは絶対にありえない。年の離れた「愚痴仲間」だし、先方は家庭持ちだし、こちらが一目ぼれするようなダンディな殿方ではないし……。


 そう答えると、旧友は「ダンディおじさんだったらどうなってたんだ」とツッコミを入れてきた。


 仮にそうだとして、別にどうともなりませんよ。第5話で書いたとおり、ダンディな既婚おじさんは、罰が当たらないように眺めて愛でるだけである。


「メシ代と飲み代はいつも相手持ちなんでしょ?」

「うん。若いのと割り勘なんてできない、って言うから」

「高い店に連れて行かれるようになったら、気を付けたほうがいいよ」


 旧友の言葉は、後で思えば重大な忠告だった。しかし、私はその真意を正確に理解しないまま、適当に頷いてしまった。



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