不透明な青い深海(2)

 薄暗い照明の下で、私は同期に「ここ、マジに高そうだ」と目で訴えた。同期は「一杯だけ飲んで出よう」と囁いてきた。


 もはや、好きなカクテルを選んでいる場合ではない。カクテルの中でもソーダで薄めるタイプのものは比較的安いので、無駄なあがきかもしれないと思いつつ、そのテのものを注文した。


 優雅に立ち振る舞うバーテンダーの微笑みが、嫌に冷ややかに感じる。そのバーテンダーの後ろでゆらゆらと泳ぐ熱帯魚たちが、貧しい我々を嘲笑っているように見える。


 出てきたものに口を付けたが、すっかり焦りモードに入っているので、味などさっぱり分からない。

 この一杯、いくらなんでも二千円以上はしないよね……。



 同期と私が冷や汗を垂らしていると、突然バーテンダーが「お連れの方がお見えになりました」と声をかけてきた。

 何だ「連れ」って!


 我々二人が飛び上がらんばかりに驚いてバーテンダーが指し示すほうを見ると、同期の職場のボスがいた。


 ボスは、ヒグマのように縦横に大きく、童顔おチビの私とはまた別の意味で、熱帯魚の泳ぐバーには不釣り合いな外見をしている。しかし、当人は全く自覚がないようだった。


「なんか面白いトコで飲むって言ってたから来てみたんだけど、確かにココ、面白いな」


 どうやら同期は、職場を出る時に、私と深海チックなバーに行くとボスに話し、店の場所まで教えていたらしい。

 なんだかんだ言いつつ、同期も私もボスとはいい付き合いなので、いつもなら飛び入り大歓迎なのだが、今回ばかりはヤバイ。


 しかし、青一色の薄暗い照明の中、ボスには我々の青ざめた顔が見えないらしい。


「では、ラウンジの方にご案内いたしましょうか。そちらの方がお話しやすいでしょうから」


 洗練された営業トークに、ボスは「うむ」と頷く。バーテンダーは、飲みかけのカクテル二つを手早くトレイに乗せると、我々三人をエレベーターに案内した。

 ああ、マジにヤバイ。


 地下階から三階に上がり、エレベーターのドアが開くと、ホテルのラウンジのような空間が広がっていた。照明はかなり落としてあり、壁際にはやはり大きな水槽がある。椅子は大きな革張り。

 ここ、間違いなくチャージ料取りそうだぞ……。


 同期と私がますます冷や汗を垂らしている前で、ボスは、テーブルに置かれたメニューを開くこともなく、バーテンダーに「ウイスキーある?」と尋ねた。バーテンダーがいくつかの銘柄を口にすると、ボスはお気に入りらしいひとつを選び、「ダブルをロックで」と注文した。

 うお、高そう……。


 琥珀色のグラスを手にしたボスは、すっかり上機嫌になり、一人で仕事ネタをベラベラと喋り出した。彼の話はいつも示唆に富んでなかなか面白いのだが、今日ばかりは全く頭に入って来ない。

 はあ、へえ、と上の空で相槌を打っているうちに、同期と私のグラスは空いてしまった。


 ボスが飲み終わったら出よう、と思っていると、当のボスは我々のグラスが乾いているのに気付き、テーブルの上に置きっぱなしのメニューを見やった。


「ほれ、好きなものを頼みたまえ」

「い、いいい、いえその、今日は……」

「なんだお前ら。まだまだ序の口だろ? ごちそうしてやっから、好きなの頼め」


 確かに序の口の量しか飲んでいないが、飲み代はすでに序の口ではないような気がする。しかし、ここで断ったら、かえってボスの機嫌を損ねそうだしなあ……。


 取りあえず、メニューを広げる。やはり値段は書いていない。


 仕方なく、また炭酸割り系のカクテルを選ぶ。ほどなくして美しい色のグラスが来る。それを同期と私は緊張マックスで飲みつつ、ひたすらボスの話を聞く。

 もしチャージ料が時間単位で課金されるシステムだったらどうしよう、と思いながらも、話の尽きないボスを遮るわけにもいかない。


 ひとしきり喋ったボスは、中身のほとんどなくなったロックグラスを眺め、「次は何にするかな……」と呟いた。我々は電気ショックを受けたように硬直し、それから首をぶんぶんと振った。


「き、今日は、もう帰りましょう」

「ああ? お前らいつも午前様のくせに、何言ってんだ」

「あっ、私、お腹すいてきた。ラーメン食べたいですっ」


 同期の下世話な発言に、ボスは「しょーがねー奴だなあ」と大笑いした。そして、無事にここはお開きということになった。

 さすがは同期、常日頃一緒にいるボスを実に上手くコントロールするものだ。


 ああよかった、と安堵していると、手を軽く上げるボスに気付いたバーテンダーが明細をトレイに乗せてやってきた。ボスは財布からクレジットカードを出しつつ、明細をちらりと見た。

 そして、にわかに怒れるヒグマ顔になった。


「お前ら……。俺が来る前にどんだけ飲んだんだよ!」

「い、一杯だけですよ。二人で最初の一杯を飲んでるトコに、ボスがいらしたんですよっ」

「嘘つけっ。お前らが二杯ずつ飲んで、俺がダブル一杯で、三万二千なんて数字になるわけないだろうが!」


 ひいいいい! 寿司屋の四万二千円も衝撃的だったが、今回はドリンクのみの値段である。贅沢どころの騒ぎじゃない。


「ほ、ホントにうちらそんなに飲んでないですよっ」

「ここ、お魚がいて高級そうだし、チャージ料とかありそうだから……」


 必死で「無実」を訴える我々に、ボスはますます吠えかかった。


「じゃ何か? お前らさ、ハナっから高い店で飲むつもりで、俺をおびき寄せたってのか。俺の興味引いて、わざわざ行き先まで教えていくたあ、とんでもねー悪人だ!」

「そそそそ、それは誤解ですっ」

「何が誤解だよ。俺、まさに飛んで火に入るナントカじゃねーか!」

「めめめめ、滅相もないですっ」


 私と同期は一万円ずつ出してこの場を収めようと思ったが、すっかり怒り心頭のボスは、「もういいよ! お前ら、この借りは仕事でしっかり返してもらうからな! 覚えてろ!」と叫んで、席を立ってしまった。


 強面のヒグマのボスは、取りつく島もなく恐ろしかった。



 困ったなあ。とても仕事で一万円分を返す自信はない。ボスの直属の部下である同期はさらに深刻だ。

 

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