不透明な青い深海(3)

 深海チックなバーを出た同期と私は、怒れるボスの背中を見送りながら、今後の身の振り方を相談した。

 取りあえず、美味しい日本酒でも貢いでごまかすか。しかし、一升瓶を抱えて職場に行くのはかなり目立つ。あまり値が張るものを目上の人間に贈るのもかえって失礼になるだろうし……。


 結局、自腹ではあまり買わないような高級酒の四合瓶で勘弁してもらおう、ということになった。二人で割り勘すると、一人当たりの負担額はわずか三千円ほどである。

 とても金額には届かないが、足りない分は「誠意」という無形のものでご勘弁願うしかない。



 週明けの夜、仕事を終えた私は、吟醸酒の四合瓶を抱えて同期の職場に顔を出した。同期と二人で、「あのう……」とだけ言ってボスに酒瓶の入った箱を差し出すと、意味を理解したボスは、「遠慮なくもらっとくわ」とほくそ笑んだ。

 そして、「今度の金曜日は、ここでこいつを飲むぞ」と言って、部署の違う私にも再び顔を出しに来るようにと命じてきた。


 中身を改め、それを事務所の冷蔵庫にそそくさと入れるヒグマのボスは、さりげなく優しくて、ちょっとだけカッコ良かった。


 

 その後、仕事帰りに同期やヒグマのボスと飲む機会はしばらくなかった。図らずも万単位の酒代をバチが当たったのか、仕事が妙に忙しくなり、毎日夜の十時過ぎまで職場に拘束されるようになってしまったからである。


 職場を出るのが遅くなると、夕食も遅くなる。帰宅途中で食事を取ろうとするとどうしてもファストフードになりがちだが、毎日それでは胃がもたれる。

 ある日、何かあっさりしたものが食べたいなあ、と街をさまよっていると、立ち食い蕎麦屋が目にとまった。


 私は一人で食事をすることに何の抵抗感も覚えないタイプである。よく「ぼっち飯」がどうのこうのと話題になるが、何が問題なのかさっぱり分からない。好きな時に好きなものを、連れがいなければ一人で、食べに行くだけである。

 客層がほぼおっさんのみと思われる立ち食い蕎麦屋にはこれまで入った経験はなかったが、和風ファストフード店だと思えば、別に構える必要もないだろう。


 私は迷わず立ち食い蕎麦屋に入った。そして、券売機の傍に見たことのある大柄な男が立っているのを目撃した。


 ヒグマのボスだ。ちょうど五百円玉を券売機に入れたところらしい。


 ボスは、私に気が付くと「うん?」という顔をし、そして券売機から一歩下がった。


「好きなものを押したまえ」

「はい?」

「食わせてやっから、好きなの押せ」

「で、でも……」

「今回は上限が分かってるから、気が楽だわ」


 それを言われるとツライ。私は返す言葉も見つからず、オドオドとボスを見上げた。ボスは目で「早く押せ」と言ってくる。

 ううむ、この場合、遠慮してかけそばにするべきか。それじゃ、かえって失礼なのか……。


 迷った挙句、きつねそばにした。差額は八十円ほどだ。


 ボスは、小銭をつぎ足し、同じものを選んだ。


「こんなトコで夜飯食ってんのか」

「いえ、入るの初めてで、お店のシステムもよく分からなくて……」

「あ、そ。見てりゃ分かる」


 ボスは、私が手にしていた食券をむしり取ると、二枚まとめてカウンターにいる店員に渡した。そして、店の奥に行き、席を二つ取った。

 てっきり客は立って食べるのだと思っていたが、カウンタータイプの食事スペースがちゃんとある。


 私が初めての店の中を見回している間に、ボスは水とおしぼりと七味唐辛子まで持ってきてくれた。何だか、とんでもなくすいません。


 きつねそばは、私にはちょうど良いサイズだったが、ヒグマのボスにはかなり小さく見えた。彼がちゅるっと三回もやれば中身がなくなってしまいそうだ。

 本当はもっとトッピングをどかっと載せてご飯ものも食べたいのに、同期と私が図らずもしまったせいで、きつねそば一杯しか食べられない経済状態なんじゃないだろうか。

 ものすごく心配だが、そういうことを聞くのも失礼な気がするので、私も無言でちゅるっとやるしかない。


 ボスは、時折仕事の愚痴をこぼしながら、私が食べ終わるのをじっと待っていた。私が「ごちそうさまでした」と手を合わせると、「うむ」と言って立ちあがった。


「こういう店は、食べたらすぐ出るのがマナーだ。で、どっちの駅から帰るんだ?」


 立ち食いそば屋の近くには、地下鉄の駅が二つあった。いつも使っているほうの駅名を言うと、ボスは駅の入口まで送っていくと言った。


「この店の客層は安全だが、この周辺は、夜遅くなるとイマイチ治安が悪いらしいぞ」


 何と! そこまでは考えていなかった。

 一人で外食するのは気にならないが、一人で治安の悪いエリアを歩くのは極力避けたい。


「ここにソバ食いに来るのは、もう少し早い時間にしろ」

「そ、そうします……」


 私がハリネズミのように縮こまって頭を下げると、ボスは一瞬だけ笑顔になった。


 頼りになるヒグマのボスは、深海チックな高級バーにいる時よりも、つきみ一杯400円もしない立ち食い蕎麦屋にいる時のほうが、百倍もカッコ良かった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る