第10話 不透明な青い深海

不透明な青い深海(1)


 私が勤めていた職場には酒好きな人間がたくさんいたが、何しろ男社会だったので、女性の酒好きにはなかなか出会えなかった。アルコールに私が割り勘で抵抗なく酒の席を共にできる女性となると、その数はますます限られてしまう。

 そんな貴重な人材の一人と巡り合ったのは、勤め始めて二年以上が過ぎてからのことだった。とある仕事が縁で知り合った彼女は、偶然にも同期だった。採用枠が違っていたために、それまで顔を合わせる機会がなかったらしい。


 彼女は、ボケ全開の私とは雲泥の差のデキる奴だった。年単位での留学経験あり、外資系企業での勤務経験あり、さらには、背が高くて都会的な美人という、何もかもがそろった才女。

 そういう人がなぜ私などと懇意にしてくれたのか今でも不思議でならないのだが、その理由の一つにはやはり、私相手なら割り勘で抵抗なく酒が飲める、という思惑があったのだろうと思われる。彼女はまさに、ウワバミだった。


 経歴華やかな彼女は、当然私より数歳年上なのだが、酒という共通項の前に、経歴や年齢は関係ない。すぐに意気投合し、二人で「酒飲み同盟」を結成した。

 経験豊かな「同期」とタメ口で遠慮なく語り合う時間は、私にとっては実に有益で、何より至福のひとときだった。いくら飲んでもドン引きされたりしないし、共に「日付が変わってタクシー帰り」の前提で飲んでいるので、時間を気にすることもない。酒にどこまで資金を投じるかという価値観もだいたい一致していたので、飲み代が少し高くなっても、二人でヘラヘラ上機嫌になっているばかりである。



 しかし、そんなありがたいウワバミの同期には、一つだけ欠点があった。私と飲んだ次の日、大概、二日酔いで欠勤するのだ。


 部署の違う私がなぜそれを知っていたかというと、彼女が「二日酔い休み」をするたびに、彼女のボスから私のところに苦情の電話がかかってきたからである。

 私は使いっ走りでたびたびその同期のいる部署に顔を出していたため、そこのボスともすっかり顔馴染みになっていた。彼は、自分の部下が私と「酒飲み同盟」を結成していることも承知だった。ゆえに、同期が二日酔いで出てこない時の飲みの相手は間違いなく私であろう、と推察するのである。そして、その推察は百%当たっていた。


 同期と飲んだくれた翌日は、そのボスからの電話で一日が始まる。私が電話を取ると、彼は朝の挨拶もそこそこに、「昨日、うちの●●と飲んだんか」と、怒ったような口調で尋ねてくるのだ。


「はい、飲みました」

「何時まで?」

「一時にはお店を出たんですけど……」

「全く……。あいつ、今日、出て来てねーんだよ。いろいろやらせることあったのにさー。アンタ、あいつの同期なんだから、ちょっとは気を付けてくれなきゃ困るじゃないか」


 家で朝寝をしている同期に代わり、ちゃんと出勤した私が、なぜ自分の上司でもない人間から怒られなければならんのだ、と思わなくはないのだが、同期には日々何かと世話になっているので、黙ってそのボスのお小言を聞くのが毎回のパターンだった。




 ある日、私はネットでエラく洒落たバーを見つけた。職場から歩いて十分もかからない所にあるそのバーは、深海のイメージをコンセプトにしているとのことで、店のホームページには、青を基調とした店内の写真がいくつも掲載されていた。壁にはぐるりと水槽がはめ込まれ、バーカウンターでは、熱帯魚をバックにバーテンダーがシェイカーを振っている。

 何とカッコいい光景だろう。こんな世界に憧れていたんだ。膨らむ妄想の中で、童顔おチビな自分がその情景に相応しいか否かという視点は完全に置き去りにされている。


 さっそくウワバミの同期に連絡を入れた。さっそく、週末に飲みに行こうということになった。



 件のバーは、大通りから細い道を一本入った静かなエリアにあった。一人ではとても入れない神秘的な雰囲気の入り口から、同期と共に中を覗く。

 いかにも接客に手慣れた感じのバーテンダーが、すぐに我々に気付き、地下階へと案内してくれた。


 中に入ると、ホームページに掲載された写真と同じ空間が広がっていた。

 薄暗い青い照明。足元は深海の砂を模した白い砂利。壁には確かに長い水槽がはめ込まれており、その中を熱帯魚がゆったりと泳いでいる。まるで、イケメン俳優主演ドラマのごとき世界。

 なんて美しいんだ。経験豊かな同期も、私と一緒に息を飲んだ。


 艶っぽいバーテンダーの殿方に促されるまま、カウンター席に座った。カウンター側の壁にも、やはり水槽があり、熱帯魚が優雅にその身を揺らしている。

 色とりどりの美しい魚たちをバックに、バーテンダーは我々の前に静かにメニューを置いた。


 こんな幻想的な雰囲気の中で、どんなカクテルを飲んだらいいだろう。

 カルーアミルクなんて子供っぽいのは似合わない。炭酸系もイマイチかな。少し強めの大人の辛口でキメようか……。


 そんなことを思いながら、同期と私はメニューを覗いた。そして、共に戦慄した。


 様々なカクテルの名が並んだそのメニューには、値段が全く書かれていなかったのだ。いわゆる「時価」ってやつか? カクテルなのに?


 私は急に、とある寿司屋でヒドイ目にあったことを思い出した。

 やはり職場から徒歩圏内にあったその寿司屋は、ランチタイムに素晴らしい海鮮丼をリーズナブルな値段で出していたのだが、世間知らずだった私は、「なんて良心的な寿司屋だろう」と迂闊にも感動し、あろうことか「夜に食べに行く」という失態を犯してしまったのだ。


 その時は、海鮮丼を愛する者三人で、てっきりランチと同じものが食べられると期待して、夜の寿司屋に入った。店の人に言われるままにカウンター席に座り、妙に高級感溢れるお通しをいただいた。三人でビールを一本。ちょっとだけ「お造り」も。

 ビールが終わり、では海鮮丼、と思ったら、夜は出していないと言われてしまった。では仕方がない、ちょっと贅沢にお寿司を……。


 お店のお任せで美味しい寿司を腹八分目にいただき、会計をしたら、三人分で合計四万二千円と言われた。ちょっと待て。一人当たり一万四千円だぞ!


 薄給の身には実にホラーな体験だが、決して店がいるわけではない。都心の夜の食事処とはそういうものなのだ。

 後に件の寿司屋の兄さんから直接聞いたのだが、ランチは「客寄せ」目的で、赤字承知でいいものを無理して出しているのだという。我々はまんまとしまったのだ。



 都会の夜の恐ろしさを経験済みの私は、深海チックなバーの地下で、「緊急事態」が発生しつつあることを容易に察知した。ウワバミペアの同期と私がいつも通りに飲んだら、間違いなく大変なことになる。


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