第四章『来たる』2/3
地図にも乗らないような辺鄙な田舎の村に、少年はいた。優しくて朗らかな母親と、半分だけ血の繋がった二歳年下の妹と一緒にいた。
晴れの日は日向で昼寝をして、雨の日は部屋の中で本を読んで、一日二食のご飯を食べて、それから一緒の布団に潜り込んで寝た。お金はなかったけれど、心は豊かだった。
少年の家族は二人だけで、もう一人血の繋がらないその男がいたことにはいたけれど、ほとんど家に寄り付かず、ふらりとやってきては母を殴った。男が来た日は夜に家から追い出されて、よくわからないけれど、ロクでもないことが起きているのだろうということだけは幼い少年にもわかっていた。
そのうち、病で母親は死んだ。それが男の所為だと知ったのは、奴自身がそう言ったからだった。少年はその時やっと殺意とはどんなものなのかを理解した。
親なしで子供は生きてはいけないのだと男は言った。そうであるならば自分はもう死んでいないとおかしいと少年は思ったけれど、結局は拐われるような乱雑さで、少年とその妹は屋敷に連れていかれた。
大きな屋敷を放り込まれる。醜悪な匂いを見にまとった老婆に迎え入れられ、少年は露骨に顔を引きつらせた。老婆は妹をじろりと見ると、一度だけ満足そうににたりと口角を上げた。怯える妹を、大丈夫だよ、と労わりたくて少年は手を伸ばしたが、その手が届く前に少年は男によって地下牢に閉じ込められた。届かなかった手だけがただただ虚しかった。
晴れの日も雨の日も屋敷中の掃除や皿洗いなどの雑用をして、食事は残飯を一日一度。ボロ切れのような毛布にくるまって硬い床で眠りについた。時折打たれる鞭の痛みは嫌いだったけれど、一年も経つ頃にはそれすらも顔に出さなくなった。
少年は、ひたすらに妹を思った。今となっては唯一の血縁。半分だけれど自分と同じ血が流れている女の子。明るくて人懐っこくて少しおませなリトルレディ。
一年ぶりに見た妹は、美しく成長していた。美しい妹は綺麗な服を着て、うっすらと化粧をしていた。少年は自分とは天と地ほどにも差ができてしまった妹の様子を少し複雑な気持ちで眺めて、しかしそれでも嬉しく思っていた。妹が幸せならばそれで良かった。
その日に開かれたパーティで、少年は久しぶりに人前に出た。給仕としてだったが、ここ一年毎日同じ顔しか見ていなかった少年からすればパーティは十分興味深いものだった。年若い少年少女や、老若の男達。ここで、妹は結婚相手を探すのだと男は言った。
夜に、少年は妹が犯されているところを見た。「嫌だ」と泣き叫ぶ妹の上にのしかかる油ぎった肥えた老人を見た。妹の抵抗はそのうち止み、もの言わなくなった彼女を、見ていた。ギトギトした汗を流す老人が気持ちの悪い目で音を出さない妹を見た時に、少年は今日のパーティが結婚相手探しなどではなかったのだと気がついた。
そして、少年はようやく、ようやく、幸せなんてものはもうずっとどこにもなかったのだという現実に向き直った。少年は人間に対する思いやりを捨てた。
忍び込んだ書庫で、一冊の本を手に取った。まるで最初からそこにあるのをわかっていたかのような手際の良さで、少年は目的のページを見つけ出して、それ、を呼び出した。
後はもう心の赴くままに。少年は只管に西へ向かった。
そんな、とある少年の昔話。
***
「昔はまだ可愛げがあったのに……会って初っ端からしかめっ面って酷くね?」
「さぁ、一般的に酷いとされるものがお前にも適応されるとは思ってもみなかったが」
魔術の主である、黒づくめ__うねる黒髪、黒いファーコート、黒いシャツ、黒いズボン、黒い革靴__の男に声をかけられて、しかめた顔をそのままに答える。
男は苦笑して、首を捻った。
「データとしちゃ頭の中にはあるが、なぁんか変なんだよなぁお前のところだけ……ダブってるっつぅか……」
「で、た?」
「うんにゃあ、お気になさらず。んなことよりほいほい確認作業といこうか」
男の目付きが変わる。猫のようにつり上がった金色の目がギラリと輝き、カルステンを縫い止めた。
「呼び出したのは炎十字の悪魔。契約内容は術行使時の補助または援護。契約終了時期は契約者の死亡確認後。契約の報酬は契約者の死亡後の魂」
繰り返す人生の中何度となく行われた確認作業に懐かしさを覚えて、カルステンは目を細める。
「何か間違っているところは?」
「特に無いな」
「だよなぁ」
男は「あー……」と呻いて頭をかく。白いバンドでまとめられた癖っ毛がぼさぼさになっていくのを、カルステンは黙って見ていた。
「俺のデータ上じゃあ、クソガキ、てめぇもう死んでんだよ。だのに俺は報酬を貰った記憶はねぇし、気配辿ってこんなとこまで来てみりゃてめぇは生きてやがるし!」
お前ホントなんなんだ、と威嚇するように眉をひそめる男には悪いが、そこら辺の謎は現在進行形で探っている最中なのでカルステンにも返答のしようがない。
「お前、いつもは猫の姿だったろう」
言外に、何故人間の形を? と問うと、男はカルステンに呆れたような視線を向けて肩を落とした。
「話の流れぇ〜〜……ま、いいけどよ。確かにデータにゃお前と会う時はいつも猫の姿だったってあるし……俺もそっちのが都合が良くて好きだし。てめぇがこんなとこに居なきゃ俺だっていつも通りで行ってやったっての」
「場所の問題?」
「そう、ここ妙な障壁張ってあっからさ。通る時ヒトの形してる方が都合がいいんだよね」
障壁。その単語には心当たりがあった。入学時に説明されたこの学園の設備の一つ。侵入者を阻む為の固定式の法術をかけた媒体でエルツ島の周りをぐるっと一周囲んだ特大の妨害法術。デメリットとして、週に一度ほどのペースで媒体を取り替えなくてはならないが、その代わり中々の守備を誇る防御壁である。まぁ、まんまとこの男には破られているわけだが。
「固定式法術のあれか」
少しの自信を持って問うと、首を横に振られる。はて、他に何かあったろうか。
「そっちじゃなくて、警報の方。アレ人型のがまだ判定誤魔化せるかなって」
「ああ、成る程」
設備その二。学園内に張り巡らされた警報網。許可した者以外が触れると大きな音が学園中に鳴り響く法術でできた不可視の糸を操る
「いや、無理だと思うが」
「俺もちょっとそう思った」
どっちかと言うとまだ猫の姿の方が誤魔化しが効くような、と訝しげな表情を浮かべると、軽く笑って誤魔化される。気紛れ、ということで良いのだろうか。
「さて、」
男が言った。
「ぶっちゃけ形骸化してる気もするけどよ、一応やっとくわ」
何を、とカルステンが問う前に、胸ぐら__正確にはリボンを、だが__捕まれ引き寄せられた。急に狭くなった距離に、目が付いて行かず、男の顔が視界からズレる。
「よぉ、
とっさに合わせた先で光る金色の目。ゆっくりと持ち上げられた口角から覗く、鋭く尖った歯。高くも低くもない声。
「…………クロイツ」
カルステンはそっと眉をひそめて、男の名を呼ぶ。突然の行為に文句をつけようと口を開いた時、最近ではもうすっかり聴き慣れてしまった甘やかな声が過分に棘を含んで、静まり返った図書室に響く。
「そこで何をしているのか、教えてもらおうか」
__ねぇ、カルステン?
にこりと微笑むエンゲルハルトに、カルステンは一人頭を抱えた。
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