第22話 空と同じ明るさ

 縁側から吹き込んでくる乾いた風が、ばあちゃんのしまい忘れた風鈴を鳴らしている。花奈子かなこはしば漬け炒飯を食べる手を休めて、もうまた携帯をチェックをした。

「まだ何にも言ってこない。そろそろ着いてもおかしくないよね」

「今日はお祭りでお神輿が出てるから、道が混んでるんでしょう。それより先に、ごはん済ませないと、拓夢たくむくんに笑われるよ」

 ばあちゃんは呆れ顔でそう言うと、熱いほうじ茶の入ったお湯呑を置いた。花奈子は携帯をしまうと、少しだけ残っていた炒飯を平らげてお茶を飲んだ。

「別にそんなに慌てなくても、今日はここで晩御飯食べていくんだし、ちょっと落ち着きなさいよ。本当にそういうところがお母さん譲りなんだから」

「でも、明日は模擬テストだし、月曜からまた学校だし、ゆっくりできるの今日だけなんだもの。早くぬいぐるみ虫干ししないと」

「だったら先に並べておいたらいいでしょう」

「やだ。拓夢と一緒にやりたいの」

 ちょっとお行儀が悪いけれど、畳の上にそのまま仰向けになると、縁側の軒から青く澄んだ空が見える。昼間はまだ半袖で平気なほど、穏やかな十月の土曜日だ。

 辛くても頑張った新しい薬での治療がうまくいって、拓夢は半月前に退院した。今日はようやく、ずっと約束していた、ひろしちゃんのぬいぐるみ部屋を見せてあげることができるのだ。拓夢の反応はどんなだろうと想像すると、勝手に笑顔が浮かんできてしまう。

 自分の心の中もあの空と同じ明るさだ、そう思いながら首を廻らせると、目の端に黒いものが見えた。はっとして、急いで起き上がると、縁側にちょこんと顔を覗かせた黒猫と目が合う。

豆炭まめたん」と呼んでから、やっぱり「亜蘭あらん?」と呼び直してみる。猫は「ニャ」とだけ答え、首を伸ばして中を覗き込んでいる。

「上がってもいいよ。でも、そこの雑巾で足ふいてね」

 豆炭は言われた通り、縁側に置いてある雑巾の上で器用に足の裏を拭いてから上がってきた。初めて会った頃は子猫が少し大きくなった位だったのに、今はすっかり大人の猫で、そのせいなのか、もう膝にのって甘えてきたりしない。

 いつも少しだけ距離をおいて立ち止るけれど、撫でられるのは嫌いではないらしい。花奈子は手を伸ばし、その滑らかな毛並みを頭のてっぺんから尻尾の先まで、何度か撫でてやった。

「今日はここにお父さんと拓夢が遊びに来るんだよ。幸江ゆきえママはお友達の結婚式なの」

「ニャ」

「親戚やお友達の、結婚式とか行ったことある?」

「ニャ」

 きっと、今日は豆炭の目と耳を借りて亜蘭が来ている。はっきり見分ける方法となると難しいけれど、聞き分けとか行儀のよさで大体察しがつく。

 いつもはたいてい夜、部屋で問題集なんかやっていると、彼と豆炭は窓辺に遊びにくる。そのまま入れてあげると、スタンドの脇に置物みたいに座って、花奈子が勉強するのをじっと見ているのだ。

 美蘭にはしょっちゅう馬鹿にされている亜蘭だけれど、実は理数系と英語がけっこう得意らしくて、花奈子が答えに困っていると「ニャ」と正解を指さしてくれたりする。でも、猫の前足は丸っこいから、どの答えをさしているのかはっきり判らない。「これ?」と指さしてみると、またその上から「ニャ」と押さえてきたりして、しばらく指相撲みたいにやりあって、「もう、邪魔しないで」と怒るつもりが、つい笑ってしまう。

 たぶん、亜蘭は寂しいからこんなによく遊びに来るのだ。

 あの日、ツゴモリに目をもらってからしばらくして、美蘭みらんは「個人的な修学旅行」とだけ言い残してロシアのカムチャツカへ旅立ってしまった。亜蘭は置いてけぼりで、きっと生まれて初めてこんなに長い間、美蘭と離ればなれ。

 美蘭がどうして単独行動で、ロシアで何をしているのかは全くわからないのだけれど、メッセージだけはたまに送ってくる。そこには「猫と遊んでばっかりいちゃ駄目だよ」なんて事が書いてあったりする。

「本格的に寒くなる前に帰るね。でもこっちは露天風呂だらけで、帰りたくないわ」と、写真も送ってくるんだけれど、どう見てもただの川原とか岩場に湯気が立っているだけで、お風呂とは言い難い場所ばかり。呑気に入浴していたら熊に襲われそうな、大自然のど真ん中の風景だった。でも彼女なら、真夜中でも全然怖がらずに、降るような星空の下で温泉を満喫しそうだ。

 そして亜蘭は連絡なんて全然くれない。ただ、豆炭の身体を借りて遊びに来るだけで、「一人で毎日何してるの?」と尋ねても「ニャ」としか返事しないのだ。

 いつもそうやって、何となく花奈子の受験勉強につきあい、そろそろ寝ようかな、という頃になるとまた窓から帰ってゆく。いくら退屈してるからって、何が面白いんだろう。東京にはもっと楽しいことがいっぱいあるはずなのに、男の子って本当によく判らない。

 

 でもまあ、花奈子の受験勉強を実際に支えているのはお兄ちゃんだった。

 あの日、美蘭たちに送ってもらって、二人で寛ちゃんのアパートに戻り、花奈子だけが家に帰った。お兄ちゃんはそのまま残って寛ちゃんの東北旅行につきあい、その後も居候を続けて、九月からまた大学に通い始めた。

 といっても授業に出てるのは週二日ぐらいで、あとの時間はネットの学習塾で、不登校の子に勉強を教えるボランティアをしている。そのついでに、花奈子の勉強もみてくれているのだ。

 たぶん今までで一番長く、お兄ちゃんとしゃべっていると思うのだけれど、それがネット経由でカメラ越しというのは何だか不思議な感じだった。家の事やなんかだと、お互いに何をどう話せばいいのか判らないのに、勉強の質問や説明だったら、いくらでも普通に話すことができた。

 そしていつの間にか、時々ではあるけれど、勉強以外のことも話題にするようになっていた。そんな時には豆炭と亜蘭は絶対に現れなくて、でも、たまに寛ちゃんが乱入してくる。ともあれ、授業はけっこう順調で、模試の成績も目に見えて上がってきた。

 寛ちゃんは近いうちにもっと広い部屋に引っ越して、お兄ちゃんが卒業するまで一緒に住むつもりらしい。でもそれじゃ葛西かさいさんが黙ってないだろうな、と花奈子は気がかりだった。それとなくお兄ちゃんに探りを入れてみても、そんな女の人知らないなあ、なんて言うだけで、もしかして寛ちゃんは、ふられてしまったのかもしれない。


「ねえ、拓夢が来たら、撫でさせてあげていい?乱暴する子じゃないから」

 そう言って抱き上げようとしても、豆炭はするりと腕から抜け出して、少し離れたところでこちらを見ている。

「もう!私のこと嫌いなの?」

「ニャ」

「だったらどうして遊びにくるの?」

「ニャ」

 もういいや、と思ってお膳に向き直り、ばあちゃんが出してくれたベビーカステラを頬張っていると、柔らかい尻尾の先が肘のあたりを行ったり来たりする。でも腹が立つからわざと知らんぷりして、ぬいぐるみ部屋に入った時の、拓夢の反応を想像してみる。

 大喜びで、すごくはしゃいで、声をあげて飛びついたりするだろうか。でも、もしかしたら、自動車の方がいい、なんて言って、あんまり喜ばないかもしれない。そう、男の子って、やっぱりよく判らない。

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東京都人並区 双峰祥子 @nyanpokorin

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