第21話 これが私の答え

「わざわざこんなに遠くまでお越し下さるとは光栄だわ。でも、次は電話を先に頂戴ね。私けっこう夜が早いのよ」

 部屋に入ってきた八千代やちよさまはそう言って、床に座っている美蘭を見下ろした。

「ほんと、結構なお屋敷ね。これも信者さんから巻き上げたの?」と、美蘭みらんは笑顔を浮かべる。八千代さまは何も答えず、そばにある椅子にゆっくりと腰を下ろした。すかさず、脇の小さなテーブルに、ハーブティーのような色の薄いお茶が入ったカップとソーサーが出される。

 八千代さまは昼間とは違って、髪は結わずにまとめ、ラベンダーのターバンで巻いている。お化粧はしていないけれど、眉だけが妙にくっきりとアーチを描いていて、肌はつやつやと光っている。ターバンと同じ色のガウンを羽織り、その襟元には真紅のレースがのぞいていた。足元はバラが刺繍されたピンクのルームシューズだ。

「それで?こちらにお見えになったのはどういうご用件?こんな物騒なものまで持って」と言いながら、彼女はそばにある小さなテーブルの上から何かを手にとった。美蘭の短刀だ。何度か鞘から抜こうとしたけれど、うまくいかない。

「そんなに物騒なもんじゃないわよ。私にしか抜けないんだから」と美蘭が言うと、八千代さまは「なんとかに刃物って言うものねえ。恐ろしいこと」と大げさに怖がって、それをテーブルに戻した。

「さて、もう十分に警察を呼べる条件は揃っているけれど、通報していいかしら?」

「いいけど、捕まったら色々しゃべっちゃうかも。この人たち、信者さん食い物にして臓器売買してるんですけど、なんて」

 八千代さまは笑うように口角を上げてみせたけれど、少しも楽しそうではない声で「面白い話をしてあげましょうか」と言った。

「うちがお世話になってるお医者様がおっしゃったのよ。十年ほど昔に、初めて非合法の移植手術をしましたって。なんでも、母親に毒の入ったミルクを飲まされた子がいたらしいの。自分で産んだ子なのにそんな事をするなんて、母親にとってさぞかし嫌な、憎らしい子供だったんでしょうね。男の子と女の子の双子で、小学生だったんですってよ。女の子はずる賢くて、ミルクを捨ててしまったけれど、男の子は素直に飲んでしまったらしいわ」

 八千代さまはテーブルに出されていたカップとソーサーを手にとり、ハーブティーをおいしそうに飲んだ。美蘭は表情も変えずにそれを見上げている。

「毒はゆっくりと男の子の身体に回って、周りの人が気づいた時にはもう手遅れだった。腎臓をやられてしまったのよ。その子たちの親戚は、お金は持ってるくせにとにかく自堕落で、警察沙汰は面倒だから事件は秘密にして、このまま死なせてしまおうという話になったの。ところが、無事だった方の女の子が、自分の腎臓を分けてあげてって、泣いてお願いしたんですって。何だってするから、弟を助けてあげて。でないとお母さんのこと、警察に全部ばらすからって。子供のくせに、本当にずる賢いのね。彼女があんまりうるさいものだから、親戚も面倒になって、先生にこっそり手術をして下さるように頼んだの。その代わり、女の子には大人になったら一族のために働いて、汚いお金をたんまり稼ぐようにって、約束させたらしいわよ。何ていったかしら、その妖しげな一族。たしか、夜久野やくのって名字だったと思うんだけれど、あちこちで耳にするのよね。あなた、聞いたことないかしら?」

「ないわよ。それに、そんなこまっしゃくれた子供の話なんて、聞いてて吐き気がするわ」

「あらそう。でも、この物騒なものを取り上げた信徒が、あなたにの身体には手術したような傷跡があったと言っていたけれどね」と、八千代さまは美蘭の短刀を再び手にすると、こつこつとテーブルを叩いた。

「タトゥー消そうとして失敗したの。彼氏の名前なんて、入れるもんじゃないわね」

「何とでもお言い。どのみちあんたは毒蛇だ。でもまあ、その毒は一級品ね。ここはひとつ考えを変えてみない?お金がほしいなら、うちだって持ってないわけじゃないのよ。鬱陶しい親類縁者に義理立てしなくてもいいように、話をつけてあげましょうか?蛇遣いもなかなか面白そうだからね」

「悪いけど、何の話してるんだかさっぱり判んないわ」

 美蘭は露骨にうんざりした表情を浮かべた。

「そう」と、八千代さまは眉を上げる。

「まあいいわ。あなたくらいの器量なら、売り飛ばす先は幾らでもあるから。私から見ると、ちょっと痩せすぎだけれど、殿方の好みなんて人それぞれだものね。旅行は好き?遠くまで連れて行ってあげる。いろんな男の人とお友達になれるわよ」

「ありがたいけど」

 美蘭はゆっくりと身体を起こし、「私は自分ちで昼寝してるのが一番好きなの」と言いながら腰を浮かせ、いきなり八千代さまの脇にある小さなテーブルの脚をつかむと、大きく振り上げて窓に投げつけた。

「こいつ!」

 ガラスの割れる音とほぼ同時に、美蘭のすぐ脇にいた男の人が彼女を押さえつけ、右腕を後ろに捩じりあげた。咄嗟に立ち上がりかけた八千代さまは、また椅子に腰を下ろすと、自分を落ちつかせようとするかのように、深呼吸して微笑みを浮かべた。

「あなた、正義の味方になってみたいの?弟を助けてくれたお医者様を警察に売ってでも?残念だけど、何をしたって薄汚れた世界からは出られないからね」

 美蘭はまだ腕を捩じられた体勢のまま、八千代さまを睨んだ。

「正義なんて、私には関係ない。ただ、あんたが私の友達とその兄さんにしたのと同じ事を返してやろうと思ってるだけ」

「私が何をしたというの?住む場所を用意して、食事も出して、悩みだって十分に聞いてあげたのに。あんたと違って、人の役に立ちたいという清らかな志のある人だから、心を尽くしてお手伝いしたのよ」

「よく言う…」

 美蘭の言葉が終わらないうちに、彼女の腕はさらにきつく捩じられ、その口からは苦しそうな息が漏れた。

「美蘭!」

 花奈子かなこはツゴモリの背で身体を強張らせていた。さっきから心臓は激しく打ち続け、背筋には冷たい汗が流れている。そしてわんわんという耳鳴りが頭を包み込んでいた。

「ツゴモリ、美蘭を助けてあげて。あのままじゃ骨が折れちゃう」

 必死でそう頼んでも、ツゴモリはじっとしていた。

「まあ見ていろ、あの娘が本当に毒蛇かどうか」

 彼が落ち着いた口調でそう言った時、鋭い悲鳴が響いた。最初は一人、そして次々に。部屋にいた十人ほどの人たちは、狂ったように逃げ惑っていた。

 何だろう、そう思った花奈子の頬をかすめたのはスズメバチだった。よく見ると、割れた窓からまるで煙のようにスズメバチの群れが入り込んでくる。耳鳴りだと思ったのはその羽音だったのだ。

 けれど本当に恐ろしいのはスズメバチよりも、我を忘れて逃げ惑う人々の姿と、怯えきった獣のような叫び声だ。他の人を突き飛ばし、逃げ場を求めてやみくもに走り回る人もいれば、凍りついたように突っ立って、悲鳴だけを繰り返している人もいる。

 美蘭の腕をつかんでいた男の人も、耐えられずに腕で顔を覆い、椅子の下に隠れようとした。花奈子はいつの間にか自分が、まるで氷水につかったみたいに震えていることに気づいた。

 正気を失った群舞の只中で、美蘭は一人、白い顔に冷たい笑いを浮かべて立ち上がり、絨毯の上に丸く縮こまっている八千代さまを見下ろしている。ようやく、一人が部屋のドアを開けて外に出ると、他の人たちも我先にとその後に続いたけれど、誰一人として八千代さまの方を振り返ることはなかった。

 他の人たちがいなくなった途端、全てのスズメバチは八千代さまの方に向かった。頭を抱えて縮こまっている彼女の上で、群れ全体が黒とオレンジのモザイクでできた一つの生き物のように集まり、形を変えながら飛び続けた。

「あんたが何もしてないと言うなら、私だって何もしていないわ。いい?これから百日の間、あんたが外に出ようとすれば、必ずこの蜂たちが現れるだろう。運が悪ければ刺されるかもしれないね。何度刺されるかはお楽しみ。そして夜眠ろうとすれば、この蜂たちの羽音があんたの耳について離れないだろう。きっといい夢が見られるよ。もし眠れたら、の話だけれど」

 それだけ言うと、美蘭は絨毯の上に転がっていた短刀を拾い上げ、確かめるようにほんの少し鞘から出すとまた納めて腰に差した。そして悠然とした足取りで部屋を出て行く。

 花奈子は慌ててツゴモリに「一緒に行こう」と声をかけた。彼は「どうだ、恐ろしい娘だろう、あれは」とだけ言うと、シャンデリアから音もたてずに跳び下りた。

 まだ丸く縮こまったままの八千代さまに気づかれることもなく、ツゴモリと花奈子は開けっ放しのドアを抜けて廊下に出た。美蘭はここまで来た道筋を憶えているのか、迷うことなく足早に歩いてゆく。花奈子はツゴモリの背中を下りると、走って追いついた。

「美蘭、腕は大丈夫?」

 彼女はちらりと振り向くと、「あんなの大したことないわ」と言った。暗く静まり返った廊下には誰もいない。さっき逃げていった人たちはどこにいるのだろうと思いながら、花奈子は美蘭に寄り添って歩いてゆく。やがて見覚えのある場所に来て、その突き当りにある階段を下りてドアを開けると、半地下の広いガレージに出た。

亜蘭あらんの奴、ちゃんと靴拾っといてくれたかしら。花奈子ったら、サンダル持って来なかったの?」

 自分も裸足で歩きだしながら、美蘭は呆れたように言った。

 ガレージに続くアスファルトの地面は、ひんやりして気持ちよかった。目の前には二車線の緩くカーブした道路が通り、その向こうは暗い林だ。ガレージの入り口にあるセンサーライトを除けば、あとは道路沿いに所々、思い出したように青白い街灯が立っているだけの寂しい風景だった。右手の方から微かに波の音が聞こえてきて、美蘭はそちらに向かって歩いてゆく。

「どう?私が毒蛇だってあの女が言った意味、判ったでしょ?あれよりずっと恐ろしい事だって、私は平気でやるよ」

 まっすぐ前を向いたまま、美蘭は低い声でそう言った。花奈子はつい先ほどの、全身が凍りつくような感覚を思い出して唇を噛んだ。

「それでも、私は、美蘭のことが好きだよ」

 そう、さっきの出来事だけで美蘭を嫌いになるなんて、不可能だった。スズメバチがとても獰猛なのと同時に、美しくて魅力的なのと同じ事じゃないだろうか。毒蛇は悪いから猛毒を持っているわけじゃない。

 手を伸ばし、さっきまで強く捩じられていた美蘭の白い腕に触れ、その手に指を添わせてみる。冷たい指先がそっと握り返してきて、花奈子の胸の奥に暖かいものが灯った。

「お兄さまは少しの間眠ってるけど、ちゃんと目を覚ますからね。おじさまのところに戻って、これからどうするか相談するといいわ。家には帰りたくないみたいだから」

「どうして帰りたくないの?何か言ってた?」

「さあね。でもいいんじゃない?どうせ一生部屋にこもって暮らすなんて、無理な話だし」

 相変わらず突き放したような美蘭の言葉に、何故だか花奈子はほっとしていた。美蘭は軽くため息をつくと、道端に血の混じった唾を吐いた。

「口の中、怪我したの?唇も、痛むでしょ?」

「大丈夫よ。あのひとがディープキスしてくれたらすぐ治るんだけどね」

 後ろにいるツゴモリをちらりと見て、美蘭はくすりと笑った。彼は何も答えず、静かについてくる。

「ツゴモリ」

 花奈子は立ち止り、彼に声をかけた。

「いいよ、今の冗談だから。タバスコでも塗っとけばすぐ治るわよ」と、美蘭は先を急ごうとした。

「違うよ。美蘭はツゴモリの力を借りたいんでしょう?仕事をするのに、ツゴモリに助けてほしいって言ったよね。だからそうしてあげてほしいの。さっきみたいに美蘭が辛い目に遭わないように、守ってあげて」

「そうすれば、私はもう二度とお前の傍に仕えることは叶わなくなるが、それでよいのだな」

 花奈子は黙って頷いた。本当を言えば、ツゴモリといれば何が起きたって安心だろうけど、誰よりもその助けが必要なのは美蘭に違いない。彼女は何も言わず、じっとツゴモリの方を見ていた。

「いいだろう。花奈子、お前の願いは聞き入れられた。ただし、この娘は私の封印を解いた者ではない。だから彼女に仕えるには取引が必要だ。娘よ、お前にできるか?」

 こんどは美蘭が頷く番だ。

「では、私はお前の身体の一部を食らわねばならない。お前自身がその手で切り取って私に差し出すのだ。いいか、指の一本や二本といったつまらぬ物では駄目だぞ。肉を裂き、身体の中から取り出してみせるのだ」

 美蘭の白い喉がごくりと唾を呑み込む。

「さすが、面白いこと言うわね」

「一刻の猶予もならない。今すぐだ」

「待って、そんなのひどいよ」

 花奈子は慌てて二人の間に割って入った。今にも吐きそうに胸がざわいている。

「どうしてそんな残酷な命令をするの?お願いだから、何も言わずに美蘭を助けてあげて」

「お前たち人間は、自分の感じるままに私を優しいだとか残酷だとか、好きなように品定めしているが、私は常に変わらずにある。己の心の揺らぎを私に投げかけるのは誤りというものだ」

「ツゴモリ…」

 どうして判ってくれないのだろう。まるで岩か何か、心のないものを相手に話しているようだ。美蘭はただ黙って何か考えているようだった。その時、誰かがこちらへ駆けてくる足音がした。

「美蘭!花奈子!」そう呼びかけているのは亜蘭だった。美蘭はちらりとその姿を見ると「馬鹿、来るな!」と叫んだ。それでも彼は駆けてくる。ツゴモリは首をおこすと「これはまた、いい頃合いに現れたな、小僧」と言った。

 ようやく何かおかしいと気づいたのか、亜蘭は走るのをやめ、そろそろとこちらへ近づいてくると、美蘭とツゴモリを交互に見た。

「まさに私の欲するものにうってつけではないか。この小僧はお前が腹を裂いて与えた臓腑によって、今日まで生きながらえた。言い換えれば、今日この時のために、お前の臓腑を預かっていたという事だろう。この小僧の命は幼い頃に尽きていたのだ。さあ、その刃で奴の腹を裂いてお前の臓腑を取戻し、私に捧げるがよい」

「やめて、ツゴモリ!お願いだからそんな事言わないで!私にできる事だったら何でもするから!」

 花奈子はツゴモリの首筋に顔を埋めたまま叫び、揺さぶったけれど、彼は根が生えてしまったかのように動かない。亜蘭は何か、はっとしたような顔でツゴモリの言葉を聞き、美蘭に向かって「この腎臓、車にはねられて死んだ子のだって、言ってたよね」と尋ねた。

「そうに決まってんだろ」

 美蘭は腕組みをして、彼とは目を合わせずに答える。

「あの時美蘭も入院してたけど、本当に食あたりだったの?」

「そうだよ。私はあいつに、腐った魚を食べさせられたんだから」

「裸が嫌いなのは、貧乳コンプレックスのせいだよね?」

「うるさいな!足りない頭で色々考えるんじゃないわよ!」と叫ぶなり、美蘭は背中に腕を回して短刀を抜いた。何だか目が座っていて恐ろしく、花奈子は「こんな時にきょうだい喧嘩しないで!」と大声でわめいていた。

 美蘭は「ごめん、ちょっと静かにしてて」と言って左手を天に伸ばし、その指先に一匹のスズメバチを捉えると息を吹きかけて飛ばした。それはまっすぐに花奈子めがけて飛んでくると、素早く頬をかすめた。

 一瞬、ちくりとした痛みが走り、気がつくと全身が動かなくなっていた。目は見えるし、耳だって聞こえるのに、声を出すこともできない。

 そのわずかな隙をついて、亜蘭は美蘭が短刀を持っている腕をつかみ、彼女のTシャツを捲り上げようとした。

「何すんだこの変態!」

 美蘭は何とか逃れようとしたけれど、亜蘭の方が背が高いし、力も強い。美蘭はバランスを失って地面に倒れ、亜蘭に押さえつけられてしまった。彼の手で露わになった彼女の白い素肌に、何かの印のような傷跡があるのは、花奈子の目にも明らかだった。

「この野郎ぉ!」

 美蘭はお腹の底から絞り出すような唸り声を上げると身をよじり、すごい勢いで亜蘭の股間を蹴り上げた。彼は声も出せないほど苦しそうに身体を丸めて、その場に蹲ってしまった。

「うるさいうるさいうるさいんだよこの馬鹿が!」

 美蘭の髪が逆立っているのは、地面に倒れてもみ合っていたからではないように思えた。彼女は亜蘭の事など気にもかけない様子で立ち上がると、ツゴモリに向き直った。

「待たせて悪いわね。約束はちゃんと守るよ。これが私の答えだから、受け取って」

 そう言うと、彼女は自分の身体に向けて短刀を両手でしっかりと持ち、腕をまっすぐに伸ばした。

 やめて!美蘭!

 花奈子がどれだけ大声で叫ぼうとしても、喉からは空気が漏れてゆくだけだった。次の瞬間、美蘭はその短刀を自分の左目に突き立てていた。

「さあ、食べるがいい」

 彼女はそれだけ言うと、膝から地面に崩れ落ちた。見る間にその白い横顔の下に血溜りが広がり、力を失った指は短刀の柄を離れた。その瞬間、花奈子の身体には自由が戻ってきた。

「美蘭!お願い美蘭、しっかりして!」

 駆け寄って、いくら呼びかけても返事はない。早く救急車を呼ばないと、このままでは死んでしまう。けれど携帯電話は置いてきたままだし、亜蘭はまだ地面に蹲っている。気がつくとツゴモリがすぐそばまで来ていた。

「ツゴモリ、ひどいよ。どうして美蘭がこんな目に遭わなきゃいけないの?お願いだから治してあげて。また目が見えるようにしてあげて」

 花奈子は美蘭の血で赤く染まった両手を差し伸べると、倒れ込むようにしてツゴモリの太い首を抱いた。その身体からじかに、波の音のように低く、深い声が響いてくる。

「その娘の目は自分で思い定めて傷つけたのだから、元には戻らない。それに、身体から取り出すこともできなかったのだから、私か彼女に仕えることも叶わない。だが花奈子、お前と、そこの情けない小僧に免じて、私の片方の目をこの娘に貸し与えよう。私はもうこの姿をとどめることはできなくなるが、それもまた物事の流れゆく定め。いつの世も人は愚かしく、娘たちは恐れ知らずだ」


「明るくなってきたね」

 亜蘭が辺りを見回してぽつりと言った。花奈子はまだ気を失っている美蘭の頭を膝にのせたまま、ほの明るく藍色を帯びた空を見上げた。

「誰か通る前に、ここを離れた方がいいよ。僕が背負っていくから」

「でも、無理に動かさない方がいいんじゃない?気がつくまで待ってあげようよ」

 もうずいぶん長い時間が経ったような気もするし、ほんの二、三分前のようにも思える。気がつくと花奈子は道端に倒れていて、すぐ傍には美蘭が横たわっていた。慌てて抱き起すと、彼女は傷ひとつない姿をしていて、血まみれだった花奈子の手もきれいになっていた。そしてツゴモリの姿は消えてしまっていた。

「別に、眠ってるだけじゃないかな」

 少し離れた場所に膝を抱えて座っている亜蘭は、首を伸ばして美蘭の様子をうかがっている。そう言う自分は大丈夫なのかな、と花奈子は少し心配だったけれど、蹴られた場所が場所だけに、わざわざ聞くのもためらわれた。

「でもさ、さっきみたいに取っ組み合いになったの、久しぶりなんだけど、美蘭、なんだか前より弱くなってた。どうしちゃったんだろう」

「それって、前より亜蘭が強くなったんじゃない?男の子だし」

 けっこう当たり前だと思えることを花奈子に指摘されて、亜蘭はびっくりしたような顔になった。そして何も答えずに、草むらから拾い上げた美蘭の短刀を指先で弄びつづけた。

 花奈子も黙ったまま、美蘭の柔らかな髪を指で梳きながら、藍色の空に吸い込まれるように消えてゆく星たちを見上げる。ゆるやかに低く繰り返す遠い波の音に、なんだか頭がぼんやりとしてきた頃、亜蘭がふいに口を開いた。

「病院で手術してもらった時、僕ほとんど死にかけてらしいよ。何日も意識が戻らなかったって。自分じゃ判らないけどね。それで、やっと気がついたら、美蘭がベッドの脇の、すぐ目の前でこっちを見てたんだ。いっぱい涙を流しながら、よかった、って、それだけ言った。

 このごろはいつもひどい事ばっかり言うし、威張ってるし、身勝手で乱暴だし、もう出てってやろうとか、絶縁してやるとか何度も思うんだけど、どうしてもあの時のことが忘れられないんだ。

 美蘭ってさ、あれから一度も泣いたことないんだよ。少なくとも僕の前では。そりゃ、たまにお寿司のわさびがツーンとなって泣いてるけど、そういうのって、違うよね?」

「そうね」と頷いて、花奈子は美蘭の長い睫毛の端に、朝露みたいな涙が溜まってゆくのを見つめていた。そうするうちに自分も目の前がぼんやりしてきて、涙のしずくが美蘭の白い頬にぽたりと落ちた。

 猫が喉を鳴らすような、低いうめき声を漏らして、美蘭は寝返りを打とうとした。「美蘭?美蘭、大丈夫?」と声をかけると、「ん、だい、じょうぶ」という返事があって、起き上がろうとする。しかしいきなり「わ!眩しい!」と悲鳴を上げて、身体を丸めてしまった。

「目を開けない方がいいよ。怪我をしたの、憶えてる?亜蘭が背負ってくれるから、そのまま動かないで」

 花奈子は慌てて美蘭の背中をさすった。なのに彼女は「いや、別に痛いとかじゃないし」と言いながら、地面に両手をついて身体を起こした。そしてまだひどく眩しそうに何度か瞬きを繰り返してから、ゆっくりと目を開いた。

 本当に大丈夫なんだろうかと、花奈子は食い入るように彼女の顔を見ていたけれど、次の瞬間、思わず声をあげていた。

「ツゴモリの目だ」

 まだ少し心もとない感じで開かれた美蘭の左目は透き通るようなレモンイエローに変わっていた。でも幾度かまばたきを繰り返す内に、それは右の目と同じ深さに染まっていった。

「見える?ちゃんと私の顔が見える?」一生懸命そう繰り返すと、美蘭は少しだけ笑顔になって「花奈子、また泣いてる」と言った。それから彼女は立ち上がろうとしたけれど、「おっと」と呟いて何か胸元から転がり落ちたものを拾い上げた。

「これは花奈子のだね」

 そう言って手渡されたのは、ちょうど半分に割れた、レモンイエローの玉だった。

「私が死んだら、あのひとはまた花奈子のところに戻ってくる。今夜かもしれないし、まだ何年も先かもしれないけど」

「ずっとずっと、百年ぐらい先の話だよ」

「まあ私もそんなに粘る気ないけどさ」と言って、美蘭は立ち上がった。いつの間にか亜蘭が傍に来ていて、彼の差し出した短刀をいつも通り身に着けると、美蘭は「お腹すいたんだけど」と言った。

「あんた、コンビニでおにぎりとか買っといてくれなかったの?」

「買ってない」

「私が起きるの、ただぼーっと待ってたわけ?」

「まあ、そうかな」

「目が覚めたら何か食べたくなるに決まってるじゃない!ほんと気が利かないんだから。いいよもう、ひかり亭の牛丼で。ここ来る途中にあったよね?せっかく海辺に来てるのに牛丼なんてどうかと思うけど、しょうがないわ」 

 ひとしきり文句を言い終えると、美蘭はすたすたと歩き始めた。一瞬ぽかんとして、それから花奈子は慌てて彼女を追いかける。その後ろから亜蘭が「牛丼だって、朝から」とため息混じりに続いたけれど、その足音はなんだか弾んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る