第20話 どんなお母さん

 大急ぎでパジャマからブラウスとジーンズに着替えて、花奈子かなこはベッドの脇にある窓を開け、身を乗り出した。

 裏の墓地からは、ひんやりした夜風が漂ってくる。サンダルは玄関だから裸足だけれど、何とかなるだろう。

「まだひろしちゃんは隣の部屋で起きてるから、ここから出よう」

振り向いてそう声をかけても、ツゴモリは「まず私に乗れ」と言ったきり、動こうともしない。

「え?今ここで?それじゃ窓から出られないよ?」

「時間がない」

 ぴしりとそう言われて、花奈子はおそるおそるツゴモリの大きな背中にまたがった。

「そう、足は曲げて、両の腕で固くつかまり、身は低く伏せておくのだ。私は速く駆けるからな」

 花奈子は言われた通り、身体を伏せた。顎から鼻のあたりまでツゴモリの流れる模様の中に沈んでしまったけれど、息苦しくはない。ツゴモリはゆっくりと身体の向きを変えたかと思うと、床すれすれまで沈み込み、いきなり姿見に向かって大きく跳躍した。

 鏡が割れる!と思ったのは一瞬で、何か冷たいものが全身を貫いたかと思うと、あとはすごい勢いで風が吹きつけてきた。周りの様子を見ようにも、目が開けないほどの風だ。何だか空気も薄いような気がして、花奈子はじっとツゴモリの背中に顔を埋めていた。

 腕や足、胸やお腹からじかに、ツゴモリの力強い動きが伝わってくる。とても速いはずなのに、そのリズムはどこかゆったりしていて、ひと跳びで随分と長い距離を進んでいるように思えた。


 どれほど遠くまで駆けたのだろう。ふいに、ずっと吹きつけていた風が緩んだかと思うと、潮の香りが押し寄せてきた。慌てて目を開くと、辺りは真っ暗だ。顔を上げると、黒く深い空いっぱいにちりばめられた星が見えた。

 これは東京の空じゃない。一体どこに来たのかと目線を下げると、花奈子を乗せたツゴモリは、海辺にある大きな家の屋根に立っているのだった。

 近くには同じような、広い庭のあるお屋敷のような建物が幾つか建っていて、明かりはついていたり、いなかったり。そして遠くに目を向けると、弧を描いた海岸線のずっと先の方、まるで対岸のように見えるあたりには、背の高い建物が幾つも建っていて、そこだけ別世界のように明るかった。

「ここは、どこ?」

 まだその背にまたがったまま、花奈子はツゴモリに尋ねてみた。

「ここがお前の兄のいるところだ」と答えて彼が顎をしゃくったその先は、広々としたバルコニーだった。その端っこ、海に一番近いあたりの手摺の上に誰かがしゃがんでいる。白っぽい、作務衣みたいな上下揃いの服を着て、足元は裸足だ。

「あ、あれ、お兄ちゃん?」

 暗くてよく判らないけれど、部屋から漏れる光に浮かぶその人の顔は、お兄ちゃんに似ていた。何か話しているみたいなのに、絶えず響いてくる波の音にかき消されて、その声は聞こえない。

「近くまで行っていい?」とツゴモリに呼びかけると、彼は返事の代わりにゆっくりと屋根の斜面を下り、そのまま宙を踏みしめてバルコニーへと降り立った。

「あーら、いいのに乗ってるんだ」

 聞き覚えのある声に振り向くと、バルコニーに面した大きな窓に美蘭みらんがもたれていた。花奈子は急いでツゴモリの背から滑り降りると、駆け寄っていった。

 夕方別れたばかりなのに、もう何日も会っていないほど懐かしい気がする。美蘭は腕を広げ、まるで外国の人が挨拶するみたいに花奈子を抱き留めた。

「思ったより早かったね。ほら、お兄さま、私が言った通り、花奈子が来たわよ」

 そう呼びかけられても返事すらせず、お兄ちゃんはバルコニーの一番端っこにしゃがんだままだ。どうやらツゴモリの姿は彼の目に映っていないらしくて、何か疑っているような、険しい表情でこちらを見ている。その顔色は、花奈子の記憶にあるよりもずっと青白かった。

「ねえ、お兄ちゃんはどうして、あんなところにいるの?」

「私としては、眠らせといて連れてくるつもりだったんだけど、なんか金井かないのおっさんが張り切っちゃってさ。僕が説得するから、なーんて、八千代やちよさまの事をあれこれ暴露しちゃったの。そしたらお兄さまブチ切れちゃって、僕は生きてても何の役にも立たないって、ただいま飛び降り自殺準備中」

 あまりにもケロッとした調子で美蘭がそう言うので、冗談にすら思えたけれど、実際、お兄ちゃんのいる場所から海に面した崖までは、ほんの少しの距離だった。

「他の人だったら、もう面倒くさいから放っておくんだけど、花奈子のお兄さまはさすがにそうもいかないし。全く、金井さんて、無駄に熱くて真面目で役に立たないから、引っ込んでもらってるの」

 美蘭は視線をちらりと部屋の奥に投げた。そしてお兄ちゃんの方に向き直ると「ねえ、いくらなんでも、妹の前で身投げするほど、ひどい人じゃないよね?」と呼びかけた。しかし返ってきたのは「うるさい!」という、どこか怯えを含んだ叫び声だった。

 お兄ちゃんはそのまま腰を浮かせると、身体を低くしたままで手摺の上を更に移動し、いきなり跳んだ。花奈子は思わず「わ!」と叫んだけれど、彼は落ちてはいなかった。危なっかしくバランスをとりながら、こちらに背を向けて中腰で立っている。

「バルコニーの向こうに塀があるのよ。このお屋敷をぐるっと囲んでる」

 美蘭はそう言うと、自分も手摺に上ろうとした。花奈子は慌てて「待って、私に行かせて」と引き留め、まだ同じ場所にじっと立っているツゴモリの背中によじ上った。

「ごめんね」と頭を踏み台にすると、簡単に手摺の上に立つことができた。幅は平均台ほどしかないけれど、歩けないわけではない。そうしている間にも、お兄ちゃんはこちらに背を向けて少しずつ塀の上を遠ざかってゆく。塀の内側はこのお屋敷の庭だけれど、外は垂直に近い岩場で、その下は海だった。

「言っとくけど、この程度の高さから跳び下りたって一発じゃ死ねないからね。あちこち切ったり打ったりして、海にはまって、傷口からフジツボに寄生されちゃうのがオチだから」

 美蘭の脅しだか励ましだか判らない言葉に背中を押されながら、花奈子はそろそろと前に進んだ。

「お兄ちゃん!死んだりしちゃダメだよ!」

一歩、また一歩と足を踏み出す。

「お母さんのこと、花奈子に何も話してくれてないじゃない。お父さんも、ばあちゃんも、寛ちゃんも、お母さんのこと色々おしえてくれたけど、お母さんがどんなお母さんだったかは、お兄ちゃんしか知らないでしょう?別に今すぐじゃなくていいけど、ちゃんと話してくれないと、花奈子は将来、自分がどんなお母さんになればいいのか判らないよ」

 何故だろう、今まで考えてみたこともなかった言葉が溢れてきた。

 そう、お母さんはお父さんにとっては奥さんで、ばあちゃんには子供で、寛ちゃんにはお姉さん。本当の意味でお母さんをお母さんと呼べるのは、お兄ちゃんと花奈子だけなのだった。

 お兄ちゃんは花奈子の声でようやく、後を追ってきたのだと判ったらしくて、立ち止るとゆっくり振り返った。その間も花奈子は少しずつ前に進む。お兄ちゃんは簡単に跳んだけれど、手摺と塀の間にけっこうな段差があるのが見える。でも塀の方が幅が広いんだから、きっと大丈夫。花奈子は自分にそう言い聞かせて、跳び下りた。

 着地した瞬間、大きく身体が後ろに傾き、それを持ち直そうと足を踏み出すと、今度は前のめり。バランスを保つためには、次々と足を運ぶしかなくなってしまった。何だかもう走っているような勢いで前に進みながら顔を上げると、お兄ちゃんがこちらへ両腕を差し伸べているのが見えた。

 よかった。お兄ちゃんは、私を避けてるわけじゃないんだ。

 そう思って、なんとかその手につかまろうとした瞬間、左足が宙を踏んだ。そのまま身体が大きく傾き、目の前の世界がぐるりと回転する。

「花奈子!」

 バランスをとろうと振り上げた花奈子の指先と、お兄ちゃんの指先は一瞬触れ合って、また離れてしまった。美蘭の言ってた、フジツボが寄生ってどういう事かな、と思いながら、花奈子は頭上を覆っている星空を見上げていた。

 ふいに、柔らかいものが背中にあたり、身体がそこへ沈み込む。ひんやりとした、水のような肌触り。

「ツゴモリ…」

 一体どうやってそこに移動したのか、彼は広い背中で花奈子を受け止めると、しばらく動かずにいてくれた。その間になんとか身体を起こし、彼の首にしっかりと腕を回す。

「ふう、びっくりした。ごめんね、上まで連れていってくれる?」

 返事の代わりに彼は一瞬で切り立った岩場を登りきって、塀の上に立った。でもそこにはもう誰もいない。

「きょうだい揃って運動神経、ちょっと鈍いんだ」

 いつの間にか、美蘭がバルコニーの手摺の端に立ってこちらを見ている。

「お兄ちゃんは?」

「花奈子と反対側に落ちちゃった。ま、逆じゃなくてよかったわ」と言って、美蘭は手摺から塀の上に飛び移ると、まるで普通の地面を歩くように滑らかな足取りで、花奈子とツゴモリに近づいてくる。

「お兄ちゃん?私は大丈夫だよ」

 ツゴモリの首にしがみついたまま、花奈子は庭の方に向かって声をかけてみた。塀のすぐそばには植え込みがあるから、落ちてもクッションになったかもしれない。美蘭も下の方を覗き込んでいたけれど、「おっと、気づかれた」と呟いた。

 気づくって、誰が?と尋ねようとしたその時、ふいに目の前が明るくなった。見ると、庭に面した建物の、縁側らしい場所に明かりがついている。人が何人も行ったり来たりして、引き戸を開けると庭に降り、懐中電灯であちこち照らしたりしている。

「あの人たち、どうして判ったんだろう」

「塀に防犯センサーでもあるんでしょ」と言うと、美蘭は口笛よりもっと高く鋭い音を短く二度吹いた。そして宙に手を伸ばすと、どこから飛んできたのか、その指先にスズメバチがとまった。

「庭から連れ出せ。眠らせておく」

 彼女は低い声でスズメバチにそう囁くと、手首を振って飛び立たせた。そしてもう一度腕を伸ばすと、また別のスズメバチが指先にとまる。今度はそれに軽く息を吹きかけただけで放した。

「何してるの?」と花奈子が尋ねると、美蘭は少しだけ笑って「お兄さま、ちょっと痛い思いしてもらうけど大丈夫よ」と答えた。そして「しばらく隠れておいて」と、ツゴモリの背に乗った花奈子の頭を軽く押さえたかと思うと、自分はいきなり塀から跳び下りた。

 がさり、と梢の揺れる音がして、美蘭の「いったあーい」という、わざとらしい悲鳴が聞こえた。

「そこで何してる!」

 男の人の太い声が響き、庭に散らばっていた人が一斉に、美蘭の方に集まって来る。何本もの懐中電灯に照らされながら、美蘭は植え込みの下からのろのろと這い出し、身体についた枯葉や何かをはたき落しながら立ち上がった。

「あなた今日、研修所に来ていたわね」

 厳しい声を出して美蘭の腕をつかんでいるのは、ずっと八千代さまの傍にいたポニーテールの女の人だった。

「一体何のつもり?中に入りなさい。話を聞かせてもらうわ」と、彼女は美蘭を引っ立て、美蘭は逆らいもしない。

 ツゴモリの背中に深く身体を沈めたまま、花奈子は美蘭のすっきりと伸びた背中が建物の中に消えるのを見守っていた。そして辺りが静かになり、明かりが消された頃、「花奈子」と低い呼び声が聞こえた。

 見ると、バルコニーの手摺の端、さっき美蘭が立っていたあたりに亜蘭あらんがいる。彼も美蘭に負けないほど軽やかに塀の上に跳び移ってきたけれど、花奈子たちにあまり近寄らずに立ち止った。そして庭を背にして塀の上にしゃがむと、両腕をかけてぶら下がるように足から降りてゆく。塀を蹴って植え込みに跳び下りると、枝を伝って地面に降りた。

「私も行く」と花奈子がツゴモリに呼びかけると、彼は仕方なさそうに、ずいぶんゆっくりと宙を踏みしめて降りていった。じれったくなった花奈子は、途中で思い切って柔らかそうな苔の上に跳び下りた。

 そのまま、ぱきぱきと小枝を踏む足音がする方へ進むと、ちょうど亜蘭が木の下からお兄ちゃんを引っ張り出している最中だった。頭でも打ったのか、目を閉じてぐったりしている。

「お兄ちゃん!」

 声をかけて腕に触れ、あらためてその顔をよく見たけれど、何だかずいぶん頬のあたりの輪郭が鋭くなって、険しい面立ちになっている。

「大丈夫だよ。美蘭がちょっと眠らせてるだけで、どこも怪我してない」

 そう言う亜蘭の首筋には、みみずばれのように赤い傷が三本も走っている。

「亜蘭、怪我してる。枝にひっかけたの?痛くない?」

「これは別に、今じゃない」と低い声で答えると、亜蘭は急に顔を背けた。

「ごめん。最初は美蘭に言われて、花奈子がちゃんと一人で東京に来て、おじさんに会えるか見てたんだけど、後は、ただ、気になって。別に覗き見しようとか、そんなつもりじゃなくて」

「え?何のこと言ってるの?」

 話が見えずに困っていると、後ろでツゴモリが馬鹿にしたように鼻を鳴らした。ふと、彼の鉤爪に押さえつけられていた、豆炭まめたんの姿が脳裏に浮かぶ。ツゴモリの言ったこと、本当だろうか。

「ねえ、亜蘭」

 そう呼びかける花奈子から逃げるようにして、彼はお兄ちゃんの両脇に手をかけて、建物の方へと引きずっていった。慌てて花奈子は後を追いかける。ツゴモリは少し離れたところから、まるで高みの見物といった風情でこちらを見ていた。

「ちょっと手伝ってもらっていい?」と言いかけたその時、いったんは閉められた縁側の引き戸を開ける音がした。

「大丈夫か?」と、周りの様子をうかがうように出てきたのは金井さんだった。彼は花奈子と目が合うと「あれ?」と固まってしまった。

「きみ、タクシーで帰ったはずじゃ…」

「やっぱり引き返してきたんだ」と、亜蘭は適当にごまかすと、「廊下を右に行って突き当りの階段を下りると、ガレージに出るドアがある」と、まるで自分の家みたいに道順を教えた。金井さんは「了解」と答えて、お兄ちゃんの両足を抱えると、建物の中に運び込む。

 花奈子も後に続いたけれど、やっぱり美蘭のことが心配になって立ち止った。それに気づいたのか、亜蘭は振り向くと「美蘭なら、大丈夫だよ」と言った。

「うん、でも…後からすぐ行くから」

 花奈子の言葉に、亜蘭は少し考えて、「車、防波堤のとこに停めてるよ」とだけ言うと、金井さんと二人、お兄ちゃんを連れて暗い廊下に消えた。


 いつの間にか傍にいたツゴモリの首に腕を回し、花奈子は「美蘭のいる場所に連れて行って」と頼んだ。彼は「乗れ」とだけ言うと、花奈子がまだしっかりつかまらないうちに、宙を踏んで登りはじめた。

 見る間に天井が近づいてきて、なんだか背筋がくすぐったいような感じがしたと思ったら、もう天井を突き抜けて二階に出ていた。そこは誰もいない真っ暗な部屋で、ツゴモリはその壁を通り抜け、次の部屋と廊下を抜け、いったん屋根の上に出てから、また壁を抜けて建物の中に入った。

「これ全部、ひとつの家なの?まるでお城みたい」

「他人に大きく見られたい者は、嵩高くて入り組んだ屋敷を好むようだな」

 そして最後にたどりついたのは、暗い廊下だった。目の前には重そうなドアがあって、その下から明かりが漏れている。耳を澄ますと、人の話し声が聞こえた。

「中に入れないの?」

「入ったところで、お前に何ができる?」

 そう言われると、返す言葉がない。何人もの大人を相手に美蘭をかばうなんて、自分には無理だった。

「せめて美蘭に、一人じゃないって判ってほしいの。すぐそばにいるって」

「いいだろう」

 あっさりと花奈子の願いを聞き入れると、ツゴモリは少しだけ身体を後ろに引き、跳んだ。次の瞬間、目の前が明るくなる。そこは広い部屋で、ツゴモリは天井から下がっている大きなシャンデリアの上に、花奈子を乗せたまま身をひそめているのだった。

 壁のあちこちには油絵が飾られ、床にはペルシャ絨毯が敷かれ、ヨーロッパのお城にあるようなソファやテーブルが置かれている。ただ、その優雅な部屋の雰囲気にそぐわないのは、床に座らされている美蘭と、険しい顔つきで彼女を取り囲んでいる、男女合わせて十人ほどの大人たちだった。

 ツゴモリと花奈子がのっているのに、シャンデリアは微動だにせず、大人たちは誰もこちらの存在に気づいていない。でも美蘭は判ってくれるだろうか。そう思いながら首を伸ばして下を覗き込むと、ちらりとこちらを見上げた彼女が軽くウインクしてみせた。跳び下りた時にぶつけたのか、誰かにぶたれたのか、唇が切れて血がにじんでいる。

 本当に大丈夫なんだろうか。心配になってツゴモリの首を抱きしめたその時、ドアが開いた。大人たちはいっせいにそちらへ向き直り、頭を下げて道を譲る。その真ん中へとゆっくり姿を現したのは八千代さまだった。

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