第19話 一つだけ質問

 何度目かの寝返りを打って、花奈子かなこは長い溜息をついた。頭の芯がずっしりと重くて、とても疲れているはずなのに、少しも眠くならない。

 時間を確かめようと身体を起こすと、足元にうずくまっていた豆炭まめたんがこちらを見て、「ニャ」と鳴いた。


 東京都人並区の研修所から少し離れたところで、美蘭みらんたちと別れて一人タクシーに乗り、ずいぶん長くかかってひろしちゃんのマンションまで帰ってきた。途中で高速を通ったような気もするけれど、よく憶えていない。

 もうすっかり夜になっていて、重い足を引きずるようにしてマンションの階段を上り、部屋のインターホンを押すと、寛ちゃんはドアのすぐ裏側に隠れていたような勢いで出てきた。

 とりあえず電話はしておいたけど、すごく怒られるに違いない、そう思っていたのに、言われたのは「お帰り」と、「晩ごはん、冷や麦でいいかな」だけだった。

「お腹空いてないから、いらない」

「まあとりあえず、食べてみなよ。先にシャワー浴びておいで」

 何だか、朝、人並区の事務所の前で追いかけてきた時のテンションと全然違うなあ、と思いながら、花奈子はお風呂場に行った。そこで鏡を覗き込んで初めて、理由がわかった気がした。泣きはらした目の、ちょっと自分じゃない感じの顔がこちらを見ていたのだ。

 これじゃちょっと、ガツンと怒れないか。

 更に力がなくなってしまったような気分で、シャワーを終えて出ていくと、テーブルには冷や麦の準備ができていた。

「海苔しか薬味がなくてさあ、茗荷なんかあるとよかったんだけどね」

 寛ちゃんの声には、取り繕ったような明るさがあって、それが却って花奈子を苦しくさせた。でも、せっかく作ってくれたんだからと思って、少しずつ食べてみると、不思議なほどすんなり喉を滑り落ちてゆく。

 ゆで加減とか、ばあちゃんにそっくりだからだろうか。そう言えば、美蘭はばあちゃんちの冷や麦がごちそうだって言ってたっけ。

 お互い何も喋らず、花奈子と寛ちゃんはボウルに山盛りになっていた冷や麦を食べ終えた。といっても、半分以上は寛ちゃんが食べたのだけれど。そしてボウルの底に溶け残った丸い氷を眺めていると、時間の流れるのがひどく遅いような気がした。

「なんか、すごく疲れてるみたいだね」

 寛ちゃんがようやく口を開く。

「早く寝た方がいいよ。それで、明日の午前中の新幹線で帰るんだ。俺、向こうまで送って行くから」

「いらない。一人で帰れる」

「駄目だ。お父さんと、そう約束したから」

 もう、なんで?お父さんに今日のこと、話しちゃったの?

 そんな花奈子の気持ちを察したのか、寛ちゃんは「人並区と、孝之たかゆきの事はお父さんにはまだ内緒だ。ただ、花奈子はちょっと体調がよくないからって、そう言ってある」

「体調なんて、悪くないもん」

「花奈子」

 今日帰ってきてから初めて、寛ちゃんの本当の声を聞いたような気がした。怒っているような、それでいてどこか悲しいみたいな。

「俺だって、色々言いたいことはあるんだけど、とにかく今日はもう営業終了だ。話は明日、新幹線の中でする。だから、一緒に帰るからな」

 それだけ言って寛ちゃんは立ち上がり、麦茶のペットボトルを片手に戻ってくると、空になった花奈子のグラスに半分ほど注いだ。部屋は静まり返っているけれど、どこからか、カタカタという音が聞こえるのは風だろうか。

「あっれえ、花奈子が帰ってきたの、わかったのかな」

 寛ちゃんの声に、俯いていた顔を上げると、ベランダのガラスの向こうに黒いシルエットが見えた。豆炭だ。中に入りたいのか、前足でしきりに窓をひっかいている。

「そう慌てるなって」と、寛ちゃんは座ったまま、思い切り腕を伸ばして窓を少しだけあけた。その隙間から勢いよく飛び来んでくると、豆炭はまっすぐ花奈子のところに駆けてきて膝にのり、今日は何してたの?とでも言いたそうにこちらを見上げた。

「全く、誰が入れてやったと思ってるんだよ」と、寛ちゃんは苦笑いしているけれど、豆炭のおかげで少しだけ、お互いの気持ちが楽になった気がした。

「寛ちゃん、一つだけ質問していい?それ聞いたら、寝るから」

「…いいよ。何?」

「お母さんが死んだのって、心臓の病気じゃなくて、お兄ちゃんが溺れたのを助けようとしたからなの?」

 寛ちゃんは口元まで近づけていた麦茶のグラスを、そこでとめてしまった。目だけが、何か考えているみたいにほんの少し動いて、ゆっくりとまばたきして、それから「誰にきいた?」と言った。

「人並区の、八千代やちよさまっていうおばさん。お兄ちゃんはそのせいで、私をお母さんのいない子にしてしまったこと、気にかけてるって」

 膝にのせた豆炭の丸い背中を撫でながら、花奈子は泣き出さないように一生懸命自分を押さえながら答えた。寛ちゃんはいったんテーブルに置いたグラスを、また持ち上げると一気に飲み干して、それから、ビールじゃなかった、という感じの、少し驚いたような顔をした。

「その話をするのは、本当はお父さんの役目かもしれない。でも、質問していいって約束してしまったから、答えるよ。確かに、お母さんは川で溺れて亡くなった。悲しい出来事だし、花奈子はまだ小さかったから、病気だったって嘘をついてたんだ」

「何があったのか、ちゃんと話してくれる?」

 寛ちゃんは返事の代わりに長い溜息をついて、それから口を開いた。

「お母さんの命日、五月十四日。春なのに、日本中まるで夏みたいに暑い日だったのを憶えてる。花奈子はまだ二つになってなかったはずだ。孝之が入ってる子供会で、ハイキングとバーベキューをすることになった。

 ふだんそういう事があると、お父さんが行ってたんだけど、花奈子が産まれてから、あんまり孝之と遊んであげられなかったからって、お母さんが行くことになったんだ。車に分乗していって、途中から歩いて一山越えて、その後河原でバーベキューっていう計画。お母さんの同級生も何人か親子で来ていて、まるで同窓会みたいだったらしい。

 お腹がいっぱいになった後は、大人たちはおしゃべりで盛り上がって、子供は水遊びに夢中になった。でも、夢中になり過ぎて、孝之は川の深いところに入ってしまったんだ。足をとられて、流されてしまった。

 周りにいた子が大声で大人に知らせて、大変だ、ってなった時には、お母さんはもう駆け出して、川に飛び込んでいた。

 でもね、服を着たままで泳ぐっていうのは簡単な事じゃない。おまけに流れがあって、気が動転している時は尚更だ。もちろんお母さんにそんな事心配している余裕なんてなかった。ただ、孝之を助けようと、それだけ思ってたんだから。

 でもやっぱり、すごく難しい事だったんだ。いったんは孝之に追いついたかと思ったんだけど、あっという間に姿が見えなくなってしまったって、お母さんの同級生は後で俺にそう話してくれた。

 幸いなことに、少し下流で釣りをしている人がいて、孝之はその人たちに助けられた。かなり水を飲んではいたけど、命に別状はなかった。でもお母さんは、助からなかった。

 お父さんも、ばあちゃんも、俺も、みんな悲しいのを通り越して、呆然としてしまった。でも、一番かわいそうだったのは、孝之だ。それからずっと自分を責めて、泣いてばかりいたし、夜中に飛び起きて大声で叫び続けたり、髪の毛をどんどん抜いてしまったりした。

 それでも、孝之の気持ちは、少しずつではあるけど落ち着いていった。周りの皆も、お母さんの分も、いっぱい頑張るんだよって、そう言って励ましてきたし。そのせいもあるんだろうね、孝之は年より少し大人びた子供になったと思う。おまけに優等生だったし。でも、今になって俺が思うのは、ああいった励ましは孝之にとって、すごく重荷だったかもしれないって事だ。

 孝之が勉強やなんかで頑張ってる姿を見ることで、俺たち周りの大人は、よかった、もう大丈夫だって、そういう風に自分を安心させていたんだと思う。それはつまり、自分が立ち直るのに孝之を利用していたという意味だ。

 お母さんが亡くなっても前向きに頑張る、それは素晴らしい事だけれど、時には立ち止まったり後戻りしたり、色々あって当然なんだ。でも俺たちの期待が孝之にそれを許さなかった。

 孝之はそれを感じ取って、必死で努力していたんだろう。そして大学に受かって、東京で一人暮らしをして初めて、自分自身に戻ることができた。そこでたぶん何か、ずっと張りつめていたものが切れてしまったんだろう」

 寛ちゃんはゆっくりとそれだけ言うと、しばらく黙ってしまった。花奈子が膝に置いた手の甲を、豆炭の尻尾が音もなく撫で続けているので、時間が流れていることだけはわかる。

「お父さんだって、この事をずっと秘密にしておくつもりはなかったはずだ。でも物事にはふさわしい時期ってものがある。少なくとも花奈子が知るにはまだ早いと思ったんだろう」

「でも、花奈子がいるだけで、お兄ちゃんが辛い気持ちになるのはどうすればいいの?」

 だから、自分はお兄ちゃんにずっと避けられていたんじゃないだろうか。花奈子にそのつもりがなくても、責められているように感じていたのかもしれない。

「花奈子が家にいる限り、お兄ちゃんは帰ってこないって事なの?」

「それは違うよ。とにかく、孝之は辛い思い出から離れているためにしばらく、家に、というか、うちの街に帰りたくないのかもしれない。さあ、質問の答えはこれが全部だ」


 枕元に置いた携帯を確かめると、十時半だった。いつもならまだ起きている時間なのに、こうして横になっているのは、なんだか病気になってしまったみたいで変な感じだった。でも、ある意味では病気というか、まるでひどい怪我でもしたみたいに動きたくない。豆炭は足元から移動してくると、一緒に携帯を覗き込む。

 寛ちゃんのアパートに帰ってきたと、美蘭に連絡はしたけれど、返事はまだない。今頃どこにいるんだろう。お腹すいたって言ってたけど、晩ごはんは食べたんだろうか。

 花奈子がお兄ちゃんを探しに行きたいと言ったから、美蘭と亜蘭あらんは一緒に人並区に行ってくれたのに、自分だけこんな風に帰ってきて、シャワー浴びてごはん食べて、ベッドでぐったりしている。なんて情けないんだろう。

 花奈子はあらためてツゴモリの言葉を思い出していた。

「このまま行けば、お前は兄の消息を知ることができる。ただし、望まない事をも知るだろう。そして今までの自分でいることは、もはや叶わなくなる。引き返すなら今だ」

 あの時自分は「このまま行く」と答えたはずだ。なのに、「望まない事」を聞かされただけで、逃げ出してしまった。

 できるなら、時間を巻き戻して今日をやり直したい。

 でも、もうそんな事は無理だ。自分の心には大きな穴があいていて、そこから何か大切なものがどんどん流れ出てしまっているような気がする。お母さんが死んだのは病気じゃなくて、溺れそうになったお兄ちゃんを助けようとして、叶わなかった。

 もしあの時、お母さんも一緒に助かっていたら、自分たちはどんな生活をしているだろう。毎日学校から帰るとお母さんがいて、一緒にお料理したり、買い物にいったり、時々怒られたりして。そしてお兄ちゃんはもっと楽しそうで、花奈子ともいっぱい話をしてくれるかもしれない。それから拓夢たくむは…

 拓夢。

 花奈子の手から携帯が滑り落ちた。豆炭は一瞬飛びのき、それからまた戻ってくると、どうしたの?と言いたそうに前足を膝にのせた。

 もしお母さんが生きていたら、お父さんは幸江ゆきえママと再婚することもなかった。だから当然、拓夢だって生まれていないことになる。でも花奈子には、拓夢のいない世界なんて想像できなかった。

「私、どうすればいい?」

 そう言って抱き上げると、豆炭は「ニャ」と鳴いてその小さな頭を花奈子の顎にこすりつけた。どうすればいい?でもあの時、「このまま行く」と答えたのは自分なのだ。

「ツゴモリ」

 花奈子は顔を上げ、この前の夜、彼が現れた姿見の中を見た。でも、そこには何もいない。一体、この薄暗い部屋のどこを探せばいいんだろう。彼はいつもそこにいて、ただ花奈子が見ていないだけと言うけれど、どこを見ればいいんだろう。

 目を閉じて、ツゴモリの真っ黒で大きな姿を思い出す。鋭く輝く一対の眸と、鋭い牙、瑠璃色の舌、逞しい四本の脚と、長くしなやかな尻尾、そして絶え間なく移ろい続けるその美しい模様。はっきりとその姿を思い出したと確信した時、花奈子は静かに目を開いた。

「ようやく判ったらしいな」

 ツゴモリはそう言うと、空中から花奈子の座っているベッドに音もなく飛び降りた。

「ずっと私のそばにいたの?」

「まあそういう事だ」と、ゆっくり返事をして、彼は前足を伸ばしたままで腰を下ろす。その大きな身体はベッドの半分以上を占領し、長い尻尾は花奈子の足元まで届いた。

 前はあんなに恐ろしかったその姿が、何だか今夜は懐かしいような気がして、花奈子は両腕を伸ばすと彼の太い首筋に触れた。ひんやりとした心地よさが、指先から浸み込むように広がってゆく。

「私、どうしたらいい?」

 ツゴモリは何も答えない。でも、こうして彼の体に手を浸していると、わけもなく気持ちが鎮まってゆく。それを確かめるように、花奈子は膝立ちになってもっとしっかりと彼を抱きしめた。ちょうどその頑丈な顎の下、柔らかな喉元にすっぽりと花奈子の頭が収まってしまう。水のように流れるその身体の表面に顔を埋めても、息苦しさは少しも感じなかった。

「冷たくて気持ちいい」

 思わずそう呟くと、ツゴモリは「不思議なものだ。こうして天の暑い時期には、人は私の体を冷たいと言い、地の凍てつく季節になれば暖かいと言う」と、面白そうに呟いた。

「きっとその両方なんだわ。怖いけれど優しいもの。だから、冷たくて暖かい」

「私は己でそうあろうと企てたわけではない。お前が勝手にそう思っているだけだ」

 そしてツゴモリはゆっくりと首を低くした。自然と、花奈子の身体もそれにつられて倒れてゆく。やがてツゴモリは、寛いでいる時の豆炭がそうするように、脇腹を下にして横になった。花奈子はその喉元に顔を埋めて横になり、もっとしっかりと身体を寄せた。

 腕に、掌に、首筋に、爪先に、ひんやりと柔らかな、水のような感触が寄せては返してゆく。重く脈打っていたこめかみはいつのまにか、ゆっくりと穏やかなリズムを刻んでいる。まるで空にでも浮かんでいるみたいに、身体が軽くなってゆくのを感じて、花奈子はそっと目をひらいた。

 真っ黒なはずのツゴモリの喉元は、どこかほんのり明るいような、果てしない海のような空間で、気がつくと花奈子はそこに浮かんでいた。

 冷たくもなければ熱くもない、水のような、でもそれよりもっと濃いものが周囲に満ちていて、どこか一つの方向を目指してゆっくりと流れている。辺りには小さな泡のようなものがふつふつと浮かんできたかと思うと、集まって大きな塊になり、また散り散りに消えてゆく。

 かと思えば、ずっと下の方から黒い大きな輪が浮かび上がり、花奈子をゆったりと呑み込むと、いつの間にか細い糸のようにちぎれて広がってゆく。それらはしばらくすると再び集まり、絡まりあって雲のように広がってゆく。見渡せばあちこちで同じような動きが繰り返され、稲光のような青白い輝きが呼び合うように明滅した。

 これは一体何なのだろう。ツゴモリの身体の中というにはあまりにも広くて、まるで世界の全てがこの流れゆく空間に浸されてしまったみたいだ。いつの間にか身体中の力をすっかり抜いて、花奈子はただその大きな流れに身を任せていた。

 

 どのくらいそうしていたのか、花奈子は我に返ると、ツゴモリの喉元からゆっくりと顔を上げて、肘を支えに身体を起こした。豆炭が、傍に蹲ったままじっとこちらを見ている。

「ツゴモリ、どうすれば、私も美蘭みたいに強くなれる?」

「あの鼻っ柱の強い娘のことか。あの娘とて、元からというわけではない」

「美蘭のこと、前から知ってるの?」

「私にはお前たち人間のことは大体察しがつく。それに」と言って、首を傾けた。花奈子はその柔らかくて丸い耳の根元に触れてみる。

「流した血を舐めてみれば、その者が生まれてから今までの事。そして生まれるまでの血筋も全て判ろうというもの。それはお前も同じだ」

 言われて、花奈子は転んですりむいた膝をツゴモリが舐めてくれたことを思い出した。そして、美蘭が誤って傷つけた指の根元を、彼が同じように治してしまったことも。

「あの娘は確かに、激しい気性を備えて生まれてきた。しかし弱い心も十分に持っている。ただ、長い時間をかけて、その心を硬い殻で覆ってきたのだ」

「どうすればそんなことができるの?」

「別に難しいことではない」

 ツゴモリは笑うように言うと、また首の向きを変えた。こんどは耳の後ろ、首筋から肩のあたりに花奈子は指先を滑らせた。

「守りたいものがあれば、人とは強くなれるものだ。或いは恐れを忘れる、というべきか。お前の母親もそうではなかったか?」

「え?おかあさん?」

 花奈子はツゴモリの首筋を撫でていた腕の動きを止めた。どうして急にそんなことを言うんだろう。

「たとえお前が自分で憶えていなくても、その身に起きたことは判る。お前の母親は我が子を救おうとして水に飛び込んだ。どんなに速く激しい流れだろうと、一瞬も迷わず、恐れることもなく。人が強くあるというのは、時としてそういうことだ」

「誰かを守りたいってこと?」

 花奈子はツゴモリの首に腕を回してもたれかかった。私が今、一番守りたいのは拓夢だ。あの子を病気の痛みや苦しみといった、全ての辛いものから守ってあげたい。もしかしたらお兄ちゃんも同じように、拓夢を守ろうと思っているんじゃないだろうか。

「ツゴモリ、八千代さまの言ったことは本当なの?拓夢の病気はお母さんの怨念のせいで、お兄ちゃんが片方の腎臓を誰かにあげれば、そのおかげで拓夢はよくなるって」

「お前は、あのような世迷言を信じるのか?」

 ヨマイゴト、というのは、でたらめとか、そういう意味だろうか。

「信じたわけじゃないけど、本当だったらどうしよう、って」

 ツゴモリはくすん、と鼻を鳴らすと、「犠牲とは、三に六を加えれば九になるという具合に簡単なものではない」と言った。

「ましてそれを、人の手で操れるとは、考えるも愚かな話だ」

「つまり…できないってこと?嘘なの?」

「あの向こう見ずな娘も、そう言ったではないか。全くお前は、信じやすいのか、疑り深いのか判らぬな」と、からかうように言って、ツゴモリは長い尻尾を左右に振った。

「だって、もし、もし本当ならお兄ちゃんのおかげで拓夢の病気が治るかもって、そう思ったから」

 きっとお兄ちゃんだって、それを信じたいのだ。だから八千代さまのところにいるに違いない。花奈子は身体を起こして座り、ツゴモリと向き合った。冷たい、レモンイエローの目がじっとこちらを見ている。

「ツゴモリ、私を、お兄ちゃんのところに連れていって」

「いいのか?お前はまだ、望まない事の全てを聞いてはいないのかもしれないのだぞ」

「だからって、逃げても何も始まらないもの。とにかくお兄ちゃんに、八千代さまの話は嘘だって知らせなきゃ」

 ツゴモリは確かめるように、首を伸ばし、花奈子の目をしばらく見ていた。そしていきなり前足を伸ばすと、傍に蹲っていた豆炭をひっかけ、仰向けにして押さえつけた。

「聞いたか小僧、お前の姉にそう伝えるのだ」

「ツゴモリ、何言ってるの?そんな事しちゃ豆炭がかわいそうだよ」

 花奈子はあわててツゴモリの前足を持ち上げようとしたけれど、まるで柱のようにびくともしない。

「お前はこいつを、ただの猫だと信じているのか?」

「ど、どういうこと?」

「この猫には、あの娘の弟が憑いている」

「亜蘭のこと?どうして?」

「元々、あの者たちはそうした技を操る一族なのだ。どうやらこの猫とあの小僧は相性がいいらしい。あいつはこの猫の目と耳を借りて、お前の様子を見ているのだ」

「でも、何のためにそんなことするの?」

「さて、それは本人に確かめるしかあるまい?」と言って、ツゴモリは前足の鉤爪をむき出しにした。豆炭は「ニャ」と悲鳴をあげて身をよじり、花奈子は咄嗟に「ダメだよ!」と、鉤爪と豆炭の間に手を差し入れようとした。

「まあ、邪な考えではないとしてやろうか」

 ツゴモリはどこか笑いを含んだ声でそう言うと鉤爪をおさめ、豆炭をベッドの上から払い落とした。

「ろくに口もきかぬというのに、臥所には平然と忍んでくるとは、図々しい奴だ」

 くるりと一回転して体勢を立て直すと、床に落ちた豆炭は「ニャ」と鳴き、ツゴモリに押さえられていたあたりをせっせと舐めて毛づくろいをした。

「ほ、本当に亜蘭なの?」と花奈子が尋ねても、こちらを見ようともしない。

「無駄だ。小僧はもうこの猫を離れてしまった」

 そう言って、ツゴモリは身体を起こすとベッドから降りた。

「さて、お前の先ほどの言葉に偽りはないか?」

 花奈子は黙って、深く頷いた。


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