第18話 いづら、いづら

「マジで腹へった」

 美蘭みらんがそう呟くと、前に座っている新田にったさんが振り向いて「我慢して」と囁く。

 やたら長くて退屈だった「全体ミーティング」がやっと終わったと思ったら、またさっきの部屋で資料作りを手伝って、並べた椅子の上に配って。それから五分もしないうちに部屋にはどんどん人が入ってきて、花奈子かなこたちも後ろの方に座らされてしまったのだ。

「満席になったら出してあげる」と言われたけれど、席はあと少しだけ空いている。美蘭はつまらなそうに「これサクラだよね、賑わってます、って思わせるための」と低い声で唸っていた。

 教室でいえば黒板の場所に置かれた大きな液晶ディスプレイには、「正規雇用のためには泣き寝入りもやむなし?」という言葉が映し出されている。その前にマイクを持った男の人が立ち、「本日は皆さん、暑い中を集まっていただき、ありがとうございます」と挨拶している。

 なんだか自分もお腹が空いてきたな、と思いながら、花奈子は話を聞いていた。どうやらこの男の人も「東京都人並区」のメンバーらしくて、ふだんはどこかの法律事務所で働いているらしい。彼が「次、お願いします」と言うと、ディスプレイに円グラフや「これはパワハラです」といった文字が映し出されるのは、さっき美蘭が盗み見していたパソコンで操作しているらしい。

 話を聞いているのは、学生っぽい人から寛ちゃんぐらいの年の人までさまざま。男女の割合でいえば、少し男の人が多いだろうか。よく見るとちょっと離れたところに、一緒に椅子を並べていたおじさんが座っていて、彼もどうやら「サクラ」にされてしまったらしい。そして花奈子はいつの間にか、さっき出会った八千代やちよさまの事を考え始めていた。

 ママに愛されてない子の目だ。

 すごく目につく髪形だとか、派手な服だとか、濃いお化粧だとか、そんなものより何より、八千代さまの言葉は花奈子の記憶に深く突き刺さっていた。

 いくら美蘭が「誰にでもそう言うんだ」と否定しても、一度聞いてしまったものはそう簡単に消えない。それどころか、気がつくと頭の中で何度も反響していたりする。

 やっぱり、八千代さまって何か特別な力があるんじゃないだろうか。だからお兄ちゃんも、引きこもりを止める決心をして、彼女に会いに行ったに違いない。そこまで考えて、花奈子はまたそっと周囲を見回した。

 お手洗いに行くふりをしてここを抜け出し、少しだけ八千代さまに会ってはいけないだろうか。山辺やまべ孝之たかゆきの妹ですと言えば、何か教えてくれるんじゃないだろうか。

 どうやら美蘭はこの長い話が終わるまで寝る事にしたらしくて、腕組みして目を閉じ、深くうなだれている。その隣の亜蘭あらんは前を向いていたけれど、心ここにあらずという感じでぼんやりしている。

 行くなら今のうちだ。そう思って立ち上がろうとした瞬間、急にあたりがざわめいた。花奈子は反射的に身体の動きを止め、目だけで周囲の様子を窺う。

「あ、すいません、何か変なのが出ちゃって」

 マイクを持った男の人は、慌てた様子でパソコンを操作している人に近づいた。ディスプレイには黒地に赤く大きな文字で「臓器売買疑惑!?」と映し出されている。

「ちょっと、画面とめて!」

「すみません、勝手に動いちゃって、止まらないんです」

 マイクに拾われた二人の会話が聞こえ、その間に画面は真っ赤に変わり、更に赤と黒の市松模様になったかと思うと、今度は白地に黒で大きく「東京都人並区=カルト」と浮かび、それが一瞬で消えると次は色んなメッセージが左から右へと流れ始めた。

 若者の就労支援は表の顔で、裏の顔はカルト宗教です

 臓器移植のドナーになれば、悪運を断ち切れると勧められました

 シングルマザーの方から養子縁組できると言われ、大金を払いました

 パワハラのダメージでメンタルに特殊なケアが必要だと言われ、セミナー参加のためにローンを組まされました。

 正規雇用を目指すには気持ちを鍛えろと言われ、半年以上無給でスタッフとして働き、深夜まで作業しています

「何これ」とか「ちょっとヤバいんじゃない」といった声があちこちで上がり、男の人はマイクを通すのを忘れて「すみません、誰かにいたずらされたみたいで!」と叫んでいる。

 もしかして、美蘭が何かした?花奈子がそう思った時、「でもそれ、本当の事じゃないんですか」と、ひときわ大きい声が聞こえた。思わずそちらを見ると、さっき一緒にいたおじさんが立ち上がっている。

「複数の人から聞いた話ですけど、東京都人並区では活動に加わった人の一部を、ミタマケンシンカイという宗教組織に勧誘しているらしいですね。御靈獻身會、読んで字の如く、自己の魂と肉体を捧げることで、霊的に浄化させるという触れ込みの、カルト教団だ」

 おじさんはさっきよりもずいぶん勢いのある話し方で、怖い感じさえした。話をしていた男の人は少しうろたえた様子で、「僕はそういった話は一切聞いたことがありませんし、今回のテーマとは関係ないですから、今は発言を遠慮してもらえませんか?」と言った。

「関係ないとは言い切れない。人が労働の現場で不当に扱われることと、助けを求めているのに、金目当ての宗教組織に餌として引き渡されるのと、どこが違うって言うんだ?それでもまだ、占いやなんかで金を払わされているうちは、自己責任かもしれない。でも確かに、生体腎移植のドナーになったという人はいるし、それが神奈川の私立病院で行われたという事も判っている」

 大きな声でおじさんが話すうちに、ざわめいていた部屋は静まり返ってしまった。男の人は「あなた一体どういう人なのか、まず名前や所属先を名乗るのが礼儀じゃないですか」と言い返したけれど、その声は少しうわずっている。

 おじさんは落ち着いた様子で「失礼しました。僕は金井かない拓郎たくろうといいます。週刊誌などに記事を書いていますが、フリーランスです」と自己紹介した。

「取材ということなら、まず広報の担当者を通すべきだ」と、男の人が反論すると、また部屋がざわつき始める。その時、眠っているとばかり思っていた美蘭がそっと前に身を乗り出すと、新田さんの耳元で「後ろの正面、誰だ?」と囁いた。途端に、新田さんは席を立ち、何も言わず足早に部屋を出て行ってしまった。それを見届けてから美蘭は立ち上がり、よく通る声で「いまの話、本当です」と叫んだ。

 ざわめいていた人たちが一瞬で静まり、おじさんは驚いた顔でこちらを見た。

「実は、私が今日ここに来たのは、大勢の人に御靈獻身會の臓器売買について知ってもらうためなんです。隣にいる、私の弟ですけど、人づきあいがうまくできなくて、職場でひどい嫌がらせを受けて、人並区のお世話になりました。でも、彼自身の心に問題があるからという事で御靈獻身會を紹介され、研修を受けることになりました。そして、子供の時の悪縁が原因で、人間関係は全て破綻する相に陥っているという話を信じ込まされました。悪縁の連鎖から脱け出すためには、自分の一部を犠牲にして他の人を救うしか方法がないと言われて、見ず知らずの人に移植するために、腎臓を片方提供したんです」

 マイクを持った男の人が何か言おうとする前に、美蘭は「証拠をお見せします」と言った。すかさず亜蘭が立ち上がり、片手でTシャツの裾を捲りあげ、もう片方の手でジーンズのウエストを少し下げた。

 亜蘭、こんな人前でいきなり何するつもり?思わず目を逸らしそうになって、でもよく見てみると、亜蘭のうすい脇腹の下の方に、縫ったような大きな傷跡があった。これは一体どういう事だろう。混乱しているのは他の人たちも同じらしくて、あちこちからざわめきが起こっている。

「弟に何が起こったのか、私達家族が知ったのは全てが終わった後です。彼は自分の身体の一部を人にあげた事、これを御靈獻身會では身御供みごくうというそうです、そのおかげで何もかもうまく行くと思い込んでいました。でも、もちろんそんな結果にはなりませんでした。次に見つかった職場でも周囲の人とトラブルになって、警察のお世話になるような暴力沙汰を起こしてしまいました。母は自分の育て方が間違っていたせいだと気に病んで、自殺を図りました。命だけは助かりましたが、後遺症があって一人では生活できません。最近になってようやく、弟には先天的な脳の障害があって、人とうまく意思の疎通ができないということが判ったんです。子供の時の悪縁とか何とか、そんなの全部ウソでした」

 淀みない美蘭の言葉に圧倒されて、部屋は完全に静まり返っていた。花奈子までが、彼女の話は本当じゃないかという気持ちになってくる。亜蘭はいつの間にかまた座って、ぼんやりした表情のまま前を見ている。

「き、君は一体」そう言いかけて、おじさんは言葉につまった。言いたいことはあるけれど、皆には聞かれたくない、という感じだ。美蘭はそちらに顔を向けると、何か答えようとしたけれど、その声はけたたましいベルの音にかき消された。

 何?どうしたの?という声があちこちから上がる。それは学校の避難訓練で聞いたことのある、火災報知器のベルだった。

 誤作動じゃないの、と平気そうな人もいれば、一応避難した方がいいよ、と立ち上がっている人もいる。花奈子も不安になって、思わず美蘭の方に身体を寄せると、彼女は屈みこんで「大丈夫。ちょっと騒ぎになるけど、落ち着いてね」と囁いた。

「すみません、皆さんいったん外に避難して下さい!」

 そう叫びながら部屋に飛び込んできたのは、さっきふらりと出て行った新田さんだ。その声で我に返ったように、マイクを持っていた男の人も「皆さん、慌てずに玄関の方に移動してください」と呼びかける。それに促されるように、座っていた人たちも次々に立ち上がって部屋を出ようとした。

 花奈子も腰を浮かせたその時、ビニールか何かが焦げるような匂いがしてきた。辺りを見回すと、部屋の入口から、うっすらとではあるけれど、煙が流れ込んできているのが目に入った。

「やばいよ、本当に火事だ」

 半信半疑だった人たちも慌てだし、入口に向かって一気に動き始めた。火事よりも、騒然とした人の様子が怖くなって、思わず美蘭にしがみつこうとしたその時、誰かが花奈子の腕をつかんで強く引っ張った。

「あなた、ぼんやりしてちゃ駄目よ、早くいらっしゃい!」

 顔を上げると、学校の先生みたいな感じの女の人が、心配そうにこちらを見ている。私は美蘭といるから大丈夫、と説明したかったけれど、彼女は有無を言わさず、ぐいぐいと花奈子を引き連れて廊下に出ると、玄関へとつき進んだ。他の部屋からも次々と人が出てきて、外へ避難してゆく。その間にも廊下を流れる煙は勢いを増しているように見えた。


 ようやく外のきれいな空気を吸って、今更のように建物の中に煙がたちこめていた事に気がつく。あたりには夕暮れが近づいて、空の一部が赤く染まっていた。

「ふう、まずはひと安心ね」

 花奈子を連れ出した女の人は、そう言ってようやく腕を放してくれた。美蘭とはぐれてしまったけれど、自分を心配して避難させてくれたんだから、花奈子は「ありがとうございました」とお礼を言った。

「あなた、中学生?どうして今日ここに来たの?」

「あの、夏休みの宿題で」

 とりあえず適当にごまかそうと思ってそう言うと、女の人は「自由研究?えらいね、非正規雇用をテーマにするなんて」と、勝手に解釈してくれた。

「もう帰った方がいいと思うけど、家の人とか、迎えに来てくれそう?」

「ち、近くだし、自転車で来てるから、大丈夫です」

「そう?じゃあ、暗くならないうちに、急いだ方がいいよ。気をつけてね」

 女の人はそれだけ言うと、軽く花奈子の背中を手で押してから、友達でも探しているのか、玄関の方へ戻っていった。その隙に、彼女から隠れるようにして花奈子は人の少ない方へと移動する。

 いつの間にか自分も咄嗟に嘘がつけるようになってきたようで、妙な気分だけれど、とにかく今は少し離れた場所に行って、美蘭の携帯に電話をしよう。

 気がつくと花奈子は駐車場に入り込んでいた。建物の裏側にあたる場所で、ここにも何人かで固まって不安そうに立っていたり、大声で電話をしながら誰かを探している人がいる。もしかしてその中にお兄ちゃんがいたりしないかと、花奈子は一人一人の顔を確かめるようにゆっくりと歩いた。その時、見覚えのある姿が目に入った。

 高く結い上げた髪と、ずんぐりとした体つきに、細いハイヒール。八千代さまだ。そばにはやはりお供の女の人が三人ついていて、花奈子のいる方へと歩いてくる。思わず後ろを見ると、軽自動車が並んでいる中に一台だけメルセデス・ベンツがあって、どうやらそれが八千代さまの車らしかった。

 三人のお供のうち、ポニーテールの女の人が先に小走りで花奈子の脇を通り抜けて車の方へ行き、後の二人は両側から八千代さまを守るようにしてゆっくりと近づいてくる。

 どうしよう。さっきまであんなに八千代さまと話をしたいと思っていたのに、いざチャンスが来ると怖気づいてしまう。目を伏せて、知らないふりをしようかと考えて、美蘭ならどうするだろうと想像する。そう、彼女なら絶対にためらったりしないのだ。

「あの!」

 自分でも驚くほど大きな声が出て、花奈子は面食らってしまった。どうしよう、何と言えばいいんだっけ。八千代さまとお供の人たちは、いっせいにこちらを見ている。

「あの、私…」と、また口ごもってしまった花奈子を助けるように、八千代さまが声をかけてきた。

「あら、あなた、さっき日傘を拾って下さった方ね」と言って、親し気な笑顔を浮かべると、花奈子の腕に手をそえる。

「震えてるのね。大丈夫よ、火事だなんて本当じゃない。どこかからネズミが入ってきて悪さをしただけよ」

 言われて初めて気づいたけれど、花奈子は小刻みに震えていた。でもそれは絶対に火事のせいではない。

「あの、私、やまべ、山辺孝之の妹です。お兄ちゃんに、どうしても会いたいんです。どこにいるか、教えて下さい」

 叫ぶようにしてそう言うと、八千代さまは「おやまあ」という感じに目を丸くした。それから一番近くにいた女の人に「山辺さん、といえば、先週から道場にいらしてる方ね」と尋ねる。「はい、山辺孝之さんです」という返事があると、八千代さまは深く頷いて「やっぱり」と呟いた。

「お兄様は、あなたの事をとても気にかけてらしたから、呼ばれたのね」

「私の事を、ですか?」

 何だかすごく意外な気がして、花奈子はぽかんとしてしまった。家にいてもずっと顔すら合わせていなかったお兄ちゃんが、どうして私の事なんか気にかけているんだろう。

「そもそも、お母様が亡くなられた時の犠牲縁にずっと引きずられているから、お二人とも大変お気の毒ね。でも大丈夫よ、お兄様がちゃんと清めて下さるから」

 そう言って、八千代さまは両手で花奈子の手をとった。

「ぎせいえん、って何ですか?」

 八千代さまの手を振りほどきたいような、もっとしっかり抱き寄せてほしいような、正反対の気持ちに挟まれたまま、花奈子は問い返していた。

「誰かの身代わりになって死ぬことよ。あなた方のお母様は、お兄様が川に流されて溺れそうになった時に、助けようとしてお亡くなりになったのよね。お兄様はそのせいであなたを母親のいない子にしてしまった事を、深く後悔していらっしゃる」

「ち、違います」

 八千代さまの暖かい手に包まれているというのに、花奈子の指先は急に冷たくなっていった。

「お母さんが死んだのは、心臓の病気のせいです。自分でも病気だって知らずにいたから、眠っている間に心臓が止まって…」

「それはお家の人が、あなたを傷つけないために嘘をついているのよ。でもお兄様ははっきりと自分で憶えているから、余計に苦しんでいるの。それに、新しいお母様が授かられた弟さんの病気ね、これはもう、あなた方のお母様からもたらされた怨念のせいですから、早く手を打たないとどんどん悪くなる。お兄様が私を訪ねて来られたのは、本当にいいタイミングだったわ。あと少し遅れていたら、どうなっていたか」

 遠くから、消防車のサイレンが聞こえる。でももしかしたらその音は花奈子の頭の中で鳴っているだけかもしれない。薄闇の中でじっとこちらを見ている八千代さまの目の光も、本当は幻かもしれない。

 だってお母さんは病気で死んだのだ。溺れかけたお兄ちゃんを助けようとしたなんて、嘘に決まってる。

「あなたが混乱するのも仕方ないでしょうけれど、お兄様を信じて待ってあげてちょうだい。今は魂を清める、とても大切な修行をされている最中なの。これが終われば何もかもうまく行きますからね」

 八千代さまがひときわ力をこめて花奈子の手を握ったその時、視界を何かが横切った。思わず目で後を追うと、それは黒い大きな蝶だった。

 ひらひらと、夕闇に溶け込もうとするかのように舞い上がり、やがて風に吹かれるようにして遠ざかる。八千代さまは「まあ、大きな蛾だこと」と、気味悪そうに肩をすくめ、また何か言おうとしたけれど、その声は「花奈子!」という鋭い呼び声に遮られた。

 はっと顔を上げると、人をかき分けるようして美蘭が駆けてくる。亜蘭も一緒だ。彼女は花奈子と八千代さまの間に割って入るように立ちはだかると、「この子に何の用?」と詰問した。

 八千代さまは驚くどころか、面白がるような口調で「おやおや、お言葉だけれど、声をかけたのは私じゃなくて、こちらのお嬢さんだからね」と答えた。

「どうせ、聞かれもしない事ばっかり適当に並べたてたんだろう。金儲けがしたいなら、もっと素直にやりな」

「憎まれ口が得意なのは、誰からも愛されなかったからね。あなたたちは水子だ。母親に憎まれるどころか、記憶の闇に流されて、夢にも思い出してもらえない。死んでいるのに生きているのはどんな気分かしら?」

 八千代さまは何を言っているんだろう。ぼんやりした頭で、花奈子は美蘭のまっすぐな背中を見ていた。

「お嬢さん、こんな毒蛇みたいな子に関わると、そのうち噛まれるわよ。早くお家に帰って、お兄様とお母様のためにお祈りをなさい。いいわね」

 八千代さまは美蘭の脇から覗き込むようにして花奈子に声をかけると、エンジンをかけて待っていたベンツに乗り込んだ。ちょうどけたたましいサイレンを鳴らしながら入ってきた消防車とすれ違うようにして、ベンツは急発進で出て行く。

 何も言えず立ち尽くしている花奈子の傍らで、美蘭は空に向かって右腕を高く差し上げ、人差し指をたてると「いづら、いづら」と唱えた。

 一体どこから飛んできたのか、大きなスズメバチが一匹、その指先にとまる。その禍々しい姿に花奈子が思わず後ずさりすると、亜蘭が「刺したりしないから、大丈夫」と言った。

 美蘭はゆったりと腕をおろし、スズメバチを口元に近づけると、ふうっと息を吹きかけた。そしてまた腕を伸ばすと、スズメバチはベンツの走り去った方向へと飛んでいった。

「さて、あとはどうやって追いかけるか」

 美蘭は軽く首を振ると、花奈子の方に向き直った。

「はぐれちゃってごめんね。おかげでちょっと嫌な思いしたみたいね」

「ううん、私のせい。私が勝手に、八千代さまに、自分で話しかけたから」

 花奈子は何とかそれだけ言うと、もうその後を続けることができず、しゃがみこんでしまった。

 八千代さまの言った事は本当なんだろうか。お母さんが死んだのはお兄ちゃんの身代わりになったから。そして拓夢たくむが病気なのは、お母さんの怨念のせい。

「花奈子、しっかりして」

 気がつくと、美蘭もしゃがんで花奈子の顔をのぞきこんでいる。

「駄目だよ、あいつの言葉に呑みこまれちゃ駄目だ。あいつは花奈子がお兄さまみたいに、自分が張った蜘蛛の巣に落ちるのを待ってる。ちゃんと目を開いて、本当の事を見るんだ」

 涙が次々に溢れてきて、美蘭の顔もよく見えない。こんなんじゃ、本当の事なんて見えるわけない。

「君たち、そこにいたのか!」

 不意に、大きな声がして、誰かが走ってくる足音がした。

「おや、おっさん、じゃないわ、金井さん、だっけ」と言いながら、美蘭は立ち上がる。

「全く、驚かされたよ。君たちは一体何なんだ。どうしてここに来た?」

「だからさ、うちの弟が騙されて腎臓とられちゃったから、告発してやろうと思って」

「違うだろう。弟さんのはドナーの傷痕じゃない。あれは、移植を受けた側の傷痕だ」

 一瞬、空気の流れが止まったような沈黙があって、それから美蘭が「あら、よくご存知ね」と言った。

「まあそこは、ちょっと話にリアルさを加えようとしたんだけど、やり過ぎたって事かしら」

「お兄さんを探してるというのも嘘か?」

「それは本当。まあ、この子のお兄さんだけど」

「じゃあ君が妊娠してるってのは?」

「嘘に決まってんじゃない。ところで金井さん、タクシー拾ってきてくれないかしら。この子をおじさまのところに帰らせてあげるの」と言った。

「自分でやれよ。君の妹だろ?いや、友達か?」

「大事な友達だけど、私にはする事がある。このお願いきいてくれたら、あんたが週刊誌に連載で特集記事書けるぐらいのネタは用意してあげるよ」

「つまり、八千代さまと御靈獻身會のことか」

「そうね」

「じゃあ、こういう条件にしよう。俺もこの後、君たちと一緒に行動する。それと引き換えに、さっきここで運転を頼まれた車を提供するよ。タクシーは途中で探せばいいだろ?」

 おじさんはそう言って、ポケットから車のキーを取り出して見せた。これには美蘭も納得したらしい。「交渉成立」という短い返事の後、彼女はまた花奈子のそばにしゃがんだ。

「いい?花奈子、おじさまのところに着いたら、メッセージだけ送って。あとは私たちでちゃんとやるから、何も心配することないわ」

 

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