6.まるで友達のように


 休憩時間にペットボトルのミルクティーを飲んでいると、田中が紘登の前の席に向かい合うように座った。その隣には安藤が立っている。


「沢田、放課後ヒマ? 安藤ン家でゲームしようぜ!」

「あー……ごめん、放課後はちょっと……」


 約束をしているわけではないが、下手に用事を入れて、放課後を麗哉と共に過ごせる可能性を潰したくなかった。紘登がゴニョゴニョと言葉を濁していると、安藤が問うた。


「もしかして、楠と何かあるわけ?」


 紘登は答えずにペットボトルに口をつける。田中はキョトンとしている。


「え? 沢田って楠と仲良かったっけ? つーか楠に仲良い奴とかいたっけ?」

「そんなんじゃないよ」

「だって沢田、アイツに本借りてたじゃん」


 安藤は昨日のゲーテの件を根に持っているようだ。紘登は気まずい間を埋めるために、ゆっくりとペットボトルのフタを閉めた。


「じゃあ楠も誘えば良くね? 楠ってゲームとかやんのかな」

「バカ、楠を誘う勇気があんなら小町こまちさんを誘ってみろっつーの」


 安藤が控えめに指で示した先には、黒板の前で友達と談笑している小町こまち 涼子りょうこがいた。


 セミロングストレートの黒髪が似合う、清楚で可愛らしい佇まいの小町は、クラスのマドンナ的存在だった。安藤は小町と一度も話したことは無いが、ことあるごとに話を小町と絡めたがった。口元に手を添えて上品に笑う小町を見て、紘登はこくりと唾を飲んだ。彼女の可憐な容姿は目を惹くし、クラスの女子の中で、いや、学校の女子の中で、小町は一番可愛いと思う。彼女と話をしたい男子はたくさんいるけど、近寄りがたい雰囲気の小町は高嶺の花のような存在になっている。まるで女版の楠 麗哉だ。彼女は麗哉とは違って抜群に人当たりが良いけれど。


「小町さんなあ……。けど、小町さんって楠が好きなんだろ」

「あれ? 楠ラッシュのときにフラれたって噂じゃなかったっけ?」

「いくら楠でも、あんな可愛い子に告られたらOKするだろ。ただの噂なんじゃねーの」


 『楠ラッシュ』とは、中三の四月に転入してきた麗哉を一目見ようと、毎日のように他学年他クラスから女子が殺到し、麗哉の靴箱がラブレターでパンパンになった時期のことを指し、手紙の差し出し主に同じクラスの小町さんも入っていたという噂があるのだ。二人がコミュニケーションを取っているところを誰も見たことがないので事実かどうかは不明だ。それ以降は麗哉の靴箱には南京錠がかけられていて、麗哉は靴の出し入れの際、面倒くさそうに鍵を開け閉めしている。


「噂話は置いといて、沢田、どうする? 今日ウチ来んの、来ねぇの」

「うーん、今日図書当番なんだよね」

「どうせ誰も来ねぇしサボっても怒られねえんだろ? たまにはいいじゃんよぉ」


 ただでさえ気が乗らない誘いなのに、田中の執拗な誘い方のせいでさらに気が滅入っていく。垢抜けない佇まいの田中が仲間内でだけお調子者を気取った舌ったらずな口調になるところが好きじゃない。小町や麗哉を光とするなら、紘登は田中と安藤と同じ、陰側の人間だった。光の眩しさを羨むように陰で身を寄せ合うのが自分達の日常なのだ。


「あー……うん、わかった。行くよ」


 待ってましたとばかりに安藤がパチンと指を鳴らした。


「よし、そうこなくちゃな。俺は掃除当番だから、田中と靴箱で待ってろよ」

「うん…………」


 そう言うと、二人は満足そうに自分の席に戻って行った。


 まあ、適当にやり過ごせばいいか……。


 憂鬱な気持ちを抑えて、現実と折り合いをつけるように、紘登は深く溜め息をついた。


 そして息を吸おうとした瞬間、紘登の目の前に麗哉が立っていることに気づいた。


「フンンンガッ!!」


 驚きのあまり、息を吸う勢いがつきすぎて豚の鳴き声のような大きな音が教室に鳴り響いた。黒板付近にいた小町が紘登の方を振り向く。恥ずかしさのあまり、紘登は両手で顔を覆った。麗哉が現れるといつもこうだ。間抜けで恥ずかしいところばかり見られてしまう。麗哉と小町、ダブル美人に醜態を見られたら、もう、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。麗哉はスラックスのポケットに両手を突っ込んで黙っていたが、無表情のまま口を開いた。


「豚」


 麗哉の端的な一言は、瀕死の紘登にトドメを刺した。


「君が急に……っ、目の前に現れるから驚いたんだよ! 恥ずかしいなあ、もう! 全部君のせいだからな!」

「俺のせいにするな」


 クラスメイトが驚きの視線で自分たちを見ていることを紘登は感じた。「あの楠が沢田なんかと話をしている」「豚みたいな鼻息のくせして生意気な」と言うような雰囲気だ。ああ、穴があったら入りたい――。


「へえ、結構読み進めたんだな」


 紘登の苦悶など意に介さず、麗哉は紘登の机上の本に挟まれた栞の位置を見て微笑んだ。どうしたら微笑みひとつにここまで気品を薫らせられるのだろうか。なんだか色々なことがどうでもよくなってくる。こんな気持ちを田中と安藤といるときに感じたことはない。


 予鈴が鳴る。散らばっていた生徒が自分の席に戻り始める。麗哉も席に戻ろうと、気怠そうに踵を返した。


 引き止めたい。まだ麗哉と話がしたい。


 麗哉を求める気持ちに突き動かされ、半ば無意識に紘登は席を立ち、麗哉の腕を引いた。断られたらどうしよう、とは考えなかった。


「放課後は、何か用事ある……?」


 麗哉は驚いたように一瞬だけ目を開いて、かすかに首を横に振った。


「ないけど」

「じゃあ、さ、待ってる。図書室で待ってるから、あのさ」

「楠くん、沢田くん、席に着いて。授業を始めます」


 いつの間にか教壇に立っていた松川に注意されて、紘登は麗哉の腕を離した。麗哉は握られた腕を軽くさすって、紘登を見つめながらわずかに目を細めた。


 わかった。


 声を出さずに唇だけを微かに動かして、麗哉は席に戻って行った。


 ちょっと、今のは反則だろう。最後に口角を上げて、やわらかく微笑んだぞ、麗哉が僕に向けて、笑った。


 田中と安藤との約束は破る。悩むまでもなく、自分の心が選びたがっているものはここにある。


 古典の授業中、紘登の胸は期待と高揚で高鳴っていた。紘登は無益な付き合いを切り、麗哉と過ごす放課後を選んだ。



 ☆



「お前、安藤達あいつらと約束してたんじゃないのか? 」

「……ううん? してないよ」


 安藤と田中には「気分が悪いから今日はやめておく」と断って、紘登は麗哉と二人きりで放課後の図書室にいる。


 麗哉は長机に腰を下ろし、図書室の鍵を片手で弄んでいる。『図書室』と金字で彫られた細長い透明な四角柱の飾りと麗哉の長い指が絡み、チャリ、と金属音がなる。耳のあたりがくすぐられるような感覚がして、紘登は軽く咳をした。


 安藤たちとの約束を破った罪悪感は少なからずある。でも、麗哉は紘登の誘いに乗ってくれた。罪悪感よりも充実感が勝っている。今自分が優先するべきなのは、居場所作りの付き合いではなく麗哉だ。自分は今、麗哉の虜になっている。


「そうだ、君が貸してくれた本、すごく面白いよ。読むのにはやっぱり時間かかっちゃって、まだ途中だけど」

「結構読み進めてたな。あの辺りだと……三人のセックスは終わった?」

「え!?」


 サラッとネタバレを投下されてしまった。そして、ネタバレ以上に驚いた。


「あ、まだだったのか……悪いな」

「ほ、本当だよ! ネタバレ、ダメ、絶対!」

「そんなに動揺しなくても」

「別に動揺なんかしてませんよ」

「はあ? さっきからキョドキョドしてるだろ」

「キュドキョドなんてしてない!」

「ほら噛んだ」

「はいよしそこまで言うのなら認めてあげますよ、はーいキョドキョドしてます〜〜! どうも、キョドリアンです〜〜!」


 紘登は動揺を隠したい一心で、ヤケクソで両手を上げ、舌を出しおどけてみせた。その奇行は麗哉の気に障ったようで、間髪入れずに思いきりの力で頬を掴まれた。目に迫力があったので紘登は真顔に戻った。


「なんだ? お前は間抜けヅラを晒すために俺を図書室に呼んだのか?」

「ちがゆます」

「ちがゆ? お前、この期に及んでまだふざけるのか?」

「だって君が顔をちゅかんでうかあ」

「はあ?」

「君がっ、顔を、掴んでうから、ちゃんと喋れにゃいんだろ!!」

「ちゅーとかにゃーとか、お前は一体いくつのつもり?」

「君とおにゃじ年だ」

「俺はそんな幼児語は使わない」

「君がしょの手を離したら、僕の軽やかな早口言葉をじょんぶんにお聞かしぇしてやりゅよ」


 麗哉と紘登は顔を見合わせた。同時に笑いを堪えるような顔になって、廊下まで声が響くほど笑いあった。麗哉は笑いすぎて目に浮かんだ涙を指で拭っている。


「お前、面白いな。俺、こんなにくだらないことで笑ったの初めてだ」

「くだらないってなんだよ……キョドリアンのことかー!?」

「それはやめろ、気に障る……クッ……」


 麗哉は顔を押さえて、笑い声をくぐもらせながら身体を震わせた。


 今日、安藤の家に行かなくて良かった。麗哉を選んで正解だったと心から思える。


 麗哉があまりにも笑うから、紘登はキョドリアンを演じながら彼の周りをぐるぐると回った。普段ならこんな行動は絶対にしないんだけど、麗哉を笑わせるためならどんなことでもできる気がした。麗哉のまわりを三周したころ、突然顔を上げた麗哉にネクタイをつかまれて、真顔で「いい加減にしろ」と言われたので、「ちゅみまちぇん」と返した。麗哉が吹き出して、やり取りは振り出しに戻る。


 このやりとりを何度か繰り返した頃に下校時刻を知らせるチャイムが鳴ったので、二人は図書室を後にした。その姿はまるで友達のようだった。

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