5.コラーゲン不足
職員室の扉を開けて右手の壁に備えられている鍵棚には、紘登の予想通り、図書室の鍵が残っていた。当番を放棄してくれてありがとう。今度会ったらお礼を言おうと絶対に果たさない誓いを心の中で立て、紘登は鍵を持ち出して放課後の図書室を解放した。途中で何名かの職員とすれ違ったけれど、特に気に留められることもなかった。
図書室に入ると、誰もいないことをいいことに、麗哉は長机に腰掛けて足を組んで座った。同じように紘登も向かいの長机に腰掛けたが、背筋が伸びてしまってどうにもぎこちない。古い机はキィキィと音を立てながら、語り合う二人の体重を支えていた。
麗哉は言葉の軽重について一家言あるようだ。
「……だから、言葉の本来の尊さが失われていると思うんだ」
「本来の尊さ……」
「『尊い』なんて言葉もそうだな。本来の意味を理解した上で口にしなければ何の重みも無いのに、無駄に連呼する奴がいるだろ? 覚えたての言葉を使いたいだけって感じがして気に入らない」
麗哉はとても詩的な口調で話す。言葉の端々から麗哉という人間が感じられる丁寧な話し方はとても好ましく、自分との会話のために言葉を紡いでくれることが嬉しくて、胸があたたかくなる。
「君はいつもそういう難しいことを考えているの?」
「俺は常に考えているよ。知りたいことと同じくらい、わからないことが多すぎるからな」
「わからないこと?」
「……愛情、とか」
突然、ひどく情緒的な言葉が出てきたので驚いた。麗哉は精悍な表情を崩さずにこちらを見つめて……手の甲を口元に当てて、ククク、と堪えるように笑った。
「沢田、お前は本当に顔に似合わず顔芸が得意なんだな……ははっ、おかしい」
「か、顔芸……!? 失敬な! どこがおかしいんだよだよ!」
「顔」
「顔!?」
「いや、お前は黙っていればわりと……今『だよだよ』って二回言った?」
聞き逃してもらえなかった。砕けた口調で話すことに妙に萎縮して、奇妙な語尾になってしまったのだ。麗哉の言葉に紘登の挙動不審を揶揄する響きはないが、紘登は唇を尖らせてごまかすように視線を逸らした。やはり、話すことは得意じゃない。麗哉はリラックスしているけれど、紘登は麗哉と話せることが嬉しくて堪らなくて、同時にとても緊張している。
だって、僕らは対等じゃないんだ。
いつもクラスの陰にいる紘登と、誰からも一目置かれている麗哉。こうして二人で話していても紘登はずっと圧倒されているし、彼の言動一つ一つに敏感に反応している。恥ずかしくなって、紘登は唇を噛んでうつむいた。そんな紘登に麗哉は容赦なく切り出す。
「お前、いつも一緒にいる奴らがいるけど、楽しい?」
紘登は締まる声帯から、なんとか震えないように声を絞り出した。
「……楽しい時と楽しくない時があるよ」
「割合は?」
「2:8」
「それなのにどうして一緒にいるんだ?」
見透かされていたのだろうか。なんとなく居心地が悪くて、麗哉から目を逸らす。
「僕が冴えない奴だから」
「はあ? お前はこうやって俺と文学の話ができるだろう」
「君と………」
「ゲーテすら読んだことのない冴えない奴なんか、早く手を切るといい」
「ゲーテを読んでいると冴えるのかい?」
「俺の統計で言うとそうなる」
無茶苦茶だ。
「なら、君がずっと一人でいるのはそういうこと?」
「そういうこと」
「付き合いで話をするのは嫌い?」
「嫌い」
「それは君が強いからだ」
「周りの奴らが弱いだけさ」
その言葉から紘登は感じた。麗哉は、本当はずっと誰かと話がしたかったんじゃないか。好きな本の話を、夢中になっている文学の世界を、誰かと共有したかったのではないか――。紘登の頬の力が抜けた。自然と言葉が出てくる。
「………………本、ありがとうね。帰ったら一番に読むよ。読み終わったら汚してしまっていないかチェックしてシミにならない程度に念入りに消毒して折れ跡がつかないように開いて乾燥させて、それから」
「普通に返せばいいだろう」
紘登の冗談に、麗哉は笑ってくれた。空っぽの体の中に麗哉の笑顔が注がれる。ああ、満たされたような気持ちになる。
「ああ、そうだ。ちょっとこっちに来い」
「え?」
「来い」
有無を言わさぬ物言いに従い、紘登は机を降りて麗哉の前に立った。麗哉の足の間に挟まれるような形になる。
麗哉は制服のポケットから何かを取り出した。
麗哉の手が紘登の顎を持ち上げる。
その仕草と麗哉の顔の近さに動揺して、紘登は真っ赤になった。
「なんですか……!?」
「口を閉じろ。………その顔芸もやめろ」
ああもう、また間抜けな顔をしてしまったようだ。麗哉に従ってやけくそで口を閉じたが、連動して目も一緒にギュッと閉じてしまった。唇が何かになぞられて、こそばゆい感覚と甘い香りがする。この香りは……わかった、イチゴだ。
恐る恐る目を開けると、麗哉の手に何かが握られていた。
「リップクリーム……?」
濃紺のスティックタイプのリップクリームだった。一通り塗り終わると麗哉の手はするりと紘登の顎から離れ、ゆったりとした動作でキャップを付けて、ペン回しをするようにリップクリームを回した。
「新品なんだ。お前は唇を噛むクセがあるようだから、使うといい」
麗哉は紘登のスラックスのポケットにリップクリームを入れた。
「僕、貰ってばっかりだ」
「見返りなんて求めないさ」
帰るぞ、と言って麗哉も机から降りた。気づけば時計は五時を指していた。間も無く下校時間を知らせるチャイムが鳴った。
図書室の鍵を職員室に返し、紘登よりも頭一つ分背の高い麗哉を見上げる形で、二人は隣に並んで校舎を出た。
顎に添えられた麗哉の指の感触が今も残っている。リップクリームの香りが紘登の好きなイチゴだったことは、奇跡的な偶然だろうか。
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