4.僕だけが彼の唯一の
翌朝のホームルームの後、安藤が紘登の席にやってきて、チラシの切り抜きの大きなネコの写真を見せた。昨日の話題の延長で紘登に見せようと持ってきたらしい。
しかし、紘登の頭の中では昨日麗哉と話した内容が何度も再生されていて、安藤の話は全く耳に入ってこない。見るに堪えない安藤の鼻の辺りをピントをぼかしてぼんやりと眺めながら、麗哉の指の動き、声のトーン、微笑み、香り、五感全てで麗哉を反芻する。
あの図書室での夢のようなひとときを思えば、安藤の与太話などブタの鼻息ほどの雑音にしか聞こえない。本当に耳障りな声だと思って、紘登は安藤に気づかれないように溜息をついた。
ブヒブヒブヒブヒブヒ……ブ……ブヒ? ブヒィ……。
突然、安藤の鼻息が切れた。ピントを合わせてみると、安藤の視線の先には、無表情のままこちらを向いている麗哉がいた。麗哉は紘登の瞳をまっすぐ開いて、唇を開いた。
「沢田」
「ファイ!」
「……いい返事だな」
声がひっくり返ってしまった。突然話しかけられたから、心の準備ができていない。
昨日打ち解けたはずの紘登に挙動不審な反応をされた麗哉は心外そうに眉をひそめながら、濃緑のブックカバーがかけられた文庫本を差し出した。いつも麗哉が持っている本にかけられているのと同じ、革のブックカバーだ。
「ゲーテ、『若きウェルテルの悩み』は読んだことないって言ってたから。これ、読んだら?」
「これ、君の本なんじゃないの!?」
「そうだけど」
「借りていいの……?」
「そう言っているだろう」
麗哉が自分に本を貸してくれるなんて……。感激しながら本を受け取ろうと手を伸ばしたが、空振りして勢いよく机にぶつけて轟音。凄まじい痛みに紘登が顔をしかめると、麗哉がクスリと笑った。
なんていうんだろう、この気持ち。恥ずかしいのに、いやじゃない。
絶妙な間を読んで、意を決したように安藤が麗哉に話しかけた。
「な、なあ、それ何? マンガ?」
「黙れ」
一蹴された安藤は、居心地悪そうに頷いて俯いた。紘登なら泣いていたかもしれないが、安藤のフォローをする気は微塵も湧かなかった。麗哉との会話の邪魔をしないでほしいと思う。
受け取った本を机に置くのもカバンに仕舞うのも憚られて、両手に持ったまま、紘登は麗哉に笑いかけた。今ならもう一歩、彼に近づける気がする。
「明日、僕のオススメの本を持ってくるね」
「いや、いい。本を借りるのは嫌いなんだ」
「あ、そうですか……」
貸すのは良いが、借りるのは嫌。麗哉のルールを頭に刻む。オススメの作品を貸し借りできる関係を築けたりしちゃうのかと思ったが、そういうわけではないようだ。
「面白い本があるのなら教えてくれ。買って読む……」
言葉を続けた麗哉が不自然に黙ったので、紘登の体が強張った。麗哉は紘登の目を見つめていた。
「お前、俺のことをよく見ているよな」
「え?」
「授業中とか、わりと、ずっと」
紘登の全身からサァッと血の気が引く。まさか気づかれていたなんて。紘登は瞬発的に、ここは誤魔化そうと思った。
「ぜぇんぜん見てないですようー!?」
とんでもない早口になってしまった。
「嘘をつくな」
「見てないってば。勘違いだよ。マボロシッ」
「勘違いなわけあるか。あれだけ見られたら誰だってわかるさ。お前、そんなに俺の顔が好きなの?」
紘登は思わず咳き込んだ。全くその通りすぎて返す言葉がない。顔を赤くして戸惑う紘登を見て、麗哉は目を艶やかに細めて蠱惑的に笑った。ああ、この笑い方はズルい。こんな笑みを見せられたら、誰でも彼の虜になるだろ。その笑みの先にいるのが僕なら、赤子の手を捻るよりも簡単に陥落されてしまう。
予鈴が鳴って、賑やかな教室の空気が次の授業の準備モードに切り替わった。
「一限、理科室だな。行こう」
「あ、う、うん!」
居心地の悪そうな安藤を置き去りにして紘登は席を立ち、麗哉の隣に並んだ。隣に並んで歩くなんて、まるで友達のようだ。
僕は麗哉の唯一の友達……。
だらしなくにやけてしまいそうになるのを堪えて、麗哉の隣を歩く存在として相応しいように、紘登は澄ました表情を作った。紘登の表情が変わる瞬間を目撃した麗哉は声を出して笑った。
☆
理科の授業が終わると、麗哉はまっすぐに紘登のところにやってきた。
「やっぱり見ていただろ」
「見てないですようー!」
指摘されたばかりなので、理科の授業中は麗哉の方を向かないように努めたのだ。それでも誘惑に勝てず、二、三度麗哉の方を見たのが、いずれも麗哉は頬杖をついて目を閉じていたので、気づかれていたとは思わなかった。麗哉は得意げに唇だけで笑って、紘登に問う。
「今日も図書室に行くのか?」
「ううん、今日は当番じゃないから……どうして?」
「いや、別に。違うのなら、いいんだけど……」
麗哉が何かを伝えあぐねているので、紘登はじっと待った。大きな瞳が伏せられている。間近で見ると、麗哉が精巧に創られた人形のように繊細で美しい顔立ちをしているのがよくわかる。盗み見るよりもずっと凄い。麗哉の正面なんて、舞台の最前列を超えて舞台に上がっちゃっているくらいの特等席だ。少しの沈黙を経て、麗哉は小さく溜息をついた。
「……あそこは人が少ないから、話をするのに丁度いいと思ったんだ」
ピンときた。これは麗哉なりの放課後のお誘いだ。
紘登は胸が高鳴るままに、教科書とノートの間に挟んだ手帳を取り出してパラパラとめくった。最後から二枚目のページに、図書当番の表を写し書きしてあるのだ。
「あ、でも今日の当番は隣の組の……いつもサボる人だから、代わりに図書室を開けることもできるよ」
「当番じゃないのにわざわざ開けるのか」
「君が行くと言うのなら、だけど」
少し考えるように唇を尖らせ、麗哉は頷いた。
「そうだな、行こう。昨日の話の続きがしたい」
一匹狼を貫いていた麗哉が、突然、地味で冴えない紘登と行動するようになった。クラスメイトたちは敏感に反応して、二人のことを話題にしていた。紘登がクラスメイトたちの視線に気づいたとき、胸に優越感が芽生えるのを感じた。
僕は、あの楠麗哉の隣に立っている。
彼は、僕と話をしたがっている。
僕は、彼の唯一の友達。
その微笑ましいくらいに浮き足立った自意識は、後に紘登にこの上ない歓びとささやかな破滅をもたらすことになる。
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