閑話:サー・ロビンソンは決意する

「暇をいただきたい」


 その日、夜に戻ってきたカレル・ド・ベルエニー子爵に、サー・ウィリアム・ロビンソンは告げた。

 執務机に両肘をつき、手を組んだ上に顎を乗せて、カレルは目の前に立つ偉丈夫を上目づかいに見つめる。


「理由を聞いてもいいか?」

「……婚約者に逃げられまして」


 ウィルの眉間にはしわが寄り、目元には疲れが見える。

 カレルも眉根を寄せる。婚約者が来ていた話は聞いていた。元気になったら会わせてくれと言ったばかりだったのに、逃げられたとは穏便じゃない。


「……何をやったんだ?」

「何も……いえ、私の不徳の致すところです」


 ウィルの表情は変わらない。

 よほどひどいことを言ったのか、それともされたのか。逃げられたことがよほどショックなのだろう、とカレルはそれ以上聞かないことにした。


「クリスティナ嬢はどこの令嬢だ?」

「……私の出身地メセナの娘です」

「メセナか……それは遠いな」


 ベルエニー子爵の本宅はウィスカ王国の最北端にある。メセナ地方と言えば、西の隣国ダシェール王国のあるあたりで、ウィスカ王国が羊毛を買っている仲の良い国だ。国民の行き来も自由である。

 使用人からは、栗毛の女性だったと聞いていた。ダシェールはもともと黒髪の民族だが、ウィスカの色素の薄い民族と交じり合うことで栗毛色の者も最近増えたと聞いている。ウィルはその中でも珍しい銀髪で、周囲からはかなり浮いて見えたことだろう。


「はい」

「……わかった。では、里帰りということで許可しよう」

「ありがとうございます」


 ウィルが深々と頭を下げると、カレルは机の引き出しを開けて紙を抜き出した。


「ただし、期間は一年」

「……は?」


 腰を曲げたまま、ウィルは顔を上げた。


「その間に、婚約者との仲を回復させて娶(めと)れ」

「か、カレル様?」

「ウィル、お前何歳になった?」


 体を起こすと、ウィルは怪訝そうな顔でカレルを見つつ、「もうじき三十三になりますが」と返答をした。

 カレルは肘をつくのをやめて背を椅子に預け、自分より五歳年上のウィルを見あげた。


「そろそろ身を固めろ。……そうでなくとも浮いた話一つ聞かないから、結婚する気がないのかと思っていたんだ。殿下と相談して、相応の女性を探すことになった途端に婚約者が来たと耳にして驚いたんだ。そういう存在がいるのなら、こちらで用意する必要はないだろう?」


 殿下、と言われてウィルは背筋を伸ばした。

 カレルは今でこそベルエニー家の嫡男として爵位を継いでいるが、それ以前は第三王子セレシュ様――現在は臣籍に下ってチェルシー公爵となっているが――の懐刀だったのだ。

 ダシェールの軍籍にあったウィルがカレルと会ったのも、セレシュ様に引き合わされてのことだ。

 その後、紆余曲折があってカレルの従僕のような立場になっているわけなのだが、恩のあるセレシュ様にはやはり頭が上がらない。


「もし、俺自身や待遇に不満があって、他所に移るというのなら引き留めることはできないと思っていたが、そうでないのなら、戻ってきてほしいと思っている。もちろん、俺の勝手な願いだが」

「カレル様……」

「それに、北の砦のヌシから、いつまで英雄ウィルをお前の使いっ走りにしとくつもりだと怒られた」


 そう告げるカレルはくすりと笑っている。ウィルは顔を青くして首を横に振った。


「やめてください、そんな実力は俺には……」

「あるだろ? 大国と渡り合った英雄なんだから」


 ウィルは照れて赤くなるのと血の気が引いて青くなるのとを交互に繰り返している。

 故郷で英雄と呼ばれたウィルは、騎士爵と共にサーの称号を頂いている。本来なら、故郷で将軍にもなれた傑物なのだ。


「セレシュに無理言ってウィルを引き抜いたのも、その実戦経験と腕を買ってのことだ。北の砦の者たちは確かに屈強だが、実戦経験はない。おそらくウィルより強いのは、北の砦のヌシぐらいだろうな。手合わせしたいと言っていたよ」


 年寄りの冷や水だよな、とカレルは笑う。北の砦のヌシについてはウィルも知っているのだろう。

 恐縮です、と言い頭を下げる。


「だから、一年の休暇が終わったら、北の砦に行ってもらいたいと思ってる」

「……他国人の俺が王国騎士団に入れるはずがありません」

「ウィルに関しては別格だよ。もともとそのために来てもらったようなものだし」


 そこまで告げて、カレルは言葉を切った。

 ウィルが目を上げると、カレルはまっすぐウィルを見ていた。


「もちろん、ウィルの思うようにしてくれてかまわない。セレシュがどうの俺がどうのというのは考えなくていい。婚約者と上手くいって、故郷に帰るというならそれでもいい」

「いえ、そういうわけには」

「今後のことも含めて考える時間としての一年だ。……給金は前払いで受け取れるようにしておく。馬も好きなのを連れていけ。他に力が必要な時にはいつでも言って欲しい」


 ここに来て、ずいぶん楽な生活を送らせてもらっている。北の大国と接した前線とはいえ、今のところ停戦状態は続いている。ただ、きな臭くなっているのは事実であるらしい。でなければ自分が呼ばれるはずがない、とウィルも自覚はしている。

 今までの分をきちんとお返ししたい。そのために、戻ってくると心に決めた。


「ありがとうございます。……必ず戻ってきます」

「ああ。……クリスティナ嬢とうまくいくことを願っているよ」


 カレルの言葉に頭を下げ、ウィルは執務室を出た。


 ◇◇◇◇


 さて、と自室に戻って片づけを始める。

 それほど長くいたわけではないが、それなりに荷物は増えるものだ。

 どれほど長い旅になるかはわからない。だから、十分な準備はしておくべきだろう。

 まずは、彼女の――彼の店へと向かうことだけは決めていた。

 もうすでに店を引き払っているかもしれない。それでも、今ウィルが縋れる手掛かりはあそこだけなのだ。


「アリス……」


 脳裏には、栗色の髪にエメラルドの瞳をきらめかせた笑う彼女の顔が浮かんでいる。店で会った金髪のアリスより、綺麗に着飾った彼女の姿を見てしまったからだろう。

 必ず君を捕まえる。

 あの女……師匠、と呼んでいたあの女が言い残した言葉が蘇る。


 ――彼女が好きなら追って来い。お前の力なら……。


 あとは覚えていない。ところどころ記憶が飛んでいるのも、何かされたせいなのだろう。

 あの後、目が覚めた時には彼女たちは消えていて、部屋があれたような痕跡も窓が吹き飛ばされた後も残っていなかった。

 そっと左手首に手をやる。赤黒いあざのようにぐるりと巻き付いたそれがなければ、完全に夢だと思っただろう。

 刺青のようなそれは、どうやら茨を模したもののようだった。


「……追って行ってやるとも」


 俺の力が何だというのかわからないが、追って来いというなら行ってやる。

 顔を上げたウィルの表情には、強い決意が浮かんでいた。

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