七、東魏と西魏


 爾朱栄が誅殺された次の年(五三一年)、高歓は高乾兄弟ら河北の名族と連携、信都で自立する。さらにその翌年、韓陵山の戦いで二十万の爾朱兆軍を敗り、元脩げんしゅう(孝武帝)を帝位につけ、晋陽に幕府を開く。そして名ばかりの洛陽の北魏朝廷を遠隔操作した。一方、長安を中心とする関中には、宇文泰らが独自勢力を結集、出奔した孝武帝を長安に迎え入れる。

 高歓は出帝孝武帝に替え、元善見(孝静帝)を擁立する。孝武帝を殺した宇文泰は元宝炬(文帝)を立てる。

 かくて一世紀半にわたって華北に君臨した北魏は、鄴を都とする東魏と長安を都とする西魏に分裂(五三五年)、東西で鎬を削る対決がはじまったのだ。


 当初、鮮卑兵の大部分を掌握し、漢人部隊をも加えた東魏の高歓集団は、軍事・経済・人口の各方面で絶対的に優位な勢力を誇っていた。黄河流域を占拠し、経済的に発達していた東魏が、人口二千余万、兵数二十万を保有していたのにたいし、肥沃な国土に恵まれない西魏は、人口一千万、宇文泰が直接掌握できる軍隊の兵数は三万余にすぎなかった。

 華北の統一に向けて意気盛んな東魏と、戦に備えようにも員数合わせで大わらわの西魏とでは、はじめから勝負にならない。だれもがそう考えて、疑わなかった。


 だから宇文泰は乾坤一擲、大勝負に出た。富国強兵を国つくりの根幹におき、漢人で関中武功に住いする蘇綽そしゃくを抜擢、大行台左丞に任用して、政治改革を断行した。

 蘇綽は宇文泰の期待にこたえ、『周礼しゅらい』を国是とする国家運営を推し進めたのである。

 元来、蘇綽は「算術上手」で知られた男だ。いまならさしずめ経済に明るいタレント教授といった按配で、政府顧問として重宝されていただろう。弁が立ち、古今東西の事歴に通じていたから、聞く人を飽かすということがない。宇文泰あいてに天下の興亡を語り、立て板に水のごとく、その理非曲直を解明して見せた。漁に伴えば投げ網を忘れ、居宅に呼べば寝るのを忘れて、宇文泰は聞き入った。しきりにあいづちを打ち、ときに共感の意をしめすほどに熱中し、結果、迷わず蘇綽に、改革を全面委任した。


 蘇綽は五四六年、道半ばで逝去するが、観念的でなく実行可能な実用的改革案を施策の基本にすえ、富国強兵を実現に導いた。さしずめ蘇綽本人なら、自己の改革を簡便にこう説明するはずだ。

「西魏の朝廷は漢族とも胡族ともつかない雑多な種族の混成集団ですから、北魏の孝文帝にならい、『周礼』にのっとった周代の単純素朴な官制を復元し、政治・軍隊の再編成をおこないます。すなわち、天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官の六系統の諸官が、宮中・地方行政と教育・祭祀・軍政・司法・軍需調達をつかさどり、祭政一致の官僚政治を実行します。また国軍強化のために、六柱国十二大将軍ひきいる二十四軍制をとり、胡漢にこだわらず徴兵します。さらに六条証書を策定し、諸官人・地方官の心構えとします」

 六条証書とは、「自らの心を治め、民の教化をあつくし、農耕など地の利を尽くし、優秀な人材を用い、訴訟を誤らず、賦役を公平に扱う」という六ヵ条からなる心構えのことで、これを諸官に暗証させ、日々唱えさせたのだ。官吏登用の必須条件だったから志望者は覚えざるを得ない。多くの時間をかけずとも容易に浸透し、実行された。


 並立状態の東西両魏は、高歓軍団と宇文泰軍団とのあいだで、五三六-五四六年の十一年間に五次にわたる会戦をおこなう。両将とも爾朱栄陣営から離脱した勇将である。はじめ東魏は圧倒的な兵力に守られ優勢を占めていたが、思うほどには勝利を奪うことができず、かえって宇文泰の手の内で踊らされ、しだいに勢力を弱めてゆく。

 富国強兵策が実を結んだ証左といえるが、五度の会戦をほぼ四勝一敗で乗り切った西魏は、やがて北周から隋へと天下一統の道を駆け上ることになる。


「三万の兵を拝借願いたい。長江をわたって蕭衍しょうえんじじいをふん捕まえ、太平寺の住職にでもしてくれよう」

 侯景は高歓の前で豪語した。

 大言壮語は侯景の代名詞だ。もとより深い考えがあっての発言ではなく、その場の勢いにまかせての放言にちかい。

 事情を知るまわりのものたちは、「またか」とやりすごし、度をすぎたばあいにのみ、「口は禍のもと。たいがいになされよ」とたしなめるのがせいぜいだった。

 はじめて耳にしたものは呆気にとられて、ことばもない。

 かつて朔北の狼を自任した孤高の男は、いまや空腹を忘れ、孤高を捨てた。意識して周囲に交わり、おもしろおかしく戦を語るすべを身につけた。

 なかでも針小棒大の法螺話は、かえって愛嬌とみなされ、非難をまぬがれた。奔放だが憎めぬやつと、人の目には映ったのである。調子に乗ると舌がよく回る。高らかに声音もよく響く。本人に悪気はない。


「蕭衍を捕えてみせる」

 いつものように、まず侯景が吼えた。

「壮士なり」

 高歓は手を打って興じ、さらにはやし立てる。

「だが、梁はあとでよい。まずは西魏を攻める」

「応、いかにも承った。ことのついでに、かの小癪な宇文泰めも、ひっ捕らえてご覧にいれよう。なに、騎兵の数千もあればじゅうぶんでござる」

 酒席の戯言ざれごとではない。軍議評定の席での発言だ。

 高歓は、のちに北斉建国の基礎を築く高祖神武皇帝だ。もっとも、生前に帝位にはついていない。神武皇帝は死後の追贈だ。このころは東魏の権臣で、国政を牛耳っていた。孝静帝をさしおいて国事を処断する、実質上の支配者だといっていい。

 その高歓に侯景は信服し、高歓もまた侯景の実力を評価していた。

 侯景はただの猪武者ではない。騎馬軍団の指揮にかけては他の追随を許さなかった。強いという以上に、策謀に長じていたのだ。諸将のなかでは、高敖曹こうごうそう彭楽ほうらくが勇者として一世を風靡していたが、「奴等は単なる猪武者だ。とるに足らん!」と、侯景は常に彼等を軽視していた。

 高歓は侯景を見込んで河南大将軍に任じていた。十万の兵を預け、東魏が西魏に対抗する最前線の防御をまかせていたのだ。三十代初めから四十五までの十余年間、まさに脂の乗り切った年代だった。後半、円熟味を増すにしたがい、若いころの陣頭きって軍団をひっぱる豪快さはさすがに影をひそめていた。もっとも、あえてなした、といえなくもない。

「大将軍は軍団の指揮にかけては天下一品で、戦の晴れ舞台で遅れを取ったことはない。ただし右足が短いから乗馬は苦手で、騎乗で弓を引いても的に当たったためしがない」

「神弦手」の異名をとった侯景の昔を知らない若い兵士らは、平気で大将軍を揶揄した。

 陳慶之がそうであったように、個人技の拙劣さは、指揮上手をいっそう際立たせており、揶揄のなかに親しみが込められている。兵士らは、天下一の指揮にしたがい、自由闊達でいながら一糸乱れず動いた。信頼できる指揮官のもと、安心して命を預け、戦に専念できたのだ。

 すでに述べたが、東西両魏が分立して二年後の五三六年十月、梁に侵入した七万の侯景軍は、わずか一万に満たない陳慶之軍によって翻弄され、敗走を余儀なくされた。

 その戦敗の反省が侯景をかえた。慕容紹宗による啓発が直接の引き金となり、ほんぜんと悟った侯景は己をかえ、自己の騎馬軍団を一変した。戦神といわれた陳慶之の伝説の白袍騎馬軍団に学んで訓練をかさね、融通無碍ゆうずうむげの侯景騎馬軍団に作りかえたのだ。


「勝てる!」

「小関の戦」をまえに、高歓は必勝の確信を得た。

 西魏大統二年(五三六年)、宇文泰が占拠した関中地区で大規模な旱魃が発生した。『資治通鑒』の記載によると、「ひと相食あいはむ。死すもの十に七、八」という惨状だ。

 高歓は宿敵宇文泰がこのような窮地に立たされているのをみて、勝機と判断した。西魏討伐の大軍を発動し、三路に分けて侵攻した。将軍竇泰とうたいひきいる右路軍を潼関とうかんに、司徒高敖曹ひきいる左路軍を藍田に向けた。そして高歓はみずから大軍をひきいて山西の要地蒲坂ほはんを直撃、黄河を跨いで三本の浮橋をつくり、一気に黄河を渡ろうとした。

 北から南に流れる黄河は、蒲坂の南三十キロの潼関あたりで、ほぼ直角方向の東に向きをかえる。潼関の西北西百余キロに藍田があり、さらに西北に三十五キロゆくと長安に達する。東魏三路侵攻軍の目標は、いずれも長安だ。

 迎え撃つ宇文泰は、敵方の陣容を聞くや、手もなく高歓の策略を見破った。

「東を撃つと見せながら、その実、西を攻める――われらの虚を突く奇策である」

 部下にたいして解き明かすことばには、説得力がある。

「高歓が渡せし浮橋は、見せかけの作り物だ。われらが主力を牽制しようとの思惑である。賊徒どもはわれらを三方から攻撃しようとたくらんでいる。このうち浮橋による渡河は囮だ。高歓の大軍が待ち構えているから、われらも対岸に主力を結集する。敵の本意は両軍対峙するこの間に、右路軍を西進させることにある。だから、われらは敵の裏をかき、蒲坂の浮橋を攻めると見せかけて北上するが、その途中で反転する。竇泰の右路軍がわれらの北進をやり過ごし、長躯長安に突き進めばしめたものだ。竇泰は本隊の先鋒隊だから、兵数は多くない。本隊が到着するまでの時間稼ぎで暴れておればよいので、持久性に欠ける。われらが反転し、背後から襲えば苦もなく蹴散らせる。竇泰の先鋒隊が敗れれば、高歓の本隊は戦わずして撤退し、援護のない高敖曹の左路軍は自滅する以外に道はない」

「お待ちください、大将軍。高歓の本隊が囮というのは、あくまでも浮橋ができるまでの仮のことにございます。浮橋が完成すれば、高歓は黄河を渡り、全軍上げて攻め寄せます」

 同族の宇文深が、宇文泰に再考をうながした。

「ならばどうする。浮橋の完成まで、五日しか待てぬと聞いておる」

「反転を悟られてはなりませぬ。蒲坂へはそのまま進み、浮橋工事を妨害させてください」

「竇泰の右路軍はどうする。捨ておくのか」

「小関に少数ですが、騎兵の精鋭を待機させてあります。わが軍が竇泰の軍を攻めず、蒲坂に向かったと知れば、竇泰は安心して防御の手を抜きます。そこを急襲します」

「本軍が北上した日に、別働隊が夜襲するのだな。寝入りばなを襲え。近在の農民をかき集めておき、騎兵が突っ込んだあとを追わせろ。この飢饉だ。物取り勝手とはやしたてれば、人は集まる。歩兵替わりに使える」

「小関の戦」は、潼関近くの小関を主戦場にして戦われたが、三路に分れた東魏軍の動きは、宇文泰の予測の正しさをほぼ実証した。

 西魏の討伐軍が潼関を避け、蒲坂に向かったと知った竇泰の軍勢は緊張を解き、束の間の安息に入った。戦闘意欲を失った軍隊ほど無力なものはない。

 予期せぬ夜半の急襲で、竇泰の全軍は壊滅した。散りぢりになって東に逃げる一群のなかに竇泰の姿があったと噂されたが、発見されたときは首吊り死体になっていた。ほんらい勝てるはずの戦に遅れをとっては、高歓に合わせる顔がなかったのだろうと、人の口は手厳しい。兵糧米を取り合っていっときの飢えをしのいだ農民は、東に向かって膝まづいて拝み、謝意を表した。

 蒲坂の浮橋は完成直前だったが、小関の戦敗で撤収し、本隊も撤退した。東西両軍の兵卒は黄河の両岸に立って、戦せずにすんだことを喜びあった。

 一方、高敖曹ひきいる東魏の左路軍は、勇猛果敢に西進し、西魏の上洛城下に侵入した。上洛は藍田の東方七十五キロ、いまの陝西商洛あたりだ。城壁の上から西魏軍は無数の矢を射掛けた。先頭切って突進する騎馬の高敖曹のからだに、三本の矢が突き刺さった。いずれの矢も急所を射抜いていた。ふつうなら転倒するか死んでいる。戦の異常な興奮が、かろうじて命を支えていた。高敖曹は軍馬にうちまたがり、包囲網の先頭に立って、兵士を励ました。やがて城から放たれる矢が尽き、上洛城は陥落した。同時に、高歓・竇泰両軍の敗退の報が、伝令によりもたらされた。

「帰還する」

 高敖曹は四面みな敵のなか、全軍撤退を敢行した。

 周囲は重症を気遣い、単独での逃走をすすめたが、高敖曹は頑として聞かなかった。これにより、両魏間の第一次会戦は、西魏の勝利で決着した。


 探子の報告で侯景は、戦の全容をあらまし把握した。探子は、いわゆる忍びのものだ。河南大将軍を拝命する侯景にとって今回の戦場は、じぶんの守備範囲に隣接する地域だったから、すべての状況を知っておく必要があった。

 高敖曹が重傷を押して陣頭指揮をつづけた武者魂には、驚くと同時に呆れもした。

「これだからいつまでも、猪武者とよばれるのだ。少しは頭を使え。そのまま進んで藍田を抜けば、長安は目と鼻の先だ。宇文泰も、諸将の軍隊も、長安を出払っていたこの時期こそ千載一遇の好機というべきであったろうに」

 ――じぶんなら、長安を陥落させていただろうか。

 そこまで考えて、侯景は思考を中断した。高歓配下の現状では、思うだけでも不遜のそしりを免れかねないと、自ら戒めたのだ。

 ――それにしてもあの男、よう智慧が回る。人の意見を聞く大度もある。まだ伸びる。

 侯景は、宇文泰の力量を積極的に評価していた。かつて偶然に宇文泰と対面したとき、おもわず臆して、声を震わせた記憶がよみがえり、不快になった反動かもしれなかった。

 ――いずれ、わがまえにひれ伏させてくれよう。

 つとめて冷静であるようにと己にいい聞かせ、不確定なその日の実現だけを脳裏に描き、ひそかに侯景は、ほくそ笑んだ。


「小関の戦」に勝利しても、西魏が得るものは少なかった。深刻な飢饉は収まらず、糧食にこと欠く日々が続いた。略奪する以外にない。宇文泰は河南出兵を決断した。

「恒農なら近いので、造作ありません。穀倉を襲うのです」

 常々、宇文深がすすめていた。恒農は潼関の東六十キロ、いまの河南霊宝北にあたる。洛陽からだと西に百五十キロ。

 東魏天平四年(五三七)八月、宇文泰は李弼ら十二将に東魏侵攻を命じた。先鋒は北雍州刺史の于謹とした。于謹はなんなく恒農を抜き、穀倉を開放した。敵兵八千名がわれさきに捕虜となった。敵兵が武器を捨て、競って穀物運び出しの人夫を志願したのだ。最低限、食が保障される見込みがあったからにほかならない。さらに、この一ヶ月ほどの間に、近隣の多くの城堡が東魏から西魏に寝返った。穀物の分け前をもくろんでの行為だった。

 連年、豊饒を謳われた河南の地にも、ようやく飢饉の兆しが忍び寄っていた。戦つづきで生産量が激減し、そのうえ天候不順が重なっていたのだ。

 穀物を運び出したらすぐにも引き上げるつもりが、あれやこれ忙殺され、とうとう一月を超えてしまった。撤退が一日延ばしで遅れており、東魏軍の出動が懸念されていた。

 九月、高歓が動いた。動きは早かった。高敖曹ひきいる三万の軍勢が河南に向かい、宇文泰ひきいる一万に満たない西魏軍を、有無をいわさず包囲した。恒農は兵で埋まった。

 高歓自身は、二十万の大軍をひきいて蒲津(いまの山西永済西)に集結していた。全軍が西を向いて布陣していた。黄河と洛水をわたり、長安に向かって進軍する手はずだった。


 高歓は独断で長安攻略を決意していた。昨年の敗戦で竇泰を死なせたことが腹立たしかった。軍隊の規模からいっても、負けるはずのない戦だった。

「目にもの見せてくれよう」

 復仇の一念が怒りを誘い、人の意見を聞こうとしなかった。

 諸将を代表し、長史の薛叔が説いた。  

「西魏は連年の飢饉で、将兵から民百姓にいたるまで、飢えに苦しんでいます。ですから決死の覚悟で、恒農の穀倉を襲ったのです。しかしその恒農も高敖曹将軍が包囲し、穀物はひと粒たりと、関中には運び出せません。戦をせずとも、包囲を続けるだけで、西魏の国は餓死する民で満ちあふれ、怨嗟の声で国が乱れましょう。もはや長安を攻めずとも、西魏が自壊に追い込まれるは、明らかです」

 侯景は高歓の怒りの理由が分かっていたから、あえて止めることはせず、大事をとるようにとのみ忠告した。

「戦は生き物と同じで、なにが起こるかわかりません。大軍をもって一気に攻めるは、きわめて危険です。せめて十万ずつ前後二軍に分けて進発すれば、危険が分散できます。前軍で勝てば、後軍は温存しておけばよいのです。もし前軍がつまづいても、後軍が残っていますので、十分に形勢を立て直すことが可能です」

 しかし高歓は瞑目したまま沈黙を守り、翌朝、全軍に指示し、蒲津から一気に黄河をわたった。

 その一方で、ひそかに高敖曹に密使を送り、恒農の包囲を解くように指示していた。長安攻撃のまえに西魏の主力軍を殲滅し、勝負あったと満天下に示したかったのだ。


 包囲が解け、かろうじて恒農を脱出した宇文泰は、高歓が黄河をわたった事実を知り、各地からの援軍の到着を待たず、投降兵を合わせた二万の手勢だけで、迎え撃つ作戦を立てた。

「高歓本隊の進路をさえぎり、長安への侵攻を阻止する」

「東魏の本隊は二十万です。背後からは高敖曹が迫っています。このうえは急ぎ長安にたち返って籠城し、援軍の助けを待ってはいかがでしょう」

 諸将は東魏の大軍をおそれ、宇文泰を説得しようとした。宇文泰は少しも声を荒げず、じぶんの本意を、ていねいにくりかえした。

「もしわれらが逃げ帰り、籠城する事態にでもなれば、すわ高歓が侵攻するとの噂が長安中に流れ、大変な混乱が生まれる。人心を不安に導くそんな事態は、極力避けなければならない。そのためにも高歓の本隊を長安に近づけるべきではない。できるだけ長安に遠く、かれらの意表をつくには、どこで待ち伏せるのが最善か、その策を練っていただきたい」

 李弼が諸将の意見をまとめて進言した。

「平原において干戈を交えてはなりません。高歓の進軍に合わせ、いまから待ち受けるなら、さしずめ渭河曲流の沼沢地沙苑しゃえんの先が、戦場に相応しいかと愚考いたします」

 沙苑は、潼関の西三十キロ、蛇行する渭水の北側一帯に広がる沼沢地だ。洛陽から長安にいたる本街道に通じている。蒲津で黄河をわたり、南下する場合でも長安に向かうには、潼関で右折して同じ街道を通る。

「よかろう。あとは進路に埋伏し、高歓本隊の通過を待つ」

 洛陽側の恒農からは、高敖曹の追っ手が迫っている。諸将に戦略を指示した宇文泰は、いそぎ兵に三日分の糧米を持たせて渭水をわたった。

「もし高歓が道をかえたらどうします」

 懸念する将もいたが、宇文泰は笑ってこたえた。

「われらが待ち伏せの事実を高歓に伝え、是非にも一戦を交えたいといえば、われらの寡勢を侮っている高歓はかならず攻めてくる」


 宇文泰は反間の探子を使って、沙苑埋伏の策略を故意に高歓に流させた。そのうえで高歓にたいし、「沙苑で一戦交えたい」と、堂々の挑戦状を叩きつけた。これが高歓のプライドを逆なでした。結果、宇文泰の予測に違わず、高歓は軍を割らず、あえて沙苑に二十万の全軍をすすめた。

 沙苑は大平原ではない。先へ行けば葦の葉の生い茂る草叢で、足場の悪い沼沢地になる。大軍はときに足かせとなり、自由な行動の邪魔になる。なにせ敵の十倍もの兵力なのだ。

 だから、侯景は建議した。

「宇文泰の主力が沙苑にある間に、東魏の大軍を分けて、関中の他地区を占領すべきだ」

 侯景の建議は正しい。宇文泰を沙苑に閉じ込めておく間に攻めまくれば、ほとんど兵力のない関中は、労せずして占領できる。埋伏する兵士が三日分の糧食しか持参していないことも、すでに見抜いている。持久戦に持ち込めば、戦わずとも、西魏の軍は自滅する。 

 しかし高歓はまたしても、侯景の建議を退けた。高歓のこだわりは、余人の常識を超えていた。高歓はにっくき宇文泰の軍を、完膚なきまで微塵に切り刻むつもりでいた。


 怨念の戦がはじまった。東魏二十万の大軍が、葦の草叢に突撃した。われがちに先を争ったから、たちまち混乱した。前後左右、味方の軍ばかりが目に入った。その実、東魏の投降兵が、服を替えずに混じっていた。目印があるから、じぶんら同士は分かる。はた目には味方にしか見えない。これが混乱に輪をかけ、収拾のつかない肉薄戦になった。埋伏した西魏軍は、大将だけを狙い討ちにするよう指示されていた。埋伏兵は、雑兵をやり過ごし、将領らしきものが通りかかると、やおら立ち上がり、四方から刀槍を突き出した。 

 東魏の大将彭楽は豪快に切りまくったが、目立つ分、集中的に狙われた。長矛で腹を刺され、腸が飛び出す怪我を負った。それでも屈せず、腸を腹のなかに押し込んで、戦い続けた。

 混乱のなか、宇文泰はみずから陣太鼓を打ち鳴らして、緩急自在に将兵を動かし、士気を鼓舞した。戸惑う東魏軍を尻目に西魏の将兵は、猛烈な勢いで攻撃し突進した。

 李弼ら将領は鉄騎をひきい、東魏の本陣を撹乱した。李弼の弟李標は痩せて小さなからだだったが、絶妙な馬術で戦場を沸かせた。李標が騎馬で突進すると、水が引くように東魏の軍勢がふたつに割れた。

 東魏軍は陣形が乱れ、収拾がつかないまでに破綻した。これを見てとった側近の阜城侯斛津金こくりつきんは、高歓に勧告した。

「軍心はすでに散じており、これ以上の戦は無用にござる。兵を引いて、河東に帰還すべきでありましょう」

 戦の趨勢に目を凝らしていた高歓は答えず、馬上に姿勢を正し、身じろぎもしなかった。

「御免蒙ります!」

 もはや勧告は不能と判断した斛津金は、やにわに高歓の乗る馬のくつわを取って向きをかえ、一鞭くれて馬を走らせた。すわとばかりに、側近の将士があとに続いた。

 この機転によって戦場を脱出した高歓は、俘虜の恥辱を免れた。

「沙苑の戦」で東魏は精鋭の士卒八万を失い、遺棄した鎧兜は十八万組に達した。

 西魏は、ふたたび勝利したのである。


「沙苑の戦」勝利のあと、西魏軍はこの機に乗じて洛陽の金墉きんよう城を攻略した。独狐信ひきいる西魏軍は、さしたる抵抗もなく入城し、昔日の旧都を奪還した。

 東魏元象元年(五三八)、宇文泰は文帝を伴い、洛陽の陵園で北魏歴代皇帝を祭祀する計画を立てた。これを知った高歓は侯景と高敖曹に命じ、金墉城を反撃させた。

 侯景は西魏の軍勢が手薄なのにつけこんで、乱暴狼藉の限りをつくした。そのあげく、洛陽の街に火を放ったのだ。遷都のあおりで、著名な建物は解体されていたが、それでもまだ街並みは、かろうじて残っていた。その旧都が大火に覆われ、すべてが灰燼に帰した。

 高歓が増援の大軍をひきいて、鄴城を出立した。

 宇文泰もまた洛陽郊外に主力を結集し、対抗の陣を構えた。

「河橋の戦」、第三次東西会戦の幕が、切って落とされた。


 西方の空に向かって朦々たる砂塵が巻き起こっている。

「さては、西魏の来援か」

 驚いた侯景は兵を引き、黄河にかかる河橋方向に退いた。

 あとで知ったが、その砂塵は西魏の知将李弼の謀計だった。多くの軍馬を用いて樹木の枝を引きずって駆け回らせ、大軍の来援に見せかけたのだ。

「李弼がしわざか、忘れまいぞ。それにしても、ええい、腹の立つ」

 仕掛けに踊らされた侯景の悔しがること、しきりだった。

 高歓の増援軍が河橋に達した。名誉挽回をかけて、侯景は南に向けて引き返した。宇文泰の近衛軍は洛陽北郊、邙山ぼうざんの麓に陣立てしている。東魏軍を迎え討つ構えだ。

 侯景が突っ込んだ。両軍はもみ合いになった。宇文泰の軍馬が流れ矢にあたり、どうとばかりに倒れ込んだ。その拍子に宇文泰は馬上から投げ出されたのだ。東魏の兵がすぐ近くまで突進していた。供回りの都督李穆りぼくは、とても逃げ切れないと観念し、意表を突いた。

 地上に転げ落ち腹ばいになった宇文泰を、手にした鞭で打ち据えたのだ。罵声を浴びせながら、なんども鞭打ったのである。

「この痴れものが、なにをしておる。おまえの主人は宇文泰だろうが。主人が主人なら、家来も家来だ。ここに這いつくばって、なんのざまだ」

 戦の最中に仲間割れでもしたものか、あたりをはばからぬ打擲ちょうちゃく振りだ。とても見られたものではない。東魏の兵もあきれて、相手にしなかった。

「臆病者が馬を死なせて、身内のけちん坊から責められているのだろう」

 とても大物には見えなかったから、かかわっても時間の無駄とばかり、大将首を求めて、前方へ駆け去った。

 東魏の兵がいなくなったのを見て、李穆は鞭打つ手を止め、宇文泰を助け起こした。己の馬に宇文泰を乗せ、手綱を取って小走りに駆け出し、ようやく危地を脱したのである。まさに生死存亡の別れ道だった。

 やがて西魏の後続部隊と遭遇した宇文泰は、李穆の機転をねぎらい、全軍をひきいて反撃に打って出た。勝利の女神は、みたび宇文泰にほほ笑んだ。大敗した侯景は北に逃げた。逃げる途中でことの顛末を聞いた侯景は、宇文泰の強運を呪わずにいられなかった。

「なんと命冥加なやつよ。わしが通りすぎて間もなくではないか。首実検にわしを呼べば、その場で宇文泰と喝破しておる」

 回りの兵に八つ当たりしても、あとの祭りだ。

「これはあやつへの貸しと思っておこう。貸しは、いずれお返しいただく」

 これで、わがまえにひれ伏させることとあわせ、宇文泰にはふたつの貸しができた。

 不思議な感情だが、憎さを通りこして親しみさえ沸いてくる。それも無理はない。

「十年まえなら、騎射にせよ、乗馬にせよ、確かにわしがきやつを上回っていた」

 まだ若党のころ、爾朱栄のもとで、ともに業前を競い合った仲ではないか。

 それがいま、敵味方に分かれ、命の取り合いをしている。

 そして、先刻までの追う身が、追われる身となって、北へ追いやられている。


 一方、高敖曹も西魏の将兵に追われ、槍を小脇に単騎、河陽城に逃れた。河陽は洛陽の真北、黄河の北側にある。

「わしだ、高敖曹だ。門を開けろ」

 城門を叩いた高敖曹に、にべもない答えが返ってきた。

「そんなものは知らぬ。失せろ」

 河陽城の守将高永楽は高歓の一族だったが、高敖曹とは仲違いしていた。

「わしを怨むのは分かるが、いまは戦の最中だ。せめて縄梯子を降ろしてくれ」

 そうこうするうち、西魏軍の追っ手が迫ってきた。

 いまはこれまでと観念した高敖曹は、先頭切って駆けつけた西魏の士兵に向かって、というより城内にたいして、聞こえよがしに大声で怒鳴った。

「いざ、来たれ。汝に開国公を与えたもうぞ」

 ちなみに開国公というのは、公侯伯子男で知られる爵位の一種で、この時代には、五等爵のうえに開国の二字を加えて、開国公あるいは開国郡公といい、功臣に授けられている。

「高敖曹の首には、開国公の爵位に相応しい価値―功名利禄がある、さあ首を取れ」

 己を誇示する、いまわの際の名乗りといえよう。

 故意に自分を見殺しにした城内にたいしては、怨み節に聞こえなくもない。

 のちにこの一件を知るにおよんだ高歓は、涙を隠さず慟哭した。東魏建国の礎を築いた高敖曹にたいし、あまりにも口惜しい仕打ちではないか。それも味方と知ってのうえでの見殺しだった。高歓は、父方のいとこにあたる高永楽を二百叩きの実刑で罰し、高敖曹には大尉・太師・大司馬を追封している。せめてもの報いだったに違いない。

 西魏はからくも宇文泰を救出し、東魏はむざむざ高敖曹を死に追いやった。

「河橋の戦」で東魏は先勝後敗だったというが、明らかに負けている。東魏では一万の兵が戦死し、一万五千の武装兵が投降した。しかしそれ以上に、大将高敖曹を失った痛手は致命的に大きかった。


 東魏武定元年(五四三)二月、「邙山ぼうざんの戦」が勃発した。邙山は洛陽の北にある。ここに拠った東魏軍を西魏軍が襲撃した。

 戦の発端は、東魏北豫州刺史高仲密が、虎牢関で西魏に投降したことによる。高仲密といえば高乾四兄弟の二兄で高敖曹の兄にあたる。虎牢関は河南の戦略拠点で、そこの地方長官が敵に寝返ったのだ。西魏にとっては願ってもない話で、宇文泰は望外の喜びを隠さず高仲密を迎え入れた。

「いったい、なにがあったのか」

 ひそかに人をやって事情を知った宇文泰は驚いた。高歓の長子高澄が、こともあろうに重臣の妻に岡惚れし、破廉恥行為に及んだというのだ。

 二十三歳の高澄は名うての女たらしで、その手の噂にこと欠かなかった。高仲密の妻李氏は評判の美人だったが、傍若無人で好き放題の高澄に見初められ、いいよられたのが不幸のはじまりだった。親は東魏の最高権力者高歓だ。親の威光を笠にきて、手篭めにしてしまった。妻から涙まじりに訴えられた高仲密は、怒髪天を衝く怒りようだ。任地を手土産に敵方に寝返ってしまったから、たちまち、国を巻き込んでの戦争に発展した。

 北豫州を接収し虎牢関を占領した西魏は、黄河南岸の河橋城を包囲、高歓ひきいる十万の東魏軍と、戦火を交えることになった。世にいう「邙山の戦」である。


 高敖曹にならぶ東魏の悍将彭楽は、数千の騎兵をひきつれ、宇文泰の本陣に突撃した。

 はじめ彭楽は杜洛周の造反に加担し、のちに爾朱栄のもとに身を投じた。途中、とつぜん葛栄に投降し、その後ふたたび爾朱栄についている。高歓の配下に加わったのは、それ以後のことで、反復常ない帰順態度は、人によっては、否定的な影を伴って見られていた。

 彭楽の姿が、宇文泰の本陣に向かって消えてしまったものだから、よく確かめもせず、注進に及ぶものさえ出る始末だ。

「彭楽どの、ご謀反にございます」

「またも背くか。なんたる節操のなさよ」

 むっとして敵陣をにらんだ高歓の顔から、やがて怒りの表情がかき消えた。

 前方から駆けつけ、勝報をもたらしたのは、紛れもなく彭楽が遣わした伝令だった。臨洮王元柬げんかんら五人の王族と大物四十八人を捕虜にしたという彭楽からの朗報で、高歓の機嫌が直った。東軍は軍鼓を鳴らして進軍した。道々、襲撃して斬った敵の首三万余。東魏の圧勝だった。

 宇文泰を追撃した彭楽は、本人にぴたりとついて放さなかった。あわてた宇文泰は、金銀宝石をばら撒きながら馬に鞭打って夢中で走りまわったが、彭楽が金銀宝石を拾いもせず追跡してくるので、逃げ切れないとあきらめて、彭楽に顔をむけて懇願した。

「彭将軍よ、飛鳥尽きて、良弓蔵され、走狗煮らる、ということわざをご存知か。今日、わしを殺してしまったら、明日の仕事がなくなるぞ。今日のところは、まっすぐご自身の陣営に戻られるがよかろう。ばら撒いた金銀宝石は、拾ってお持ちくだされ」


 彭楽は一介の武人にすぎなかったから、宇文泰の話をすなおに信じ、引き返して戦利品として拾って持ち帰り、高歓に復命した。

「なぜ、その場で宇文泰を討ち果たさなかったのだ」

 話を聞いて、高歓の怒りは絶頂に達した。彭楽をその場にひざまずかせ、髪をつかんで顔を床に打ちつけた。それだけでは足らず、なんども刀を振り上げて、彭楽の頭を叩き切ろうとしたが、さすがにそこまでは思いとどまった。

「それがしに五千騎の人と馬をお貸しくだされ。かならずや宇文泰めを引っ捕らえてご覧にいれます」

 彭楽は高歓に懇願した。

「いまさら、遅いわい」

 高歓はため息をついた。それでも高歓は、彭楽に絹三千匹を賜ることを忘れなかった。


 二日目、両軍はふたたび旗鼓を整えて、相見えた。宇文泰は兵を三軍に分け、東魏軍を挟撃する構えだった。たまたま東魏の小兵が軍法を犯し、難を逃れて西魏に投降してきた。

 その小兵は宇文泰の問いに答えて、高歓の行動範囲を正確に指摘することができた。宇文泰は特殊部隊を編成、大都督の賀抜勝を隊長に任命して高歓を追跡し、猛攻した。高歓の側近くに仕える将士の多くが犠牲となった。

 これはかなわんと、高歓は数人の側近を連れ、馬で逃げようとした。しかし、なん歩も行かないうちに、馬が射殺されてしまった。部将赫連陽順が馬を下り、じぶんの馬を高歓に譲った。そして後ろの守りに回った。部将の尉興慶は高歓にこういった。

「大王、くゆかれよ。わしの腰にはまだ矢が百本残っており申す。百人射殺すまでは援護しますぞ。はよう、お逃げくだされ」

「すまぬ。その方らがこと忘れぬ。かならずや、子や兄弟にむくうてみせよう」

 高歓は約束した。しんがりを守ったふたりは、乱闘のなかで討ち死にした。

 追う側の賀抜勝にとって高歓は、人を使って弟賀抜岳を殺させた憎い仇だった。侯景に命じて、自分を狙っているとも聞いている。さらに孝武帝元修が関中に逃げたあと、高歓は東魏に留まっていた賀抜一族の長兄賀抜允を死に追いやっている。賀抜允は高歓を支持しており、ふたりの関係は悪くなかったが、ふとした行き違いから、殺す結果になってしまったのだ。高歓追尾の部隊長など、荊州刺史を勤めたほどの賀抜勝には小さな役回りだが、怨念に燃える男にとっては、他にかえがたい役目だった。

 不倶戴天の仇敵高歓を追って、賀抜勝の軽騎兵は速やかに快走した。

 ようやく声の届く近くまで一気に迫った賀抜勝は、割れんばかりに大声を張り上げ、鮮卑のあざなで高歓を名指しし、自らの名乗りを上げた。

賀六渾がりくこんよ、ようく聞け。畜生にも劣るうぬが命、今日こそこの賀抜破胡が、片をつけてくれる。ここを先途と覚悟いたせ」

 驚いた高歓は、とっさに馬の背中に身を伏せて縮こまるありさまだった。

 このとき無言で高歓に駆け寄った随身がひとり、からだをひねって弓を張るや、ひょうとばかりに矢を放った。次の瞬間、賀抜勝の乗った馬が大きくいななき、棒立ちになった。反動で賀抜勝は、空に放り投げられた。

 地上で立上がった賀抜勝が、馬を捜してふたたび追おうとしたときには、すでに高歓の姿は遠く砂塵のかなたに消えていた。

 賀抜勝は、地団太踏んで悔しがった。

「あろうことか、今日にかぎって、弓を忘れた。まこと、天意なるか」


 すんでのところを命拾いした高歓だったが、東魏のその他部隊は敗れなかった。かえって西魏の本隊が東魏軍の突撃を受けて敗退し、兵を引いて逃げ帰った。

 虎牢関をふくむ北豫州の地は、原状に復帰した。宇文泰は河南西部から手を引き、河南の全権は以前のように侯景が掌握した。

「邙山の戦」、この一戦は総じて東魏の勝利に帰したといってよい。


 後日談がある。

 戦のあと、高歓は侯景に命じて高仲密を討たせた。侯景は高仲密を殺したあと、妻の李氏を捕らえて鄴城へおくった。処刑の直前、高澄が尋問した。

「久しぶりじゃのう。今日の気分はいかがじゃ」

 李氏は高澄をにらみつけ、ぺっと唾を吐きつけた。

「美人の唾は、格別にうまい」

 卑猥な笑いとともに、顔についた唾を指にとって舐めた。

 同席した役人は黙して目をそむけた。

 処刑は容赦なかった。盛られた毒を一気に飲んで、李氏は息絶えた。


 李氏の処刑からほどなくして、侯景は慕容紹宗と酒を飲む機会があった。

「高歓どのの体調がすぐれぬようだが、おぬしは息災か」

 慕容紹宗がそれとなく、探りを入れてきた。

「このところ刺客まがいの仕事まであり、忙しゅうて病に伏せる暇もありませぬ」

「この東魏ではおぬしら北鎮の出身者が一番の古株だが、高澄どののことでは、高歓どのもずいぶんと気遣っておられるようじゃ」

「傍若無人が過ぎる。あれでは人はついて来ぬわ」

 侯景ははき捨てるように、語気を荒げていった。慕容紹宗は、侯景が師匠と呼ぶくらいに、遠慮のいらない語り相手だ。ことば尻をとられて、密告される懸念はない。

「ずいぶんきつい評価だが、もしもの場合、おぬしならどうする」

 もしもの場合とは、高歓亡き後のことだ。慕容紹宗は、ずばりと切り込んだ。

「御大将は、わしがこどものころからつきあっている気心知れた兄貴だから、いわれたことはなんでもやる。だが御大将がおられなくなれば、話は別だ。わしはあの鮮卑の小僧だけには、仕えたくない」

「謀叛も辞さぬか」

「いや、この国を作ったのはわしらだが、謀叛してすべてをくれというほど執着はない」

「河南で自立か。あるいは西魏か梁につく手もあろう」

「軍師の戦略いかんにかかっている」

 侯景は慕容紹宗こそ、じぶんの軍師にふさわしいと思っている。しかし高齢ではいざというときに無理が利かない。かわって、格好な人物の選択を頼むつもりでいる。それを承知のうえで、慕容紹宗は侯景の真意を聞きただそうとしている。

 もしもという仮定の話が、仮定でなくなってきている。高歓の健康が懸念されていた。


 東魏武定四年(五四六)十月、高歓は十万の大軍をひきい、西魏の汾河下流の重要拠点玉璧ぎょくへき城へ侵攻した。「玉璧の戦」という。玉璧城は西魏の大将王思政が築いた防守堅固の山城だ。守将韋孝寛いこうかんが数千人足らずの兵で守護している。

 晋陽・長安のほぼ中間に位置しているから、戦略的価値は高い。周囲の地勢が険要で、攻撃が難しいところから難攻不落といわれている。しかし、高歓は絶対の自信をもって攻め落とす作戦でいる。大軍の投入は、そのための布石にほかならない。

 時間をかけてゆっくりと進軍しているのは、玉璧城にできるだけ多くの増援兵を呼び寄せ、城内に収容させるためだ。事実、宇文泰は事態を重視し、救援部隊の増派に備えている。しかし、韋孝寛は、「不要」とのみ答え、援軍を要請する意志はないらしい。

「援軍は来ぬか。田舎武将には、戦の機微は分からぬと見える」

 一万や二万の増援はあるものと期待していた高歓は、敵陣の消極的な対応に失望した。攻城の成果のひとつに、捕虜の獲得をあげていたからだ。もとの数千だけでは拍子抜けだ。

 やがて到着した東魏の大軍勢は、十重二十重に玉璧城を囲み、全山を兵で埋めつくした。

「援軍はない。城をとり囲んで、一兵たりと外へ出すな」

 守城側は籠城を決め込んでいるらしく、城外へ打って出る気配はない。

 天然の城壁と城門はさすがに堅固だ。正面から破壊しようとすると、相当な人的被害を覚悟しなければならない。できるだけ兵は温存しておきたいので、無用な攻撃は避けた。

「あわてずとよい。敵が根を上げるまで、徹底して包囲をつづけよ」

 高歓には複数の策がある。順次投入して、効果のほどを確かめるだけの余裕があった。


 まず「断水」作戦だ。用水を断つ。山城だから川水、湧き水がある。表出する水は塞き止めるか、流れをかえる。地中にある水は水脈を断つことになる。汾河と黄河があるから、水脈は豊富だ。どこを掘っても水はでる。結局、「断水」作戦は徒労に終わった。

 ついで「築山つきやま」作戦にうつった。高歓は城の南側に、人工の山を造成した。城よりも高い山を築いて、そこから弓箭・投石で攻撃する。頂上に長い竹を埋め込み、しなやかな反発を利用して武装兵を飛ばし、攻め込むのだ。抵抗する城側は韋孝寛の発案で、ふたつの城楼の上に木をつないだ橋をわたして盛土の山よりも高くし、そこから同じように矢を放ち、投石した。飛んでくる敵兵は、着地と同時に捕らえられた。死傷兵の数は、攻撃をさえぎる障害物の少ない東魏側の方が多かったから、高歓は「築山」作戦をあきらめた。

 さらに高歓は、「隧道ずいどう」作戦を敢行した。地中深く竪穴を掘り、ついで横穴を伸ばして城内に掘り進み、頃合いを見て、地上に躍り出る作戦だ。韋孝寛の対抗策は、城壁の内側に沿って深い塹壕を掘り巡らせることだった。横穴を掘り進むと塹壕にたどりつき、外に出たところを発見される。見つかったが最後、殺されるか捕虜になる。塹壕のなかにいくつもの洞穴が現出した。守城側はその穴を芝草で塞ぎ、火をつけ、風を送った。煙が穴に充満した。地中の穴深く侵入していた東魏兵は、いぶされて死んだ。

 最後は「崩落ほうらく」作戦だ。高歓は地中に穴を掘りつづけた。ただし、塹壕のてまえで掘るのをやめ、地上に城壁がある最後の部分は突き破らなかった。横穴は木柱で支え、崩れないようにしてある。そんな横穴が二十本できた。作戦を開始した。横穴に火を放ったのだ。隙間から地上に煙がたった。やがて木柱が燃えつきると、城壁の一部が地中に吸い込まれるように崩落しだした。これを見た韋孝寛は、急いで大きな木柵を作って崩れた城壁の補充に用い、先の尖った長矛や弓弩で装備した防御部隊を繰り出した。防御部隊はこの難局をひっしに乗り切り、ぎゃくに東魏の将兵は、千載一遇の好機に持てる力を発揮できなかった。


 度重なる作戦変更にもかかわらず戦況は一向に好転せず、東魏兵の士気は極端に落ち込んでいた。さらに戦場がかぎられており、かなりの軍勢がなすことなく後方待機していた。勢い危険な任務は忌避されがちだ。陣頭に立つ将領さえも腰がひけていた。

 高歓の体調が万全でなく、東魏の陣営には厭戦気分が漂っていた。

「投降を勧告せよ」

 高歓は参軍の祖挺に命じ、停戦工作を急がせた。

 韋孝寛は城楼に立ち、城内外の敵味方にたいし、明確に宣言した。

「わが方は負けてはおらぬ。水も糧食も十分にある。士兵の数も城を守るに不足はない。包囲を解かぬかぎり、わが方は抵抗する。戦をやめたくば、勝手に去れ。われらは追わぬ」

 大軍を擁して包囲する東魏軍を、完全に愚弄した回答だ。

 高歓は矢文を射掛けて、城内の反応を見た。「心理戦」を試みたのだ。

 ――城主韋孝寛の首と交換に、籠城者全員の命を助ける。さらに、韋孝寛を斬ったものには、大尉を授け、開国公に封じ、きぬ一万匹を賜う。

 城内に向かって、懸賞つきの手配状をばら撒いたのだ。

 受け取った韋孝寛は筆を取り、その紙の裏に、墨痕鮮やかに数文字を書き加えた。

 ――高歓を斬ったものにも同じ賞を給う。

 そして、高歓めがけて射返したのだ。

 力尽きた高歓は寝込んでしまい、うわごとで「帰還する」と指示した。

 得るものなく終始した東魏軍は、晋陽に向かって、もと来た道を空しく引き返した。

 結局、東魏十万の大軍は、五十余日にわたる玉璧城包囲戦で、病気の罹患者をあわせ、七万の将兵を失った。「玉璧の戦」は、東魏の完敗で終わった。

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