六、北魏分裂


 洛陽を奪回した爾朱栄は、擁立した孝荘帝元子攸げんしゆうをみやこに還した。自らが皇位につくことは断念した爾朱栄だったが、政権を手放す気はさらさらない。傀儡皇帝を思うがままに操り、われとわが一族の栄光と権勢を天下に示したい。皇帝などその飾り程度にしか考えていないから、孝荘帝にもそれを強要した。

 もともと傀儡を承知で皇位についた孝荘帝である。爾朱栄の意のままに尽くしたところで不都合はない。丞相爾朱栄を「天柱大将軍」に封じ、おもねった。以前は「柱国大将軍」だったから、国から天へと持ち上げて、位の高貴さを称えたのだ。歴史的おもねりといっていい。のちに侯景は「宇宙大将軍」と自称し、さらにその上をいったものだが、まだしも自称だったから冗談ですむ。


 長安と洛陽の中間に、函谷関があり、関の東を関東、西を関中という。六鎮の乱を収めて関東を手中にした爾朱栄は、その翌五三〇年、関中を平定する。爾朱栄の祖父の兄弟の子・爾朱天光を統帥に、武川鎮出身の賀抜岳がばつがく侯莫陳悦こうばくちん・えつを左右の大都督に任じ、寧夏の高平で帝を自称する万俟ばんし醜奴しゅうどを征討したのである。

 この戦に賀抜岳軍の歩兵校尉として、宇文泰が加わっている。この年、侯景より四つ若い二十四歳。期せずして皇帝と同年だが、苦労の度合いが違う。葛栄滅亡のあと、晋陽に連行され、奴隷同然の身で爾朱栄軍に投じ、徐々に頭角をあらわしつつあった。

 宇文泰、字は黒獺こくらい、出自は武川鎮(懐朔鎮の東隣)。北魏の下級武士の家庭に生まれた。史書には、かれは「少にして大度(大きな度量)あり、家人の生業を事とせず、財を軽んじほどこしを好む」とある。当時の北方は、六鎮の士兵が競って決起する時期にあたる。宇文泰の父・宇文こうもまた宇文泰とその兄・宇文洛生をつれてこの決起に参加した。しかし決起は敗れ、宇文肱は戦死する。宇文泰は爾朱栄に捕らえられ、かれの部隊に編入される。のち、卓越した戦功をもって関西大行台賀抜岳の左丞に封じられ、賀抜岳の片腕となる。


 それはともあれ、北魏政権を一手に掌握した爾朱栄の権勢は、頂点に達した。

 爾朱栄は、傀儡皇帝孝荘帝には実権を与えず、本人の意向などまるで無視して朝政を専断、爾朱氏の本拠地晋陽から朝廷を遠隔操作した。

「わしが皇帝にして育てた。いうことを聞いてとうぜんだ。逆らえば取替えるまでだ」

 爾朱栄の基本的スタンスがこうだから、とりつく島もない。擁立された当初こそ唯々諾々と爾朱栄の指示にしたがっていた元子攸も、帝の地位に慣れるにつけ自我の意識が目を覚ます。側近がまたそれを煽る。

 なにひとつ実権はもたされず、名ばかりの皇帝では、屈辱感が鬱積する。おまけに皇后が爾朱栄のむすめときては、愚痴のもってゆき場がない。できたむすめなら父と夫の間をとりもち、関係緩和につとめるものだが、権門のご令嬢には求むべくもない。日ごと夜ごと、実家の権勢をたてに罵られては、息をつく場もない。

「あなたという皇帝は、わが爾朱家が擁立したものじゃありませんか。そうでなければ、どうしてわたしがあなたなんかの皇后になっているのかしら。わたしの父がみずから皇帝に立っておれば、いまになってこんな思いなどしなかったでしょうに。ええい、ほんに悔しいこと」

 孝荘帝にも意地がある。ここまで罵倒されれば、黙っておれぬ。ひそかに逆転の妄想をめぐらし機会をうかがううちに、妄想は謀略へと激化し、陰湿に深っまってゆく。


 葛栄を平定し、陳慶之を撃退したのち、爾朱栄は大軍をひきいて自己の大本営である晋陽へ引き返した。もしこのとき、爾朱栄に、北魏にたいする尊崇の念、孝荘帝や天下万民にたいする仁慈の思いやりというものが、なにがしか素振りにでも垣間見えていれば、爾朱栄は北魏の歴史上、「中興の名臣」たる誉望を勝ちえていたかもしれない。この辺境の胡族の酋長には、周囲の宿将を打倒する一方で、北族復興の思いは強く残っていた。しかし、かって精神のよりどころとした「忠君愛国」の四文字は、いまでは薬にしたくもない。昔、そんな考えがあったこと自体、かえって、むしょうに腹が立つ。だからいま、ことあるごとに皇帝の権威を貶めるわざとめいた言動をあえてする。それは、ひとりの県令の任命権さえも皇帝に与えなかった点に、よく表れている。 

 いちど爾朱栄は、北方人を河南諸州の刺史に任用するよう上奏し、孝荘帝から拒否されたことがあった。このときの不快感がいつまでも尾を引いている。爾朱栄は腹心の元天穆げんてんぼくを、晋陽から洛陽にわざわざ派遣し、孝荘帝を威嚇した。

「天柱大将軍(爾朱栄)は国家にたいし天ほど大きな功労があります。かのおひとの存念を善しとし、あらゆる官職はすべて北方人の任用とするだけで、物事はすべて順調に動くのです。陛下ひとり口先で正しくないとさえずったところでなんの役に立ちましょう」

 しかし孝荘帝も強情な性格だったから、あえて執ように言い返した。

「天柱大将軍がもし人臣の礼を尽くすのを喜ばないというのなら、朕の皇位をかれに譲ってもよい。もしかれが北魏の大臣であることを認めるなら、天下百官の決定を自らおこなうなどという道理はない」

 あからさまに拒否したものだから、爾朱栄は心底、腹を立てた。

「誰のおかげで皇帝になれたと思っている。よりによっておれのいうことが聴けぬだと」


 北魏永安三年(五三〇)、爾朱栄は懐妊した妹・爾朱皇后を見舞う名目で、長子の爾朱菩提とともに、五千名の騎兵を帯同し、上洛した。

 懐妊にことよせ上洛を促したのは孝荘帝の側である。「これを機会に、一気に決着をつけるべし」、ひそかに不退転の決意を口にする孝荘帝の周りに、城陽王 元徽げんき、侍中の楊侃ようかん李彧りいく、尚書右仆射の元羅といった人々が集まり、爾朱栄排除の陰謀を練りはじめた。

 爾朱栄のいとこにあたる爾朱世隆は朝廷の要職にあり、「天子とその側近に太原王(爾朱栄)殺害の密謀あり」との投書を入手していた。ただちに爾朱栄に警告したが、「あの男にそんな根性があるものか」と一笑に付されてしまった。

 いまや「天下は爾朱氏の天下である」ことを、露ほども疑わなかったのだ。

 孝荘帝は爾朱栄を宮廷に招いた。爾朱栄は拝謁するなり真っ直ぐに皇帝の目を見て、「陛下がわしを殺そうとしている、というものがいるが、まことでござるか」と、いきなり詰問した。側近らとひそかに練習した想定問答の範囲内だったから、孝荘帝はかろうじて心の動揺を抑え、素知らぬ顔でいい返すことができた。

「そなたがちんを弑さんとしている、というものがいるが、はたして信じられようか」

 爾朱栄は、機知に富んだ皇帝の返答に満足した。

 以後入朝する際、随従者は数十名にとどめ、武器も携行しなかった。あまりに無防備で平然としていたから、「罠かもしれぬ」と元徽らはかえって恐れ、軽挙を戒めた。

 その後、決起の機会はいくどもあったが、計画が漏れているのではないかという疑心暗鬼にとらわれ、実行するにいたらなかった。

 元天穆も孝荘帝に請われ、上洛した。元天穆は宗室につらなる身分だが、爾朱栄と親しく、ふだんは晋陽にいる。

 皇后の出産日が近づいていた。皇子が誕生し、譲位を強要されたらそれまでだ。爾朱栄暗殺はそのまえに行わねばならぬ。もはや猶予はできない。孝荘帝はほぞを固め、大事の決行日は九月二十五日とした。早産の可能性を考慮し、出産予定日の一ヶ月まえに定めたのだ。 


「爾朱皇后が皇子をもうけられた」。虚偽の朗報をもたらし、爾朱栄を皇宮に誘い入れた。初孫誕生の知らせで有頂天の爾朱栄は、元天穆を伴って、取るものも取りあえず宮中に赴いた。

 孝荘帝は竜椅に座し、爾朱栄と元天穆の到着を待った。緊張で顔が青ざめていた。

「そのごようすでは気取られます。ごしゅをおあがりください」

 近侍が酒を勧めた。孝荘帝は数杯飲んで、気を静めた。心なし頬が赤らんだ。

 来客を案内した元徽が明光殿の殿上の間に進み出、大仰に拝礼をした。これが合図だった。佩刀を抜き放った近侍が数名、入口に突進した。元徽に続いて入ろうとした爾朱栄は、気配を察し迅速に行動した。逃げるのではなく、孝荘帝に向かっていったのである。

 武器はなくとも皇帝を抑えれば、形成は逆転する。自信があった。千軍万馬の荒武者は年齢を忘れ、一直線に踏み込んだ。

 顔面蒼白の孝荘帝は必死の面持ちで、膝の上に抱いた刀を抜いて、前方に突き出した。出会い頭の偶然だった。駆け寄った皇帝側の男に後ろから体当たりされた爾朱栄は、勢いあまってたたらを踏んだ。バランスを崩した爾朱栄の胸に、刀の切っ先が突き刺さった。

「おのれは」

 すさまじい形相で、爾朱栄は孝荘帝に掴みかかろうとしたが、刺し傷は意外に深くて立っておれず、その場に崩れ落ちた。

 孝荘帝は全身を震わせて、口もきけない喪心状態だった。無理もなかった。中国の歴代王朝において、皇帝手ずから権臣を刺し殺した稀有な事例の実行者として、青史にその名をとどめたのである。平常心でいられるはずがなかった。

 元天穆も、その場で切り殺された。爾朱菩提と三十名の随従者らも、伏兵によって宮中で皆殺しにあった。

 すべては爾朱栄の驕りがなせる結果だった。驕りは孝荘帝の恨みを買い、ついで自らの油断を生んだ。ほとんど無防備の爾朱栄はわが子ともども、殿中で誅殺されたのである。享年三十八歳。若死にといっていい。


 爾朱栄誅殺の報に接した爾朱氏集団は激怒した。爾朱栄の甥にあたる爾朱兆、いとこの爾朱世隆が先頭に立ち、爾朱氏一族総出で、報復の大軍勢を発動し、逆襲に転じた。洛陽城を攻略、孝荘帝をとらえ、晋陽までひきまわしてくびり殺した。


 乱世の梟雄きょうゆうの異名をとる爾朱栄は、その名のとおり、比類なく強かった。天下無敵の爾朱騎馬軍団をひきいるに相応しい風格と実力を備えていた。威厳も人望もあり、なにより人を見る目に長けていた。偏見やこだわりにとらわれない、公平・無私の目だったといっていい。

 爾朱栄は軟弱化した鮮卑貴族を唾棄するほど憎み、北方民族の誇りや伝統に愛着を持っていた。爾朱一族は多士済々で、人並みの人材には不足しなかったが、爾朱栄にかわりうる智将や統率者、あるいは精神的指導者までは満たしきれていなかった。爾朱栄に人を育てる力が欠けていたとはいうまい。それだけ爾朱栄の能力が、人よりも傑出していたということだ。


 爾朱栄が死ぬまえ、仲間うちの歓談のなかで、後継者に話が及んだことがある。

「わしがいま亡くなったら、わが騎馬軍団をひきつぐのに相応しいものは誰か」

 興が盛り上がり、みなは口々に、やれ爾朱兆だ、爾朱世隆だと一族中の有力者の名をあげつらったが、大勢は爾朱兆に落ち着いた。満座を見回し、爾朱栄はいった。

「わしの見方とは違う。なるほど、爾朱兆は戦に強い。大軍にたいしても勇敢に立ち向かってゆく。しかし、三千騎をひきいるのが限度だ。それ以上だとかならず乱れる。結論をいおう。わしにかわって、爾朱騎馬軍団の指揮を取れるのは、賀六渾だけだ」。

 賀六渾は高歓の鮮卑名だ。爾朱栄は高歓とは個人的に親しく、肝胆合い照らす仲だったとしても、情実で選んだのではない。一族を超えて、漢族を自称する高歓を後継者に指名するなど、並みの器量でできることではない。さすがに英雄は英雄を知ると、諸手をあげて評価できる。

 一方、自分を差し置いて他人を名指しされた爾朱兆は、どう思ったか。得心したか。

 報復戦で洛陽を攻める際、「ともに戦おう」と爾朱兆は高歓を誘っている。当時、晋州(いまの臨汾)刺史だった高歓は、任地の守りを優先し、この誘いを断っている。晋州・洛陽間百八十キロ。爾朱兆が兵を起こした晋陽・洛陽間三百三十キロにくらべれば約半分、行って行けない距離ではない。しかし、ことは露骨なあだ討ちであり、義戦とはいいがたい。戦のあとには一族の跡目相続の問題がついて回る。爾朱兆は跡目を狙っており、高歓を抱き込んでおく必要があった。だから誘ったし、のちに義兄弟の契りさえ結んでいる。爾朱兆自身、爾朱栄の判断に異議はなく、高歓の力を認めていた。

 一方、高歓は跡目争いに興味はない。むしろ爾朱陣営を離脱し、いずれは自立したいと、ひそかに考えていた。


 皇帝が殺され北魏の国内は大混乱に陥ったが、天下の大権が爾朱氏一族の掌中にあることにかわりはなかった。孝荘帝のあと中山王元英の甥・長広王元嘩を立て、すぐに広陵王元恭に禅譲した。これが節閔せつびん帝だ。孝文帝の弟の子だから爾朱栄には甥にあたる。

 爾朱兆が并州・汾州など北の大半を押さえ、爾朱仲遠が徐州・兗州えんしゅうなど東南を制圧、爾朱天光が関中に居座り西を掌握、爾朱世隆が中央に陣取り朝政を牛耳った。爾朱栄の予言は正しかった。ひとりで引継ぐほどの後継者は爾朱氏のなかにはおらず、一族で領土を分け合ったのだ。

 国内の乱れに乗じて葛賊の残党が、并州や肆州ししゅうになだれ込んでいた。鎮圧していたが、総勢二十万、北鎮出身のもと軍士も含まれている。無視できない集団だ。全体を束ねるほど力のある統率者はなく、小さな一揆を頻発していた。その回数が合計二十六回に及んだとあっては、放っておけない。暴動が発生するたび制圧し、捕虜兵を収容していたが、合わせると十数万人になる。糧食の負担も大きいが、一触即発、再び暴れだす危険性があった。并州や肆州は爾朱兆が管掌する地域だったから、爾朱氏の後継者をもって任じる爾朱兆には、沽券こけんに関わる頭痛の種だった。

「いかがしたものか」

 会合の席で、爾朱兆は高歓に問うた。侯景も同じ座につらなっている。

「兵とも民ともつかぬこの手の群衆は、どこにでもいるし、どのようにでも使える。ふだんは田畑において耕作させておき、戦になれば雑兵としてかき集められる。殺せばすむという問題ではなく、殺して殺しつくせるものでもない。殺さずに、生かして使えば、二倍三倍の効果が得られましょう」

「方策はあるか」

「食の利をもって、懐柔するのです。捕虜兵として魏軍に編入し、糧食を求めて河北に移動させるのです。飢饉続きの山西から豊饒の河北への兵站調達の軍事移動なら、騒ぎもなく平穏に行えましょう。気の利いた将を派遣し、かれらの頭領に据えるのです」

「ならば、誰か適任者はいるか」

 爾朱兆は一座を見渡して、おもむろに問うた。

「高歓どのなら、申し分ござるまい」

 傍らに座していた将領のひとり、賀抜允がばついんが口をはさんだ。武川鎮の勇猛な軍主・賀抜度抜の自慢の息子、允・勝・岳、賀抜三兄弟の長子だ。

 やにわに高歓の鉄拳が、賀抜允の顔面に炸裂した。歯が一本、折れて口から弾き飛んだ。

「この慮外者めが、天下は爾朱家の天下であり、天下の大事は天柱大将軍がお決めになる。小賢しくも妄言を吐く輩は、このわしがその減らず口、ひん剥いてくれる」

 推薦を受けた高歓が、礼をいうどころか、相手を殴りつけて罵ったのだ。あまりの剣幕に、満座は静まりかえった。

 賀抜允に悪意はない。日ごろ高歓とは気心知れた親しい間柄だ。瞬時に納得した。

高歓の憤りは迫真の演技だったのだ。痛みをこらえて賀抜允は、腹中でほくそ笑んだ。

 ――高歓め、本気で殴りおった。息が止まるほど痛かった。この一発はいずれ返してもらうが、それまでは貸しにしておいてやる。高くつくぞ、この一発は。

 賀抜允の腹のうちを知ってか知らでか、この答弁に満足した爾朱兆は、その場で葛賊残党二十万の生き残り十数万人の河北東遷を高歓に一任した。

「よういうた。爾朱家への忠誠心、しかと見届けた。わしのためにもなお励んでくれ」

 上機嫌で、相手かまわず酒を酌み交わした。座は一気に盛り上がった。


 出る杭は打たれる。臣下たるもの同列でひれ伏していなければならない。冷や汗を皮膚の裏にとどめ、怒りをよそおった迫真の演技である。

「何たる忠誠心!」

 爾朱兆はみごとにはまった。前にもまして高歓を重用し、さっそく葛栄の残党を束ねる貴重な役を振ったのである。高歓はだれはばかることなく自己の勢力を拡大し、つぎの展開に心を注ぐことができた。ぎゃくに爾朱氏は一族の衰亡を早める結果になった。いわば自ら墓穴を掘ることになったのである。


 爾朱兆が酔ったころあいを見計らって外に出た高歓は、配下を集めて指示を下した。

「葛賊残党を魏軍に編入し、東遷する頭領を仰せつかった。十数万の大群だ。なかには六鎮のもと官兵もいる。粗略に扱わず、礼をつくして協力を請え。河北には豊かな実りがある。腹いっぱい飯を食わせると約束できる。汾水の東岸に集結して指示を待て」

 北鎮の乱で流民と化し、辛酸をなめた同胞も多い。指導者に恵まれなければ流浪する以外になかったのだ。河北や山西に下り一揆に加担し、敗れて捕虜となった。農奴どうぜんに虐待され、こき使われてきたから、直接の支配者爾朱兆には恨みがある。

 山西は数年来の飢饉災害で食うものさえなく、田鼠を取り合い、かろうじて生きてきた。東に向かえば豊饒の大地がある。河北へ、山東へ、東遷に夢をかける流浪の人々は、生唾を飲んで飢えと渇きをしのぎ、もと六鎮官兵が手配するなか隊伍を組んで、整然と太行山を越えることになる。


 宿酔い醒めきらぬ爾朱兆は、長史の慕容紹宗に苦言を呈せられた。

「なにをお考えですか。この天下大乱の世に、軍兵をつけて河北へ逃すとは、猛虎を山野に放つがごときもの。高歓の野心が見えませんか」

 慕容紹宗は爾朱栄にも仕えた重臣だったから、爾朱兆に遠慮がない。

「わしと高歓とは義兄弟の契りを結んでいる。よもや異心を抱くなど、あり得ぬわ」

 むっとしていい返す爾朱兆に、慕容紹宗は冷ややかなひとことを浴びせかけた。

「親兄弟ですら骨肉相食むご時世に、義兄弟の契りなど、なんの役に立ちましょう」


 翌年二月、高歓がひきつれた東遷の一群は、河北に入ると、行軍の途次、農村や鎮市の状況を見ながら、人手を振り分けていった。戦乱で農民が逃散し、無人の休耕田が多く見受けられた。手を加えれば復興できる。防備を兼ねた屯田兵なら大歓迎だ。地元政府は、高歓の申し出を受け入れた。朝廷への報告と手続きは二の次にして、順次、希望者を解き放って行ったのだ。備蓄穀物の配給で腹を満たした将士は、心機一転、鍬を振るった。

 一行の人数は、河北の冀州きしゅう信都に到着したころには、十分の一に減っていた。

 高歓の息のかかった総勢十数万人の人々を、河北のいたるところに配備した勘定だ。のちにこれらの人々が、建国間もない東魏の屋台骨を支えることになる。

 信都は、晋陽から東に二百七十キロ、北に等距離ゆけば北京がある。信都の漢人豪族 高乾こうけん兄弟を頼ったのだ。高乾の父・高翼は近隣に鳴り響いた大戸豪勇の士で、高乾四兄弟もまた武芸の達人でならしていた。文弱の漢人には珍しい存在だ。高歓の祖先は信都東方の渤海郡の人で、高乾とは同じ宗族だったと高歓は認識していたから、かつて河北一帯で多党分立していた一揆勢の集約工作中にも、親しく交際していた縁がある。

 高乾は父・兄弟を説いて一行を快く迎えてくれた。糧食が満ち足りた信都城だ。高歓にしたがって入城した東遷兵らも豊富な衣食を存分に振舞われ、夢にまで見た至福、いや満腹のときを迎えることができたのだった。


「高歓は世に冠たる優れた才知があり、志は高遠だ。無道な爾朱氏にかわり、英雄が正義を尽くすべきときがきた。懸念は無用だ。高歓を迎えて、ともに旗を揚げようではないか」

 意気投合した高歓と高乾四兄弟は、夜を徹して天下の経略を語り合い、飽くことがなかった。ことに三弟の高敖曹こうごうそうは、いま項羽といわれるほどの豪雄で、三千人からなる在郷の漢人武装隊を編成しており、日夜、軍事訓練に余念がなかった。


 北魏の普泰元年(五三一)、すでに山東での足場固めを終え、爾朱氏からの離脱に備えていた高歓は、「勤皇」を建前に、爾朱兆を公然と非難した。

「おそれおおくも臣下にして主上を討つとは、とうてい許されることではない。逆臣は自らの行為を省みるべきだ」

 数ヶ月たった。時機到来とみた高歓は、爾朱兆の文書を偽造し、一同に読んで聞かせた。

「爾朱兆天柱大将軍から兵役解除の帰国命令を受けた。一万人を山西に帰し、契胡の部曲に割り当てる、というものだ」

 部曲とは、自由のない従属農民のことだ。農奴に近い存在で、職業選択の自由はなく、移動も認められない。戦時には駆りだされるから、生命の保証もない。

 いまさら契胡の奴隷にもどれといわれて、喜ぶものはいない。辛かった山西の生活を思い出した人々は、その場に伏して、泣きだした。

「哀号、哀号」

 悲しみ泣き叫ぶ声が城内に満ち、声にならない嗚咽が城郭を振るわせた。

 高歓は悲痛な口調で、止めを刺した。

「故郷の北鎮を離れて久しいが、わしらはいまや同じ釜の飯を食う一家一族だ。きょう、思いもよらない通達を受け、戸惑っている。みなを山西に帰さなければならないが、誰も行かせたくない。いま山西に戻れば、死ぬまで鞭打たれる地獄が待っている。予定の期日に遅れれば、処刑される。いったいどこに、わしらの生きる道があるというんだ」

 将士らは口々に叫んだ。

「謀叛だ、反逆だ。将軍、おれたちをつれて謀叛してくれ」

 みなは全員一致で高歓を叛軍の将に推した。

 そこで高歓は、その年六月、信都において挙兵し、こうぜんと爾朱一族に反逆した。

 節閔帝せつびんてい元恭に上書し、朝廷をないがしろにする奸臣を排除すると宣告した。

 同時に、章武王元融の子・渤海太守元朗を擁立、新皇帝とした。安定王である。


 高歓の造反は慕容紹宗によって予見されていたから、爾朱兆の対応は怠りなかった。爾朱一族四党の兵力は、にわか作りの高歓の兵力を、はるかに上回っていた。

 爾朱一族が信都の南百八十キロのぎょうに結集した兵力は二十万。一方、決起した高歓のひきいる軍馬は三千そこそこで、歩兵の数は三万を下回っていた。

 名にし負う無敵の爾朱騎馬軍団を相手に、歩兵の数でも劣っている。どうひいき目に見ても高歓軍は爾朱一族の相手ではなかった。

 しかし、高歓には勝算があった。

 諸方に配備した十万余の東遷兵はひそかに温存し、あえて召集していない。いざとなれば河北一帯に戦線を広げ、ゲリラ戦で撹乱する考えもあり、さらに奇計を巡らしていた。

 彼我の兵力差は歴然としている。まともに当たれば、勝てるはずがない。ただ幸いなことに、いまの敵は爾朱兆であって、爾朱栄ではない。一枚岩の団結を誇る、天下無敵の爾朱栄騎馬軍団ではないのだ。ましてや束ねる限度は三千騎と、爾朱栄に見透かされていた。三千騎対三千騎なら、互角ではないか。高歓は全面戦争を避け、局地戦に勝負をかけた。

 山西を後ろ盾にする爾朱兆以下、朝廷を制御する爾朱世隆、関中と隴西(いまの陝西・甘粛)に拠る爾朱天光、華北の東南(徐州・えん州)を抑える爾朱仲遠、四人が四人とも地盤を異にし、一本化できる力量はない。それぞれが後継者を狙い、牽制しあっている。

 高歓は諜報による分断作戦を取った。かつて構築した伝令の受発信網が健在だった。

流言をばらまいたのだ。

「世隆と仲遠が、爾朱兆を追い落とそうと狙っている」

「爾朱兆と高歓が共謀して、仲遠に刺客を放った」

 等々、他愛もない流言だが、効果は十分だった。

 各陣営とも疑心暗鬼に陥り、共同歩調が崩れた。他の陣営が躊躇して見守るなか、爾朱兆の軍勢のみ単独で韓陵(いまの安陽東北)に進み、高歓の部隊と接触した。高歓軍は自ら退路を断って、背水の陣を敷いた。高敖曹の漢人武隊を側翼に配置し、高歓は中軍を守り、敵の攻撃を正面から受けた。

 戦闘が始まった。爾朱兆は高歓をねらい、騎馬隊を突っ込ませた。隘路だったので一挙に進めず、隊列は長く伸びた。側面から高敖曹の漢人騎馬隊三千が、これをなぎ払った。

 爾朱兆軍は大敗し、晋陽に逃げ帰った。爾朱兆軍の撤退を知った仲遠も兵を引いた。

 翌五三二年正月、高歓は河北の重鎮・鄴を占拠した。

 決戦のまえ、爾朱陣営の守将斛斯椿こくしちんと賀抜勝は、先行きに不安を感じていた。

「天下の形勢は爾朱氏不利に傾いている。このまま爾朱側の手先を続けていたら、遠からず滅ぼされよう。われらは二手に別れ、生き残りの道を選ぼう」

 そこで賀抜勝は高歓に投降し、斛斯椿は洛陽に奔った。爾朱世隆を斬り、爾朱天光を生け捕った斛斯椿は、これを手土産にして高歓に降った。爾朱仲遠は南朝梁に亡命した。


 この時期、爾朱陣営にとどまっていた侯景が、安定王のもとに投降した。爾朱兆軍の撤退で、もはや勝負あったと判断し、爾朱側に残留して内部情報を伝送する必要がなくなったのだ。高歓側にとっては、爾朱陣営に関する最新、最大の事情通を迎えることになる。侯景の新たな住まいを訪う人が引きもきらず、また侯景も足しげく高歓らを訪問した。


 ほどなく洛陽に入城した高歓は、自ら立てた安定王元朗と爾朱氏が擁立した節閔帝元恭を廃立し、新たに広平王元懐の三子広陽王元修を立てた。北魏末代皇帝となる孝武帝である。高歓は大丞相となり、天柱大将軍・大師など要職を兼ねた。

 洛陽を手中にした高歓は并州に進み、爾朱兆を追って、晋陽を攻め落とした。北上した爾朱兆は古巣の秀容に逃れたが、もはやこれまでと観念し、自ら首くくり自害した。

 前後五年余にわたり、北魏にあって雄をとなえた爾朱氏は、ここに消滅した。


 爾朱栄にしたがい、側近くで所作を見聞きしてきた高歓は、心から爾朱栄に畏敬の念を抱いていた。多くのことがらを爾朱栄に学んだが、真似ることもまた多かった。

 年齢わずか十二歳の嫡男高澄を侍中、驃騎大将軍にした。むすめを孝武帝に嫁し、皇后にした。三人の皇帝を傀儡とし、用済み後は死に追いやった。晋陽に丞相府を築き、遷都をちらつかせて、朝廷を遠隔操作した。


 慕容紹宗は、爾朱兆の家族をつれて高歓軍に投降した。

 高歓は慕容紹宗の才幹を惜しみ、爾朱氏にたいする忠義心に敬服して、罪に問うことはなかった。しかし、取り立てることもなかった。臣下には、「敬して遠ざける」風に映ったから、あえて近づく人はいなかった。侯景だけがことあるごとに門を叩き、慕容紹宗の無聊を慰め、ときに戦術の教えを請うていた。

 紹宗は侯景に、「戦術の要諦は、大度たいどをもって兵を起こすことにある」と説いた。広い心で敵のふるまいや様子をおしはかれば、おのずと敵の弱点が見えるから、その隙をつけというのだ。

 戦の勝敗は、兵の数で決まるのではない。「衆寡敵せず」は、凡将にこそあてはまるが、絶対ではない。寡をもって衆に打ち勝つ戦こそ、将領たるものの本分であり、大将の価値は自在に兵を動かし、無勢で多勢を翻弄するところにあると、戦の要諦を教えたのだ。同時に大将は個人の技をひけらかしてはならないと、匹夫の勇を戒めた。強将が叱咤すると兵卒は萎縮するからで、強将に弱卒なしとはならないと、通説を否定した。

 侯景は、翻然として悟った。

 ――まさに陳慶之の戦、そのものではないか。

 かつて「神弦手」と誉めそやされ、騎射の腕を誇った侯景が、己の特技に封印をした。

 いまは亡き陳慶之に戦の原理を見出し、ひそかに学ぼうと志し、まず形から入った。「騎射はおろか、ろくに馬にも乗れぬ文弱の徒」と思われていた陳慶之にあやかるには、騎乗で見せる「神弦手」の腕前は、百害あって一利ない。こわもての印象をかえようとしたのだ。

 ――この男、いったいなにが望みか。

 鬼気迫る決意を侯景に感じ取り、慕容紹宗は首をひねった。


 孝武帝元修は、数代続いた傀儡皇帝とは趣を異にした。自分の考えをもち、己が判断を実行する才覚があった。皮肉なことに、それはじぶんを擁立した恩人にたいしてだった。

「除くべきは、高歓だ」

 決意するや、反高歓の同志集めに腐心した。南陽王元宝炬げんほうきょ・将軍元毗げんび・王思政・斛斯こくし椿ちんらが参集した。ことに斛斯椿はもと爾朱栄の武将で、高歓に投降後は賀抜岳に加担し、爾朱一族の誅滅に手を貸していたから、動くに十分な自前の兵馬を保有していた。孝武帝は斛斯椿を近衛軍将軍に任命し、まず手元を固めた。ついで外部に強力な同盟者を求めた。斛斯椿と謀議し、賀抜岳と高乾に白羽の矢を立てたのだ。

 武川鎮出身の賀抜一族なら高歓と武略で雌雄を決するに遜色はないし、賀抜兄弟は頼りがいがある。孝武帝は、高歓に投降したあと洛陽に留まっていた侍中の賀抜勝を荊州刺史に任じ、南方のかなめとした。さらに関中大行台の賀抜岳に密使を放ち、高歓を挟撃すべく画策した。

 司空高乾は、高歓が兵を起こしたときの最初の盟友で、その三弟の高敖曹は高歓を助けて爾朱兆を滅ぼした功臣だ。高乾四兄弟は高歓軍の骨格だった。道理からいって皇帝側につくとは考えにくい。しかし、皇帝は確信をもって、己が陣営に高乾を誘った。

 宮中華林園に群臣を招き、宴席を催した。酒席のあと残った高乾は、皇帝に忠心を示し、盟約を誓った。高乾は酔っていた。

「国のため身命を賭す覚悟です」

 深く考えもせず、胸を叩いて、皇帝と義兄弟となることを誓った。その後なんどかまみえるうち、皇帝が高歓を陥れようとたくらんでいることに気づき、并州に馳せ参じ、高歓に忠告した。

「孝武帝は将軍憎しの一心から、謀叛をたくらんでいるとしか思えませぬ。いまこそ立つべきときではありませんか。禅譲を受けて帝位につくは、いまが絶好の機会です」

 しかし、高乾の真意は高歓に伝わらなかった。高歓は慎重に政局を分析していた。

「爾朱栄天柱大将軍ですら拝辞した恐れ多い帝位を、なんでわしごときが戴けようか」

 百鬼夜行の乱世だ。得体の知れない輩が、どこで聞き耳立てているか知れたものではない。根回しなしに、安易に口走ったひとことが、命取りになることもある。

 ――熟柿が自然に落ちる、そのときこそ、わが立つべきときだ。まだ早い。


「高乾は朕と盟約し、義兄弟となった」

 ふたりの仲を裂こうとくわだてた皇帝は、ぬけぬけと高歓に秘事を暴露してみせた。

「臣高乾は身をもって国に仕え、義をもって忠誠をつくしております。裏切ったのは私ではない。陰謀を企てた陛下ご自身ではないか」

 高乾は悔し涙で訴えたが、孝武帝は聞く耳もたず、じぶんに味方しない高乾に死を賜った。

 そのうえ、ひそかに高敖曹をも殺そうとし、刺客を差し向けた。動きを察知した高敖曹は、ぎゃくに皇帝の刺客を捕らえ、暗殺の密詔を奪うと、十数名の随従とともに晋陽に奔り、高歓の膝下に飛び込んだ。高歓は密詔を見て、高敖曹をかき抱き痛哭した。

「天子は司空高乾を無実の罪で殺したのか」

 その実、高歓は孝武帝の動きを、すべて掌握していた。


 華北をほぼ手中に収めた高歓だったが、関中と隴西は賀抜岳が優勢を占めていた。わずかに霊州(いまの寧夏霊武、銀川の南)刺史曹泥だけが、高歓を支持していた。

 右丞の翟嵩てきすうが高歓に献策した。ひそかに侯莫陳悦を離間させ、賀抜岳と関中で同士打ちさせて、漁夫の利をとろうというのだ。

 侯莫陳悦は典型的な鮮卑の戦士だった。侯莫陳は三字姓で、ときに陳と単姓で名乗ることもある。河西に居住する胡人だから、漢化の影響はあまり受けていない。高歓に肩入れしているのは、戦略上の理由からではなく、利益の匂いを嗅ぎつけたからだ。むかし同僚だった賀抜岳とは長い付き合いだが、反感を持ち、いずれ消してやろうと時期をうかがっていた。高歓がそれを望んでいると、嗅覚が教えてくれた。ならば一番高く売れる時期をねらって当然だ。

 賀抜岳はこの時期、平涼に自軍を駐屯させていた。涇州けいしゅうにある平涼は、いまの甘粛に属する。当時、長安は雍州に属し、雍州の西北で涇州と隣接していた。

 平涼・長安間、直線距離で二百三十キロ。侯莫陳悦は賀抜岳と組んで長安を攻め、爾朱天光の弟で長安鎮守の爾朱顕寿をとらえた。さほどの苦労もなく関中を手中にした賀抜岳は、表向き高歓に帰順し、実のところは関中に割拠した。そして信頼厚い宇文泰に後事をゆだね、自身は戦場を駆け巡った。高歓に先んじて爾朱栄に仕えた希代の豪傑のもっとも愉快な一時期だったに違いない。


 賀抜岳は、選択を迫られていた。

 高歓をとるか、孝武帝をとるか、のどちらかだ。流れからいえば、高歓を選ぶのが正しい。なにせ皇帝といっても、孝武帝元修個人の力量は高歓にかなうべくもない。

 そこで、宇文泰を晋陽に送った。高歓にさぐりをいれたのだ。宇文泰は高歓と会見した。

 英雄が英雄を知るのに、多くの時間はいらない。

 宇文泰はひと目で高歓を、天下を志す英雄と喝破した。

 高歓もまた宇文泰の非凡な顔立ちから、英雄の資質を見てとった。自分より十一歳若いが意気盛んで、将来有望な青年将校だ。

「いや、感じ入った。いい面構えをしておる。そこもと、わしがもとで働かぬか」

 高歓は宇文泰を、自軍の武将にほしいと思った。

「せっかくのおことばですが、いま地元を離れるわけには参りませぬゆえ、お断りします」

 宇文泰は婉曲に断ったが、こののち北魏を東西に分けて競い合う好敵手になろうとは、夢にも思わなかった。再三にわたる高歓の誘いを断り、宇文泰は関中に去った。

 根負けした恰好の高歓だったが、宇文泰が去ったあと、後悔した。

「したがわぬなら殺すべきだったか。いや違う。いずれ戦場で相見えるを楽しみに待とう」

 さすがは高歓である。後悔などどこ吹く風とばかりに吹き流し、笑い飛ばしたのだ。


 関中に戻ると、宇文泰は賀抜岳に復命した。

「高歓というは、かならずや天下に覇をとなえる英雄です。敵に回してはなりません」

「――」

 少時、思案した賀抜岳だったが、結局、孝武帝元修を選んだ。高歓の風下にだけは、立ちたくなかった。皇帝から盟約を誘う密旨が寄せられていた。


 爾朱兆を倒したあと、高歓は賀抜岳を配下どうぜんにあしらった。いつまでも先輩面されていては、周囲に示しがつかない。あえて厳しく対処した。

 高歓は賀抜岳を冀州刺史に任用した。河北の長官だから表向きは、遜色のない公正な人事といっていい。しかし関中にこだわる賀抜岳は、任命を拒否した。関中と隴西を地盤とする「関中王」が、地元を離れるわけにはいかぬ。それと知ったうえでの露骨な踏み絵人事だった。


 隴西で賀抜岳に服従しないのは、霊州刺史曹泥だけだった。賀抜岳は侯莫陳悦の部隊と高平(いまの寧夏固原)で集結し、曹泥を討伐する計画を立てた。賀抜岳は都督趙貴を夏州へ派遣し、対策を練った。夏州刺史宇文泰は不安を感じた。

「曹泥は孤城で離れている。あえて討つまでもない。放っておけばすむ。それより侯莫陳悦は詐術が多く、信頼に欠けるから、むしろ悦をこそ用心すべきです」

 しかし賀抜岳は宇文泰の忠告を軽く受け流し、高平へ出動する準備にとりかかった。曹泥を討つことに決し、侯莫陳悦と高平で部隊を合流するように依頼した。侯莫陳悦は喜々として先発し、河曲に屯営を設けて、賀抜岳の到着を待った。

 賀抜岳が到着した。一同は幕舎に集まり、戦略を協議した。

 話の途中で侯莫陳悦は、「腹が痛い」といって厠へ立った。同時に悦の女婿元洪景も立ち上がり、なにくわぬ顔で賀抜岳の背後に回った。そしてとつぜん、刀を抜いて切りつけた。

 賀抜岳の首めがけ、後ろから刃を振り上げ一閃したのだ。賀抜岳の首が胴を離れた。

 元洪景は叫んだ。

「上意である。賀抜岳いちにんを討てば足りる。みなの衆、お控えめされい」

 上意ー高歓の指示であると言明したから、幕舎は静まりかえった。

 各人の思惑が入り乱れるなか、侯莫陳悦は平涼西方の水洛城に逃げ去った。

 趙貴は賀抜岳の首をもらいうけ、主を失った賀抜岳軍とともに、悄然と平涼に帰還した。

「侯莫陳悦はわれらが元帥を殺害した。勢いに乗って平涼を占拠することをせず、水洛に退去したるは、無能にして臆病なる証左である。仡度きっと討ち果たし、元帥のご無念を晴らしてくれる」

 宇文泰は賀抜岳の訃報に接するや、ただちに軽騎をひきいて賀抜岳に属する軍隊の駐屯地平涼に急行した。


 宇文泰が安定(いまの甘粛涇川北)に着いたとき、高歓の命で、賀抜岳の部隊の招撫に向かう侯景に出合った。宇文泰は侯景を確認すると、大声で呼び止めた。

「賀抜公は亡くなったが、このわし宇文泰はなお生きておる。貴殿はここへ来てなんとする存念じゃ」

 危機に面して、宇文泰はひと回りもふた回りも大きくなっていた。毅然とした覚悟のほどが、全身に漲っていた。さすがの侯景もこれには驚き、顔色を失い、声が震えた。

「やつがれはしがなき矢玉にて、右といえば右、左といえば左、主人が命じるままに飛び跳ねるのみ。ここを訪うたのも、深い思案あってのことではござらぬ」

 いい終えるや、侯景はきびすをかえして晋陽へ戻り、宇文泰のすばやい動きを高歓に急報した。

 新たなる宿敵ライバルの登場を予感していた高歓は、侯景の報告を聞き終えたあと、心中ひそかに宇文泰の成長を喜び、他方で激しく敵愾心を燃やした。


 宇文泰は平涼において、賀抜岳の墓前に額づき、ひとしきり慟哭した。賀抜岳の部曲は宇文泰のこうした情義あふれる行為をみて、一致して宇文泰を統帥に推挙した。かれらは侯莫陳悦を探しだし復仇することを誓い合った。

 宇文泰は、「先礼後兵」による義戦であることを宣言した。先に礼を尽くしておいて、後に兵を用いる。正々堂々と戦う意志を天下にしめす場合の礼式である。

 まず侯莫陳悦に書信を差し出し、恩義に背いたことをなじり、自分が大軍をひきいて復仇の陣頭に立つことを宣言した。書信を送ったあと、宇文泰は大軍をひきいて天を覆う風雪をものともせず、侯莫陳悦の古巣である隴西に向かって進発した。

 勢いが違う。略陽(いまの甘粛清水北)を落とし、ついで上邽じょうけい城(いまの甘粛天水)を突破した。追い詰められた侯莫陳悦は荒れ果てた山中で、首を括って自殺した。

 その後、かつて賀抜岳が関中と隴西に築いた基盤を承継した宇文泰は、徐々に勢力を強固にしていった。

「関中を占拠、隴西を制圧し、時期を待って長安に遷都、天子を擁して天下に号令する。まさに覇業達成の好機ですぞ」

 謀臣于謹らの建議に押され、宇文泰は関中・隴西で独立割拠する考えを深めていた。


 高歓は宇文泰の勝利を認めざるを得ず、やむなく盟友の契りを結んだ。あらためて皇帝の臣下としては格上であることを強調しておく必要があった。そこで高歓は使者に金銀財宝と書信を持たせ祝賀に出向かせた。

 宇文泰は高歓の礼物は受け取らなかったが、書信は密封して、配下の済北都督張軌にもたせてやり、洛陽に派遣し、孝武帝に賜った。忠誠をしめしたのだ。

 張軌は洛陽に着いたのち、孝武帝に拝謁した。

 帝との対話は、寵臣斛律椿が仲介する。斛律椿は張軌に問うた。

「高歓の野望は明白だ。いま天子が頼れるのは西方しかない。ところで宇文泰と賀抜岳とは、比べればどちらがより優れているか」

 張軌は、きっぱりといってのけた。

「宇文公は、文は国を治めるに十分であり、武は乱を平らぐに十分です」

 孝武帝は得心した。

「宇文泰なるもの、有能であり、忠誠心も認められる。頼りとするに足るならば、引き立てるに如くはない」

 ただちに加封し、宇文泰を驃騎大将軍、開府儀同三司、関西大都督とした。


 北魏永煕三年(五三四)五月、孝武帝は河南に二十四万の大軍を編成、南伐に応詔すると宣言した。兵を四路に分け大挙して南下する、と諸州の軍隊に発動の詔勅を発した。

 南朝梁国を攻めると号令し、自ら陣頭に立ったのだ。唐突な動員令は、ただちに晋陽の高歓のもとに伝えられた。

「帝が御自ら立って、梁朝を攻めるだと。ありえん。ねらいは宇文泰が内懐だろう」

 予想されたことだ。即断するや高歓は上洛準備にとりかかった。七月、高歓軍は黄河をわたった。追撃をおそれた孝武帝は、洛陽を捨て長安に向かった。賀抜岳の跡を継いだ宇文泰のもとに身を投じるのだ。八月、高歓は洛陽を占領した。皇帝以下重臣のほとんどが家族を帯同して逃亡し、放棄された首都だった。豪商もあとを追い、なすすべのない城民だけが居残っていた。もっとも、皇帝と最後まで行をともにしたものは少なく、大多数は城外の一隅にひそみ、成り行きを見守っていた。

「もはや無用の都城と化したか。恨むなら分別のない帝を恨め」

 高歓は冷たくいいはなった。晋陽からの遠隔操作では、逃亡者を押さえ切れなかったという腹立たしさもあったが、洛陽に未練はなかった。しかし、皇帝の不在は困る。

 高歓は孝武帝の東還を要求し、四十数通の上奏書を送ったが、無視された。そこで清河王元亶げんせんの子・元善見を立てて孝静帝とした。齢わずか十一歳の新帝だった。

 また南朝の領域に近く、関中に接する洛陽を首都とするのは軍事上危険だったから、鄴城に遷都することに決し、発令一下、三日後には実行した。洛陽の城民四十万人を、新都鄴城へ移動させたのだ。翌年八月、皇帝不在の洛陽城の宮殿は取り壊され、解体された建設資材は新都へ運ばれた。


 洛陽を逃れた孝武帝は、宇文泰のもとに身を寄せた。ともなった鮮卑兵は一万に満たなかった。残りの兵は、高歓のもとに奔った。宇文泰は、大将軍となり、尚書令をかねた。


 荊州刺史賀抜勝は孝武帝の動員令に応じ、軍を関中に向かわせたが、途中で高歓軍にさえぎられた。やむなく荊州に戻ったところを侯景の軍団に襲われたので南に逃れ、梁朝に投降した。梁の武帝は勤王の志し篤い賀抜勝を丁重にもてなし、二年後(五三六年)、望郷にかられる降将を長安に帰した。


 ほんらい孝武帝元修は揉み手してでも、朝廷の大権を宇文泰に譲ってしまうべきだった。そうすれば、虚名だったにせよ六、七十歳まで命が保証され、笑って人生を終えていたはずだ。そもそも都落ちの時点で皇帝の資格を放棄していたのに、その認識を欠いていた。

 元修は傀儡として、高歓の手の内にあることの屈辱に堪えられず、最後まで高歓を憎む私的感情を捨て切れなかった。

 その憎悪心のはけ口を、女性に求めたからたまらない。傍若無人というほかない。

 孝武帝のいとこに、未婚の公主が三人いた。こともあろうに孝武帝は、この三人にのめり込んでしまった。不適切な男女関係に及び、他人の忠言に耳を貸そうとしなかった。同じ鮮卑人としてということもあるが、指導者として看過するわけには行かない。

宇文泰はあえて苦言を呈した。いや、宇文泰が口にする以上、最終宣告といっていい。

「皇上、我慢してお聞きなされよ。三人の公主がこと、もはや猶予はなりませぬ。ただちに親元へお戻しなされい。人倫にもとる禽獣の行為よと、口悪しく罵られては、お立場に触ります。いや、それ以上に、われらが迷惑いたします」

 むっとした顔つきで孝武帝は返事もしない。御前を下がった宇文泰は、処置を指示した。三人の公主をいいふくめ実家へ帰すのだ。ふたりまで同意したが、三人目は拒絶した。

「なに、平原公主が反対しておると。公主は南陽王元宝炬げんほうきょの実妹であったな。かまわん、殺せ。殺して見せしめにせよ」

 断固たる口調で断罪を決した。宇文泰に、王者の威厳が生まれていた。

 結果を聞いて、孝武帝は激怒した。じぶんと同年の宇文泰を高歓よりも軽く見ていたから、なおのこと怒りが倍加した。

「宇文泰め、朕をたばかりおったか」

 卓子を叩いて歯軋りしたが、あとの祭りだ。孝武帝はじぶんが傀儡皇帝に過ぎないことを、すっかり忘れていた。名ばかりの身分を忘れ、本気で感情をむき出しにした。

「もはや要らぬわ」

 宇文泰が、ことの善し悪しもわきまえない身勝手な皇帝に見切りをつけるときがきた。

酒に毒を盛ったのだ。鴆殺ちんさつという。毒鳥である鴆の羽毛をひたした必殺の毒酒を飲ませ、孝武帝を鴆殺した。

 皇帝を殺した宇文泰は、孝武帝のいとこで二十五歳の南陽王|元宝炬を帝にあてた。文帝である。むろん、実妹平原公主を刑に処した償いの意味はない。


「関中がかような次第ならば、大将軍におかれては禅譲を受けて、おん自ら皇帝に立たれてもよろしいのではありませぬか」

 見てきたようにことの顛末をものがたる侯景の建議にたいし、高歓はまだまだという顔つきで首を横に振った。同席した幹部のだれもが、以前よりも大きな余裕を高歓に感じとった。

 ――その時期が近づいているということか。あの方士なら、なんと答えるだろう。

 かつて爾朱栄の帝位を完全否定した葛恩方士だったが、高歓の帝位には言及していない。侯景は頭で指を折って数えた。あれから十年たっていた。

 ――皇帝になって、五十で死ぬか。皇帝にならず、百年生きるか。己で選べ。

 二者択一の葛恩の問いかけが、侯景の耳朶によみがえった。

 ――俺の答えはかわらない。二十年は切ったが、五十までにかならず、実力で皇帝になってみせる。それがおれの死ぬときであったとしても、悔いはない。


 この後、宇文泰が権力を掌握した西魏と、高歓が権力を掌握した東魏は、連年にわたり、争いつづけることになる。北方全域を巻き込む戦火は、南方に飛び火し、戦の絶えない時代は、なおもつづくのである。

「侯景の乱」を暗黒の頂点とすれば、時代はしだいに黄昏たそがれてゆき、やがて逢魔おうまときにさしかかろうとしている。

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