五、白袍将軍


 河陰の変で大虐殺をあえてした爾朱栄じしゅえいは、半年後、東に葛栄の叛乱を粉砕し、権勢を一手に掌握した。大丞相となり、柱国大将軍を兼ね、子や兄弟など一族のものを王など要職につけた。

 あたかもこの時期、南朝梁は援軍を求めて投降した北魏の北海王 元颢げんこうを魏王に封じ、名将 陳慶之ちんけいしを後ろ盾に北伐軍を起こし、洛陽目掛けて攻め寄せた。 

 陳慶之は、のちに「白袍はくほう将軍」の異名をとる戦の巧者だ。ひときわ目を引く白地の長い戦袍を風になびかせ、騎馬で疾駆する陳慶之と七千騎の白袍騎馬軍団は、華北の戦場で北魏鮮卑の鉄騎兵を蹴散らし、南船北馬の常識を覆すことになる。陳慶之、このとき四十五歳。

「陳慶之だと。なんだ、そやつは」、

 河北で葛賊の残党征伐におおわらわの爾朱栄は、とつぜん舞い込んだ睢陽すいよう危うしの報に目をむいた。睢陽城は河南商丘一帯の梁郡にある。梁郡は江蘇徐州の西北百五十キロ、交通の要衝といっていい。西に三百キロ、開封・鄭州を通過すれば、都洛陽は目と鼻の先だ。  

「陳慶之は、梁の蕭衍しょうえんが国を興すまえから寵童として仕え、十九歳で近侍に取り立てられた由。騎射はおろか、ろくに馬にも乗れぬ文弱の徒と思われておりましたが、四年前、四十一歳で初陣するや八面六臂の大活躍。昨年、梁が安徽の渦陽を攻略した際、わずか二百騎で十五万のわが軍を翻弄するなど、秘めたる力をもつ偉才です。寡兵で衆を討つ用兵に長け、こたびも七千余ばかりの軍兵で侵入し、北上するやたちまち諸城を陥落し、いままさに睢陽城を窺っております」

 梁国の事情に詳しい探子が、爾朱栄の疑問をたちどころに解く。

「前年のこともある。大事をとって洛陽の元天穆を救援に遣わそう」

 渦陽は、いまの安徽 亳州はくしゅうで、商丘の南にあたる。昨年、北魏に侵入した陳慶之は、一年たらずの間に渦陽近郊にある十三の砦を二百騎の手勢で次々に攻略し、ついには渦陽城を陥落させた。北魏の征南将軍元昭ひきいる十五万の大軍は、長途の遠征疲れと陳慶之の奇襲作戦で、なすところなく敗退した。ただちに伝令が洛陽に奔った。援軍の出動を指示したのだ。

 爾朱栄の懸念はあたった。睢陽城は都督の丘大千が守備していたが、援軍の到着を待たず降参した。梁軍の寡勢を甘くみた元天穆が途中、済南へ迂回したため間に合わなかったのだ。

 梁軍はさらに西進し、洛陽以東で最後の大城・滎陽けいようにいたった。洛陽まで七十キロ、至近距離といっていい。大手を広げて立ちはだかるのは、総勢三十余万の北魏軍である。

 滎陽城を死守する東南道大都督 楊昱よういく、洛陽を守る虎牢関ころうかん轘轅関かんえんかんの両関に詰める爾朱世隆・爾朱世承、ともに爾朱栄の従弟いとこにあたる。さらに、急報を聞きつけ取って返した元天穆と急遽増派された爾朱栄の甥爾朱兆、いずれ劣らぬ猛将揃いだ。

 顔ぶれを聞いて、梁軍の将卒はすくみあがった。ただ一人、常とかわらず平然としているのは、陳慶之のみである。かれは人馬に十分な食と休息を与えたうえで、決戦の覚悟を呼びかけた。

 「諸君らがいまいるこの地は、敵地である。この敵地において諸君らはなにをしてきたか。侵略し、城を攻め、略奪してきた。人を殺し、女をわがものにしてきた。われらは魏国にあだなす憎き敵であり、友人などではない。魏軍は三十余万、われらは七千、多勢に無勢、まともに戦って勝てる見込みはまったくない。かれらがわれらを皆殺しにしても不思議はない。だからといって絶望する必要はない。諸君、聞きたまえ。今日というこの日は、われらが死する日ではない。敵が敗れる日なのだ。わたしに策がある。必勝の策だ。敵軍兵士と平原で刃を交える戦はしない。まず滎陽城を攻め、城と壕を奪うのだ。城下を占領して城門を固める。そのうえで、狭い入口から敵を一人ずつ誘う。そうすれば、敵がいかに多勢であっても、一対一で戦うことになる。どうだ、一対一ならば十回やっても、敵に引けはとるまい」

 陳慶之は、ここで一段と声を励まし、将兵に元気を送った。元気は活動のもととなる気力だ。

「諸君! 決して、ためらうな。気力をもって、迷いを捨て、信じるのだ。今日というこの日は、われらが死する日ではない。敵が敗れる日なのだ」

 伝え終えるや、陳慶之は号令し、太鼓を三度たたいた。出陣の合図だ。戦場でひときわ目立つ七千騎の白袍騎馬軍団は、蛮勇を奮って滎陽城に向かって突進した。城内の楊昱は援軍の来襲をまって城を打って出、挟み撃ちにする構えだったから、攻撃も守りも中途半端になり、士気に欠けた。逆に意気盛んな梁軍は、城壁を乗り越えようと果敢に攻めた。魏軍の手薄な個所が崩れだした。あわただしく守りの強化を手配りするいとまも与えず、梁軍の突撃隊は城壁の損壊個所を蹴破り、気勢を上げて突進した。滎陽城内は魏兵の死傷者で満ちあふれた。楊昱も捕まり、牢につながれた。陳慶之は、捕虜となった武将を殺した。魏軍の梁軍にたいする憎悪を煽り、かれらの冷静な判断力を封鎖したのだ。

 梁軍は滎陽を制圧した。元天穆の先鋒隊は城下に迫った。陳慶之は敵の足並みの乱れに乗じて、突如、三千の騎兵をひきいて場外へ出て、敵を迎え撃った。魏軍は遠路の来援で、陣形を立て直すいとまもなく、痛撃を浴びて壊滅した。

 滎陽の戦いは陳慶之の名声を、中原に鳴り響かせた。

 一時期、洛陽で童謡がはやった。


  名師・大将 莫自牢     名師・大将 自らかたくなく、

  千兵万馬 白袍を避く    千兵万馬 白袍を避く


 北魏の名だたる猛将ひきいる守護軍は、陳慶之の白袍騎兵軍団の気勢に押されて敗退し、逃亡した。元天穆は河北に退却した。爾朱世隆は虎牢関を放棄し、爾朱世承は轘轅関を打捨て、逃走中に戦死した。洛陽以東に、侵入者を阻む障害はなくなった。北魏の孝荘帝は洛陽に居たたまれず、側近をつれて河内に逃れた。いまの河南沁陽、洛陽の東北五十キロの地だ。その後、山西の并州(太原)まで三百キロ北上し、河北から洛陽にとって返す爾朱栄の動向を見守った。

 北海王 元顥げんこうを護衛し、滎陽まで侵入してきた陳慶之の戦績は、四十七戦全勝だ。抜いた城の数三十二。堂々たる戦果を背景に、元顥と陳慶之は洛陽に入城し、北魏百官の朝拝を受けた。

 河陰の変の惨事の記憶が、まだ生々しい。百官にとっては、あの悪魔のごとき爾朱栄とその一派でさえなければ、だれでもよかった。ましてや皇室につらなる元顥だ。救世主でも見るように、奉った。けっして信服したわけではない。それを知ってか知らずか、元顥はすっかり舞い上がっていた。梁国の傀儡にすぎない立場を忘れ、有頂天になって、皇位にしがみついたのだ。

 ――せっかく手にした皇帝の座、なんで離してなるものか。

 とたんに梁国の干渉と陳慶之の存在が疎ましく思えてくる。


 一方、陳慶之は常に冷静である。

 戦勝は一時的なものでしかない。全面制圧したわけではなく、四面みな敵に包囲されている。皇帝と称しても、あくまでかりそめのもので、心底、服従させたわけではない。

 梁の軍勢は七千、短期決戦ならば、勝ち抜く自信があった。事実、ほとんど無傷で、十分すぎるほど戦えた。そもそも当初のもくろみは、北魏国内の霍乱で事足りた。国境辺の数州を犯し、人と糧食を強奪してくれば、所定の任務をまっとうする。首都攻略までは考えていなかった。

 しかし、幸か不幸か、事ここにいたった。占領を維持するには、圧倒的に兵員が足りない。俘虜で代替しても安定感に欠ける。いつ寝返るか分からない兵では、おちおち昼寝もできない。やはり、梁帝蕭衍に説いて、南方の精兵を増派してもらうにしくはない。陳慶之は元顥に提案した。

「占領を維持するには、兵員が足りません。十万単位の増員が必要です。俘虜で補充しても数千が限度です。自軍の数七千を超えては、危険だからです。緊急に援軍を要請してください」

 上の空で聞いていた元顥は、生返事を返しただけで、手を振って陳慶之を下がらせた。昼となく夜となく、連日、女官をはべらせての酒宴が続いている。朦朧とした意識のなかで、我欲だけが増幅している。元顥に四六時中張り付いている降臣・安豊王元延明が、耳元でささやく。

「陳慶之の兵はすべてやつに信服しており、われらになびくものはおりません。このうえ奴に援兵を送れば、帝の座を奪われかねません。梁帝にはよしなに報告し、増援の件は無視しましょう」

 わが意を得たりとばかりに元顥はうなずき、蕭衍に戦勝報告を上表した。

「魏への侵攻は成功し、河北・河南ともに平定、残す敵は山西の爾朱栄のみとなりました。それもまもなく、拙者と陳慶之とで、生け捕ってご覧にいれましょう。各州郡とも、近ごろではわれらにすっかり懐き、穏やかに安らいでおります。兵を増派するなどして、いたずらに民百姓を怯えさせることのなきよう、お願い申し上げます」

 蕭衍は国境付近に兵を待機させ増援に備えていたが、元顥の報告に合点し、移動を禁じた。

 のちにこの事実を知った陳慶之は、時をおかず、撤退準備にかかった。

 無力の元顥にとってかわるのは容易なことだし、魏に降れば貴顕の地位と恩賞が期待できよう。野心家ならずとも、懊悩してとうぜんな人生の岐路ではある。しかし、陳慶之に欲はない。もし欲があったとすれば、戦術上の欲であろう。このときかれは、一兵も損ぜず、速やかに洛陽を脱出し、国境に向けて撤退する戦術の研究に没頭していた。


 河北からとって返した爾朱栄が晋陽の兵を合わせ数十万の大軍で、黄河の北岸に押し寄せた。洛陽東北の黄河北岸に、北中城という小さな城がある。黄河に架かる河橋にぴたりと寄り添っている。元顥は陳慶之に北中城の守護を命じ、自身は魏の投降兵をひきいて黄河の南岸に布陣した。陳慶之は白袍騎馬軍を三隊に分け、うち二千の一隊をひきつれ黄河を渡った。二隊は洛陽に残してある。

 爾朱栄は北中城にたいし、三日の間に十一回の攻撃を試みたが、城門をぴたりと閉ざし、投石・飛箭で抵抗する守城側に手を焼いた。そのくせ兵を引けば、たちまち城外に討って出る白尽くめの騎馬兵に蹴散らされる体たらくで、士気の落ちた攻城側は、遠巻きに対峙するよりほかなかった。

 わずか七千の騎馬隊で都城洛陽を陥落したのだ。陳慶之とかれの白袍騎馬軍団の破壊力は、なかば伝説と化していた。陳慶之は「戦神」と崇められ、白袍騎馬軍団は生者を死へと誘う不吉な葬送軍と恐れられた。白色は弔意哀悼の色であり、なにもない空白の象徴であってみれば、せめて敵側にだけは回りたくない。「触らぬ神に祟りなし」だ。余計なことに手出しさえしなければ、災いを招くことはない。武器を放り出し、逃げたくなるのも無理はない。

「陳慶之の策に乗せられましたな」

 孝荘帝の側近、黄門郎の楊侃ようかんが、口を挟んだ。

「・・・・・」

 さしもの爾朱栄もさじを投げた。士気の落ちた軍を叱咤しても、はじまらない。

「勝敗は兵家の常と申しますが、負けたわけではありません。さすがは陳慶之よと敵方を讃え、ここは一番、戦法をかえるべきです」

「策はあるか」

「されば、陳慶之にかまわず、一刻も早い渡河をお勧めします」

「それができぬで、足止めを喰らっておる」

「この河橋にこだわりますな。橋は別にかければよろしいかと。元顥に失望した近隣の民は、やはり将軍の都城復帰を待望しております。そのため黄河沿岸東西数百里にわたり、筏を組んで準備しております。ひと声、新たに橋をかけよと、お下知ください。黄河に浮橋を渡します。」

 爾朱栄は爾朱兆に命じて、渡河作戦の適地を探らせた。爾朱兆は馬渚の渡しを選び、そこに黄河流域の筏を集中した。一昼夜かけて、筏の仮橋は完成した。爾朱栄は兵を引き、黄河沿いに数十万の軍勢を移動、馬渚の渡しで黄河を渡りきった。

 北魏殿軍の姿が消えるのを確認した陳慶之は、北中城を空にし、全軍上げて河橋を渡り、洛陽へたち返った。

 黄河南岸で陣営を整えた爾朱栄は、同じ南岸に集結する元顥の軍を襲撃した。元顥は大敗し、南に逃げたが、洛陽の東南百六十キロ、臨頴りんえいの地で斬られて果てた。

 爾朱栄は洛陽へ向かった。陳慶之と最後の決着をつける意気込みだ。久々に胸が躍った。

 その実、爾朱栄は仇敵とはいえ陳慶之が嫌いではない。北中城下では散々かき回されたが、寡兵で衆に当たる騎馬軍団には好感すら抱いている。

 ――かなうものなら説き伏せて、爾朱軍団に加えたい。しかし、わしに使いきれるか。

 あるいは、

 ――陳慶之はわしより九歳年上だから、部下ではなく軍師として招聘してもよい。

 とさえ思った。

 ――侯景ならどう戦うか。

 とも考えた。

 軍団を自在に使いこなし、衆寡にこだわらず果敢に攻める戦法は似ているが、侯景は詰めが甘い。勝利の寸前、勝ちをあせり、ときに十中八九手にした勝機を見失うことがある。欲のせいだ。

 とはいっても、陳慶之より十九歳も若い侯景に欲の自制を求めるのは、角を矯めて、牛を殺すに等しい。できない相談だ。

 ――もっと学ぶ以外にない。

 思考のなかで爾朱栄は、侯景を叱咤した。

 ――では、高歓なら使いきれるか。

 爾朱栄は高歓を買っている。いま、じぶんが身まかれば、爾朱軍団を引き継ぐのは爾朱一族ではなく高歓だろう。口には出さぬが、腹のうちでは、そう思っていた。

 ――しかし、それはありえぬ。

 爾朱栄は、北族の再興を念願している。その達成が目前にちらつくいま、よもや死ぬなどということは、ありえなかった。死ぬのはわしではない。北魏の皇帝だ。鮮卑貴族の輩こそ死んでとうぜんではないか。

 ――だから殺した。

 河陰の変、あれは激動にかられた不慮の惨事などではない。周到に計算された大量の公開処刑だ。滅亡の崖っぷちに立たされた少数北族が、数に頼る傲慢な漢族と民族の裏切り者に打ち下ろした報復の鉄槌なのだ。

 北方の遊牧民族、五胡と恐れられた騎馬胡族、これを柔な漢族まがいにしたのは北魏の皇帝と鮮卑貴族だ。北族は北族らしく、北族ほんらいの姿にたち返らねばならぬ。漢族に学ぶのはよい。まねるのも許す。しかし根こそぎ融合して、身も心もとろけて消えうせては、元も子もない。

「北族本色」―北族ほんらいの面目、姿をとり戻すのだ。誰がやるか。わしがやる。

 日に日にその思いが募るいま、爾朱栄は洛陽奪回の意気をもって、数十万の大軍で城を包囲し、まさに総攻撃を下知しようとした。

 しかし、案に相違して城門は開かれており、城内に戦の気配は微塵もなかった。総勢七千、陳慶之の白袍騎馬軍団は、跡形もなく消えうせていた。

「どうやら、白袍将軍にしてやられたとみえる」

 小気味よさそうに、爾朱栄はつぶやいた。

 南北朝の末期、わずかな手勢で北朝の首都を占領した南朝の一将軍が、守城困難と見るや、城を空にして見事に撤退した。その間、六十五日。軍紀は厳格に守られ、城内に殺傷略奪の痕跡はない。

「ただの一兵も損ずることなく撤退をやってのけるとは、さすが聞きしに勝る戦神よ」

 追う側の目に白色のイメージが焼きついている。白馬を下り、白袍を脱ぎ捨てた影かたちに想像がおよばない。だから姿をかえれば、わりと容易に遁走できる。

 陳慶之は僧形に変装して、脱出した。他の軍団構成員も、あるいは商人に、あるいは農民になりきって、城を抜けた。洛陽から二百五十キロ南下すれば、国境にいたる。

 帰国し、復命した陳慶之を、梁帝蕭衍は咎めなかった。赫々たる戦果を勲功し、右衛将軍に任じ、永興県侯に封じた。永興県は、九江に近い長江の北、安慶と武昌の中間あたりに位置する。

 自己に恬淡で部下思いの陳慶之は、次々に復員する部下を封地に受け入れ、休息させ、ねぎらったうえで、白袍騎馬軍団を再編する。かつての構成員はひとりも欠けることなく、再編に応じた。陳慶之の実力を改めて認識した蕭衍は、軍団を南北両軍の接する最前線の淮河わいが上流域に配置し、陳慶之を流域諸州の梁軍都督とした。

 この地でも南北両軍の係争は止まず、戦い続けた陳慶之は、十年後の大同五年(五三九)に五十六歳で亡くなるが、その三年まえ、三十四歳の侯景と遭遇し、戦っている。

 大同二年(五三六)、北魏から分かれて二年目の十月、東魏定州刺史侯景は、七万人をひきいて南朝梁国へ侵入し、南下すること百五十キロ、ひそかに淮河を渡った。梁のみやこ建康はその先百五十キロ、長江の南側にある。国境を警備する陳慶之は、一万人に満たない部下をひきいて防御の体制に入った。急報がもたらされたため、蕭衍は急ぎ救援の部隊を派遣した。援軍が出発して間もなく、前線から戦況が届いた。魏軍はすでに殲滅され、侯景は単身逐電したという。


 このときの状況を、のちに侯景は、高歓に語っている。

「国境を侵して淮河を越えれば、建康は近い。わしらは、場合によっては、みやこ見物でもしてやろうかと浮かれておった。というのも、侵攻する先々、七万の軍勢に恐れをなしたか、ろくな抵抗も受けずに突き進んだからだ。それがとつぜん目のまえに、白い騎馬隊が姿をみせたものだから、一同仰天した。これぞ噂に高い陳慶之の白袍騎馬軍団かと恐れ入った。茫然自失して見入るうち、観念して拝みだすものさえ出てくる始末で、現場は指揮が乱れ、大混乱をきたした。そうこうする間にも物見の伝令が、四方八方から駆けつけ、口々に白袍隊あらわると報告するものだから、すでに敵の大軍勢に取り囲まれてしまったかと臍をかみ、もはやこれまでと観念した」

「そのおり、陳慶之に出会ったのか」

 高歓は興味深げに訊ねた。

「梁の騎馬兵から、なにものかと誰何(すいか)された。東魏侯景の軍だと答えると、隊長と名乗る男から、逢って話したいと、申し出を受けた」

 両軍対峙する中間地点で、ふたりは騎乗のまま対面した。

「千載一遇の機会ゆえ、無理をいった。洛陽ではお会いできず残念だったが、おなじ騎馬武者同士、いちどは轡をならべて競うてみたかった。侯景どの、そなたにわが騎馬戦法の極意をお目にかける。確とお見届けいただきたい」

「陳慶之どのか。われらが御大将の爾朱栄が生前、敵ながら天晴れと、貴殿のことをよく口にしておられた。若輩のそれがしにはまたとない機会である。後学のため謹んで拝見つかまつる。ご好意かたじけない」

 いざ、いざと双方 一揖いちゆうし、二騎は左右に分かれた。

 決戦の火蓋が切って落とされた。

 侯景は、陳慶之軍の実勢力を知らない。自軍七万に匹敵する兵数かと過度に見誤っていたから、小競り合いを避け、息をひそめて大会戦に備えている。梁の大軍が全容をあらわすのを、いまや遅しと待ちかまえていた。

 陳慶之は東魏軍の寸断をねらい、四方八方から少数の白袍隊を幾度も出没させた。兵の不足を目まぐるしい移動で補い、敵方に大勢力と思わせるのだ。熟練の騎馬隊にして可能な偽装工作といえる。

 東魏の末尾・両端の兵は、白袍隊の姿をみるや陣を離れ、そのあとを追った。追撃した勇敢な兵は、伏兵の餌食となった。梁軍にとっては動きなれた淮南の原野だ。神出鬼没の行動で魏軍を翻弄し、薄皮を剥ぐように、端から順に剥いていった。

 戦闘らしい戦闘もなく、音立てず静かに魏兵が消されていったのだ。降参すれば拉致され、抵抗すれば殺される。兵士は貴重な鹵獲品だった。おとなしくさえしておれば、命は助かる。万余の雑兵が所属をかえ、翌日、敵方についていたとして不思議はない。勝つほうにつく道理なのだ。

「衆寡敵せず」という。戦が数で決まることは常識だ。しかし、「数に下駄を履かせる(水増しする)」と、話は別だ。勝負は「下駄を履くまでわからない(終わってみなければ結果は分らない)」のである。

 本陣の侯景がこの異変に気づいたころは、もう手遅れだった。

「陳慶之に、してやられた。撤退する」

 侯景を筆頭に武器を放り出して、北の方角めざし、てんで勝手に馬を奔らせた。


 侯景は陳慶之に完敗した。

 高歓に陳慶之の印象を問われ、

「恐ろしいやつだった」

 と答えたが、それだけではなかった。

 ――戦の仕方を教えられた。

 いや、戦の仕方を思い知らされたのだ。

 この思いは、侯景の脳裏に深くきざまれ、のちのち侯景の行動を左右することになる。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る