四、河陰の変


 北方民族の南下は、三世紀初頭の後漢末期から顕著となり、五胡十六国の時代には華北の漢人支配を打倒し、非漢族の政権が乱立する大分裂時代をもたらした。やがて鮮卑族の拓跋たくばつ 氏が台頭、北魏を建国する。四三九年、華北をほぼ統一し、前述した南北朝時代がはじまる。この大分裂時代は、同時に民族大融合の時代でもあるが、相次ぐ戦乱と食料不足で、南下民族の流入は、人口増加に結びつかなかった。

 秦代に二千万人といわれる中国の総人口は、前漢末には六千万人にまで増加したが、後漢初二千万人に激減、後漢末には五千六百万人まで回復したものの、魏蜀呉三国の合計と三国を統一した西晋時代、ともに二千万人に届かなかった。五胡十六国時代は不明だが、隋代四千六百万人、唐代五千三百万人で、前漢末の六千万人を越えることはなかった。これを越えるのは北宋の時代だから、人口回復まで優に千年の時間を待たなければならない。

 華北の漢人と北方民族との比率は、ほぼ二・五対一ないし三対一とみられるが、武力的には北人といわれる北方民族が漢人を凌駕していた。ただ文化的には漢人が北人を圧倒していたから、中原王朝を目指すためには漢化政策の導入が必須といえた。結果、漢人と北人の民族融合が進み、のちに新しい中国人による隋唐帝国が生まれることになる。

                           

 河北を席巻した葛栄の叛乱軍が、洛陽に向けて進撃を開始した。百万の大軍だったから、蝸牛の歩みにも似て、行軍の速度は遅々としてはかどらない。軍勢があまりに大きすぎた。移動する百万人の食を負担するのは、並大抵のことではない。兵站部隊が先行して進み、兵糧の調達に駆けずり回った。進路に当たる村落にしてみれば、降って沸いた災難だ。抵抗しても勝ち目はない。刈り取った作物を担いで、逃散する村落が相次いだ。

 葛栄軍の行軍状況は高歓の探子たんしを通じて、逐一、爾朱栄のもとに報じられている。

 探子とは間諜のことだ。高歓は葛栄軍を去るに際し、影の同路人(共鳴者)を葛栄陣営に残置している。かれらは確かな情報を収集し、そのつど宿駅に向けて発信した。高歓はみずから体得した伝令の経験を生かし、伝令の駅ともいうべき中継点―宿駅を拠点に定め、宿駅ごとに情報をまとめ、順次各拠点駅につなぐ仕組みを構築した。これだと伝令個人に大きな負担はかからず、かえって多くの情報をまとめて受発信することができ、効率的だ。

 いまはまだ河北の各州拠点と爾朱氏軍団の本拠地である晋陽(山西太原)の間でだけしか機能していないが、いずれは華北全域に拡大発展させる構想をもっている。


 ともあれ、葛栄の陣営を脱して爾朱栄のもとに奔った高歓の一軍は、道々駆け込む人々を吸収し、山西の国境手前に至ったときには、万余の軍勢に膨れ上がっていた。ほとんどが歩兵要員だ。その実、合流する爾朱氏軍団は、騎馬隊主体で歩兵部隊に兵員を欠いていたからその不足の補充にあてる目論見だ。

 これとは別に、高歓は近親者からなる一隊のみで本軍を離れ、洛陽への道程を急いでいた。爾朱栄から帰還をうながす親書を受けていた。

 爾朱栄と高歓との付き合いは長い。高歓が伝令の役についていらいだから、十年になる。

 爾朱栄は初対面で、たちどころに高歓の本質を喝破した。腕も立つが、侠気おとこぎが勝っている。ともに覇業を語るに申し分ない相手と見込んだのだ。覇業―北魏にかわり、天下を経略することについて、折に触れ、ふたりは語り合った。加速する北鎮の乱をわが手で収め、北に足場を固める方策で一致した。高歓は身を挺して、一揆の渦中に飛び込んだ。この間、爾朱栄は山西全域の統治を朝廷に認めさせている。

 各派乱立の河北を葛栄のもとに一本化することで、高歓は当初の目的をほぼ達成した。全面戦争で葛栄軍を打破すれば、河北は手に入る。方策が、現実味を帯びた。あとは覇業を掌中にする決起の時期を詰めるのみだ。そんな折も折、さらに大きな事件が起こった。

 十九歳になる北魏の皇帝が、実母に毒を盛られ殺されたのだ。

 ――好機到来!

 高歓は、欣喜した。大義名分が転がり込んできたのだ。皇帝の崩御を嘆くまえに、不埒な下手人への報復が優先した。

 ――得がたいこの好機を逸してはならない。決起あるのみ。

 爾朱栄の決断を求めて、高歓は奔った。

 このころ爾朱栄は山西から河南の洛陽に向かい、騎馬集団で疾駆していた。こちらも、すでに決起の意志を固めている。

 以心伝心という。ふたりの心は決起の二文字でつながっていた。

 いまの省境付近で合流した。黄河をはさみ、洛陽まで百キロ、至近距離といっていい。

 逢うなりふたりは目を合わせ、うなずきあった。多くは語らずともよい。分かっている。しかし周囲にたいしては、聞かせておくべき場面である。高歓は爾朱栄ににじり寄り、声涙ともに下る大演説をあえてやってのけた。

「皇帝をしいするなど、あってはならぬこと。ましてや母が子を手にかけるなど、人倫にもとるもの。あまつさえ諌めるべき立場の 鄭儼・徐乞ら側近が母太后におもねり、使唆した結果と知ったうえは、断じて見過ごすわけにはまいりません。天はわれらに義を正すようお命じになっております。朝廷の危機を救うため兵を起こし、君側の奸を討つべきときにございます。いや、それに止まらず、朝廷に人なきいま、自ら皇帝となるも辞せずの気構えにて、天下に号令するもよろしき時勢かと、拝察つかまつります。いざ、立たれませ。この賀六渾がりっこん、身命を賭して先駆けいたします」

 賀六渾は高歓の鮮卑名だ。日ごろ出自漢族を標榜していても、必要に応じて鮮卑への配慮も忘れない。まさに高歓の真骨頂というべきである。

「高歓よ、その言やよし。いずれ下知を待て」

 爾朱栄も満足のていで、その場を引き取った。 


 両軍合流後、爾朱栄は高歓を親信都督―近衛隊長に任じ、全軍に紹介した。将軍位を与えて遠くにおくよりも、身分は低くても軍事参与としてじぶんの身近におくほうを選んだのだ。高歓に異存はない。

 陣営に高歓を迎え、歓迎の宴が静かにとりおこなわれた。多くの将兵は、ことのしだいを知らされていない。爾朱栄が決起を告げるその瞬間を、いまや遅しと待ちかねている。

 一方に、爾朱栄軍団の武将がずらりと並んだ。いずれも一騎当千の強豪ぞろいだ。古参以外の新顔では、北鎮出身の武将が実力で伸し上がっている。驚いたことに、侯景までもがその席に連なっている。

「出自にかかわらず、戦の成果を正しく評価してもらえるので、やりがいがあります。実力でつかんだ栄誉です」

 高歓をまえにして、侯景は胸を張って見せた。

 高歓の側には、高歓の家族と懐朔鎮いらいの同志に交じって娃娃がいた。侯景が幼児から育ててきた義理の妹分だ。四年ぶりになる。

「娃娃か、ずいぶん美しゅう、いや、おとなになった」

 侯景が割って入った。ふだんの赤ら顔が、いっそう赤くなっている。

「いつまでも娃娃じゃないでしょう。小麗シアオリーと、名前で呼んであげなさい」

 婁夫人が注文をつけた。娃娃とは赤ちゃんというニュアンスだから、この主張は正しい。

「あんちゃん、立派になったね。逢いたかった」

 娃娃にこだわりはない。何年たっても、侯景はむかしのままの優しい兄にかわりはない。思わず駆け寄って、侯景に抱きついていた。久しぶりの邂逅で涙がとまらなかった。

 赤ん坊時代とはまったく違う、成長した義妹のからだを、侯景はもてあました。

高歓と婁夫人は、そんなふたりを慈愛のまなざしで見守った。

 一瞬、座が緊張した。

「洛陽を討つ!」

 戦場で鍛えた大声で、爾朱栄が出陣を告げたのだ。

「葛栄の軍が冀州の信都を出立した。歩兵の大軍だから悠長なものだ。上洛まで、一ヶ月はかかろうぞ。かような葛賊輩に先陣の功を譲るいわれはない。洛陽は、葛賊に先んじてわれらが討つ。なんとなれば、われらが貴き今上陛下が、こともあろうに胡太后の毒手にかかって崩御された。断じて許すわけにはゆかぬ。天にかわって、逆賊を討つ。明朝を期して、いざ出陣じゃ。先鋒は高歓がつとめる。騎馬隊のみ、四千騎で一気に駆け抜ける。歩兵は後続し、洛陽を塞げ。今宵は前祝いだ。無礼講を許す。存分に飲み、かつ唄え」


 胡太后は孝明帝の実母だ。孝明帝が幼少時の即位だったので摂政として帝を補佐してきた。北魏のしきたりでは皇帝の生母は、立太子の時点で死を賜わることになっている。母方の一族―外戚が政治権力に介入する弊害を事前に排除する意義がある。

 胡太后は先帝の宰相の娘で、気の強いことでは人後に落ちない。夫である先帝宣武帝にねじ込んで、しきたりを破らせた。宣武帝もじぶんの即位の際、生母を死なせている。

「悪しき風習である」

 あっさりと先例をひるがえした。

 孝文帝をついだ宣武帝が亡くなり、五歳の孝明帝が即位、胡太后が実質的に政権を掌握したが、政局は混乱した。一時失脚ののち、政権を取戻し返り咲いた胡太后は、十九歳になり自己主張し出した孝明帝を、面倒とばかりに毒殺したのだ。鄭儼・徐乞といった胡太后側近の奸臣が首謀者だ。殺されるまえ帝は爾朱栄に、軍を洛陽に進駐するよう助けを求めていた。爾朱栄は北魏宗室に連なる元天穆げんてんぼく大将と出兵の是非について協議する一方で、意見書を差し出し、胡太后が宮中に災難と変乱をもたらしたことを責めたてた。己が出兵の口実をつくるためである。毒殺は、その矢先の不祥事だった。

 胡太后の政権運営は乱脈を極め、もはや国家の態をなしていなかった。本人はもとより、宦官や側近までもが政事を私し、好き放題に国費を乱用していたのだ。その最たるものが永寧寺の建立に代表される仏教への傾倒だった。建立ののちも、寄進に莫大な金を浪費した。荘厳美麗というより、ぜいたくの極致といった方があたっている。 

   

 腐敗は黙っていても感染する。綱紀は弛緩し、宮中のみにとどまらず、洛陽の政財界全体が腐敗の汚濁にまみれていた。

 成長した孝明帝はこの目に余る胡太后の専横をまえにし、王朝の正常化を願って、綱紀の粛正を爾朱栄に委託したのだ。

「ご遺詔を奉じて、君側の奸に天誅を下す」

 帝の密詔は洛陽攻略に絶好の口実をあたえてくれた。政権の奪取ではない。天に替わって、帝を弑した胡太后以下、関与あるいは黙って見過ごした君側の奸に誅罰を与えるのだ。

「こんにちの政庁における腐敗堕落の根源は、行過ぎた漢化政策がもたらしたものだ。北方民族の誇りを捨て、漢族におもねり、漢の文化をまねたところで、わが民は喜ばぬ。鮮卑族が建てた国ならば、まず鮮卑の族人の生活を考えろといいたい。貴族並みの富貴をよこせというつもりはない。せめて人並みな暮らしを保障してもらいたい」

 爾朱栄の持論である。天下万民をいうまえに、かつての国都平城や国境警備の北鎮に住む、身内ともいうべき北人の暮らし向きを救済するのが先決ではないか。


 山西北部の北秀容に広大な牧場を持つ爾朱栄は、領民に自給自足を説得し、田畑の新たな開墾を督励している。無敵の騎馬軍団はあっても、略奪のために兵は動かさない。

「もともとわしの祖先は、北方から南下したあと、人の少ない爾朱川付近に定着した」

 いまの山西・西北部、神池・五寨・保徳の三県を流れる朱家川が爾朱川の前身である。漢土に入った爾朱氏の祖先は、先住民との諍いを避けるため辺鄙な地を転々と移りかわった挙句、いまの居所に定着した。農耕を覚えた一族は定住する生活を選び、牧畜は続けたが、遊牧の生活は捨てた。同時に遊牧民の悪しき伝統である略奪行為を禁じたのだ。


「胡漢はいつまでも争いを続けるべきでない。漢土にあっても、胡漢の共生共存は可能だ。漢族は定着した胡族を奴隷か略奪者のように見るが、そうではなく、人格ある移住者として存在を認め、共生を拒否すべきでない。一方、胡族は略奪を禁じ、先住者である漢族の既得権を尊重し、漢族の習俗にしたがう。漢土に胡漢が競うべき生業の道や無主の地はいくらでもある。北方民族の誇りや慣習を保ちつつ、時間をかけて漢族の長所に学び、その美点を取り入れてゆくべきで、性急な漢化政策は民族の自滅に通じ、やがては北魏王朝の崩壊をもたらす」

 洛陽遷都後の北人貴族の軟弱化と腐敗堕落を憤慨しても、もともと爾朱栄に北魏転覆の積極的な叛意はない。時間の経過とともに色褪せてはきているが、皇帝に忠義をつくす勤皇の志は、祖宗いらいの爾朱氏の矜持であり伝統であることにかわりはない。

 ただし、統治を委ねるにふさわしい当事者能力の有無については、一家言をもっている。思想というより感情に近いが、無能な統治者をにくむ性向がある。

「北魏は鮮卑の拓跋氏が建てたが、胡漢の支配層と胡漢の民衆とで成り立っている。皇帝が拓跋氏であっても、王朝の構成員は胡漢、つまり非漢族の胡族と漢族という構成を是認し、民族にこだわらず、能力のあるものが智慧を出して、統治すべきだ。北魏は鮮卑のものでもなければ、拓跋氏だけのものではない。胡漢が共生する多民族の王朝だ。わしが契胡族で、侯景よおぬしが羯族であっても、胡族―北人であることに分け隔てはない。それぞれの持てる能力に応じ、適宜、適材を活用、公平な目で評価し、適正に賞罰すればいいのだ。だいいち鮮卑自体、慕容・宇文・乞伏きつふく ・段・拓跋など諸部に分かれて存在しているが、拓跋だけを格別に優遇するといった偏狭な考えさえなければ、王朝は人材に事欠かず、安定して揺るがぬ。しかし、三歳や五歳の幼帝を立て、母太后が垂簾の奥から指図をしたのでは、統治は公正を欠き、政事は乱れる。宗室に人がいないのではない。求めれば人はいる。だが選択者の思惑を優先し、幼帝という非現実的な選択をして、省みることがない。一朝事あるとき、これではとうてい対応できまい」

 上洛の道すがら、ときとして爾朱栄は配下の将兵に語りかけた。図らずも、ことばのはしばしに爾朱栄の悲憤が込められており、虐げられた北人への哀切の情が聞くものの胸を打つ。真っ先に反応したのが侯景だった。感動のあまり興奮して、ことばが口を滑らした。

「ならば、いっそのこと――」

 いいかけて侯景は、口をつぐんだ。

「かまわん。申せ」

 かえって、爾朱栄に促された。

「僭越ながら、いっそのこと、将軍閣下ご自身が、世直しの旗を振られてはいかが」

 聞きようによっては、謀反にとられかねない危険な発言だ。

「そのつもりでいる」

 意外にも爾朱栄は、否定しなかった。

「しかるべく別に皇帝を推戴し、わしが輔弼の任に当たり、改革の矢面に立つ」

「おお、なんという潔きおことば、敬服つかまつりました。されば、なんなりとこの侯景にお申しつけください。御意にそってご覧にいれます」

 情にもろい侯景だ。こぼれる涙を隠しもせず、勢い込んで名乗り出た。

「ただし、その前にやらねばならぬことがある」

「と、申されますと」

「大掃除だ。汚れきった洛陽城を、くまなく掃き清めてくれる。ぬしにも働いてもらうぞ」

 爾朱栄は侯景の顔を見てにやりと笑うと、駒にひと鞭くれて先に進んだ。

「大掃除とは、はて、なんのことやら――」

 不得要領のままとり残された侯景は、天を仰いで思案に暮れた。天井川の黄河が隆起し、行く手をさえぎっている。腹が鳴った。夕餉の刻限が近い。たっぷりと西日を含んだ黄河の激流が、赤く染まって渦巻いている。やがて夕餉を終える頃合いには、黄河はいつしか黒ずんで見え、夕闇のなかで、ときおり白い波頭をくねらせていた。それはあたかも、群れなす人垣に立ち向かう少数の刺客がひるがえす、白い刃のうねりを連想させた。

 ――衆寡敵せずというが、数では洛陽勢が圧倒している。あたりまえに戦ったのでは、大掃除をするまえに、こちらが掃き清められてしまう。黄河の白いうねりを少数の刺客が苦戦を強いられる爾朱勢の象徴とみるなら、われらはいったいどう戦うか。

 考えようとして、中断した。

 もともと決戦をまえにして、勝敗にこだわる習慣は、侯景には縁遠い。

 ――戦は数ではない。勢いだ。意志の力だ。白い刃は、敵を切りまくって勲功を上げる自分の姿だ。勲功こそが唯一、戦の成果ではないか。その勲功を得るためになら、悪に徹して鬼にもなろう。地獄があるなら落ちてやる。閻魔がいるなら逢うてくれる。

 一瞬、身振るいした侯景は、ゆっくりとまぶたを閉じて黙想し、想念を追い払った。


 北魏武泰元年(五二八)三月、爾朱栄は河陽(河南孟津、黄河の北岸)で孝文帝の甥にあたる長楽王 元子攸(げんしゆう)と対面し、人物を見極めたうえで擁立を決めた。そして黄河を渡ったのち、元子攸を皇帝に立てた。のちの北魏孝荘帝にほかならない。

 一方の胡太后は三歳の幼帝 元釗げんしょうを立てている。天下に皇帝が重複して、珍しくなくなったとはいえ、異常な事態にかわりはない。不正は正さなければならない。双方の理非は歴然としている。輿論に訴えるまでもない。迎え撃つべき洛陽城内はすでに幼帝の擁立に妥当性を疑い、戦意を喪失していた。


 爾朱栄ひきいる数千の騎馬軍が、洛陽城に迫った。

 元子攸に内応する大臣鄭季明が城門を開いた。爾朱栄軍は一気に突入し、城内を制圧した。禁衛軍の官兵と世族大家が、競って支持を表明した。胡太后は仏寺に逃れ出家した。洛陽の皇室貴族と文武百官は一戦も交えることなく降伏し、城門の外で新皇帝を出迎えた。

 爾朱栄は、新帝が即位の儀式である天を祭る祭祀(祭天)を行うことを理由に、北魏の王侯大臣以下の貴族をすべて黄河ほとりの河陰(孟津)に集合させた。官員らは陸続として黄河の南岸に駆け参じた。


 爾朱栄は高歓を呼び、小声で指示した。色白で涼やかな爾朱栄の口から、すさまじい指令が発せられた。高歓は己が耳を疑った。

「諸悪の根源を断つ。大臣官吏の上下を問わず、胡漢の別なく、すべての官員を殺せ」

 皆殺し宣告である。高歓は胡太后と君側の奸の断罪を主張し、献策した。しかし爾朱栄の答えは、全員に波及した。呆然として返答に窮する高歓を尻目に、爾朱栄は、問答無用の即断判決を下した。

「これより祭天をとりおこなう。ついてはそれに先立ち、大逆罪の判決を申し渡し、刑を執行する。天意に逆らい、先帝を毒殺せし罪、極刑に値する。またそれを知りながら反対ひとつせず、黙って許したものも同罪である」

 取り仕切るものもなく、右往左往する群臣でごった返す祭天の会場は、騎兵によって取り囲まれた。出家と称して寺に隠れていた胡太后は幼帝ともども、引きずり出された。

 竹籠に胡太后と幼帝を封じ込め、黄河の南岸に沈めたのだ。否も応もない。高歓が指揮し、刑務官が数人がかりで竹籠を黄河に放り込んだ。ふたりは溺死した。

 続けて、処刑の現場で息を呑んでことの成り行きを見守っていた王侯大臣がひとりずつ呼び出され、次々に首をはねられた。北魏政府の上席を占める要人が、目のまえで殺されているのだ。たちまちパニックが起こり、逃れようとする人が騎兵の包囲網を破ろうとして揉みあった。馬上で高歓が刀を抜いて、騎兵に指示した。

「祭天を乱すものは殺す!」

 騒動を抑えていた騎兵は指示を受けるや、槍の穂先を返して、取り囲んだ文武百官に向けた。揉みあうだけで歯向かうものはいない。後ろから押され、まえに押し出されたものが犠牲になった。ほとんど無抵抗のなかで、殺された人々が河陰のほとりに折り重なり、流れる血は川となって黄河に流れ落ちた。その数は二千人以上に達した。阿鼻叫喚の現場は、さながら生き地獄の様相を呈した。

 騎馬の兵は馬を下り、息のあるものの止めを刺し、黄河に投げ込んだ。

 世にいう、河陰の変である。

 北魏の孝文帝にしたがって洛陽に遷都した鮮卑貴族と北魏に出仕した漢族の名門は、一族郎党みな殺しに遭ったのだ。


「ぞんがいもろいものだな」

 侯景に、殺人の反省はない。これは職務であり、正統な執務行為なのだ。食を保障してくれる主人は爾朱栄であり、すでに皇帝といってはばからない権勢を有していたから、命令一下、やってとうぜんの所業だった。殺戮の興奮冷めやらぬ生の現場で、血染めの刀を手にしたまま侯景は、大地にへたり込んだ。

 となりで高歓が蒼い顔をして肩で息をついていた。献策の当事者であり、大量の屠殺を指揮した張本人である。爾朱栄の命令とはいえ、三歳の幼帝も黄河に投げ込んだ。後味のよいはずはない。高歓は侯景を一瞥したきり、無言で空を仰いだ。

 高歓は爾朱栄を皇帝にしようとして画策してきたが、その結果がこの惨事ではやりきれない。なぜじぶんはめなかったのか。やめさせる方法はなかったのか。

「正不正の区別なく百官すべてを殺したら、天下の信望を失う」

 といって大量殺戮に反対したのは慕容紹宗ただひとりだったと、あとで聞かされた。

この人物は高歓と侯景の後半生に、大きな影響をもたらすことになる。


 高歓の思いとはうらはらに、侯景には達成感こそあれ、悔いはない。軍人は人殺しが任務だ。指揮官の命令しだい、殺人・拷問、なんでもやる。考えるまでもない。躊躇すれば自分がやられるだけだ。これまでやってきたことと、なんらかわりはない。

 それにもまして侯景にはふしぎな思いがある。幼帝殺しを目の前にして、これまではまったく手の届かなかった皇帝という神聖不可侵の遥かに遠い存在が、急速に身近に感じられるようになったのだ。

 ――おれにもなれるかもしれない。

 口にこそしなかったが、ともすれば不遜な思いが沸き起こってくるのを禁じえなかった。

 日が没し、夕闇が迫っていた。

 おう魔ヶ刻まがとき大禍時おおまがときとも書くが、夕闇に紛れて未曾有の災いが近づいていた。 


 河陰の変の虐殺で爾朱栄は帝位をうかがったが、輿論が反発し果たせなかった。

 極端な大量殺戮は天下を震えあがらせ、人々は恐怖した。一網打尽、一切の説明なしに行った旧弊の一掃は、歓迎どころか、むしろ嫌悪の念を与えたのだ。

 無能の王室にかわって、有能な己が立つ。爾朱栄の意図に反し、人心はついてこなかった。洛陽の居住者が後難をおそれて、鼠が逃げ出すように、城外に脱出したのだ。

 卜占の結果も芳しくなかった。天意も人事も、すべて不祥と出た。

 四年前の観相見立ての予言を思い出した爾朱栄は、無理強いをあきらめた。

 ――そういえば、あの人相占いは羅浮山の方士だと抜かしおったな。

 羅浮山といえば、晋代に『抱朴子ほうぼくし』で知られる葛洪かっこうが不老不死の金丹を錬ったという神仙山だ。いまの広東・広州付近にある。

 方士は遠慮会釈のない予言をもらして、早々に立ち去った。

 凶相と出たのだ。長居は身の危険をともなう。

「あいにく天子の相はない。長寿は得られぬ。人の恨みをかって、早死にする」

 ここまでいい切れば、その場で殺されても文句はいえない。

 しかし爾朱栄は、それほど単純ではない。冷静に受け止め、方士の退出を黙って許した。

 早々に、頭をきりかえたのだ。帝位につかずとも北魏の政権は握れると確信している。

 四年後のいま、状況はかわらない。ならばよい。帝位は求めずとも、方策はある。

孝荘帝を傀儡とし、わが意のままに実質支配する方策に転換したのである。

 洛陽における軍政の大権を掌握したのち、爾朱栄は自己の親族兄弟すべてを抜擢し、いまをときめく立場を顕示した。その後、大軍をひきつれ晋陽へ取って返した。

 遷都をおそれた都人は洛陽に戻り、往時の活気を復活すべく孝荘帝を盛り立てた。

 

 その年九月、河陰の変で洛陽侵攻を中断していた葛栄の叛乱軍が、邯鄲の南三十キロのぎょうを包囲した。いまの河北 臨漳りんしょうである。総勢百万と豪語し、北魏に対抗したのだ。鄴で当面の糧食を調達した葛栄軍は、西に向かって再進発した。

 爾朱栄は騎馬の精鋭七千をひきいて出陣、鄴の西方二十キロ、磁県西北の滏口ふこうにおいて叛乱軍と対峙した。百万対七千、まるで問題にならない兵力差があったが、百戦練磨のつわもの爾朱栄にとっては、兵力の対比などまったく念頭になかった。

 まず、偽装作戦に出た。一部の騎兵を選んで別働隊とし、三人一組で数百組に分けた騎兵を四方八方に放ち、派手に砂煙を立たせたのだ。あたかも数万の大軍が到来したかのような錯覚を演出した。じじつ葛栄軍の参謀らは巻き上がる砂塵をみて、いったいどれだけの人馬が迫っているのか判断に戸惑っていた。

 しかし、葛栄だけは余裕ある表情を崩さず、かえって口をゆがめてほくそえんだ。爾朱栄みずから陣頭に立っているという物見の報告を受け、勝利を確信したからだ。欠けた歯がまばらにのぞいた。

「なに、なん十万集めたところで、わが軍の百万にはかなうわけがない。それより荒縄を持ってこい。爾朱栄を捕まえて、首を括るのだ」

 帷幕のなかは、歓声でどっと沸いた。


 爾朱栄は侯景を先鋒にして突撃した。一点集中突破で風穴をあけるのだ。

 葛栄は数を頼り、楽観視している。敵の実力に目を向けようとしない。作戦本部の帷幕内発言が敵方に筒抜けになっている。高歓が離脱した際に残してきた探子の影働きだ。

 しょせん一揆軍は烏合の衆にすぎず、プロの戦闘集団ではない。寄せ集め勢力の虚妄の大堤は、侯景騎馬隊による蟻の一穴で、たちまち崩れ出した。磐石のはずの百万の軍勢が内部分解し、統一を欠いた烏合の群れとなって浮き足立ち、算を乱して敗走したのだ。

 侯景は騎馬隊の先頭に立って葛栄軍を追った。侯景は速い。敗走する葛栄軍のなかに飛び込み、自ら葛栄の姿を追い求めた。遅れまいと必死の形相で、配下があとにしたがった。

「あった。あの馬車か」

 前方にからくも目標を見出した侯景は単騎、馬を励まし追い進んだ。さらに追い込むと、葛栄の馬車をめがけて弓をつがえ、背後からひょうと御者を射った。狙いは過たず御者はもんどりうって転げ落ちた。追いつき馬車に取り付いた侯景は、暴れる馬の轡を取って馬車を止め、葛栄に声をかけた。二年前、葛栄は帝と自称し、斉と号して国を建てていた。

「陛下、もはやこれまででござる。いざ、お覚悟めされい。懐朔鎮で神弦手の異名をとったそれがし侯景がお供つかまつる。わが陣営に降られよ」

侯景はわきおこる興奮をひっしにこらえ、つとめて冷静にふるまった。紛れもなく生身の皇帝が、わが手のうちに落ちてこようとしていた。久しく忘却のかなたに追いやっていた旅の方士の予言が、侯景の想念に甦った。あの方士がふたたび耳元でささやいた。

――葛賊を生け捕りにせよ。道はおのずから開けよう。

馬を下りた侯景は、震える手で扉を開けた。すでに戦意を失い顔面蒼白の葛栄が、抱きつかんばかりにして侯景の胸元に転がり込んできた。

 葛栄をからだで受けとめた侯景は立ち上がり、こぶしを天に突き出して、大音声で勝ち名乗りをあげた。

「われこそは侯景なり。帝の御身おんみ、この侯景が生け捕ったり!」

 勲功第一等だ。高歓は諸手をあげて祝福した。爾朱栄はおうようにうなずいた。


 葛栄は洛陽に送られ、処刑された。

 敗走した一揆軍の生き残りは、すべて降伏した。百万からの大軍だ。捕虜として収容監視できる数ではない。放置すればふたたび群れて、一揆を再発しかねない。兵糧も数日分を残し、底をついていた。かといって、皆殺しすることもはばかられた。国土を守り、荒れ果てた田畑を再生するには、いずれ必要な人手である。爾朱栄は、降伏した将領兵卒のなかから、即戦力として使えそうな軍人のみ引き抜き、残りは高歓に処置を委ねた。のちに高歓と華北の天下を分ける宇文泰が、このとき捕虜となって晋陽に送られている。侯景より四つ若い、二十二歳の好漢だった。

 高歓は出身地ごとに班を分け、私物を返し、なけなしの兵糧を分配した。そして即刻、百里の外へ立ち去るようにと警告した。

「明朝を期して、捕虜の処刑を行う。鄴に居残るものから順に首をはねる。百里の外へ逃れ、自活しながらしばし待ってもらえぬか。かならずやわしが迎えにゆく」

 これまでも高歓に投降した河北一揆の敗残兵が、山西の農牧場や開墾地で新たな人生の機会を与えられている。高歓の言に偽りはない。高歓の人柄が、風に乗って誇大に美化され伝わっている。

「しかとお約束なさいませ。わしらはいつまでもお待ちしております」

 班ごとに集団を束ねる長老格が高歓のことばを引き取り、配下への伝達を肯んじた。

 翌朝、百万の捕虜の群れが、露営地からかき消えていた。

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