八、嶺南の聖母


「わたしが生まれる前からずっと皇帝だった人でしょう。そんな尊いかたにめったなことはいえないけど、こんどというこんどはすっかり愛想がつきましたよ」

 南朝梁の武帝蕭衍しょうえんが三回目の捨身しゃしんをおこなったという。冼夫人こと冼英せんえいは、呆れ顔をして夫の馮宝ふうほうにため息をついてみせた。前回の捨身から十七年たっている。

「朝廷からの正式通達はまだないが、諸方面から同様の報せを受けている。まず間違いないだろう。問題は身請け銭の割当て負担のことだが、はてどうしたものやら――」

 かりにも馮宝は、南朝梁の高凉太守を拝命する朝臣だ。政府の側に立った慎重な言い回しにならざるをえない。任地の高凉こうりょうは広東の南西部、いまの陽江周辺一帯にある。

 冼英のいいたいことは分かっている。しかし夫婦のあいだでも、軽々しく口に出せる問題ではない。馮宝は困惑した態をよそおって、話題から遠ざかろうとしたが、冼英はこだわった。つねにないことだ。

「わたしは承服しかねます。年貢の支払いだけでも目いっぱいだというのに、いきなり身請け銭を追徴するといわれて、はいごもっともさまとは、とうてい申せません。応分の上納にはしたがいますが過分な要求には、おそれながら、お手向かいいたします」

 冼英はすでに反対する腹を決めて、馮宝に同意を求めている。反対は不服従を意味する。謀叛ととられ、討伐軍を差し向けられることも覚悟のうえだ。

 十七年前がそうだった。年貢と身請け銭の支払いをこうぜんと拒否し、仏教寺院の建造も断った。結果、政府懲罰軍の報復略奪を受けた。高凉俚人りじん大都老だいとろう(酋長)だった父冼企聖は騙し討ちに遭い、部族の民は村落を捨て、山中に逃れた。陽江の西北に横たわる、雲霧山脈の南麓に立てこもったのだ。冼英もまたみずから弓を取った。そして六年後、漢俚の和親宥和を主張し、俚人の征討鎮圧に反対する高要太守・西江督撫の陳覇先ちんはせんと羅州刺史馮融ふうゆうのとりなしで、梁朝に帰属した。馮宝は馮融の一子だ。これを機縁に、冼英と結婚することになった。

 いま冼英は、高凉太守夫人としてよりも、父の代からひきついだ高凉俚人の大都老の立場を優先する考えを夫に告げようとしている。

 梁の武帝蕭衍、けっして暗愚の帝王ではない。天下が南北に分断され、戦乱と政争とで短命に終始する南北諸王朝の皇帝のなかにあって、長期にわたる治政で経済的繁栄をもたらし、後世に残る仏教文化の華を咲かせた当の本人だ。武力で梁朝を創業した人ではあるが、学問に造詣が深く、学者といっても通用する異例の存在といっていい。

 冼英はこの年三十五。蕭衍は、冼英の生まれる十年前に三十九歳で梁を建てた。壮年の分別盛りだった治政の初期には善政を敷いた名君と評価できる。しかし在位四十四年にもおよぶと、さすがにほころびは繕い隠せない。ましてや八十三歳という高齢だ。

「仏教に帰依してそれに専念したいのなら皇帝の座を退くのが筋ではありませんか。そうすれば身請け銭の問題は起こらないでしょうに」

 しかし、蕭衍に退位の意志はない。

 この時期、中国は仏教文化の最盛期で、南北両朝とも各都市には多くの寺院が建立されていた。詩に詠う、「南朝四百八十寺しひゃくはっしんじ」はけっして誇張ではない。建康に代表される南朝には四百八十どころか七百をこえる寺が建ち、北朝の洛陽には、最盛期に千三百六十七の寺があったと伝えられている。南北朝はともに、仏教の黄金期を迎えていたのだ。

 九世紀前半、晩唐の詩人杜牧は「江南春」で、二百数十年前の古都に思いを馳せた。


  千里鶯鳴いて 緑くれないに映ず

  水村山郭 酒旗の風

  南朝四百八十寺

  多少の楼台 煙雨のうち


 蕭衍の仏教信仰はなみのものではない。菩薩皇帝とよばれるくらいに度を越していた。年とるにつれ、その信仰はますます深まり、ついには捨身をおこなうまでにいたる。捨身というのは、身を捨て、心を清めて、仏・法・僧、三宝の奴(奴隷)となることだ。

 蕭衍の捨身は寺に入って寝泊りし、経を念じ、厠掃除などの雑役にしたがうという、たぶんに儀式化された修養をおこなうていどだ。しかしそのていどであっても皇帝に寺にこもられては、朝政はおぼつかない。ぜひにも、お戻りいただかなければならない。

 一方、寺には寺の算段もあれば、都合もある。ここぞとばかりに理屈をつけ、引止めにかかる。かりにも皇帝ではないか。格式がちがう。買戻しに必要な身請け料、じつに一億万銭。群臣はすぐにも銭をかき集め皇帝を身請けするが、かれらが身銭を切るわけではない。あくまで一時的な立替払いで、事後に各州郡から年貢とはべつの追徴金を分担課税して取り立て、しっかり取り戻すのだ。ちなみに当時、中級貴族のふつうの邸宅が約五万銭だったというから、ほぼ二千軒分。いかに法外な金額か察しがつく。もとより談合で決めた金額だ。仲介者の貴族がとうぜんのように余恵にあずかっている。

 温厚でわけ知りの馮宝は、妻をなだめにかかる。

「皇帝陛下は仏教のみならず、儒教・道教の典籍にも通暁しておられる。毎日の朝議を終えられると急ぎ宮中に戻られ、つねに書物をはなさず、御手ずから仏典の翻訳にあたられる。著作には『孔子正言』『老子講疏こうそ』(講義解釈)などの書物二百巻あまりと、編集した仏教経書が数百巻ある。国政の執務以外に、これだけのお仕事をされているのだ。いまでも深夜まで文章を書きつづっておられる。冬など底冷えし、指先はひび割れするほどなのだが、けっしてご苦労をこぼされない。またご自身の生活もひじょうに質素で、後宮の妃妾にも贅沢を許されない。花柄衣装はご法度だ。すべて無地の木綿のお着物で済まされている。酒を嗜まず、音楽も聴かず、食事は精進料理で、肉や魚はぜったいに召し上がらない。蔬菜豆腐がお好みで、苦行僧さながらの生活を送っておられる」

「そんな質素で勤勉な皇帝が、仏教のお寺となると、人がかわったように、湯水のように黄金を撒き散らしているというではありませんか」

 冼英も都の噂を耳にしている。都城建康では、貴族が大金をもって仏寺の建造を競いあっていると聞く。ことに皇帝が捨身した同泰寺は、二度も身請け銭が入り裕福なそうだ。境内の建物を金と碧で豪華絢爛に塗り飾っているという。九重の仏塔、殿堂の金頂、楼閣の棟・梁、金の仏像、まさにこの世のものと思えぬ華麗さで、つとに評判が高い。

「万民は塗炭の苦しみにあえぎ、日々の食にもこと欠いているというに、なにゆえかような贅沢をなさる。ちまたに満ちる怨嗟の声を、なにゆえ聴こうとはなさらぬ」

 悔しさで冼英の目に涙が浮かぶ。心ならずも馮宝は、弁明につとめなければならない。

「皇帝陛下の御願いは、儒・仏・道三教の精義を融合一体化することにある、と聞いている。これはつまり、儒家の礼を用いて士族に代々王侯家門をつぐべきことを説明し、道家の無為思想を用いて皇子皇孫貴族に前代の宋や斉の皇族のように一族で皇位をめぐって殺しあいをしてはいけないと諭し、仏教の小乗教の因果応報を用いて庶民に富貴を戒め、貧賤に安んじる(現状に満足する)よう説得する、これが、陛下の尊いご叡慮であらせられる」

「近ごろ広州では仏寺の建築が盛んで、地方にもどんどん建てるよう政府は推奨していますが、この高凉には、先祖代々崇拝する盤王廟ばんおうびょうがあればじゅうぶんです。わたしたちが仏法を信奉したりすれば、盤王様がお怒りになって、首を噛み切られてしまいます」

 冼英は首をすくめておどけてみせた。汗をかいて律儀に弁明する夫をみやり、盤王にことよせてそれ以上の追求はやめにした。ちなみに盤王とは、盤瓠ばんこ伝説に由来する神犬にほかならない。

 冼英の属した高凉部族民はかつての百越族の後裔で、そのころは俚人りじんといわれた。のちにチワン(壮)族、ヤオ(瑤)族、リー(黎)族と、こんにちにつながる名でよばれる少数民族の人びとである。漢族と共生していたが、かれら俚人の文化は通婚、融合を通じて、共同の信仰を形成し、盤瓠とよぶ太古の祖先を祭っていた。盤瓠は神農氏の後裔高辛王の危難を外敵から救い、狗頭くとう人身ながら人間に変身し、王女を娶り、三男一女をもうけたのだ。わが滝沢馬琴はこれに発想を得て、『南総里見八犬伝』に仕立てあげた。

 この盤瓠部族の末裔が、いまの広東の西南、南海に臨する陽江ようこう市の漠陽江ばくようこう流域に定住した。かれらは狗(犬)を意味する「狗郎こうろう」部族といわれ、居住する村落は「狗郎塞」とよばれた。北方の漢人は「コウロウ」を訛って、かれらを高凉人とよんだ。

「ほどなく交州(ベトナム北部)征伐で、高要太守の陳覇先殿がご出陣になる。陳軍の与党たるわれらも従軍する。身請け料がどうのとかまけているばあいではない。探子(忍び)として中原に放ってある葛恩の報せによれば、中原では大乱が勃発し、天下の形勢は様変わりしようとしているという。上納銭のことは、葛恩からの詳報をまって態度を決めても遅くはない。ご謀叛などと軽々しく口にするではないぞ」

 夫婦のあいだの会話ではあったが、さいごに釘を刺すことを、馮宝は忘れなかった。


 梁武帝が三回目の捨身におよんだ翌年の春、陳覇先は交州(ベトナム北部)を平定した。勝報がみやこに届いたが、南朝梁の朝廷は論功行賞をおこなわなかった。不満がわだかまり、広東以南―嶺南の人心は梁朝を離れた。陳覇先は軍団を拡大整備し、北上の機会をうかがった。


「わし亡きあと、死は伏せよ」

 東魏武定五年(五四七)、北朝東魏の高歓が、西魏討伐の陣中で没した。享年五十二歳。世子の高澄はまだ二十八歳の若さだ。高歓あってこその東魏であることは、高歓自身がだれよりもよくわきまえていた。東魏の実権が若い高澄に、すんなりと承継できるとは思われず、先ゆきを案じた高歓の遺言で喪は伏せられた。河南大将軍侯景の出方を警戒しての措置である。

 生前、高歓は絶大な信頼をもって侯景に河南の守備を託していた。宿敵西魏にたいする最前線に、河南十三州の地盤と十万の軍団をあずけてあったのだ。

 信頼が裏目となる可能性を懸念した高澄は、侯景の国都召還に動いた。

 侯景にとって高歓は兄とも頼む同郷の先輩であり、恩人である。侯景はつねづね、

「大丞相(高歓)あればこそのおれだ。大丞相亡かりせば、鮮卑の小僧になどだれが仕えるか」

 と広言してはばからなかった。鮮卑の小僧とは高澄のことだ。苦労してここまでのし上がってきた侯景と、貴公子然としてすましていても貴顕の座が用意されている二代目の高澄とでは、肌合いがまったく異なる。水と油、溶け合うわけがなかった。

 西魏討伐から帰陣する高歓陣営の動きが、なにやらあわただしい。そのさなか、高歓から親書が届いた。平時ではない。偽の書状でない証明のしるしを双方で決めてあったが、そのしるしがなかった。侯景は人をやり探らせ、高歓の死を察知した。書状は高歓の生前、おのれの病気見舞いに帰朝をうながすものだったが、本人からではない。高澄からだとすれば、その意図は明確だ。帰朝するなり、この河南の兵権は地盤もろとも召し上げられるだろう。

 国許には家族を残している。高歓への恩義もある。侯景は去就を決めかねた。

 ――このまま戻れば軍団を取り上げられ、首は刎ねられないまでも、一生、飼い殺しになるだけだ。いいのか、それで。

 ふだん、己の生き方をほとんど省みることのない男が、久々に過去を思いやった。

 朔北でみた狼の群れと、群れから離れた一匹狼を脳裏に思い描いた。 

 ――孤高の狼が己の夢ではなかったか。飼われた狼は、もはや狼とはいえない。

 耳の奥で狼の雄叫びを聞いたような気がした。野生への回帰をうながす遠吠えに思えた。

 ――おれはことしで四十五だ。めいっぱい生きて寿命は五十。まだ五年ある。あの予言を信ずれば、この五年でおれは天子にもなれるはずではなかったか。

 記憶の片隅で眠っていた、旅の方士の予言が甦った。

 ――あの方士、名はなんといったか。もういちど会って真意を確かめたいものだ。

 予言から二十年以上たっていた。

 侯景は決意した。高澄の風下にだけは立ちたくない、その一念で家族を捨てた。義妹の娃娃(ワーワ)が、幼いころそのままに思い出された。貧しかったあのころ、こどもながらに互いを思いやって生き抜いてきた。無茶もやったが、楽しかった――

 帰朝を拒否し、河南の任地で、こうぜんと叛旗を翻した。高歓の死後わずか五日目のことである。

 高澄は侯景討伐軍の出動を命じた。


 侯景は河南十三州に十万の軍を擁してはいるが、東魏軍を迎え撃つ準備も勝算もない。西魏との戦いに骨身を削り、余計なことは考えなかった。天下はいま北朝の東魏と西魏、そして南朝の梁で三分されている。河南十三州は、まさにその三国の接点に位置している。東魏に対抗するもっとも有効な手段は、他の二国のどちらかに付くことだ。

 はじめ侯景は、「河南の土地をもって帰服する」と西魏に申し出たが、偽装と見抜いた宇文泰は信用せず、返事を保留した。

 東魏の大軍が目前に迫っている。返事をまっている余裕はない。侯景は使者を梁に送り、「河南十三州をもって梁に帰順したい」と願い出た。

 おりしも梁の武帝は四回目の捨身で同泰寺にこもって五日目だったが、緊急事態とあって宮廷に戻り、侯景の使者に接見した。その後、ただちに閣議をひらき、対応を決めた。

「わが梁は東魏と多年和を通じ、国境は安らかに保たれています。いまその叛臣たる侯景を受入れて、無用の紛糾をひきおこすのは、得策ではありません」

 おおかたの正論にたいし、梁武帝は反論した。

「真意は疑わしいが、北に領土をくわえる得がたき機会じゃ。逃すには惜しい。いかがしたものか」

 梁武帝の意を汲んで、側近中の側近、中書舎人の朱异しゅいが迎合した。

「侯景は東魏の半分の土地をもって投降するのです。これは天意です。もし拒んで受け取らなければ天意に反し、将来、あえて投降しようというものはいなくなります。陛下、どうぞお疑いおそばしますな」

 梁武帝は侯景の投降を受入れた。侯景を大将軍・河南王に封じ、黄河河南流域一帯の軍政管理をまかせたのである。目先の利益に飛びついたといっていい。

「どうです。思ったとおりでしょう」

 参謀の王偉が、したり顔で侯景に相槌をもとめた。慕容紹宗に軍師の推薦を依頼していたが、間に合わなかったので、腹心の王偉を参謀として任用している。

 さらに梁武帝は甥の貞陽侯蕭淵明しょうえんめいに命じ、五万の軍をもって侯景の救援に向かわせた。一方、高澄は高歓の遺言どうり軍師に慕容紹宗を立て、鉄壁の布陣で対抗した。

 慕容紹宗の出陣を知った侯景は、「これはいかん」といったなり、たちまち戦意を喪失させ、逃げ腰になってしまった。加えて、いくさ度胸も作戦経験もない指揮官蕭淵明のもと軍紀は乱れ、指揮系統は統一を欠いた。

 結果、寒山せき(江蘇徐州東南)における東魏との一戦で梁は大敗し、主力部隊は壊滅した。蕭淵明もまた捕虜となった。梁武帝は甥の身を案じ動揺した。

 東魏は寒山の大勝後、四万の侯景軍を追撃し、翌年正月、渦陽(安徽渦河流域)において殲滅した。隊伍は歩兵と騎兵あわせても八百人を残すのみとなり、侯景は命からがら梁の寿陽(安徽寿県)に逃げ込んだ。東魏に離反してからちょうど一年経っていた。梁武帝は敗戦の責任をとがめず、かえって侯景を南予州刺史に任じた。周囲は呆気にとられた。


 侯景が寿陽に逃れた翌月、梁は東魏と和解した。侯景と蕭淵明との身柄交換が条件だと漏れ伝わった。侯景は窮地に立たされた。そのさなか、「貞陽旦至、侯景夕返」(貞陽あしたに至らば、侯景ゆうべに返らん)。貞陽侯蕭淵明が戻されるなら侯景を返す、という東魏に宛てた梁武帝の密約文が暴露されたのだ。

 侯景は激怒した。腹心の王偉がさらに煽った。

「菩薩皇帝と韜晦していても蕭衍は食えぬ狸です。このまま東魏にひきわたされて犬死するか、機先を制して梁を討つか。ふたつにひとつしかありません。いずれを選ばれるか」

「狼のおれが犬死などできるか。食えぬ狸なら、汁にしてすすってくれる」

 逆境にめげないのが侯景のとりえだ。こうと決めるとくよくよ考えない。

 なんといっても歴戦三十年、筋金入りだ。年少時の喧嘩にはじまり、西魏相手の天下取り合戦まで、実戦経験では人後に落ちない。ただし、梁は大国である。

 ――戦は数ではない。緒戦の奇襲を成功させて勢いをつけ、あとは一気になだれ込む。これならおれの独壇場だ。

 ぶるっと、武者震いした。顔をなであげ、気持ちをおさえた。

 その日から侯景は、戦に向けて始動した。われながら驚くほど、沈着にふるまえた。

 州内の租税を免除し、州外からの農民移住を奨励した。食糧の増産備蓄をはかり、ひそかに兵の徴募をおこなった。軍の装備や資金の調達もおこたりなかった。将士に妓女をあてがうなど待遇にも配慮し、士気の高揚と持続をはかることも忘れなかった。

 建康城内に内応者をもとめ、蕭衍の甥にあたる臨賀王蕭正徳に目をつけた。

 蕭正徳は立太子を条件に養子になったが、実子ができて廃された。屈辱は怨念と化し、復讐の機会をまっていたから、一も二もなく誘いに応じた。蕭衍を逐って皇帝にならぬかともちかけたのだ。

 その年の八月、侯景は寿陽において兵を挙げ、こうぜんと梁武帝に叛旗をひるがえした。檄文には「佞臣の朱异ら君側の奸を除く」ともっともらしく大書した。その実、本音は蕭衍の裏切りにたいする報復にほかならなかった。

「さしたる成算はないが、負ける気はしない。寒山の大敗を例に出すまでもなく、梁軍は意外にもろい。わしにまかせろ。案ずるより生むが易しというではないか」

 挙兵にさいし王偉が作戦について問うたとき、侯景は笑ってこたえた。緒戦の奇襲で攪乱しておき、あとは五分の政治決着で幕を引く。作戦はそこまでである。

「その先はあえて考えることもない」

 侯景には確信があった。東魏時代に高歓の仕事振りを見ている。

 いざとなれば、高歓をまねればいい。

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