ウサギは淋しくても泣かない。

若林鰹節

Chapter0-1

 ホールの照明が落ちると同時に「待っていました」と誰かが大声をあげた。

 同調するように次々と声が増えていき、徐々に身体を縦に身体を揺らし始める――いいや、飛び跳ね始める。ドンドンドン、ドンドンドン。床を踏み鳴らす音は次第に揃っていく。声と重なっていく。大きくなる。ドンドンドン、ドンドンドン。ライブハウスが揺れる。築何年なのか知らないけど、無駄に天井が高くてボロいこの建物が壊れてしまうんじゃないかと心配してしまうくらいに。

 有名なアーティストでない限り、ライブが始まる前にこんな熱狂的な状況になることはまずない。ましてや、オープニングアクトと務める”僕ら”には、残念だけどそこまでの訴求力はなかった。

 このライブ「クリスマス・サミット」が特別なのだ。

 そして、”僕らのバンド”も。

「うひゃあ」

 僕と一緒にステージ袖からホールを覗き見している《キー》姐さんが情けない声を出した。

「やっぱ、凄いね」

 姐さんは自分の身体を抱きしめながら、そう呟く。

「ビビってます?」

「あろっと」

「かなり?」

「いえす」

 片言の英語で答えたので苦笑い。

「アンタはどうなのさ?」

「んーメニー」

「かなり?」

「そりゃあ、もうジーザス!」

「つまらん」

 と言いながらキー姐さんも苦笑いを浮かべた。

 僕の極上のギャグに笑えないところから鑑みるに、姐さんは相当緊張しているみたいだ。豪胆と豪快と強引と強欲の権化である彼女のその繊細な姿はとても意外で新鮮で、もちろん、年上だとはいえ一歳だけしか違わないのだから、ライブ前に緊張だってするだろう。なにもおかしなことではない。

「アンタ、なに笑っているのよ」

 どうやら顔に出ていたらしい。

「素敵な先輩だと思っていましたよ」

 と、僕は誤魔化すように、にこりと作り笑いを浮かべる。

「なんで過去形なのよ!」

「じゃあ、今後は素敵な先輩だと思うことにします。がんばります」

「今が一番大事だから!」

「『将来なんて関係ない! 刹那的に生きるぜ』とは。いやはや、先輩は相当なパンクロッカーですね」

「ああ、もうどうでもいいわ、このアホンダラ」

 キー姐さんはいつものように悪態をつき、背を向けて僕の目の前から去っていった。

 まだ本調子ではないけど、姐さんらしさが戻ってなによりだ。

 さて、もう一人の先輩であり、我がバンドの最年長でバンマスを務め、大学受験を控えているというのにこんな場所で油を売っているドラムスの《バニー》先輩の様子はどうだろう? 先輩のお二方が両方とも緊張してようものならば、後輩の僕としては心もとない。

 キョロキョロと周りを見渡すけど、バニー先輩の姿が見当たらない。トイレだろうか?

「ん?」

 そのとき、二メートルほど離れて立っていた、我がバンドのギターボーカルと目が合った。

「調子はどう?」

 僕は彼女に声をかける。

 彼女は小さく首をかしげ、

「今年も盛り上がっているね」

 ステージの方を向き、少し間を空けたあと

「いい感じ」

 こちらに向きなおしてから、そう言った。

 ホールほどではないが、ステージ袖も薄暗いため彼女の表情はわからない。だけど、いつもは物静かで感情を表に出さない《イル》さんのポジティブな言葉は僕を安心させた。どうやら彼女の調子は良いみたいだ。

「ふー。尿意ってわけわからないよな」

 そう言いながらバニー先輩は待機所の奥から現れた。

「どうして一度にドバーッって出ないで、何回も刻んでくるんだろうな」

「緊張しているんじゃ仕方がないと思いますよ」

「べ、別に緊張してねーよ。そういう《ジャニー》はどうなんだ?」

 そう問われて、はて自分はどうなのだろう? と少し考える。

 手入れのされていない自転車のように手や足は平時に比べるとぎこちないけど、緊張のそれとは違うような気がする。

 全身が熱を帯びるような高揚感。黙っていると自然と口唇の端がつり上がってきそうだ。

「武者震いが止まらないくらいですね」

「あほたれ。世間では、それを緊張しているっていうんだよ」

 どうやら言葉のチョイスを間違えてしまったらしい。

 ツンデレさんの「べ、別に、○○じゃないんだからねっ」という名言と同じく、「武者震い」という言い回しはいつだって強がりの代名詞として使われる。正しい使い方をしても、伝わらなければ意味がない。

 言い返そうとしたときに「そろそろだ」とライブスタッフである高富さんの低くダンディな声が聞こえると、僕たちは口を開くのを止める。すると、僕の周りの音が吸い込まれたかのように小さくなって、ステージの奥から聞こえてきた客の声が大きくなった、そんな気がした。

 そろそろだ。

 改めて僕は心の中でそう呟く。

 手を握りこむ。両手にステージの上で既にスタンバイしている相棒の重みがないのが少し心もとない。

「じゃあ、行きますか」

「がんばんべー」

 下手のキー姐さんが両手をブラブラさせながら一番にステージへ向かい、バニー先輩がスティックを持ちながら背伸びをしたあと、それに続く。

 僕も一息ついて、いざステージへ向かおうとしたとき、イルさんに呼び止められた。

「ジャーニー」

「ん、なに?」

「ええと――」

 彼女は少し言い淀むように枕詞を伸ばしたあと、

「がんばろうね」

 そう言ってイルさんは小さなこぶしを僕に突き出す。

「おう」

 僕は彼女のこぶしに自分のこぶしをぶつけた。


 ライブが始まる前のステージの上は少し暗い。コードを足に引っ掛けてすっ転んでしまうんじゃないか。いつもそんな心配をしてしまう。

 おっかなびっくりしながらステージに現れた僕に向けて、嬌声を上げるようなオーディエンスはいなかった。もうすぐ演奏が始まるというのに、ドンドンドンと飛び跳ねながら勝手気ままにに盛り上がっている。

 僕が相棒を手に取って準備を始めようとしたとき、ベンチに腰を下ろしたバニー先輩がフロアタムを叩いた。そして一人先行して演奏を始める。

 そのリズミカルなドラムはホールを支配しているテンポよりも速かった。バンドメンバーが現れたときには反応しなかったオーディエンスだが、空気を読まず割り込んできたドラムの音に戸惑いをみせる。が、すぐにタイミングを合わせてきて、先ほどまでより高く跳ね始めた。歓声も大きくなる。

 そして追いかけるようにキー姐さんのベースがそれに続く。

 僕も馳せ参じなければ。パチンとスイッチを入れた。

 スピーカーキャビネットから僕の耳に届く音が小さく聞こえるのは、リハーサルの時と違ってステージの上がうるさいからだろう。それはあくまで体感の話であり、ホールに向けられたメインスピーカーは、なかなか程よいバランスで鳴り響いているはずだ。

 そのことを理解していても、ボリュームを上げたくなる欲求が止まらない。

 余計なことをしたらPAの人に怒られそうだ。

 まあいいや、やってしまえ。

 僕がほんの少し暴力的になった音をかき鳴らし始めたとき、遅れて袖からイルさんが現れた。すでにギターを肩からぶら下げているのは、彼女の相棒が白いフライングVという変形ギターだからである。このライブハウスにはネックで支えるタイプのギタースタンドがなかったそうだ。

 ステージの中央に着いたイルさんはしゃがみ込んで、マイクスタンドの根元に転がっているコードを掴む。それを、ギターストラップに一回巻きつけてからシールドをギターに挿した。スイッチを入れたあと、一回だけ音が出るのを確認する。しかし、彼女はそれ以上のことをしなかった。僕たちとオーディエンスの狂騒を傍観者のように立って見ているだけだ。

 ボーカル不在のまま、同じフレーズを繰り返す演奏が続いたあと、頃合と判断したのだろう、キー姐さんが僕を見て、二人で振り返る。バニー先輩はうなずく。予定調和のように二フレーズ後、演奏と歓声はキレイに止まった。

 止まらない人もいたけど、まあ、それも含めて予定調和といえよう。

 喧騒が支配していたホールに一瞬の音の空白が生まれる。

「一曲目」

 イルさんの細い――でもいつもよりも張った声が、空調が唸りをあげるホールに響く。

「説明はいらないね。だから、周りの人をよおく見て。わたしたちの演奏で、飛び跳ねない奴がいたら――」

「そいつはチキンだ!!!!!」

 僕は息を飲む。同時にギターのネックを軽く握った。

 彼女は笑う。

「今宵、ウサギたちがこのライブハウスを侵略する」

 さてと――

 腕が鳴る。音を鳴らそう。

「さあ、跳ね回れ!」

 ロックンロールは、世界に響き渡るのだ。

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ウサギは淋しくても泣かない。 若林鰹節 @lightsville

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