誘拐犯、佐藤宏平

18 悪意

 蝿が激しく飛び回っている。ブーンブーンと低い羽音が、煩わしさを増長させた。少女は涙を流しながら、僕の膝にしがみついている。夕焼けに染まって真っ赤だったはずの部屋が、今は藍色をしている。カーテンの隙間から見える夜空に、満月が顔を出している。

 時間を確かめようと、壁掛け時計に目をやった。すると、少女が僕のズボンを引っ張った。血のついた汚い手で、気安く僕の服に触る。それが気に障って、僕は彼女を蹴り飛ばした。キャン、と犬が泣くような声を出しながら、彼女は軽々と吹き飛んだ。

「ともかくさ、あれだけ血を流したんだ。栄養があるものを食べたほうがいい」

「うん、そうだね」

「でも、この部屋にはカップ麺しかないんだ」

「うん、そうだね」

「じゃあ、買ってくるよ。とは言っても、せいぜいコンビニの弁当だけど」

「ううん、いらない。カップ麺でいい」

「だけど、血を流した分はしっかり食べないと」

 僕の優しい正論の中には、優しさよりも悪意が満ちていた。少女はきっと、独りを恐れているのだろう。監禁されていることで、一人ではない充足感を得ているのだ。それを知りながら、彼女を残して外出する。それは子猫をボーガンで狙い打つほどに残酷な行いだ。

 少女は瞳を震わしながら、僕に覆い被さろうとした。

「お願い、行かないで。わたしを犯させてあげるから」

 服を脱ごうとする少女を突き飛ばした。彼女の一挙手一投足が、僕を残忍にさせる。

「わたしを置いて外出したら、逃げちゃうかもしれないよ」

「いいよ、勝手にすれば?」

「警察に行って、そしたら誘拐犯さんは逮捕されるんだよ」

「いいよ、覚悟はできてる」

「ううん、今のはウソ。そんなこと絶対にしない。約束する。わたしはあなたを裏切らない。だからお願い。わたしを一人にしないで」

 少女の中には「わたし」しかいない。相手の都合も、相手の心も、全部無視して、少女は「わたし」だけを大切にしている。その自己中心性にうんざりだった。もうとても付き合いきれない。

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