誘拐犯、佐藤宏平

16 美醜

 薄暗くなった室内。カーテンの隙間から夕日が差し込んでいた。部屋が真っ赤に染まっている。気がつけば、また眠ってしまっていたらしい。僕は室内をぐるりと見回した。しかし、そこに少女の姿は無かった。部屋の隅に出来上がった空のカップ麺のオブジェの上を、蝿が旋回している。

 蝿は空になったカップに舞い降りて、スチロールにこびり付いたソースを舐めたり、肉片を啄ばんだり、麺の屑に口吻を差し入れたりしている。静かな食事の風景を、僕は遠目に眺めていた。

 再び、僕の目は部屋の中を泳ぎまわった。蝿ではなくて、天使を探した。しかし、少女の姿はどこにも無かった。

 僕はベッドから降りて、隣の部屋、手狭なキッチンに向かった。すると、そこに少女が立っていた。夕日に照らされた彼女は真っ赤に染まった。そして、手首から、真っ赤な水が垂れていた。けれども、その水は夕日に染められているという訳では無い。水そのものが真っ赤な色をしていて、でろっと艶かしい輝きを放っていた。

 彼女の手にはカッターナイフが握られていた。ほっそりとした指の先から、鮮血の滴る刃が伸びている。悪夢と現実の境界にあるような姿の少女。僕はしばらくそれに見とれた。それから、戦慄して、叫んだ。

「何をしているんだ?」

 僕の声に少女はビクリと身を縮ませた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 少女はポロポロと涙をこぼした。涙が腕に垂れ、その部分だけ僅かに血が洗い流される。赤いカンバスに、水玉模様が出来ていく。ドット柄の生地のような彼女の腕に、僕はしがみ付いた。風呂場からタオルを取ってきて、細い腕に巻きつけた。

 出血はしばらく止まらなかった。少女は貧血で倒れて、僕は彼女をベッドに運んだ。僕の穢れた手のひらが彼女の頭をそっと撫でた。彼女がうっとりと目を細めたような気がした。

 血液のしみこんだタオルがパリパリと硬くなってくると、少女の手首からの出血は止まった。僕は瘡蓋を剥がさないように気をつけながらタオルを捲り取った。赤い斑点の出来たタオルは生々しくて不気味だった。ゲームの中では人を撃ちまくり、血を浴びまくってきた僕も、生で血を見るのには慣れていないのだ。

 グロテスクな布切れは放り投げられた。ヒラヒラと歪な放物線を描きながら、ゴミのオブジェに着地した。舞い落ちた血染めのタオルは、火山から溶岩が噴き出しているさまを表現しているような格好で、うずたかく詰まれたゴミの山に赤い彩を添えた。抽象的に表現された何か汚いものから、抽象的な赤い膿が噴き出てぬらぬらとした不穏な光彩を放っている。その醜悪さは完璧だった。その上空を蝿が舞う。そして、その瞬間に、オブジェは完成した。これ以上に完成度の高い醜さはこの世に存在しない。そんな芸術作品が僕の部屋の隅に山なりに鎮座した。

 エクセレント!

 僕はその醜さに喝采した。

 延々と続くスタンディングオベーション。ブラボー、ブラボー。うるさいほどに聴衆たちが歓声を送っている。世界各国の人たちが、各国の言葉でその醜悪さを称えている。そんなイメージが僕の頭の中を横切った。

 しばらく僕は作品完成の余韻に浸っていた。しかし、いつまでもそうしてはいられない。キッチンに行って、血の痕を掃除しなければ。そんな無粋な思考が僕を現実に引き戻した。

 キッチンの床には点々と血の痕が残されていた。シンクにはデロデロと赤いスライムみたいなやつが溜まっていた。まずは蛇口を捻り、水でデロデロを流した。タオルを持ってきて床を拭う。血はなかなか取れなくて、僕はイライラしながらゴシゴシした。

 床が綺麗になったので、僕は顔を上げた。床に跪いたままシンクを見上げると、シンクの隅に赤色のツララが出来ていた。透き通る赤色がとても綺麗でだった。舐めかけの棒キャンデー、イチゴ味。そんな風に見えた。

 天使のような少女の血液はきっと甘い味がする。僕は血のツララをもぎり取って、口の中に放り込んだ。舌先でコロコロ転がして、丁寧に味わった。

 舌の上で塊が溶けていく。

 溶けた一滴が味蕾に触れる。

 不味かった。

 鉄の味がした。

 生臭かった。

 僕はそれを吐き出した。

 この瞬間から、僕は少女に対して興醒めし始めた。天使のように思えた少女が、実は単なる自殺願望者で、人の家で手首を掻っ切って、床を汚して、無様に貧血。魅力なんて欠片も持たず、下品に昏倒する女。そのシーン一つですっかり幻滅だ。そのうえ体内には生臭い血が流れている。ただの肉の塊。腐りかけの生肉。ゲームの世界にいる女の子たちの方がずっと可憐で美しい。結局のところ、僕はリアルよりフェイクに心酔しているようだ。現実の生々しさなんて、ちっとも求めていなかった。

「何してるの?」

 昏睡から目覚めた少女が僕の背後に立っていた。青白い肌はには荒れが目立つ。幼い顔立ちには色気が無い。ただ虚しい哀れな女が立っていた。

「君の血を片付けているんだよ」

「ごめんなさい」

「何に謝ってるの?」

「迷惑をかけてごめんなさい」

「分かってるのにどうして切るの?」

「ごめんなさい。謝るから、だから、わたしを嫌いにならないで」

「それは、どうかな」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 はっきり言ってうんざりだった。くどくどと、ごめんなさいのオンパレード。みんな同じ顔、同じ言葉の、つまらないパレード。わくわくするような山場すら無い。

 僕は眉を潜めて、煩わしさをあらわした。

 少女はそれでも謝り続けた。

 ごめんなさいの度ごとに、僕の気持ちは萎えていく。

 はっきり言ってうんざりだった。

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