第三章・落胆


 唐突に、目が覚めた。

 というより、気づいた瞬間に跳ね起きた。


「コンクリートって言ったじゃないの!!」


 視界に広がっていたのが木の天井だったのを認めた瞬間、思いっきり叫びながら。


 同時にばさっと音を立てて身体から滑り落ちた布を慌てて止めようと手が動き、でもすぐに止まった。

「………」

 これ、着物…いや、浴衣か?寝間着っぽい。

 淡い黄緑色の短い袖をじっと眺めて、触れてみたらさらりとした感触が心地よかった。

「……って」

 そこまでのんきに考えていたけど、はた、と気づいた。

 私は意識が吹っ飛んでしまう前はいわゆる、リクルートスーツと言う真っ黒なスーツとシャツを着ていたわけでして。

 今この格好だということは、誰かが着替えさせたということで……

 しかもこの感触から察するに。

 ………下着も、ご丁寧に脱がされているようで。

 えーと。

 夢じゃなかったのも衝撃ですが。

 頼む、私の着替えをした人は女の人だよね!?

 あの人! 誰だっけ。

 確か名前言ってた、あの人。

 えくぼが可愛かった……なんて名前だっけ。

 もう一人は覚えてるんだけど。


「タジカ、タジカ……もう一人……」


「タジカ殿をお呼びですか?」

「うぉっ!?」


 ぶつぶつ呟きに返事が来るとは思ってなかったので、変な叫び声をあげてしまった。

 慌てて声のした方を見て―― 一瞬、息が止まった。

 とても綺麗な、青というのだろうか。

 青よりあおい、不思議な綺麗な瞳。

 すごく整った顔よりも、くっきりとした二重の大きい瞳の美しさから、目が離せなかった。


 ――なんて、綺麗な色。


「………」

「………」


 しばらくお互いに沈黙で見つめ合った。

 というより、確実に私が見とれていただけだと思うけど。


「……あの」

 遠慮がちに、綺麗な目を持つ人…まだ若そうな男性が、口を開いた。

 それでようやく我に返り、はたと自分の状況に改めて気づいた。

「あ……そ、そうだった。私は何がどうなってこういう状況になってるんでしたっけ。えーとそうだ、タジカ…さんともう一人、あの女の人は誰だっけ、名前が出てこない…」

 一気にマシンガントークのようにまくしたてる私をちょっとびっくりしたように見つめた後、男性は「ああ」というように小さく頷いた。

「この神殿に貴方をお連れしたのは、タジカ殿とウズメ殿ですが…もしや、ウズメ殿のことでしょうか?」

「あ、そうです!その名前!笑顔が可愛い人でした!」

「ウズメ殿が喜びます、それをお聞きしたら」

 そう言って、目の前の彼は初めて微笑んだ。


 ……うわ。

 綺麗な人に微笑まれると、すっごく心臓にきます…。


 ばくばくしてきた心臓をごまかすように、大きく息を吸い込んだ。

「あの……改めてお尋ねしたいのですが」

「はい、どのようなことでも」

 彼が頷いたとき。

「私からも、一緒にご説明させていただきます」

 新しい声が、加わった。

「え」

「姉上!」

 ぽかんと見上げる私の前で、彼が驚きの声を上げて振り向く。

 いつの間にか、室内にもう一人、女性が佇んでいた。

「……」

 こちらもやはり目の前にいる彼と同じ綺麗な青系の瞳で、やはり見とれてしまう。

 でもちょっと怯んでしまいそうになるのは、こちらを見つめている瞳の力が強すぎると感じてしまうからだろうか。

 好意的ではない、と感じてしまうのは、彼と違って、女性の瞳が切れ長でちょっとつりあがっているせいだろうか。

 きゅっと引き結んだ唇は、笑みのかけらすらなかった。――と、思ったら。

 ふと、女性が苦笑を浮かべた。


「陛下。ですからその呼び方は…」

 途端に、先ほどまでの冷ややかな視線がふうわりと和らいで、この人の本来の美しさが見えた。

 笑うと、ほんの少しだけど目尻が下がるんだ。

「…そうでした。慣れるまで時間がかかりそうです。ヤマト殿」

「ついでに、『殿』も取る練習もなさるとよろしいかと」

「厳しいですね」

「陛下には厳しいくらいがちょうどよろしいのです」

 そんなやりとりを聞いていて、なんとなく分かった。

 どうやら、この二人は姉弟、らしい。

 それも、すごく仲の良さそうな。


 ……ちくりと胸が痛んだけど、無視した。

 慣れ切っていたことだから。


「失礼ながら」

 いつの間にか彼の隣に立っていたお姉さん、に呼ばれ、思わずしゃんと背が伸びる。

「はいっ!」

「お名前を教えていただけますでしょうか。私は、ヤマトと申します」

 笑みを消したけれど、先ほど見せた冷たさはもうなくなっている――女性が、名乗りながら頭を下げる。

 それにつられるように、私もぺこんと頭を下げた。

「はい、私は 響 明日香です。えと……よろしく……?」

 最後の『お願いします』はなんだか言うのもおかしいし、なんとなく濁してしまった。

 顔を上げると、戸惑いの表情を浮かべたヤマトさんと、その弟さんとそれぞれ目が合った。

「……ええと?」


 え、名乗っただけ、だよね……って、もしかして。

 こちらでは「よろしく」という単語がないとか…?

 微妙に日本語が通じないとか?

 それはそれでかなり問題な気が……!!


「ヒビキ、アスカ、ですか? 区切って呼ばれるのでしょうか?」

「ええ、『ヒビキ』と『アスカ』と名乗られたとき、間があったような気がしましたが……二つ名でしょうか?」

 それぞれに言われて、頭が混乱した。

「え……い、いえいえいえ、どちらも名前でして……って違うな、微妙に。『響』が姓名で、『明日香』が名前です。だから名前だけなら『明日香』です……が……」

 説明しているうちに、両手の指先がじんわりと冷たくなっていくのを感じた。

 それと対照的に、姉弟はほっと安堵の表情を浮かべる。

「二つ名とは違うようですね。でも『アスカ』とお呼びすれば大丈夫なようです」

「ええ、そのようですね、陛下」


 ……へいかって、あれですよね。

 偉い人って意味の陛下、ですよね。


 身体も冷たくなっていくのに、手のひらにじっとりと汗が滲んでいく感じがしてくるのが分かる。


 私。

 私は、ものすごく―――とんでもなく、ありえない状況にいるのは分かった。

 例えば目の前にいる姉弟が、どう見ても昔の日本の衣装だということ。

 名乗っただけで困惑されてしまう程度には、文化も違うらしいこと。

 そして、何よりも。


「あの……ここ、日本、ですよね?もしくは……ええと、確か……大和国?」

 やっと動いた口から出た声は、震えていた。

「ヤマトでしたら、私ですが…」

 女性の方が不思議そうに私を見つめた。

「ニホン、というのが……貴方のいらっしゃった国なのですね」

 弟さんの方が、静かに口を開いた。

 その表情はどこか強ばっていて。

 いい、もうそれ以上言わないでと直感が叫んでいたけれど。

 私は、動けなかった。


「ここは、【中つ国】です。正しく申し上げますと、【豊葦原中国とよあしはらのなかつくに】です」


 とよあしはらの なかつくに。


 口の中で、自然に呟いていた。


 どこかで、聞いた事がある。

 私の国の方で、確かに聞いた気がする。

 映画だったろうか?それとも何かの本?

 曖昧すぎて、どこで知ったのかさえ覚えていない。


 それよりも重要なことが、私の脳裏を占めていた。

 彼は、私が『日本というのが、貴方のいらっしゃった国』と言った。

 つまり。


「まずは、お詫びを申し上げます」

 言いながら、姉弟二人が同時に私の前に膝をつき、深々と頭を下げた。

「………」

 思考が追いつかなくなり、ただ呆然とその動作を見下ろすしかできなかった。

「ち……いえ、貴方を無理に呼び寄せた罪人は、今は捕らえられております」

「ですが、これは理由あってのこと。どのような叱咤もお受けいたします。どうか、この国の今の状況を説明させてくださいませ」

「そして……どうか、お救いください」


 ある意味では、約束通りの展開に。

 ある意味では全く予想していなかった展開に。

 私はただ、呆然と二人の頭を見下ろしていることしか、できなかった。



 ★ ★ ★




「………」

 部屋を出た姉弟は、同時に顔を見合わせた。

 それは全く同じ、落胆の色が浮かんでいて。

「やはり……禁を破ったこと自体が、間違いだったのでしょうか」

 ぽつりと、ヤマトが口を開いた。

「見たところ、何の力も持ってない様子……」

「姉上……いえ、ヤマト殿」

 言葉を途中で遮られ、ヤマトは口を噤んで弟を見上げた。

「力のことは、まだ未知数です。我らでさえ、受け継ぐまではアスカ殿と同じように無力であったこと……覚えているはずです」

「……そう、ですね」

 一瞬目を見開いたヤマトは、どこかきまり悪そうに苦笑した。

「急いてしまったようです。申し訳ございません、陛下」

「いえ、急く気持ちは私にもあります。……昨夜も、また幾人もの命が失われました」

 弟の言葉に、ヤマトは顔を曇らせた。

「ああ……だから、先ほどカヅチ殿が荒れていらっしゃったのね」

「はい……これ以上、亡くしたくない気持ちは誰とて同じ。私も、そして……あなたも」

「はい、陛下」

「ですから、急く気持ちは分かりますが……まずはアスカ殿のお心が落ち着くのを待ちましょう。今は……防戦のみになってしまいますが、民達を神殿近くに集めて、時間稼ぎをするしかありません」

「承知いたしました。では、直ちに全ての村にからすを飛ばしましょう。一番速い鳥ですから」

 軽く頭を下げたヤマトが、袿を翻して足早に去っていくのを静かに見守った後、タケルはつい先ほど出たばかりの部屋の入り口に視線を向けた。

 ぴったりと閉ざされた戸の奥で、彼女は何を考えているのだろう。


『……すみません。ちょっと、時間をもらえませんか。考える時間を』


 青白い顔で、体を震わせて。

 それでも、冷静を保とうと必死になっていたことだけは、分かったから。


「……最後の願いは、希望は…もはや、貴方だけなんです」


 父が、全ての罪を背負って呼び寄せた人。

 全ての希望、全ての願い、全ての……

 それはきっと、アスカ殿にとっては、非常に重いだろう。

 未熟な自分にできることは、それを全力で支えること。

 そして、全てを受け止めること。

 罵倒であれ、慟哭であれ、全てを。

 父の代わりにはなれないけれど、せめて少しでも……罪が、軽くなれるよう。




★ ★ ★




「…痛くない」

 すっかり忘れいていた左足を思い出して、おそるおそる動かしてみて……呆然とした。

 激痛が、消えていた。

 両手をついて布団の上に起き上がってみる。

 ――うん、普通に歩けそう。


 ……って、あの痛みが一晩で消えるってあり?

 もしかして私、すごく長い日数寝込んでいたとか?

 …それはないな。髪がべたべたしてないし、そんなに日数が経ったとは思えないし。

 ……あるいは、これこそ夢だとか。


「……いってててて」

 思いっきり頬を抓ってみれば、予想以上の痛みで飛び上がってしまった。

「こっちは痛い……」

 ってか、何お約束やってるんでしょうか、私。


「夢じゃないということは、分かった」


 まだまだ混乱しているからまず、まとめると。

 この国は、何かとてつもない危機を迎えているということ。

 そして、この国はまるで「過去の日本」に似ているということ。

 でも、「そっくり」というには、違いがありすぎるということ。

 結論。


「……やっぱり、異世界トリップですかー」


 がっくり、と肩を落とす。

 そう来るかー。

 微妙に会話が噛み合ないって、結構、思っていたより大変なのかもしれない。

 向こうではAの事を話題にしているつもりが、こっちではBの事を話題にしているんだと思い込んだまま、話を進めている、みたいな。

 ……微妙に違うな。

 お互いに「まっさら」な状態で、自分の状況を主観において話そうとしてるから、通じないんだ。

 ということは、まずやることは。


「……うへぇ」


 就職活動を彷彿とさせる思考が頭をよぎって、げんなりした。

 会社の概要やら主観やら色んなデータを集めて。

 会ってくださいと電話しまくって、書類選考の時点で落とされまくって、の繰り返しでようやく面接まで辿り着けて安堵するもつかの間。

 次は自分を盛ることで、焦るんだ。

 蓋を開けてみれば、何もかもが未経験のぺっらぺらの自分。

 それを隠すための、自己アピールをこれでもかってくらいに詰め込んだ履歴書。


 ……いや、待てよ。


 ここまで考えて、ふと新しい事実に気づいた。

 少なくとも――この世界では、「会社の概要やら主観やら色んなデータ」を集める、だけでいいのだからマシなのかもしれない。

 はいさよーならーと蹴り出されることだけは、まずないだろう。

 他の世界にまたもやトリップなんてごめんだし。


 ただ。



『助けてください』



 これです……。

 この言葉がものすっごく、今から、かなり、気が重い。


 何からどう助けろというのか。

 聞くのがとても怖いんですけど…。


 いつの間にかまた寝床の上にぺたんと座り込んでいる自分に気づいて、なんとなく体育座りしてしまう。

 丸くなると落ち着くんだよねー、何故か。


「………」


 しばらく体育座りのまま、ゆらゆら体を揺らしながらあれこれ考えてみたけれど、どの思考でも辿り着く答えはひとつ、だった。

 とにかく。

 この「なかつくに」のことを聞かないことには、何も始まらないな。

 説明してくれる人を、お願いしてみよう。


「よし。……って、えーと」


 ようやく決心して、そこではたと気づいた。

 ど、どうやって人を呼べばいいんだろう?

 引き戸は木でできているから、声を張り上げたら多分誰かが来るとは思うんだけど。

 ……とにかく、呼んでみよう。


 よっこらしょ、と立ち上がり、ちょっと崩れた浴衣風の寝間着を整えて、なんとなく…掛け布団をガウン代わりに肩にかけて……だって下着ないんだよ気になるよ!!

 出入口らしき扉の前まで歩いて、そっと開けてみた。


「えー……と」

 顔を出せるくらいに開けて、そっと左右を見渡してみる。

 ……ただっぴろい廊下には、誰もいない。

 ただ、人の気配はする。

 こちらの世界での音楽だろうか? 静かな旋律らしきものが流れている音もどこからか聞こえてくる。

 怖くならない程度の、静寂という感じがまさにぴったりで、私がいる日本がどれだけ音に溢れかえっていたかが初めて分かった。

 声を出すのもためらわれるくらいの静寂を破るのはちょっとためらったけれど。

 ……正直、切羽詰まっている状況でもあったので。

「ど……どなたかー、いらっしゃいませんかーっ?」

 思い切って声をはりあげてみれば。


「はあーいっ!」


 聞き覚えのある、澄んだ声がすぐ近くから返ってきた。

「あっ……えーーと、う、う…」


 あかん。また人の名前忘れてる…


「ああ、私の名前ね。ウズメと呼んでください。よろしく、【呼ばれし貴方】さま」

 にこっとえくぼを見せられて、うっかり微笑み返しそうになり……はた、と我に返った。

「あ、私の名前だけど……」

「待って!!」

 名乗ろうとした途端、ぴしんと手のひらが私の顔の前に出された。

「へ……」

「先ほど、陛下と斎宮様からお聞きしたの。で、オモヒ様がね、『ひょっとしたら真字まなを名乗った可能性が高い』って答えられたから……一部だけで名乗ってちょうだい」

「………」


 すっかりおなじみとなった疑問符が、頭の上で盆踊りを始めた。


 一部を名乗れ?

 マナ?


「まな……って、どういう意味ですか?」

「………」

 今度は、ウズメさんがぱちくりとくりくりした目を瞬かせた。

「……」

「……」

 しばし、無言で見つめ合ってしまった。

「……異なる世界では、真字まなというのは無い……みたいね」

「これかなって当てはまる漢字はあるけど、こちらで合ってるかどうかは不明だし……私の世界では全員がフルネームで名乗りますが…」

「……??ふる、ねええむ?」

 きょとんと首を傾げたウズメさんに、改めて実感した。

 ここはまさに、【異なる世界】なんだって。

「えーと……ウズメさん、はマナっていうのは持っています?」

「もちろん。『ウズメ』は二つ名の方なの。真字は全員持っているわ。天つ神様と、夫と、家族のみが真字を知るのみなの。……貴方は違うようね。大丈夫なのかしら?」

 色々質問したい単語がぽんぽん出てくるけれど、質問していたら絶対に自己紹介で日が暮れる。

「何が大丈夫なのかは分かりませんが……ようするに、全部名乗りさえしなければ、問題はないんですよね?」

「ええ、それなら問題ないわ」

「じゃあ………改めて。私の名前は――」



 ―――あした。

 明日には必ず、来るからね。



 ふと、脳裏に遠い記憶がよぎった。


「……」

 

 何故。

 こんな時に、思い出すのか。

 残酷で、忘れていたかった過去を。


「……どうかした?具合でも……?」

 心配そうに声をかけられて、はっとした。

「な、何でもないです!! どう名乗ろうかとちょっと考えて……ええと、一部でいいんだったら……【アスカ】で大丈夫かな?」

「アスカさま、ね。改めてよろしくお願いいたします」

 丁寧に頭を下げられて、慌ててしまった。

「いえいえいえ、普通でいいですから普通で!私は偉い人でもなんでもないからそうされると恐れ多いっていうか…!!」

「でも、呼んだのは私達だから」

 ウズメさんの顔から、えくぼが――笑みが、消えた。

 ずしん、と空気が重くなるのを感じる。

「陛下と斎宮様から説明はお聞きになられました?」

「……斎宮様って、もしかして……ヤマトさんのこと?」

 美しい女性の切れ長の瞳を思い出しながら尋ねたら、頷かれた。

「そう、そのお方」

「まだ何も聞いてない……と思う。名乗っただけで、あとは……この「なかつくに」を助けて欲しい、と」

「ええ」

 悲痛ともいえる表情になったウズメさんが、大きく頷いた。


「今の中つ国は、もう……いつ滅びても、おかしくないから」

 

 

 

 




 

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言霊の幸ふ国の物語 新名 翠 @hi-sui

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