(3)

◎◎



 あれから大凡一時間――私を含む、巣籠館の住人は、たった一人を除いて食堂に集まっていた。


 沈鬱な表情で私の背後に立つ執事――鳥羽瀬愁。

 表情を一つも崩すことなくその場に控えるメイド――三田恵理子。

 苛ただしげに歩き回る青年――楽田英輔。


 そして、私の対面に腰掛け、ひどく憔悴し切った表情で項垂うなだれる厚化粧の女――指名手配犯、形川リナ。

 その色合いが幾らかおかしい黒の瞳が、ちらちらと私に不安げな視線を向けてくる。


「単刀直入に訊きます」


 私は、可能な限り感情を排した声で問うた。


「形川さん、あなたが紅奈岐美鳥を殺害したのですか?」


「ぢ、ぢがゔわ゙!」


 彼女の声は、酷くしゃがれたものだった。とても女優とは思えないような声だ。どうやら、あの時の叫び声で喉をおかしくしたらしかった。

 ……無い話でもない。

 私が――生きる者も死せる者も、この館の住人すべてが聞いたあの声は、絶叫と呼ぶ事すらもはばかられるような壮絶な恐怖の悲鳴だったのだから。

 あんな声を出せば、喉が壊れもする。


「もし――役者としてあれが出来たのなら、一世一代の大芝居だったでしょうね」

「な゙ん゙の゙ばな゙じよ゙?」


 ……心の声が漏れてしまった。

 失敬と断わりを入れて、私は再び訊ねた。

 今度は、幾分強い言葉で。


「不可能犯罪者、70人殺し、端役殺しモブ・サッカー――形川さん、あなたが美鳥嬢を殺したのですか? 数週間前、あなたが共演者を皆殺しにしたように?」


 その問いかけに、今度は、彼女は答えなかった。

 かわりに、表情が見えないほど俯いて、更には両手で顔を覆い隠してみせる。

 僅かな沈黙と、それに続く嗚咽。

 形川さんは、泣き出してしまったようだった。


「…………」


 私は油断なく、けっして彼女から視線を切らずに考え始める。

 ……この女性の殺人技法は常軌を逸している。

 伊達に不可能犯罪者などと呼ばれてはいない。

 ――それが彼女の殺人、犯した罪だ。共演者を皆殺しにしたというのは比喩でもなんでもない。テレビ中継されている画面の中で、彼女以外のすべての人間が全く同時に血反吐を吐いて死に絶えたのだ。

 司法解剖によれば、被害者からは全員、遅行性の毒物が検出されている。購入ルートも特定され、購入したのも彼女だと解っている。

 確かにそれを――時限式の毒物を前もって仕込んでおけば、共演者を皆殺しにすること、それ自体は不可能ではない。


 ――だが、すべての人間を同時に殺す? 一秒の狂いもなく、全く正確に?


 そんな真似が出来るのは、不可能犯罪者だけだ。だからこその指名手配。だからこそ、私がいま此処にいる。

 しかし……私がいて、何が出来たというのだろう。

 結局、新たな被害者を出しただけだ。

 紅奈岐美鳥。

 彼女は殺された。

 あの後、現場保存の原則など知ったことではない私は(いわゆる絶海の孤島、クローズドサークル。おまけに容疑者は不可能犯罪者という状況で優先すべきものではない)、卵という卵を叩き割った。半数は割った。

 その中身は、殆どがグズグズの腐れ始めた肉塊であった。

 ミンチと言うには粗挽きのそれは、私が知る限り最も腐敗した人肉に近い色合いをしていた。

 肉塊だけでなく、骨の欠片もあった。

 特徴的なものもあった。

 女性の小指先端が、まるまる入っている卵もあった。

 散乱していた、燃えるような茜色の髪、そして肉片と彼女の不在。

 それは、美鳥嬢の死と言う現実を、これ以上もなくまざまざと私に突きつけていた。

 状況的に、彼女が既にこの世にいないことは明らかだった。

 紅奈岐美鳥が死んだ。

 問題は、誰が殺したのかと言うことだ。誰が殺し、あんな訳の解らない状況を作り上げたのかということだった。

 自殺と言う線が、皆無でないことは解っている。これが単純な娯楽小説、ミステリーの類であれば、その可能性も考えない訳にはいくまい。

 しかし、たとえ自殺だとしても、死んだ人間が自らを荒微塵に分割し、あまつさえ

 ゆえにそう、これは不可能犯罪だった。

 だからこそ、この場で最も有力な容疑者が形川リナ、彼女だったのである。


「形川さん」


 私は、三度と問う。


――?」


 答えは。

 その尋問に対する回答は。


「――ふっざけんじゃねーぞ、てめぇっ!!」


 激昂した青年の声によって、掻き消された。

 いらだちも露わに、楽田さんが形川さんに掴みかかる。顔を押さえたままの彼女を、無理矢理に椅子から引きずりおろし、立ちあがらせ、その襟首を掴んで締め上げる。


「てめぇが、てめぇがお嬢様を殺ったのかよ!? なんで殺した! いえよ、なんで殺した!? 恩義がねぇのか、お嬢様はテメェを助けてかくまってたんだぞ! てめぇ、聞いてんのかてめぇ!」

「楽田さん」

「よくもよぅ、よくもお嬢様を殺しやがって! てめぇは、自分がぶっ殺して――」

「楽田さん!」


 拳を振りかぶる彼に、私は語気を強く言葉を投げる。


「それ以上すれば、傷害罪ですよ。形川さんは容疑者ですが、それで正当防衛とはいきません」

「でも、でもっすよ、刑事さん! こちは、こいつはっ!」

「落ち着いてください。そんな事をしても美鳥嬢は、帰ってはきませんよ」

「……っ」


 奥歯を噛み締め、苦悶の表情を浮かべる彼。

 数秒の葛藤の末、その手から力が緩む。

 どうやら、楽田さんにはまだ、私の言葉に耳を傾けてくれるだけの理性があったらしかった。

 突き飛ばすように形川さんから手を離し、彼は一つ舌打ちをすると、また室内を落ち着きなくぐるぐると歩きはじめた。

 その様子に、私と鳥羽瀬さん、そして三田さんまでもが胸をなでおろし、息を吐く。

 形川さんが、よろよろと立ち上がり、倒れた椅子を立て直し、また席に戻った。


「とりあえず、そうですね」


 頃合いを見計らって――と言っても、この状況で頃合いも何もないのだが――私は刑事としてこう告げることにした。


「先程まで、みなさんが何処でどうしていたのか、お聞かせ願えますか? 或いはそれが、事件解決のヒントになるやもしれませんから」


 最大限オブラートに包んだ言い方だったが。

 つまりそれは。



 ――お前たちのアリバイを聴かせろと、つまりはそう言うことだった。



 不可能犯罪が起きたからと言って、不可能犯罪者が犯人だとは、決まってはいないのだから。


 ポーンと。

 食堂の時計が、午前一時を告げた。

 外はまだ、嵐のように荒れている。この館の住人達の、その心と同じように。



◎◎



 はじめに聴取を行ったのは、楽田さんからだった。

 誰でもよかったというのはあるが、形川さんはあの調子で、他の二人は表面上落ち着いている。なら、感情的になっている人間からの方が


「悲鳴が聞こえた時、楽田さんはどちらに?」


 私の問い掛けに、彼は、どうしてそんなことを訊くのか解らないという顔をした。

 場所は変らずに食堂、面子に変動もない。

 公開尋問のような形になるが、だからどうしたという話でもある。もしこの中に犯人がいたり、怪しい人物がいて庇いたいという思いを持つ人間がいたとする。

庇いたければ庇えばいい。口裏を合わせたいのならば合わせればいい。ただ、この時点でいきなりやるならそれは即興になるんだ。齟齬が出ないとでも思っているのなら失笑ものである。

 ……こんな推定無罪の原則は何処に行ったという思考にはほとほと嫌気がさすが、私は刑事なのだから尋ねるしかなかった。


「事件を理解するために必要な事なんです。教えてください」

「……自分は、部屋で寝ていたっす」

「それを証明できる方は、まあ、いないでしょうね。寧ろいたのならそちらの方がおかしくなる」

「その通りっす。ただ、いつも自分はそのぐらいの時間には寝ているっすから、それは鳥羽瀬さんも三田さんも知っているはずです」


 確認を取るように件の二人を見ると、彼らは無言で頷いた。

 なるほどと私は首肯し、質問を変える。


「では、美鳥嬢に最後にお会いしたのは何時ですか?」

「どういう意味っすか?」


 どうもこうもない。そのままの意味だ。

 現在、美鳥嬢(と思われる)肉片はあるが、じゃあいつ殺されたのかと言えば皆目わからない。簡単に言えば死亡推定時刻が解らないのだ。鑑識でも居れば話は違うのだろうけれど(あるいはアメリカが生んだ名探偵モンクとか)流石に単なる刑事でしかない私には死亡時刻を一目で判定するスキルは無い。

 ただ、肉片の変色が進んでいたこと、腐臭を感じたことなどを考慮するなら、殺されてすぐすぐと言うことはありえなかっただろう。人間を解体し無数の卵に押し込めるという作業の、その労力と効率を考慮するなら、余計にありえない。

 だから、美鳥嬢の殺害時刻、その推定は現在より一時間以上前、少なくとも零時以前――昨日のことになる……はずだ。

 だからこそ、美鳥嬢の最後に目撃された時間、それが重要だった。


「いつ彼女が殺されたのかを知るために、必要な情報なのです」


 私がそう告げると、楽田さんは少し考え込むようにして、

「確か、夕食――19時以降に一度、お嬢様を自分は見たっす」

 と、言った。


「それはいつですか? あ、それ以前に、この館の夕食はいつも19時ごろなのですか?」

「我が巣籠館の食事は、朝食8時、昼食12時、夕食19時と決まっておりました」


 私の後者の質問に答えたのは鳥羽瀬さんだった。

 カイゼル髭を撫でる彼に、私は確認するように尋ねる。


「それは、間違いないことですか? いつも変わらずに?」

「例外が皆無とは言えませんが、おおむねその通りでございます」

「…………」


 私は、鳥羽線さんから視線を切り、楽田さんに答えるように促した。


「うっす。間違いないっす。夕食は19時っす」

「美鳥嬢をその後に見たと?」

「っす」

「いつ、どこで?」

「20時過ぎごろっす。お部屋から出てくるのを見て挨拶をさせていただいたっす」

「何か変わったところは?」

「や、えっと、特には……あっ」

「なにか?」

「……?」


 言葉の意味を判じかねて眉間にしわを寄せる私に対し、彼は至極真剣な表情でこう言った。


「今まで見た事もないぐらい、お嬢様は楽しそうにしてたっす。とっても浮かれた様子だったっす。たぶん、刑事さんに会えたのが、嬉しかったんすよ……」

「……美鳥嬢は、そんなにも私に執着を?」

「ずっと、会いたいって言ってたっす! その夢がかなった矢先に、こんなことに……くそっ!」

 彼は左手で目頭を押さえ、右手で押さえきれない激情のまま壁を殴った。

 私は、何とも言えない気分でそれを眺めていた。



◎◎



 二人目に事情を聴いたのは、三田さんだった。


「悲鳴が聞こえた時、私は明日の朝食の仕込みを厨房で行っておりました。これは鳥羽瀬も知っていることです。お嬢様を最後にお見かけしたのは8時45分29秒。お嬢様が湯あみを終え、自室にお戻りになられたのをお見送りした時です。恐らく、楽田が見かけたのは浴場へと向かうお嬢様だったのかと」

「随分正確に時間を記憶されていますね?」

「時計を見る習慣がありますので」


 掲げられたその左手には、小さめの腕時計が嵌っている。

 なるほどと頷き、もう一つの疑問点を問う。


「見送りはしても、付き添いはしなかった?」

「お嬢様が先に行ってほしいと申されましたので、お着替え等を持って、準備をするため先行いたしました。普段から、このようなことが度々ありました」


 クイリと眼鏡を押し上げて、彼女は冷静な表情で証言する。そこに、嘘があるようには見受けられない。或いは嘘を吐いていたとするならば、それはマインドセットが出来るレベルの精神力の賜物と言えた。

 視線の動き、発汗量、指先の震え、言葉の選び方、回り方、どれも虚偽を口にしている人間のそれではなかった。あまりに完璧すぎる冷静さだった。……冷静過ぎるとも言えた。

 ……私は、ひとつ揺さぶりをかけることにする。


「美鳥嬢が殺された時間、三田さんはどちらにいましたか。いや、深い意味はありません。何か彼女の変化に気がついたりなど、しませんでしたか……?」

「…………」


 ピクリと、彼女の右眉が跳ねた。

 眼鏡越しに、目つきが鋭さを増す。

 冷たい眼差しが、私を射抜くように見る。

 敏感に、こちらの思惑を察したのだろう。まあ、察してもらわなければ困るわけだが。


?」


 彼女は凄んで見せたが、これで一つ確定した。




 この女性は、紅奈岐美鳥が死んだのだと確信している。




 それは一つ、宙ぶらりんとなっている事項だ。死体が損壊されているが故の確定できないでいる物事だ。しかし三田理恵子は、間違いないと確信している。

 美鳥嬢が――殺されたと考えている。

 この女性が犯人であれ、或いはそうでないとしても、自殺などとは露の欠片も思っていない。それが解っただけで充分な収穫と言えた。

 失言が多いですね、失敬と私は咳払いし、質問を元に戻す。


「なにか、美鳥嬢に変わった点は?」

「……楽田が申しましたことと同じで御座います」

「楽しそうだった……と?」


 私の態度が面白くないのだろう、先程までと違い露骨に不満そうな視線を向けながら、しかし彼女は首肯した。

 なるほど、楽しそうだった、ね。

 まだ何も解っていないくせに、私は解ったように内心でそう反芻はんすうする。

 紅奈岐美鳥。

 彼女は私に、いったい何を見出し、何を期待していたのだろうか。

 彼女が死んだ今、それは完全な謎である――そのはずだった。



◎◎



「お嬢様が壬澄様にご期待をかけていましたのは、自らの同類を見つけ出すためで御座います」


 三人目の聴取で、執事の鳥羽瀬愁は、私が何かを問う前に、そんなことを切りだしてきた。

 意表を突く先制パンチに、思わず言葉が詰まる。

 その隙に、彼の言葉が続く。


「お嬢様の境遇を、壬澄様は知って御座いますな? 錵矢様がお伝えになったはずですから。そうで御座います、お嬢様は、父母殺しの罪を着せられているのでございます。その父母を惨殺したという濡れ衣を――不可能犯罪者の手によって」


 そんな話を、私は知らない。

 彼女が生まれたとき母親を殺し、物心ついた時に父親を殺したという話自体は知っている。そう言う噂があることは聞き知っている。

 それが事実だとすれば、凄まじいまでの権力によって事実がねじ伏せられ隠蔽されているであろうことも理解できるが――それに不可能犯罪者が関わっている?

 だから、同じように不可能犯罪に巻き込まれ、それを解決したことになっている私を、同類とみなしただと?

 まさか、だからか?


 ――?


「私に……シンパシーを感じていたという事ですか?」

「シンパシー……いえ、もう少し砕けて言わせてもらいますれば、お友達になって欲しかったのだと、お嬢様は申しておりました」


 友達?

 同病相憐れむとでも?

 傷を舐め合いたかったと?

 それは、あまりに私が思い描く紅奈岐美鳥と言う人物からはかけ離れたイメージだった。

 彼女との接点は少なく、話をした時間も一日に身体内が、そのわずかな時間でも感じたことはあった。

 あの女性はずっともっと、己の境遇すら愉悦に変えてしまうような、そんな魔性の魅力を孕んでいるものだと、私は思っていたのだ。

 だから、鳥羽瀬さんの言葉はにわかには信じがたかった。


「……まあ、それはいいでしょう。あまり、事件の本筋に絡んでくるようには思えません。それで、あなたは悲鳴が聞こえた時、何処にいて何をしていましたか? それ以前、美鳥嬢を目撃したことは?」

「悲鳴を聞きました時は、書類の整理をお嬢様の書斎で行っておりました。それ以前には一度、三田のもとを訪ねております。明日の朝食の調整の為で御座います」

「なにか変更が?」


 平然と放たれたその言葉に、未だに泣き崩れている形川さんの両肩が跳ねた。

 ……斬り捨てられることを知らなかったわけではないのだろうが、しかし実際に口に出されればどうやらショックであるようだった。


「美鳥嬢を最後に目撃されたのは?」

「夕食の席、その後で御座います。21時より以前、湯上りに先程の内容につきまして少しありました」

「…………」


 ……読めない。

 嘘を吐いているという質感の言葉ではないが、丸っきりの正直者の言葉であるとも思えない。

 個人的には、この壮年の執事に私は好感を抱いているが、それを排してしまえば怪しさと言うのは跳ね上がる。

 美鳥嬢にこの島で最も近しかった人物。

 それは間違いなくこの男性だ。

 近しいと言うのは――それだけで犯罪の動機たり得る。

 現状、容疑者筆頭は形川リナだが……しかしこの執事もまた、容疑者の要素を満たしていない訳ではなかった。

 私を含むすべての登場人物が容疑者ではあるが――ぬきんでたものが、この執事にはある。

 少なくとも私を見るその瞳には、他の全員にあったような心の揺らぎはない。

 全く以て、平静そのものだ。

 それが、私に疑念を抱かせた。

 だから、私は余計なひと言を言っていた。

 とても余計な、一言を。


「鳥羽瀬さん」

「はい」








――?」









「…………」


 彼は、にっこりと微笑み、こう答えた。


















「お嬢様を害する人間は、殺してやりたいほど――憎う御座います」



◎◎



 形川リナの取り調べは最後になった。

 彼女はほとんど何もしゃべらなかった。自分に有利になることも、不利になることも、ある一つの物事を除いて、何も口にしなかった。

 モブ・サッカー事件についてすら彼女は口をつぐんでいたのに、そのことにだけは反応し、言葉少なに、しかし確かにこう語った。


「独゙房゙の゙鍵゙ば開゙い゙でい゙だの゙よ゙。悲゙鳴゙が゙聞゙ごえ゙る゙数゙分゙前゙に゙、ガヂャ゙リ゙ど音゙がじで開゙い゙だの゙よ゙。誰゙が開゙げだがな゙ん゙で知゙ら゙な゙い゙げど、ヂャ゙ン゙ズだど思゙っ゙だ。だがら゙あ゙だじば、あ゙だじを゙も゙っ゙ど助゙げでぐれ゙っ゙で紅゙奈゙岐゙美゙鳥゙に゙頼゙む゙だめ゙に゙あ゙の゙部゙屋゙べ行゙っ゙で。ぞじで、ぞじで――」


 そうして、あの惨状に出くわしたのだと言った。

 それまでは、ずっとあの独房にいたのだと。それからは、ずっとこうやって監視されているのだと、彼女は泣きごとのように繰り返した。


 その奇妙な照り返しの瞳から、一切の涙を零さずに。


 形川リナは、初めから最後まで、泣いてなどいなかった。

 恐怖映画をプラットホームにして、世紀の大女優ミア・ファローの和製コピーとまで呼ばれた稀代の女優は、


 女優のくせに、泣く真似もしなかったのだ。



◎◎



 とかく、それ以上聞けることもなく、事情聴取は終わった。

 時刻は午前2時を回っていた。

 事件の進展もなく、形川さんの部屋――あの独房の鍵を開けたのが誰かと言うのも定かにはならなかったけれど、とにかく聞けるだけのことは聞いた。

 だから、一応の処置を取り、全員に自室で待機してもらうことにしたのだ。

 そうして、全員に部屋に籠ってもらい――形川リナに関してはあの独房へ再び入ってもらうことにした。最たる容疑者なのだから仕方がない。鳥羽瀬さんに立ち会ってもらい、こちら側に開いた鋼の扉の奥に彼女が消えるのを見送り、その後、鍵は私が預かった――自室に戻った私は、衛星電話で上司にあらましを告げ、天候が回復しだい応援を寄越してもらえるよう懇願した。

 正直、自分の手には余ると感じていたし、少なくとも科学捜査が無くてはこれ以上の進展はあり得ないと感じたからだ。

 部長である御手洗は、状況を重く見てか、彼独自のコネクションを用いて政府と自治体を動かし、米軍への救助要請を出すことまで検討してくれたらしかったが、それは丁重に辞退した。

 不可能犯罪者がいる島への米軍救助派遣。もしそれで死人でも出た日には、国が傾く。それよりは、此処にいる全員が犯人によって惨殺され、事件が闇に葬られる方がよほどいい。世界中で起こる不可能犯罪。それは時に国家間の信頼をも揺るがす。マーダ―サーカス事件と同じだ。あれを経験しているからこそ、私はこの国の利益を最大限に考える。

 まあ、それは刑事として当たり前のことだし、それに、これ以上犯罪を起こさせるつもりはない。その程度の気概はある。

 だから、私の当面の目的は、救助が来られるようになるまで――概算では本日の昼には天候が回復するという事だから――午前中いっぱい、第二の事件を未然に防ぐために尽力することだった。

 そもそも、第二の事件とやらが起こる確率はそう高くないだろうと私は踏んでいた。



 この事件は――紅奈岐美鳥の殺害こそが主眼なのだと、私の勘がそう告げていたからだ。



 だから、そうだ。

 言ってしまえばこの時の私は、油断していたのである。

 事態があんなふうに転がるなんて、ちっとも予期してはいなかったのだ。

 そんな自分が、恨めしく腹立たしい。

 何故って。


















 ――それがなければ、あの若き犯罪王がこの事件にかかわることなど、なかったはずだからである。

















 だが、いつだって私の思惑は成就しない。

 予断に甘く、決意は実らず、後悔は先に立たない。







 

 密室の独房の中で、彼女の肉体は見るも無残に分断・裁断され――壁に釘打ち機ではりつけにされていた。

 壁には黒ずんだ血文字で――まるで犯行声明のように――こう書かれていた。




『 ――Informal thing does not return.


Have you guys look at the fledging in silence! ! 』



 ――砕けたものは戻らない。


 おまえらは、黙って飛翔を見届けろ!!







 事件が、大きな音を立てて動き出す――

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